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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
影章 奈々未
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影章 奈々未 011

二月のある週末、私たちは沖縄に飛んだ。


飛行機に乗るのは、私には初めてだった。


ホームを出てから、私は修学旅行のことも含めて、飛行機に乗ったことがなかった。飛行機の中で、私はすこしだけ緊張していた。緊張していたのは、空を飛ぶという事実が、私の体にまだなじまなかったからだった。


彼は、隣で、ふつうの顔をして座っていた。


ふつうの顔をしている彼の隣で、私もふつうの顔をしようとした。ふつうの顔をするのが、私のいつもの作戦だった。緊張していることを誰にも見せない。誰にも見せないでいると、緊張はすこしずつ薄れていった。


飛行機が空に上がった。


窓の外に雲が見えた。雲のうえに出ると、空は思っていたよりもずっと青かった。


ずっと青いというのが、私のなかで新しい色だった。


東京の冬の空は、青いというより灰色だった。雲のうえの空は、灰色の上のほうにあった。灰色の上に、こんなに濃い青がいつもあったということを、私はその日初めて知った。


空港から出た瞬間、二月なのに空気が暖かかった。


東京の冬とは別の空気だった。湿っていて、やわらかくて、どこかに花の匂いが混じっていた。


「あったかい」


私はつぶやいた。


つぶやいて、それから空港の外に出た。


タクシー乗り場の前で立ち止まって、私は空を見上げた。


二月の東京の空とは全然ちがった。青が濃くて、雲が白くて、空が広かった。ビルがないから、空が全部見える。


「すごい」


私はそう言った。


それ以降、私はしばらく黙っていた。


黙っていたのは、口に出すとその瞬間の感覚がすこしだけ目減りする気がしたからだった。空が広いことを言葉にすると、空がすこしだけ狭くなる気がした。狭くしたくなかった。広いまま、私のなかに入れたかった。


彼がレンタカーを借りてくれた。


彼が運転して、私は助手席で窓の外を見ていた。


サトウキビ畑が続いていた。サトウキビ畑の向こうに空があった。ラジオからは沖縄のFM局の声が流れていた。知らない曲が、知らない言葉で歌われていた。


知らない言葉が車のなかで流れているのが、私には心地よかった。知らない言葉は、私に意味を押しつけてこなかった。意味のない音楽のなかで、私はただ窓の外を見ていた。



海岸に着いた。


駐車場に車を停めて、砂浜に降りた。


二月の海水浴場には、私たち以外、誰もいなかった。


砂は白かった。冬でも裸足で歩ける温かさがあった。


波の音が聞こえた。寄せて、返して。一定のリズム。


私は、波打ち際まで歩いていった。


歩きながら、私は自分の靴を脱いだ。靴下も脱いだ。裸足で砂のうえに立った。


砂は思っていたよりも細かくて、やわらかかった。私の足の裏がこれまで知っていた地面とはちがう感触だった。


裸足のまま、波打ち際までもう少し歩いた。


波が私の足元に来た。


波の白い泡が、私の裸足のつま先に触れて引いていった。


冷たかった。


冷たかったけれど、私は動かなかった。


次の波がまた来た。


今度は私のくるぶしのあたりまで来た。


冷たかった。ふつうの人なら、ここで後ろに下がる温度だった。それでも、私は下がらなかった。


下がらなかったのは、その冷たさを私がちゃんと感じていたかったからだった。


テレビのなかでしか知らなかった海が、いま、私の足の裏で、私に触れていた。


触れているというのが、私には長いあいだ空いていた感覚だった。海というものが私に触れたことは、私の人生に一度もなかった。一度もなかったものが、その日、私に触れていた。


冷たい水と、足の裏の砂の感触と、潮の匂い。


ぜんぶ、私のなかに入ってきた。


入ってくるのを、私は立ち止まったまま受け取った。


五分くらい、私はそうしていた。


そうしているあいだ、私は波の音以外、何も聞いていなかった。彼が砂浜の少し離れたところに立っていることは、私にはわかっていた。彼が声をかけてこないでくれていることも、わかっていた。


声をかけてこないでくれたというのが、その日の彼のいちばんの優しさだった。


声をかけられたら、私はその瞬間に、海からすこしだけ戻ってきた。彼は、私が海のなかにもう少しだけいたいことを、わかってくれていた。


わかってくれていたから、彼はすこし離れたところに立っていてくれた。


私が自分のなかで海をちゃんと受け取り終わるまで、彼は待っていてくれた。



しばらくして、私は振り返った。


彼が砂浜のうえに立っていた。


「来てよかった」


私は彼にそう言った。


言ったときの自分の声が、いつもの私の声よりもすこしだけひらいていた。口角が、いつもの控えめな上がり方ではなくて、もう少しだけ上のほうにいっていた。


目も笑っていた。


頬がすこし赤かった。


赤かったのは、風のせいか、感情のせいか、自分でもよくわからなかった。たぶん両方だった。


「来てよかった」


私はもう一度言った。


二度目のほうは、一度目よりすこしだけ小さい声だった。


二度目は、彼に言っているというよりは、自分に言い聞かせていた。「来てよかった」を、私はもう一度、自分のなかに確かめておきたかった。確かめておかないと、その感覚は東京に戻ったときにすこしだけ薄れていった。薄れる前に、私はもう一度、自分の口で自分に伝えた。


彼は「うん」とだけ言った。


「うん」だけだった。


それで十分だった。


彼の「うん」のなかに、いろいろなものが入っていた。「奈々未さんが、初めての海を、ちゃんと受け取れて、よかった」「沖縄を選んで、よかった」「海と言ってくれて、よかった」。そういう言葉のいくつかが、「うん」の一文字にぜんぶ入っていた。


入っているものを、私はありがたく受け取った。


私はもう一度、海のほうを向いた。


向いて、しばらく海を見ていた。


波が、寄せて、返していた。


波の向こう側に、私の知らない場所がまだたくさんあった。それでも、今日、ひとつ、知らない場所が私のなかに入ってきた。入ってきた場所を、私はこれからずっと覚えていくことになる。


覚えていくことを、私はその日、自分に許した。


許すというのが、その日も変な言葉だった。それでも、許すしかふさわしくなかった。


海を自分のなかに置いていくことを、私は許した。



帰りの車のなかで、私はすこしだけ眠った。


眠ったのは、海からたくさんのものを受け取ったあとで、私の体がいったん休もうとしたからだった。


助手席でシートに頭をもたれかけて、私は目を閉じた。


潮の匂いが車のなかにまだ残っていた。私の髪に砂がついていた。砂は払わないままで、私はそのまま眠った。


眠っているあいだ、私の耳のなかには波の音がまだ残っていた。


寄せて、返して。


寄せて、返して。


その音のなかで、私はぼんやりと、ひとつのことを思っていた。


いつか、私たちにもうひとり、家族が増えたら。


その「もうひとり」を、私はその日、海に連れてきたかった。


連れてくるのは、すこし先のことだった。先のことだったけれど、その「先」が、私のなかでその日、ぼんやりと輪郭を持ち始めていた。


輪郭を持ち始めたものを、私はその日、まだ彼には言わなかった。


言わないままで、私は車のなかで眠った。


眠っているあいだ、車はゆっくり走っていた。彼が運転してくれていた。たまに彼が私のほうを見ていたことを、私は眠りながらすこしだけわかっていた。


わかっていることを、私は目を覚まさずにそのまま抱えていた。



沖縄から帰ってきて、私たちは引っ越しの準備を始めた。


少し広い部屋に移ることにしていた。同棲を始めたあのアパートよりも、もうひとつ部屋数が多い場所だった。新しい部屋は、駅から少しだけ離れたところにある、七階建てのマンションの五階だった。風呂とトイレが別だった。窓は南向きで、午前中の陽がよく入った。


不動産屋を回っていくつかの部屋を見て、決めたのは、私がその南向きの窓をいちばん気に入ったからだった。


南向きの窓は、私のなかで新しい色を持っていた。


ホームのときも、ひとり暮らしのアパートのときも、同棲を始めた最初のアパートのときも、私の部屋に朝のやわらかい光が入ってくることはなかった。ひとり暮らしの部屋は西日ばかりで、夏の夕方には温度が三十五度を超えた。同棲を始めたアパートは、窓を開けても隣のアパートの壁が見えるだけだった。朝の光がまっすぐ入ってくる部屋で、私はこれまで暮らしたことがなかった。


朝の光が入らない部屋に、不満はなかった。それでも、不満はないことと心地よいことはちがった。


南向きの窓のある部屋に立った瞬間、私の体は、私の頭よりも先にその心地よさを知っていた。ここがいい、と私の体が言った。


「ここ、いいかも」と私は彼に言った。


彼はすぐに「うん」と答えた。


彼は、私が「ここがいい」と言うのを待っていてくれた。新しい家を私が選ぶことが大事だ、と彼は思っていた。私が、いつもいろいろなものを誰かに譲ってきた人だということを、彼は知ってくれていた。新しい家くらいは、譲らずに私が選んだ場所に住みたい。彼はそう考えてくれていた。


考えてくれていることを、私は彼に言わなかった。


言うと、彼はそれを意識して、次からわざわざ「奈々未さんが選んで」と言ってくれた。意識せずに自然に待っていてくれているほうが、私にはありがたかった。


五階の部屋は、内見の日、空っぽだった。


何も置かれていない、空の部屋の真ん中に、私と彼は立っていた。


部屋の中央から、南向きの窓を見た。窓の外には、向かいのマンションの屋上が見えた。屋上の向こうに、少しだけ空が見えた。下に道路が通っていた。道路をふつうの人たちがふつうに歩いていた。


五階からふつうの人たちを見下ろすのが、私にはすこしだけ新しい感覚だった。


これまで、私の部屋はいつも低い場所にあった。一階か二階だった。低い場所から世界を見るのに、私は慣れていた。五階から見る世界は、私のいつもの世界より少しだけ遠かった。


遠い世界を、私はしばらく見ていた。


「いい眺めですね」


私は彼に言った。


「うん。エレベーターもあるし」


「エレベーター」


「重い荷物を運ぶの、楽だから」


「そうですね」


エレベーターがある建物に住むのも、私には初めてだった。


何もかも初めてだった。エレベーターも、五階という高さも、南向きの窓も、二部屋ある間取りも、ぜんぶ私の人生では初めてだった。


初めてがこんなにいっぺんに来ていいのか、と私はその日、空の部屋の真ん中でぼんやり思った。


ぼんやり思っただけだった。それでも、その思いは私のなかですこしだけ止まっていた。


止まっていたのは、私がこれだけの「初めて」を自分のなかでちゃんと受け取れるかどうか、自分でもまだよくわからなかったからだった。


たくさんの「初めて」をいっぺんに受け取った人は、その分、たくさんの「失う」をいつか抱える。そういう、ぼんやりした怖さを、私はその日、空の部屋の中ですこしだけ感じていた。


それでも、その怖さはすぐに消えた。


消えたのは、隣に彼が立っていてくれたからだった。


彼が隣にいてくれるというのが、いまの私にはいちばん大きな安心だった。彼さえいてくれれば、たくさんの「初めて」もちゃんと受け取れる気がした。


その日のうちに、私たちはその部屋を契約した。



引っ越しは、三月の終わりにした。


二人でまた、それぞれの荷物を新しい部屋に運び込んだ。


エレベーターがあったから、引っ越しは前のときよりもずっと楽だった。重い段ボールを五階まで階段で運ぶ必要がなかった。エレベーターに乗ると、私たちの段ボールはふつうの速さで五階まで上がってくれた。


エレベーターを使うたびに、私のなかですこしだけありがたい気持ちが湧いた。便利ということがこんなにも人を楽にするということを、私は引っ越しの日に初めてちゃんと知った。


新しい部屋に荷物をぜんぶ運び終わったあとに、私たちは空いたダンボールを玄関にまとめた。まとめてから、リビングの床に二人で座った。


ソファは、まだ買っていなかった。


床のうえに座ったまま、私たちは南向きの窓から入ってくる、三月の終わりの夕方の光を見ていた。


光は部屋のなかにまっすぐ差し込んでいた。


その光のなかに、私たちがぽつりといた。


「広いね」


彼が言った。


「広いです」


私は答えた。


広いということが、私のなかではすこしだけこわかった。広いと私の声がよく響いた。ふつうの家のなかでは、それでちょうどよい広さだった。それでも、自分の声が自分のいる部屋のなかで響くのは、私にはすこしだけ慣れない感覚だった。


「ただいま」とここで言ったら、私の声はいつもよりすこしだけ遠くまで届く。


遠くまで届いた「ただいま」を、彼が奥の部屋から受け取ってくれる。


そういう距離が、ここの家にはある。


距離があることが、私のいまの暮らしの新しい形だった。新しい形を、私はすこしずつ慣れていくつもりだった。


夜、私たちは新しい部屋で初めて眠った。


布団を二つ並べた。


新しい部屋の天井は、前の家の天井よりもすこしだけ高かった。高い天井を布団のなかから見上げていると、私の体がすこしだけ小さくなった気がした。


小さくなった気がするのは、悪い感覚ではなかった。新しい部屋に私の体がまだなじんでいないということだった。なじんでいけば、天井の高さも私の体にふつうになっていく。


なじむまでにどのくらい時間がかかるかは、わからなかった。


それでも、なじむというのが私のいちばんの得意だった。


彼の寝息が隣で聞こえた。


彼の寝息は、新しい部屋でもいつもと同じ音だった。部屋が変わっても、彼の寝息だけは変わらないというのが、その夜、私にはいちばんありがたかった。


その夜、私はすこしだけ長く眠れなかった。


眠れなかったのは、新しい部屋の音がまだわからなかったからだった。前の家では、夜中にどこからどんな音が聞こえるかが、もうぜんぶわかっていた。冷蔵庫のモーター音はこっちから。隣の部屋の人の足音はこっちから。窓の外の車の音はこっちから。


新しい部屋では、まだ音の場所がわからなかった。


わからない音は、たまに私をすこしだけ緊張させた。


緊張しながら、私は隣の彼の寝息を聞いていた。


彼の寝息のうえで、私は自分の呼吸を合わせてみた。


合わせていくうちに、私はいつのまにか眠った。



四月になって、私はNPOに入社した。


入社式の朝、私は自分で買った紺のスーツを着ていった。白いブラウスのいちばん上のボタンは留まっていた。


社会人の女性は、いちばん上のボタンを留めないことが多かった。同期の女性たちは、ほとんど上のボタンを開けていた。それでも、私は留めた。


留めたまま、私は入社式の朝の、新しい人たちのなかに入っていった。


「吉野です。よろしくお願いします」


私は、自分の名前を、初対面の人たちの前ではっきりと言った。


「吉野」


その名前を、これからしばらく、私はNPOで使っていく。彼との家に帰れば、私はいつも通り「奈々未」と呼ばれる。それでも、社会のなかで私の名前は「吉野さん」だった。「吉野さん」のままで、私は社会人として立っていく。


「吉野さん」と呼ばれるたびに、私は自分のなかでその名前をもう一度確かめた。


確かめるのは私のいつもの癖だった。確かめないと、自分の名前が本当に自分のものかどうか不安になることが、ときどきあった。確かめれば、その名前は私のものに戻った。


その日のうちに、私はたくさんの人と初対面の挨拶をした。たくさんの人の名前を、私は初日のうちに覚えた。


覚えていくのが私の得意だった。覚えた名前は、私のなかにちゃんと置かれていった。


家に帰って、五階の部屋のドアを開けた。


「ただいま」


私は声に出した。


「おかえり」


彼の声が奥から聞こえた。


その日の「おかえり」は、いつもの「おかえり」より、ほんの少しだけやわらかかった。


彼は、その日が私の入社式の日だということを覚えていてくれた。覚えていてくれたうえで、彼の声はいつもよりもすこしだけやわらかく、私を迎えてくれた。


「お疲れさま」と彼は続けた。


「ありがとうございます」と私は答えた。


「ありがとうございます」が、その場面ではふつうの答えではなかった。それでも、それが私の口から自然と出てきた言葉だった。


新しい部屋で、私たちの新しい暮らしが始まった。

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