影章 奈々未 016
九月の終わりの、ある日のことだった。
その日、私は午後の早い時間に家へ帰っていた。
NPOで半休をもらっていた。前の週から、すこし体調がすぐれなかった。妊娠の後期にさしかかってお腹も目立ってきて、ふだんより体が重く感じる日が増えていた。先生は「無理しないで、休めるときに、休んでください」と言ってくれていた。
その日は、休めるときだった。
午後の二時頃に、私は家へ帰り着いた。
帰り道で、私はポストを確認した。
ポストにはいくつかの郵便物が入っていた。光熱費の検針票。スーパーのチラシ。市役所からの妊婦へのパンフレット。そのなかに、一通の封筒があった。
封筒の宛名は「高原様」とだけ書かれていた。
差出人の名前は、なかった。
宛名は手書きだった。ボールペンの青い字で、角張った、崩さない字だった。丁寧というよりも、わざと、誰の字かわからないように書かれた字だった。
私は封筒をしばらく見ていた。
見ているうちに、私のなかで、すこしだけいやな予感が立ち上がった。
その予感を、私は自分のなかで、すこしだけ押さえた。
押さえないと、封筒を開けられなくなる気がした。いやな予感は、たいてい当たる。それでも開けないまま家に持ち帰っても、その予感はきっと、家のなかにずっと残った。
開けてしまうほうが、まだよかった。
私はエレベーターで五階まで上がった。
部屋に入って靴を脱ぎ、リビングのテーブルの前に座った。
それから、封筒を丁寧に開けた。
なかには、一枚の紙が入っていた。
A4のコピー用紙だった。
私はその紙を、ゆっくり広げた。
広げた紙の真ん中に、横書きで大きく書かれていた。
『人殺しの孫を産むな』
九文字。
黒いマジックで書かれていた。太い線で、力を込めて書かれていた。マジックのインクが紙の繊維に染み込んで、裏側までうっすら透けていた。
私はその九文字を、しばらく見ていた。
見ているうちに、私のなかで、いくつかのものが止まっていった。
いちばん最初に止まったのは、私の呼吸だった。
息を吸うのが、ふだんより止まっていた。止まっていることに、自分でもしばらく気づかなかった。
気づいてから、私はゆっくりと息を吸った。
吸って、ゆっくり吐いた。
息を吸って吐いて、というのを、しばらく繰り返した。
繰り返しているうちに、私の頭はすこしずつ、その九文字をちゃんと読み始めた。
人殺しの孫を産むな。
人殺しというのは、たぶん誠一郎さんのことだった。
孫というのは、お腹のなかの男の子のことだった。
産むなというのは、私への命令だった。
お前の腹のなかにいる子を、産むなと、その文字は言っていた。
それまでの嫌がらせは、たぶんぜんぶ、高原という名字を持つ人間に向けられていた。電話の罵声も、郵便受けの生ゴミも、佐和子さんの家のドアに書かれた赤い字も、ぜんぶ高原宛だった。
その紙は、ちがった。
その紙は、個人に向けられていた。
産むのは、誰だったか。
私だった。
私の体に向けて、命令していた。
私の体のなかにいる「ひとり」を産むなと、私に伝えていた。
私は紙をテーブルのうえに置いた。
置いてから、しばらくテーブルの木目を見ていた。
木目を見ていたのは、紙の文字をこれ以上見たくなかったからだった。一度読めば、もう忘れなかった。もう一度見る必要はなかった。それでも視線をどこかに置かないと、私の目はまた、その紙のうえに戻った。
テーブルの木目を、私はしばらく見ていた。
木目は、ふつうのテーブルの木目だった。ふつうの木目だ、ということが、その時の私にはすこしだけありがたかった。
私はお腹に、片手を置いた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
動いた、というのが、その時の私にはいちばんのことばだった。
「いるよ」と、その動きは私に伝えていた。
「いるよ」を、私は確かめた。
確かめてから、私は心の中で、その「ひとり」につぶやいた。
「大丈夫だよ」
「あなたは、ちゃんと、生まれてくるからね」
「私が、産むからね」
そう、つぶやいた。
つぶやきながら、私はすこしだけ震えていた。
震えを、自分でもなかなか止められなかった。
止められない震えのなかで、私はもう一度、お腹のなかの男の子につぶやいた。
「ふたりだけ、だから、ね」
「ふたりだけで、大丈夫、だから、ね」
その「ふたりだけ」が、私のいちばんのお守りだった。
外の世界がどれだけひどい言葉を送ってきても、私のなかの「ふたりだけ」は、その言葉からすこしは守られているはずだった。
そう、思いたかった。
本当のところ、私のなかの「ふたりだけ」は、その九文字によって、すこしずつ壊されていた。
壊されている、ということを、私はまだ認められなかった。
認めると、私はその場で崩れた。
崩れる前に、私はお腹のなかの男の子に、もう一度つぶやいた。
「大丈夫だよ」
「ふたりで、大丈夫だよ」
つぶやきながら、私はテーブルの紙をひっくり返した。
ひっくり返した紙の白い裏面を、私はしばらく見ていた。
白い裏面のうえに、表の文字が紙を透けて、うっすら見えていた。
うっすら、というのも、まだ見えすぎていた。
私は紙をもう一度裏返して、文字のあるほうを上にした。
裏返したり戻したりしている、というのが、たぶん私にいまできる、いちばんの行動だった。
紙を捨てる、ということはできなかった。
これは、たぶん凪に見せなければならなかった。証拠として、警察に持っていくべきものだった。私のなかで、その判断だけはちゃんとできた。
捨てられない紙を、私はテーブルのうえに置いたままにしておいた。
置いたまま、私はソファに移動して座った。
座って、しばらく何もしなかった。
何もしないでいるうちに、午後の二時すぎが三時になった。
三時が、四時になった。
四時が、五時になった。
私はずっと、ソファに座っていた。
座りながら、たまにテーブルのほうを見た。テーブルのうえに、その紙がまだ置いてあった。
紙を、私はもう見ないようにしていた。
それでも、そこにある、ということは、私にはわかっていた。
ある、ということが、私のなかでずっと痛かった。
痛みのなかで、私は自分のお腹に、もう一度手を置いた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
「いるよ」と、その動きが伝えた。
「いるよ」を、私は何度も確かめた。
確かめながら、私は凪の帰りを待った。
凪が帰ってくるまで、あと二時間あった。
二時間というのが、その日の私には、ずいぶん長く感じられた。
午後の七時をすこし過ぎた頃、ドアの音がした。
凪が、帰ってきた。
「ただいま」
凪の声が、玄関で聞こえた。
その声は、いつもの「ただいま」だった。ふつうの、いつもの調子の、ただいまだった。
私はいつもなら、奥から「おかえり」と答えた。
その日は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しかったかもしれない。
声を出そうとして、私の喉が止まった。「おかえり」と、ふつうの声で答えてしまうと、その瞬間に、自分のなかで何かが崩れる気がした。崩れる前に、私はただテーブルの前に座っていた。
凪は玄関で靴を脱いだ。
靴を脱ぐ音が、私には聞こえていた。
それから、凪の足音が廊下を歩いてきた。リビングのドアの前で、足音がすこし止まった。
止まったのは、リビングから「おかえり」が聞こえなかったからだった。いつもなら聞こえるはずの声が、聞こえなかった。聞こえないことに、凪はすぐ気づいてくれた。
リビングのドアが、開いた。
凪が、入ってきた。
入ってきた凪は、テーブルの前に座っている私を見た。
そして、テーブルのうえに目を移した。
テーブルのうえには、まだ紙が置いてあった。
その紙を、凪は見た。
凪の動きが、しばらく止まった。
止まったまま、凪は紙のほうへゆっくり近づいた。
「今日、これが、来た」
私は、言った。
声は、たぶんいつもの私の声に近かった。近かった、というのが、私のいちばんの努力だった。声をいつもの声に近づけないと、私はその瞬間に泣いた。
凪は、私の声を聞いた。
聞いてから、もう一度、テーブルのうえの紙を見た。
凪の目が、紙の九文字を追っていった。
私は自分でも、それぞれの文字を頭のなかで繰り返した。昼間、何度も繰り返した九文字。
凪の目は、一度、紙のうえをぜんぶ追った。
それから、もう一度、最初から追った。
二回目を追い終わってから、凪は紙から目を離した。
私のほうを、見た。
凪の顔は、これまで私が見たことのない顔をしていた。怒っている顔でも、悲しんでいる顔でもなかった。何かが止まっている顔だった。たくさんのものがいっぺんに入ってきて、整理が間に合わなくなっている顔だった。
私は、テーブルの木目を見ていた。
紙のほうを、見ないようにした。
凪が紙をもう一度見ている、というのは、横の気配でわかった。
「いつ、気づいた」
凪が、聞いた。
「午後二時、くらい」
私は、答えた。
「ポストを、見に行ったら、入ってた」
「うん」
凪は、それ以上聞かなかった。
聞かないでくれた、というのが、その夜のいちばんの優しさだった。
聞かれていたら、私は答えるたびに、すこしずつ崩れていった。
「怖かった?」「ひとりで、辛かった?」「五時間、何してた?」
そういう質問を、凪はしなかった。
しなかったかわりに、凪は椅子を引いて、私の隣に座った。
椅子を引く音が、いつもよりすこしだけ大きく響いた。
座ってから、凪は私の手を取った。
私の手は、まだ冷たかった。
九月の終わりの家のなかは、まだ暖房をつけていなかった。それでもその日、私の手が冷たかったのは、季節のせいではなかった。五時間のあいだ、私のなかでいろいろなものが止まっていて、血のめぐりもすこし止まっていた。
凪の手は、温かかった。
温かい手のなかで、私の指先はすこしずつ温まりはじめた。
凪は、しばらく何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
ふたりとも、何も言わない時間が、しばらく続いた。
その時間のなかで、私は自分のなかのいろいろなものを、すこしずつ解いていった。止まっていたものが、すこしずつ動き出した。
動き出したものを、私はすこしずつ外に出した。
「凪」
私は、言った。
「うん」
「いつもの時間に、帰ってきてくれて、ありがとう」
そう、言った。
言ってから、私は自分の声がすこしだけ震えていることに気づいた。
震えを、凪はすぐにわかった。
「うん」
凪は、頷いた。
頷きながら、凪は私の手をもう一度ぎゅっと握ってくれた。
握ってくれた手のなかで、私はすこしだけ息を吐いた。
吐いた息が、私のなかにためていたものを、すこし外に出してくれた。
「私と、この子と、二人で、凪を、待ってた」
私は、続けた。
「三人になるのを、待ってた」
そう、言った。
凪は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり答えた。
「三人で、いような」
「うん」
「ずっと、三人で、いような」
「うん」
私たちはしばらく、お互いの手を握ったままでいた。
握っているあいだ、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
動いた、というのが、その「ひとり」からの「いるよ」だった。
三人、いるよと、その動きは私たちに伝えていた。
その「三人、いるよ」を、私と凪は同時に感じた気がした。
感じたのは、凪の手がすこしだけ強く握り直したからだった。
強く握り直された手のなかで、私はすこしだけ笑った。
笑ったのは、その日、私が初めて自分のなかから出せた、いいものだった。
凪は、紙をもう一度見た。
そして、紙をゆっくりと封筒に戻した。
封筒を、テーブルの端に寄せた。
「明日、警察に、行く」
凪は、言った。
「警察」
「うん。被害届を出す」
「うん」
私は、頷いた。
「凪、ひとりで?」
私は、聞いた。
「奈々未は、家にいて」
「うん」
「俺、行ってくる」
凪は、そう答えた。
凪がひとりで警察に行く、というのが、私にはすこしだけ辛かった。
辛かったのは、その紙が私に宛てて書かれていたからだった。書かれた相手は、私だった。それなのに、警察に行くのは凪だった。
それでも、私は家で待っていたかった。
待っていたかったのは、私のお腹のなかに男の子がいたからだった。お腹のなかの男の子を、警察署に連れていきたくなかった。警察署のなかで私がいろいろなことを説明する、というのが、お腹のなかの男の子に、たぶんよくないことだった。
私のかわりに、凪が行ってくれる。
凪がいま家にいて、明日、私のかわりに警察に行ってくれる、というのが、私にはいちばんの助けだった。
「ありがとう」
私は、凪に言った。
何に対する「ありがとう」かは、自分でもはっきりわからなかった。
封筒をしまってくれたことか。
警察に行くと言ってくれたことか。
隣に座ってくれていることか。
たぶん、ぜんぶだった。
凪は、私の「ありがとう」をふつうに受け取ってくれた。
受け取って、凪は封筒を自分の鞄のなかにしまった。
封筒が、テーブルのうえから消えた。
私の視界から、消えた。
消えた、というのが、その夜、私の体にすこしだけ楽をもたらした。ある、というだけで、私の体がすこし痛むものだった。なくなった分、私の体はすこし軽くなった。
封筒は、明日まで凪の鞄のなかで待つことになった。
明日、警察署で出される。
そのあと、その封筒がどうなるのか、私にはわからなかった。
「ありがとう」
私は、もう一度凪に言った。




