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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
影章 奈々未
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影章 奈々未 015

不祥事の発覚から、しばらくのあいだ、私たちの暮らしはまだ、ふつうの形を保っていた。


ふつうの形というのは、私が意識して保っていた形だった。


凪は、毎日、製薬会社の仕事に行った。私は、毎日、NPOの仕事に行った。それぞれの仕事のなかで、私たちはそれぞれ、何かをすこしずつこなしていた。仕事のなかには、ニュースがすこしずつ混ざっていた。それでも、私たちは仕事のなかでは、それを外には出さないでいた。


家に帰ると、私たちはいつも通り「ただいま」「おかえり」を言い合った。


それだけは、まだ変わらないでいた。


変わらないでいることが、その時期の私たちのいちばんの武器だった。


ニュースは、毎日すこしずつひどくなっていった。


死亡者の人数が増えた。


被害者の遺族のコメントが、新聞のなかに毎日すこしずつ増えた。


凪の実家のほうにも、いろいろなことが起き始めていた。佐和子さんのマンションに、嫌がらせの電話がかかるようになった、と凪は私に教えてくれた。私たちのアパートにも、すこしずつ電話がかかるようになった。最初は無言電話だった。次に、罵声が混ざるようになった。


罵声を私が受け取ってしまった日が、何度かあった。


受け取ってしまったあと、私はふつうに電話を切って、ふつうに夕食の準備を続けた。ふつうに続けるというのが、その日の私のいちばん大事な仕事だった。お腹のなかの「ひとり」に、ふつうの夜をちゃんと過ごさせたかった。


電話のことを、私はその夜、凪にすぐには話さなかった。


すぐに話すと、凪はそれを重く受け取った。重く受け取った凪の顔を、私は見たくなかった。夜のあいだだけは、凪にすこしだけ休んでほしかった。


それでも、結局、私はその夜のうちに凪に話した。


話したのは、ひとりで抱えきれなかったからだった。抱えきれないということは、私にもたまにはあった。


凪は、私の話を、しばらく黙って聞いていた。


聞き終わってから、凪はぽつりと言った。


「ごめん」


「ごめん」が、その夜、凪の口から出てきた最初の言葉だった。


「凪が、悪いんじゃないから」


私は答えた。


「俺の名字、だから」


凪は苦笑した。


その苦笑が、私にはすこしだけこたえた。


凪の苦笑は、ふだんは私の好きな顔のひとつだった。それでも、その夜の苦笑は、いつもの苦笑よりもずっと深いところから出ていた。ずっと深いところから出てくる苦笑は、もう苦笑ではなくなっていた。


「私も、高原だから」


私は言った。


「私は、高原奈々未です」


凪はしばらく黙っていた。


「ありがとう」


凪は答えた。


「ありがとう」だった。


その夜から、私たちは電話のことをふつうに話すようになった。「今日も、何件か、来ました」「今日は、なかった」と、ふつうに共有する。共有することで、私たちはその重さをふたりですこしずつ分け合った。



六月になった。


私のお腹は、すこしずつ目立つようになってきていた。


服のうえからでも、見える日が増えてきた。朝、家を出るとき、私は自分のお腹を鏡で確かめる癖がついた。鏡のなかの私のお腹は、毎週ほんの少しずつふくれていった。


ふくれていくお腹は、私のなかでたしかな喜びの形を持っていた。


ふくれた分だけ、お腹のなかの「ひとり」がちゃんと育っている。


育っているというのが、私にはいちばんの安心だった。


職場のなかで、私が妊娠していることを、私はもう上司には伝えていた。同僚たちにも、すこしずつ伝えていた。みんな、ふつうに、おめでとう、と言ってくれた。ふつうに、おめでとう、と言ってくれる人たちが、私の職場のなかにはいた。


それでも、私のお腹を見るたびに、何かを考えていそうな顔をする人が、ひとりいた。


その人は、ニュースのことを知っていた。「高原奈々未」が「高原製薬の社長の息子の妻」だ、ということを知っていた。


その人は、いつか誰かに、私のことを話した。


話されたあと、私の周りで何が起きるかは、私にはわからなかった。


それでも、その日のことを、私は毎日すこしだけ覚悟していた。


覚悟は、お腹のなかの「ひとり」をできるだけ傷つけないための、私のいちばんの準備だった。



七月の終わり頃に、私は検診に行った。


検診の日は、平日の午後だった。


NPOで半休をもらって、私は産婦人科に行った。


その日の検診で性別がわかるかもしれない、と、先生は前回の検診のときに言ってくれていた。前回の検診のときは、まだはっきりとは見えなかった。お腹のなかの「ひとり」の向きが、すこしだけちがう向きを向いていた。今日の検診で見える向きになっていれば、性別がわかるかもしれない。


私は、その日まで、性別のことをすこしだけ考えていた。


考えていたというよりも、私のなかで答えの予感がずっとあった。


予感というのは、根拠のないものだった。それでも、お腹のなかの「ひとり」の動き方や、私の体のすこしの変化のなかから、私はなんとなくその予感を持っていた。


たぶん、男の子。


それが私の予感だった。


予感を、私は誰にも話していなかった。凪にも話していなかった。ふつうの予感、と私のなかで扱っていた。当たるかもしれないし、当たらないかもしれない。当たらなかったとしても、それはふつうのことだった。


検診台のうえで、私は横になった。


先生がエコーの機械を、私のお腹のうえに当てた。


冷たいジェルが、私のお腹のうえに塗られた。冷たいのはいつも通りだった。いつも通りの冷たさのなかで、私はお腹のなかの「ひとり」に心の中でつぶやいた。


「今日、見せてくれる?」


「私たちの、ふたりだけのことを、教えてくれる?」


つぶやきながら、私は画面のほうを見た。


画面のなかに、お腹のなかの「ひとり」が映った。


映った姿は、前回よりもずっとはっきりしていた。頭の形がよく見えた。手の指もぼんやり見えた。お腹のなかで、すこしだけ動いていた。


「順調に育ってますね」


先生はふつうの声で言った。


私は頷いた。


先生は、しばらく、画面のうえでエコーの機械を動かしていた。動かしながら、お腹のなかの「ひとり」の向きを確かめていた。


「ああ、見えますね」


先生がぽつりと言った。


「高原さん、知りたい?」


「はい」


私は答えた。


「男の子ですね」


先生は、ふつうの声でそう言った。


「男の子」


私は繰り返した。


「ええ。たぶん、男の子です」


先生は、画面のうえのひとつの点を、指で示してくれた。男の子であることがわかる、その小さな部分を、私はしばらく見ていた。


見ていながら、私のなかで何かがすこしだけ止まった。


止まったのは、私の予感がちゃんと当たっていたからだった。


予感が当たるというのが、その日、私にはふしぎな感覚だった。


私のなかに、すでにその「ひとり」のことが入っていた。


入っていたものが、画面の点として、私の前に現れた。


私は、お腹のうえに、自分の片手を置いた。


置いた手のうえに、ジェルがまだ残っていた。


「男の子、ですか」


私はもう一度、先生に聞いた。


「ええ。あと数週間で、もっと、はっきりするでしょうけれど、たぶん、男の子です」


「ありがとうございます」


私は答えた。


「ありがとうございます」だった。


「ありがとうございます」が、その日も、私の口から自然と出てきた言葉だった。



検診室を出て、私は待合室でしばらく座っていた。


座りながら、私は自分のお腹に、もう一度手を置いた。


置いた手のうえで、私は心の中で、お腹のなかの「ひとり」に声をかけた。


「男の子なのね」


「あなた、男の子なんだね」


声をかけながら、私のなかで何かが、深いところで決まっていった。


決まっていったのは、こういうことだった。


お腹のなかの「ひとり」は、男の子だった。


男の子だ、ということを知っているのは、いま、私だけ。


先生も知っていた。それでも、先生は私の家族ではなかった。


家族のなかで、知っているのは、私だけ。


凪はまだ知らなかった。


これから伝えるかどうか。


伝えるべきだった。


伝えるのがふつうだった。


ふつうの夫婦は、子どもの性別を知ったら、夫にすぐ伝える。「男の子だったよ」「そっか」「うれしい」「うれしい」と、二人で喜ぶ。それがふつうの形だった。


その夜、私は家に帰った。


帰る道で、私は凪に伝えるか、伝えないか、すこし迷った。


迷ったのは、私のなかにすこしだけ、伝えたくない気持ちがあったからだった。


伝えたくない気持ちが何かは、自分でもよくわからなかった。


それでも、伝えたくない気持ちが、私のなかにちゃんとあった。


その気持ちを、私は家に着くまですこしずつ確かめた。


確かめた結果、私のなかにひとつだけ、はっきりとした理由が出てきた。


まだ、ひとりで、抱えていたい。


それが、その日の私の理由だった。


ひとりで抱えるというのは、わがままなのかもしれなかった。


夫の子どもなのに、性別をひとりで抱える。


それは、ふつうの夫婦の形ではなかった。


それでも、その日の私は、まだひとりで抱えていたかった。


抱えていたのは、その日、初めて、私のなかに「私の子ども」という感覚がはっきりとした輪郭を持ったからだった。私の、子ども。お腹のなかの「ひとり」が私の子どもだ、という事実を、私はその日初めて、ちゃんと自分のなかに入れた気がした。


入ったばかりのものを、私はまだ誰にも渡したくなかった。


渡す前に、もうすこしだけ私だけのものとして抱えていたかった。


抱えてから、いずれ、私はそれを凪に渡す。


その「いずれ」がいつかは、自分でもわからなかった。


それでも、いずれ私は伝える。


そのときまで、私とお腹のなかの男の子は、ふたりだけの状態でいる。


ふたりだけというのが、その日、私のなかに初めて立ち上がった、新しい関係の形だった。


ふたりだけの秘密。


それを、私はその日、自分のなかに抱きしめた。



家に着いた。


ドアを開けた。


「ただいま」


返事はなかった。


凪は、まだ仕事から帰っていなかった。


私は、リビングに入って、ソファに座った。


座って、しばらくお腹に手を置いていた。


置いた手のうえで、私は心の中で、お腹のなかの男の子につぶやいた。


「お父さんに、まだ、言わないでいるね」


「ふたりだけの、秘密にしようね」


「ごめんね」


「ごめんね」が、お腹のなかの男の子への、その日の最後のつぶやきだった。


ごめんね、というのは、私の側からのことわりだった。お父さんに、まだ伝えないことを、私はお腹のなかの男の子にことわった。ことわらないと、私のなかですこしだけ申し訳ない気持ちが残った。


ことわってから、私はその日のことを、自分のなかですこしずつ整理した。


整理が終わりかけた頃に、凪が帰ってきた。


「ただいま」


凪の声が玄関で聞こえた。


その日の「ただいま」は、いつもの「ただいま」よりほんの少しだけ低かった。ニュースのなかで、また何か新しい動きがあった日の調子だった。


「おかえり」


私は奥から答えた。


私の「おかえり」は、ふつうの「おかえり」だった。ふつうに迎えた。


凪は、リビングに入ってきて、ソファの私の隣に座った。


座ってから、しばらく何も言わなかった。


私も何も言わなかった。


ふたりとも何も言わない時間が、しばらく流れた。


その時間のなかで、私はすこしだけ、凪に伝えたくなった。


『男の子だったよ』


そう口に出してしまえば、その瞬間に、凪はすこしだけ嬉しい顔をした。


嬉しい顔を見るのは、私にはいちばんいいことだった。


それでも、私はその瞬間にも口を開かなかった。


開かなかったのは、私のなかでまだ、抱えていたい気持ちが勝ったからだった。


抱えていたい気持ちを、私はその夜、自分に許した。


抱えていることを、私に許した。


許したというのが、その夜の私のいちばん深いところで決めたことだった。


決めたことを、私はその夜、凪に言わなかった。


凪は、その夜、ふつうに夕食を食べた。私もふつうに夕食を食べた。話す内容はふつうの話だった。NPOの仕事のこと。製薬会社の仕事のこと。ニュースのこと。ニュースの話は、私たちのあいだで、もうふつうの話のひとつになっていた。


ご飯を食べ終わったあとに、凪が何気なく聞いた。


「今日、検診だった?」


「うん」


「どうだった」


「順調だって」


「そうか」


凪はそれ以上、聞かなかった。


聞かれなかったことに、私はすこしだけほっとした。「性別、わかった?」と凪が聞いてくれていたら、私はその瞬間に言ってしまった。「男の子だったよ」と、私は答えた。答えてしまえば、その瞬間に、私のなかのふたりだけの秘密はなくなった。


凪が聞かなかったのは、偶然だった。


偶然のなかに、私はすこしだけ助けられた。


助けられたというのが、変な言葉だった。夫に何かを伝えないでいることを、夫が聞かないでくれたから助けられた、というのは、ふつうの夫婦の言葉ではなかった。


それでも、その夜の私には、その言葉がいちばん近かった。


その夜、布団のなかで、私はお腹のなかの男の子に心の中でつぶやいた。


「今夜は、まだ、言わなかったよ」


「ふたりだけの秘密、ね」


「もうすこしだけ、二人で、いようね」


つぶやきながら、私はすこし笑った。


笑ったのを、隣で寝ている凪は知らなかった。


知らなくてよかった。


知られないまま、私はその夜の笑いを自分のなかにしまった。



そのあとも、私は凪に性別を言わなかった。


言うタイミングは、何度かあった。


検診のあとの、最初の週末。


凪がふとお腹に手を当てて、「元気だね」と言ってくれた、ある夜。


佐和子さんから電話がかかってきて、「赤ちゃん、どっちかしらね」と聞かれた朝。


そのどの瞬間にも、私は言わないでいた。


言わないでいるのが、すこしずつ楽になっていった。


楽になっていったのは、私のなかで、その秘密が私のものとしてちゃんと落ち着き始めたからだった。私のものになった秘密は、私の体のなかにちゃんと置き場所ができた。置き場所のあるものは、長く私のなかにいてくれた。


凪は何度か、私に聞いてきた。


「性別、もう、わかった?」


「まだ、はっきりとは、わからないみたいです」


私は嘘をついた。


嘘をつくのは、私には苦手なことだった。それでも、その嘘は私のなかでふつうに出てきた。ふつうに出てくる嘘、というのがあった。その嘘を私のなかでずっと抱えていたから、慣れたのだった。


凪は、私の嘘を、ふつうに受け取ってくれた。


受け取って、それ以上聞かなかった。


聞かなかったのは、凪がその時期、自分の仕事のことや、実家のことや、ニュースのことで、頭のなかがいっぱいだったからだった。性別のことを深く追う余裕が、凪にはなかった。


凪の余裕のなさが、私の秘密をすこしだけ守ってくれた。


その事実が、私のなかですこしだけ申し訳なかった。


それでも、私は秘密を手放さなかった。


手放したくなかった。



外の世界は、すこしずつひどくなっていった。


凪の実家のドアに、赤いスプレーで何かが書かれた日があった。


凪のマンションのインターホンが壊された日があった。


私たちのアパートにも、いろいろなものが来るようになっていた。


外の世界がひどくなっていく分だけ、私のなかの「ふたりだけの秘密」は、すこしずつ深くなっていった。


深くなっていく秘密を、私はお腹のなかの男の子と、二人だけで抱えていた。


二人だけというのが、その時期の私の、唯一の安全な場所だった。


外の世界には、たくさんの人がいた。


たくさんの人のなかに、私たちを傷つけたい人が混ざっていた。


混ざっている人たちのなかから、私はお腹のなかの男の子を、できるだけ守りたかった。


守るためのいちばんの方法が、性別をふたりだけの秘密にしておくことだった。


男の子だ、ということを、私だけが知っている。


私と、お腹のなかの彼、だけが知っている。


その「ふたりだけ」のなかに、外の世界は入ってこられない。


外の世界が、私たちのアパートのドアの外にどれだけひどいものを置いていっても、私のお腹のなかの「ふたりだけ」には届かなかった。


届かない場所を、私は自分のなかにひとつ持っていた。


それが、私のなかでいちばん強い安心だった。



ある夜、私は布団のなかで、ぼんやり考えていた。


考えていたのは、いつか、私が凪に伝える日のことだった。


伝えるのは、いつか、生まれてくる日になる気がした。


生まれてくる日に、凪が隣にいてくれて、生まれてきた赤ちゃんの顔を見て、「男の子だね」と自分の目で確かめる。そのとき、凪はすこしだけ驚いた顔をする。私は、隣ですこし笑って、「うん、男の子なんだ」と答える。「いつから、知ってたの?」と凪は聞く。「最初の検診から」と私は答える。「なんで、教えてくれなかったの」と凪は聞く。


そのときに、私はなんと答えるんだろう。


「ふたりだけの秘密にしておきたかったから」


そう答える気がした。


「ふたりだけ」というのが、私のいちばんの理由だった。


それで凪がすこし寂しい顔をするかどうかは、わからなかった。寂しい顔をするかもしれなかった。それでも、私は、すこしだけ、ごめんね、と思いながら、それを自分のなかで受け止める。


そういう未来を、私はぼんやりと想像していた。


想像のなかでは、生まれてくる日はふつうの、嬉しい日だった。


私と、凪と、生まれたばかりの男の子と、三人で過ごす日。


その日がちゃんと来る、と私はぼんやり信じていた。


信じていたというのが、その時期の私のいちばんの強さだった。



すこしずつ、お腹のなかの子は大きくなっていった。


蹴る回数が増えていった。


蹴られるたびに、私は自分のお腹に手を置いて、「ありがとう」と心の中でつぶやいた。蹴られるのは痛かった。それでも、痛さよりもありがたさのほうがずっと大きかった。痛さは、その「ひとり」がちゃんと生きている証拠だった。


凪も、たまに私のお腹に手を置いてくれた。


「動いた?」と凪は聞いた。


「元気だね」と私は答えた。


凪の手の下で、お腹のなかの男の子が動いた瞬間に、凪の顔がすこしだけ笑った。


その笑いを、私は毎回ありがたく見ていた。


凪の笑いを、私は最近あまり見られなくなっていた。ニュースのなかでいろいろなことが起きるたびに、凪の顔から笑いがすこしずつ減っていった。減っていった笑いが、お腹のなかの男の子の動きの前では、たまに戻ってきてくれた。


戻ってきた笑いを、私はいつも心の中で、お腹のなかの男の子に「ありがとう」と伝えた。


お父さんを、笑わせてくれて、ありがとう。


そうつぶやいた。


つぶやくたびに、お腹のなかの男の子は、またすこし動いた。


動いたというのが、その「ひとり」からの、私への返事だった。


返事がちゃんと返ってくるというのが、その時期の私の、いちばんの「ただいま」と「おかえり」だった。


私が「いる?」とお腹につぶやくと、お腹のなかの男の子がすこし動いて、答えてくれた。


「いるよ」と、その動きが私に伝えていた。


私は、その「いるよ」を、毎日何度か確かめていた。


確かめるたびに、私のなかでその「ひとり」が、ちゃんと私の家族として深く入っていった。



ふたりだけの秘密を、私は生まれてくる日まで抱えるつもりでいた。


抱えるというのが、その時期の私のいちばんの仕事だった。


抱えているというのが、お腹のなかの男の子と私の、いちばんの絆だった。


絆というのも、変な言葉だった。


それでも、その時期の私のなかで、その「ふたりだけ」は絆としか呼べないものだった。


絆を、私は毎日深めていった。


深めながら、私はその秋をすこしずつ過ごしていった。


外の世界は、毎日ひどくなっていった。


外の世界がひどくなっていく分、私のなかの「ふたりだけ」は、すこしずつ深くなっていった。


深くなった「ふたりだけ」のなかで、私は毎日、お腹のなかの男の子につぶやいた。


「ふたりだけ、だね」


「うん、ふたりだけ、だね」


つぶやくたびに、私のお腹のなかで、その「ひとり」がすこし動いた。


動いたというのが、その「ひとり」からの、私への「うん」だった。


「うん」を、私は毎日受け取っていた。


その「うん」のなかで、私はその秋をぎりぎりで生きていた。


ぎりぎりで生きていることを、私は凪にも、林先生にも、佐和子さんにも、誰にも言わなかった。


言わないでいるのが、その時期の私のいちばんの強さだった。


強さの内側で、私とお腹のなかの男の子は、ふたりだけでいた。


ふたりだけでいることが、私のいちばんの安心だった。


安心のなかで、私はすこしずつ、生まれてくる日のことを待っていた。

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