影章 奈々未 014
凪を大阪に見送った日の午後だった。
私は、いつも通り、NPOの仕事に出かけていた。
午後の二時頃、給湯室でお茶を淹れていた。先輩が給湯室に入ってきた。スマートフォンを見ながら入ってきた。
「ねえ、これ、見た?」
先輩は私にスマートフォンを見せた。
画面のなかに、ニュースの見出しが出ていた。
「高原製薬、薬害発覚か」
私は、その見出しを、しばらく見ていた。
見ていながら、私のなかで何かがすこしずつ止まっていった。
「高原製薬って、すごい大きい会社よね」
先輩は続けた。
「怖いわよね、薬って」
「はい」
私はそう答えた。
「はい」しか答えられなかった。
先輩は、私のいまの名字が「高原」だ、ということを覚えていなかった。「吉野」から「高原」に変わったばかりで、職場のなかでは、私はまだ「吉野さん」だった。「吉野さん」のままで、私は先輩に何も言わなかった。
先輩はスマートフォンをしまって、給湯室を出ていった。
私は、お茶を淹れる手を止めていた。
止めたまま、しばらく立っていた。
立ちながら、私は自分のなかでぼんやり思った。
凪のお父さんの会社。
その四文字が、私のなかでぼんやり形を持っていた。
形を持ったまま、私はお茶を淹れ終えて、自分のデスクに戻った。
戻ってから、私は自分のスマートフォンで、もう一度そのニュースを確認した。
確認したニュースは、お昼に出たばかりの、まだ短い記事だった。高原製薬の医薬品で、承認を受けていない原料が使われていた可能性がある、と書いてあった。
医薬品の名前は、まだ出ていなかった。被害者の人数も、まだ書いてなかった。それでも、ニュースの最後のほうに、「現時点で、複数の死亡事例との関連性が、調査中である」と書いてあった。
複数の、死亡事例。
その五文字を、私はもう一度、自分のなかで確かめた。
確かめたあと、私はふだんの仕事に戻った。
戻ったというよりも、戻るというふりをした。
ふりをしながら、私は頭のなかで、すこしだけ考えていた。
凪は、いま、どこにいるんだろう。
凪は大阪の研修中だった。研修のスケジュールを、私はだいたい知っていた。午後は二時から五時までグループワーク。そのあいだ、凪はスマートフォンを見ていない。
ということは、凪はまだ知らない。
ふつうの研修生として、凪はいま、ホテルの会議室でグループワークをしている。
知らないままで、凪が研修を続けられる時間が、あとすこしだけあった。
その時間を、私がこちらから知らせるということはしなかった。
しなかったのは、凪がふつうの研修生でいられる、いちばん最後の時間を、私が奪いたくなかったからだった。
奪わないというのが、その日の私のぎりぎりの優しさだった。
夜になった。
私はふつうに家に帰った。
帰り道で、私はスマートフォンを何度か開いた。
ニュースは、お昼よりももう少し詳しくなっていた。高血圧、糖尿病、高脂血症の治療薬で、承認外の原料の使用が判明した、と書いてあった。死亡事例は、現時点で確認できているもので九件、と書いてあった。
九件という数字を、私は自分のなかでもう一度確かめた。
家に着いた。
ドアを開けた。
「ただいま」
私は自分の声を聞いた。
返事はなかった。
凪は大阪にいた。返事のない「ただいま」を、私はその夜、ひさしぶりに自分のアパートで聞いた。
返事がないというのが、その夜、私にはすこしだけこたえた。
こたえたのは、いつもなら凪の「おかえり」が私をちゃんと迎えてくれる時間だったからだった。凪の「おかえり」がないと、その夜の家は、私にはすこしだけ広すぎた。
リビングに入って、私はソファに座った。
座って、しばらく何もしなかった。
何もしないでいるうちに、私はもう一度スマートフォンを開いた。
開いて、ニュースを確認した。
その時点で、死亡事例は十一件に増えていた。
増えた数字を、私は自分のなかでもう一度転がした。
転がしながら、私はお腹に片手を置いた。
置いた手のなかで、お腹のなかの「ひとり」が、もしかしたらすこしだけ、私のことを心配してくれている気がした。
「大丈夫だよ」と、私は心の中でお腹のなかにつぶやいた。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのかは、私にもわからなかった。
それでも、私はそうつぶやいた。
その夜、凪から電話がかかってきた。
午後の十時頃だった。
「奈々未」
凪の声が、いつもよりすこしだけ低かった。
「ニュース、見た?」
凪は聞いた。
「見ました」
私は答えた。
「ごめん」
凪はそう言った。
「ごめん」が、その夜の最初の凪の言葉だった。
「ごめん、というか」
凪は続けた。
「いま、研修先で、ホテルにいるんだけど」
「うん」
凪の声がすこしだけ震えていた。
震えていたのは、凪がいまいる場所が、家から遠かったからだった。遠い場所で、ひとりでニュースを受け取った。受け取った凪の声は、その重さで、ふだんよりも震えていた。
「凪は、いまから、帰ってこられる?」
私は聞いた。
「明日の朝、新幹線で帰る」
「研修は」
「中止になった。会社の指示で」
「そう」
「明日、たぶんいろいろ決まる」
「うん」
「奈々未」
凪は私の名前を呼んだ。
「はい」
「家にいてくれる?」
凪はそう聞いた。
「うん」
私は答えた。
「いるよ」
「ずっと、家に、いるからね」
「ありがとう」
凪は答えた。
「ありがとう」だけだった。
電話を切った。
切ってから、私はソファのうえに、しばらく座っていた。
座っていながら、私は心の中で何度か自分につぶやいた。
家に、いる。
ずっと、ここに、いる。
その言葉を、私はこれから何度も凪に伝えることになる気がした。
伝える準備を、私はその夜から自分のなかで始めた。
翌朝、私はふつうに起きた。
ふつうに朝ごはんを作って、ふつうに食べた。
ふつうに食べるというのが、その日の私のいちばん大事な仕事だった。
お腹のなかの「ひとり」に、ふつうの朝をちゃんと過ごさせたかった。
ふつうの朝を過ごしながら、私は凪の帰りを待った。
凪は午後に帰ってきた。
研修のスケジュールでは、土曜日に帰ってくるはずだった。それが二日早まった。二日早く、凪は私のところに帰ってきた。
「ただいま」
凪の声が玄関で聞こえた。
その声は、いつもの「ただいま」よりもずっと低かった。
「おかえり」
私は奥から答えた。
私の声も、いつもの「おかえり」よりほんの少しだけ強かった。
強くしたのは、私の側からのいちばんの迎え方だった。疲れている人の前で、私がいつもよりすこしだけしっかりしていなければならない時間だった。
凪はリビングに入ってきた。
入ってきた凪の顔は、二日前の朝、出ていった凪の顔とは、ぜんぜんちがう顔をしていた。
二日前の朝、凪はすこしだけ誇らしげな顔をしていた。
二日後の昼、凪の顔は、私がいままで見たことのなかった凪の顔だった。
「お疲れさま」
私は言った。
「うん」
凪は答えた。
「ご飯、食べた?」
「食べてない」
「じゃあ、作るね」
私は、いつもの夕食を作り始めた。
味噌汁。焼き魚。さば。大根おろし。小鉢が二つ。ほうれん草のおひたしと、ひじきの煮物。特別なものは、なにも作らなかった。特別なものを作ると、その夜が特別な夜になってしまった。ふつうの夜の食事を、私はふつうに凪の前に置きたかった。
並べた食卓を、凪はしばらくふつうの顔で見ていた。
「ニュース、見た?」
凪が聞いた。
「見ました」
「どう思った」
私はすこし間を置いた。
「凪の、お父さんの、会社でしょう」
「そうだ」
「大丈夫なの?」
「わからない」
凪はそう答えた。
「わからない」と凪が答えたときの凪の声を、私はいまも覚えている。
「わからない」は、その夜、凪の口から出てくるいちばん正直な言葉だった。何が大丈夫で、何が大丈夫でないか、凪のなかでまだ輪郭が見えていなかった。輪郭が見えていない状態で、彼は嘘をつく余裕がなかった。
嘘のつけない凪が、私の前に座っていた。
その凪に、私は何も聞かなかった。
聞かないでいるというのが、その夜の私のいちばんの優しさだった。
ふだんの私なら、もうすこし聞いた。「お父さん、大丈夫?」「お母さんは?」「実家は、どんな状況?」と、私は聞いた。
その夜は聞かなかった。
聞かないかわりに、私は凪の前に、ふつうの夕食を置いた。
凪はふつうに箸を取った。
味噌汁を一口飲んだ。
「うまい」
凪はぽつりと言った。
「ありがとう」
私は答えた。
凪は、それから、しばらく食事を続けた。
食事のあいだ、私たちはほとんど話さなかった。
話さなかったのは、話す言葉がその夜、私たちのあいだにまだちゃんと立ち上がっていなかったからだった。
立ち上がっていない言葉のかわりに、私たちのあいだには、味噌汁の湯気と、皿のうえの料理と、外の暮れていく空があった。
それで十分だった。
その夜、その「十分」だけが、私たちにできるいちばんのことだった。
食べ終わってから、凪が皿を片づけようとした。
「いい」
私は先に立ち上がった。
「洗うよ」
「いや、俺が」
「凪は、座ってて」
私はそう言った。
そう言ったときの自分の声が、ふだんの私の声よりすこしだけ強かった。強くしたのは、その夜の凪に、台所に立ってほしくなかったからだった。立っていると、凪はふつうに立ち続けようとした。ふつうに立ち続けようとする凪を、私はその夜、見ていたくなかった。座っていてほしかった。座って、すこしだけ楽になってほしかった。
凪はすこし笑った。
「奈々未は、強いね」
凪はぽつりとそう言った。
「強くないよ」
「いや、強いさ」
「私は、ふつう」
私は答えた。
ふつう、というのが、その夜の私のいちばんの答えだった。
ふつうのままでいるというのが、私のいちばんの得意だった。ホームを出てから、私のいちばんの仕事は、ふつうでいることだった。「いま、ふつうじゃない」と気づかれる前に、私はいつもふつうのふりをした。
その夜も、私はふつうのふりをした。
ふつうのふりは、凪をすこしだけ助けた。
私は台所で洗い物をした。
蛇口から流れる水が、皿のうえで割れて散る音。
その音を聞きながら、私はリビングの凪のほうに背中を向けていた。
しばらくして、私はふと思い出した。
「母さんが、言ってた」
私はそう言った。
水が止まった。
蛇口をひねるのを止めて、私はリビングのほうを振り返らずに続けた。
しばらく、凪は何も言わなかった。
「⋯⋯私は、ここに、いるから」
私は続けた。
声がすこしだけ震えていた。
震えていたのは、その「ここにいる」を、私が自分のなかでずっとずっと誰かに言いたかったからだった。ホームを出てから、私が誰かに「私は、ここに、いるから」と言えた相手は、まだいなかった。林先生に私が「ただいま」を返してもらった日も、私は「ここにいる」を言わなかった。
その夜、私は初めて、それを言った。
「私は、ここに、いるから」
「どこにも、行かないから」
「凪が、どうなっても」
「何が、起きても」
私はそうつぶやいた。
つぶやきながら、私はもう一度、蛇口をひねった。
水の音が戻った。
水の音のなかで、私は洗い物の続きをした。
皿を一枚洗って、水切りに立てた。次の皿に移った。
何でもない動作のなかに、さっきの一言を私は置いた。
置いたというのが、その夜の私のいちばんの仕事だった。
ここにいる、と伝えた。
伝えたあとは、もうふつうに洗い物をすることだった。
ふつうの動作を続けながら、私は自分のお腹のなかの「ひとり」に、心の中でつぶやいた。
お父さんを、私たちで、ちゃんと、待っていようね。
つぶやいた声は、お腹のなかの「ひとり」にちゃんと届いた。
届いたかどうかはわからなかった。
それでも、届いた気がしたというのが、その夜の私には十分だった。




