影章 奈々未 012
妊娠がわかったのは、社会人一年目の十二月だった。
その日、私は午前中に産婦人科に行った。
NPOの仕事は午後からだった。午前中の半休を、私は二週間前から申請していた。申請したとき、上司は何も聞かなかった。「ふつうの半休として扱う」と上司は言ってくれた。理由を聞かれなかったのが、その日の私にはいちばんありがたかった。
産婦人科は、家から歩いて十五分ほどのところにあった。
待合室で、私は自分の周りをすこしだけ見ていた。私と同じくらいの年齢の人もいれば、すこし上の人も下の人もいた。みんな、お腹がすこしずつふくらんでいた。お腹がふくらんでいない人は、たぶん私だけだった。
ふくらんでいない人として、私はその待合室に座っていた。
名前を呼ばれて、診察室に入った。
先生は、五十代くらいの女性の先生だった。やわらかい声の先生だった。やわらかい声で、先生は私にいくつかのことを聞いた。最終月経の日。生活のリズム。体調のこと。
私はぜんぶ答えた。
それから先生は検査をした。
検査が終わって、先生は私の前に座って、ふつうの声で言った。
「おめでたですね」
そう言った。
「五週目くらいでしょう」
先生は続けた。
私は先生の顔を見ていた。
見ていながら、私は自分の中でその言葉をもう一度確かめていた。妊娠してますね。五週目くらい。
「順調に育っていますよ」
先生は、私にエコーの写真を見せてくれた。
写真のなかに、すごく小さな白い影があった。それが私のお腹のなかの「ひとり」だった。
ひとりという言葉を、私はその瞬間、自分のなかでもう一度転がした。
転がしてから、私はすこしだけ深く息を吸った。
息を吸って、それから先生に頭を下げた。
「ありがとうございます」
私はそう言った。
「ありがとうございます」は、その場面でふつうの答えではなかった。それでも、それが私の口から自然と出てきた言葉だった。
先生はすこし笑ってくれた。
「次の検診は、二週間後に、来てくださいね」
「はい」
「旦那さんは、お仕事?」
「はい」
「今夜、伝えるのね」
「はい」
「がんばってね」
先生はそう言ってくれた。
「がんばってね」が、その日の先生から私への、いちばんやわらかい言葉だった。伝えること自体が、私にとって「がんばる」ことのひとつだ、と先生はわかってくれていた。
産婦人科を出た。
エコーの写真を、ハンドバッグのなかに入れていた。
私は、すぐには家に帰らなかった。
午後からNPOの仕事があった。仕事の合間に、私はぼんやり、自分のお腹のなかの「ひとり」のことを思っていた。仕事をしていても、私のお腹のなかには、もうひとりいる。その事実が私のなかで、なんども形を変えながら立ち上がってきた。
仕事の終わりが近づいてきた頃、私は凪にメッセージを送ろうとして、すこし迷った。
迷ったのは、そのメッセージの書き方を私が決められなかったからだった。
「妊娠した」と書いて消す。
「赤ちゃんができた」と書いて消す。
「話があるので、早く帰ってきて」と書く。
最後のひとつを、私は選んだ。
メッセージでその事実を伝えるのが、なんだか私にはできなかった。伝えるなら、ちゃんと顔を見て伝えたかった。
「話がある、早く帰ってきて」
そう書いた。
絵文字はつけなかった。句読点はふつうに打った。
ふだんの私のメッセージは、「何時に帰る?」とか「今日は遅い?」とか、そういう急かさない聞き方が多かった。「早く帰ってきて」と私が凪に急かす書き方をしたのは、その夜が初めてだった。
送ったあと、私はすこしだけ心配した。
凪を不安にさせる書き方だった。「話がある」と「早く帰ってきて」が並んで書いてあると、ふつうの人は悪いことを想像する。私のメッセージを受け取った凪は、悪いことをすこし想像したかもしれない。
それでも、ほかに書き方が思いつかなかった。「いい話がある」と書くのも、ちがう気がした。「いい話」と書いてしまうと、伝える前にすでに輪郭が決まってしまう。決まっていない輪郭のままで、私は凪に伝えたかった。
仕事を終えて家に帰る。
家に着いてから、私はすぐにテーブルの前に座った。
椅子に座って、しばらく何もしなかった。
何もしないでいるうちに、私はふと思った。
検査薬を、テーブルのうえに置こう。
その朝、私はもう一度、検査薬を使っていた。産婦人科に行く前に、もう一度確かめておきたかった。陽性が、たしかに出ていた。
その検査薬を、私は捨てずに引き出しのなかにしまっていた。
しまっていたものを、私は出してきた。
そして、テーブルの真ん中にひとつだけ置いた。
細長い棒のかたちの検査薬が、テーブルの真ん中に置かれた。
置いてから、私はまた椅子に座った。
座って、テーブルのうえの検査薬をしばらく見ていた。
見ているうちに、私は自分の左手の薬指の付け根を、右の親指でなぞっていた。
なぞる癖は、その夜も出た。
その夜のなぞる癖は、ふだんとは少しちがう深さを持っていた。何かを考えているというよりも、何かを自分のなかで抱えている、というようななぞり方だった。
抱えているものを、私はこれから凪に渡す。
渡すための準備を、私は薬指の付け根でしていた。
時間がゆっくり過ぎた。
そのあいだ、私は台所の明かりだけをつけていた。料理は作っていなかった。料理を作る気が、その夜は起きなかった。
外で車が何度か通り過ぎた。
窓のガラスに、夜の光が反射していた。
テーブルのうえの検査薬を、私はもう一度見た。
検査薬はそこにぽつりとあった。
ぽつりとあるそれを、凪がこれから見る。
見て、ぜんぶわかってくれる。
わかってくれるというのが、私にはいちばんありがたかった。ぜんぶを口で説明しなくても、彼は見ればわかってくれる。そういう人と、私は一緒に暮らしていた。
ドアの音がした。
凪が帰ってきた。
「ただいま」
凪の声が玄関から聞こえた。
その声は、いつもの「ただいま」よりすこしだけ急いでいる声だった。私のメッセージのせいで急いで帰ってきてくれたことが、私にはすぐにわかった。
「おかえり」
私はテーブルから答えた。
声がいつもの私の声よりすこしだけ細かった。
凪がリビングに入ってきた。
入ってきた瞬間に、凪の目がテーブルの真ん中の検査薬に向いた。
向いた目がしばらく、そこから動かなかった。
立ったまま、凪はコートも脱がず、鞄も下ろさず、数秒のあいだ固まっていた。
固まっている凪を、私はソファのほうから見ていた。
凪の顔から、すこしずつ表情が抜けていった。抜けてから、またゆっくり戻ってきた。戻ってきた顔は、入ってきた瞬間の顔とはちがう顔だった。
「できた」
私は言った。
言ったときの自分の声が、すこしだけ震えていた。
凪の目はまっすぐ、私のほうを見ていた。
私は、椅子に座ったまま、両手を膝のうえに置いていた。左手の薬指の付け根を、右の親指でなぞっていた。なぞっている癖を、自分でもすこしだけ意識していた。意識していても、なぞる手は止まらなかった。止めようと思うほど、私はその夜、深いところにいた。
凪はコートを脱がなかった。
鞄も下ろさなかった。
そのまま椅子を引いて、私の隣に座った。
椅子を引く音が、いつもよりすこしだけ大きく響いた。
座ってから、凪は私の手を取った。
私の手は冷たかった。
十二月の部屋の空気は、暖房がついていても、私の指先までは温めてくれなかった。いつから私がここに座っていたかは、自分でもよくわからなかった。たぶん二時間か三時間、座っていた。座っているあいだ、私はずっとテーブルのうえの検査薬を見ていた。
凪は、私の冷たい手を、自分の手で包んだ。
包まれた手のなかで、私の指先はすこしずつ温まりはじめた。
「怖い?」
凪は聞いた。
私は答えた。
「怖い」
声が小さかった。
「嬉しいけど、怖い」
そう続けた。
「嬉しい」と「怖い」を、両方、口に出した。
両方を口に出したのは、私には初めてだった。いつもの私は、両方を持っているとき、たいていひとつしか口に出さなかった。「怖い」も「嬉しい」も、たいてい私の中だけに置いていた。
その夜は両方出した。
「俺も」
凪は答えた。
「俺も」だった。
私はすこし顔を上げた。
「嬉しいの?」
私は聞いた。
「嬉しいよ」
凪は答えた。
嘘ではなかった。
私にはわかった。凪の「嬉しいよ」の声には、嘘の入りこむ場所がなかった。
凪は、私の冷たい手を包んだまま、しばらく何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
うつむいて、私はしばらく、ただ凪の手の温度を自分の手のなかで受け取っていた。
凪の手のひらの温度が、私の指先にすこしずつ移っていく。
台所の暖房の送風音が聞こえていた。
外で車が一台通り過ぎた。
窓のガラスに夜の光が反射して、テーブルのうえに小さな光の粒が散っていた。
私は、そのうちのひとつの粒を見ていた。
見ているうちに、私のなかですこしずつ、いろいろなものが整理されていった。
すこし経って、私は顔を上げた。
凪を見た。
私の目はすこしだけ赤かった。でも、笑っていた。
口角が上がって、すぐ戻った。
私の、いつもの笑い方で。
「名前、考えようか」
私はそう言った。
「名前」
「うん」
「もう?」
「もう、考えたい」
私は答えた。
考えたいというのが、私のなかの本当のことだった。お腹のなかの「ひとり」を、まだ名前のないままにしておきたくなかった。名前があれば、その「ひとり」は私のなかですこしだけはっきりとした輪郭を持った。輪郭を持った「ひとり」を、私はこれからちゃんと抱えていける気がした。
「男の子だったら」
凪が言いかけた。
「女の子かもしれないでしょ」
私は答えた。
「両方、考えよう」
凪はそう言った。
私はメモ帳を出した。
いつものメモ帳。
テーブルの真ん中の検査薬は、いつのまにか片づけていた。いつ片づけたのかは、自分でもよく覚えていない。たぶん凪が私の手を取ってしばらく経った頃に、私はその細長い棒状のものを、すこしだけ離れた場所に移したのだと思う。
メモ帳をテーブルのうえに広げた。
シャープペンシルを構えた。
凪が隣に寄ってきた。
私の隣にぴったりと座って、凪はメモ帳を覗き込んだ。
二人でテーブルに並んで、私たちは名前を書き始めた。
いくつも書いた。
書いて、消して、また書いた。
「これは?」と凪が書いた。
「ちょっと、読みにくくない?」と私が答えた。
「じゃあ、これ」
「うーん」
小さな声で、私たちは言い合った。
笑った。
また考えた。
書いて、消して、また書いた。
メモ帳のうえに、消し残しの鉛筆の粉が、白い紙のうえに散っていった。
私たちは、その粉を払わなかった。
払うのがなんだかもったいない気がした。
書いては消し、書いては消しをしばらく続けたあとに、凪がシャープペンシルを握ったまま、すこしだけ止まった。
止まってから、凪はひとつの名前を書いた。
書いた名前を、私は見た。
その名前の漢字を見たときに、私のなかで、すこし何かが止まった。
止まったのは、その名前のなかに、私がずっと欲しかった意味が入っていたからだった。
迷った人が、帰ってこられる場所のような人になってほしい。
そういう意味を、その名前は持っていた。
凪は、その意味のことを、私にはまだ説明していなかった。
それでも、私にはわかった。凪が書いた漢字の組み合わせから、その意味が自然と立ち上がってきた。
私はペンを止めた。
しばらく、その名前を見ていた。
見ていながら、私は自分のなかで、何かがゆっくりと決まっていくのを感じていた。
決まっていくものを、私はまだ口には出さなかった。
「いい名前」
私はただそう言った。
声がすこしかすれていた。
「いい名前」だった。
私は、ほかになにも言わなかった。
凪は、私の「いい名前」を、ふつうに受け取ってくれた。
受け取ったあとに、凪はすこし笑った。
「決まり?」と凪が聞いた。
「決まり、というか」
私は答えた。
「もう少しだけ、いろいろ、考えてみたい」
そう答えた。
「うん」
凪はそれ以上聞かなかった。
それでよかった。
その夜、結論は出なかった。
それでも、私たちは、ふたりとも悪くない顔をしていた。
テーブルのうえに、メモ帳が広げられたままだった。消し残しの鉛筆の粉が、白い紙のうえに散っていた。
メモ帳のうえに、名前の候補がいくつか並んでいた。
そのなかに、凪が書いたあの名前もあった。
私は、メモ帳を閉じる前に、もう一度その名前を見た。
見てから、私はメモ帳をゆっくりと閉じた。
閉じたメモ帳を、私はテーブルのうえにしまった。
しまったあと、私たちはお風呂に入って、布団に入って眠った。
布団のなかで、私は自分のお腹のあたりに、もう一度手を置いた。
置いた手のうえに、凪の手がまたそっと置かれた。
私たちは、しばらく、お互いの手をお腹のうえで重ねていた。
重ねたまま、私はその夜、ぼんやりと思った。
「迷った人が、帰ってこられる場所のような人になってほしい」
その願いを、私は自分のなかでもう一度繰り返した。
繰り返すたびに、その願いは私のなかで深くなっていった。
深くなった願いを、私はいつのまにか、自分のものとして抱きしめていた。
抱きしめている願いを、私は隣で眠る凪に、まだちゃんと伝えていなかった。
それでも、伝えなくても、その願いはその夜、二人のあいだにすでにあった。




