影章 奈々未 010
宝くじを買おうと言い出したのは、私だった。
大学三年生の冬。就職活動が一段落した頃だった。私のNPOの内定も彼の製薬会社の内定も、もう出ていた。卒業論文の締め切りまでは、まだ少し間があった。十二月の半ば。空気は冷たかったけれど、気持ちは少しだけ軽かった。
そういう時期、ということが私にもわかるようになっていた。
「気持ちが軽い」という季節を、私は長いあいだもたずに生きてきた。ホームを出てから、私の生活はいつも、次の月をどう乗り切るかでぎりぎりだった。アルバイトの時間と、学費と、家賃と、食費。それらの計算のなかで、気持ちが軽くなる場所は私にはほとんどなかった。
大学三年生の冬はちがった。
進路が決まっていた。これからの生活の見通しも、彼との生活のなかでおおまかにできていた。ふくらみつつあったあのもうひとつのことを、ぼんやりと考える余裕も、私のなかですこしずつできていた。
その日、私たちは近所のスーパーに買い物に行った。
日曜の夕方だった。商店街を抜けて駅に向かう途中で、私たちは宝くじ売り場の前を通った。売り場は小さなボックス型の小屋だった。窓口に一人の女性が座っていた。年末ジャンボの看板が出ていた。赤い文字で「一等前後賞合わせて七億円」と書いてあった。
彼は通り過ぎようとした。
私は立ち止まった。
止まったのは、私のなかにあった「もうひとつ」が、その瞬間すこしだけ声を出したからだった。「もうひとつ」を実現するには、お金がいるはずだった。お金は私たちの暮らしのなかにはたくさんなかった。お金がたくさんあれば、と私はその日ふと思った。
ふと思ったことを、私はすぐに口に出した。
「買ってみようか」
私は、買い物袋を両手に下げたまま、売り場のガラス越しに中を覗いた。
そう言った自分の声が、いつもの私の声よりもほんの少しだけ軽かった。軽かったのは、その時期の私の気持ちの軽さが声に混ざっていたからだった。
「当たらないよ」
彼は答えた。
「当たらなくてもいいじゃない。夢を買うんだから」
私はそう続けた。
「夢を買う」という言葉が、自分の口から自然と出てきた。
出てきたあと、私は自分でも少し驚いた。夢という言葉を、私は長いあいだ自分から使うことができなかった。ホームを出てから、私の生活には夢と呼べる場所がほとんどなかった。日々を生きるだけでぎりぎりだった。夢を持つことが悪いことだとは思わなかった。ただ、持つ余裕が私にはなかった。
それなのにその日、私は「夢を買う」と自分から言った。
言ったときの私の声は、ふだんの私の声とは少しだけちがっていた。「夢」が口から出てきたのは、私のなかの何かが変わってきている証拠だった。
「三百円で夢が買えるなら安いでしょ」
私は続けた。
そう言って、私は売り場の窓口に歩いていった。買い物袋を片手に持ち替えて、財布を出した。宝くじを自分から買うのは、私の人生で初めての経験だった。
窓口で券を受け取った。
券は思っていたよりも小さく、軽かった。三百円分の重さというのが、たぶんそのくらいだった。
「凪も買いなよ」
私は振り返って彼に言った。
「凪」と呼ぶのは、同棲を始めてから、私のなかですこしずつ馴染んでいた呼び方だった。
それ以前は「高原さん」だった。同棲を始めてから、の最初の半年は「凪くん」だった。「凪」になったのがいつだったかは、正確には覚えていない。気がついたら、私の口から自然と「凪」が出てくるようになっていた。
最初に「凪」と呼んだ日のことは覚えていない。それでも、最初に「凪」と呼ばれたときの彼の顔は、ふだんの彼の顔とはほんの少しだけちがった。「凪」と呼んだあとに、彼が私をちょっとだけまっすぐ見たことを、私は覚えている。
彼は、宝くじ売り場の窓口まで歩いてきてくれた。
彼も三百円を出した。
二人で一枚ずつ買った。
六百円の、夢。
買った券を、私たちは財布にしまわなかった。財布にしまうと忘れる気がした。家に帰ってから、私は台所の引き出しに二枚の券をしまった。輪ゴムや、調味料の予備や、まだ使っていない割り箸が入っている、雑多な引き出しだった。
そこに、宝くじの券が二枚、重なって入った。
入れたあと、私は引き出しを閉めた。
閉めてから、私はしばらくその引き出しの前に立っていた。
立っていたのは、私の中にもう「もうひとつ」を考えている自分がいたからだった。もし当たったらということを、私はぼんやり考えていた。当たれば「もうひとつ」を少しだけ早く考えられた。当たらなくても、私はそれをすこしずつ考えていくつもりだった。
それでも、「もし当たったら」を、私は引き出しの前ですこしだけ想像した。
想像したことを、私は彼に話さなかった。話す前に、もう少しだけ自分のなかで温めていたかった。
その夜、私たちはいつも通り、ご飯を食べて、お風呂に入って、布団に入って眠った。
宝くじのことを、私はその夜からすぐに忘れた。
忘れたというよりも、宝くじのことを私のなかからすこしだけ遠くに置いた、というほうが正しいかもしれない。当たるかどうかは私が考えても変えられないことだった。変えられないことを、私はいつも遠くに置く癖があった。
遠くに置かれた宝くじの券は、台所の引き出しのなかで年が明けるのを待っていた。
年が明けた。
社会人になる準備が、すこしずつ進んでいた。私は、NPOから「四月一日の入社式に来てください」という連絡をもらった。彼も製薬会社から、同じような連絡を受けていた。卒業式はまだ少し先だった。
一月のある日曜の朝、私はコーヒーを飲みながら、スマートフォンでニュースを見ていた。
ニュースのなかに、宝くじの当選番号が出ていた。
「あ」
私は思い出した。
「凪、確認した?」
私は彼に聞いた。
彼はトーストを食べていた。
「何が」
「宝くじ。今日が発表日」
「ああ。忘れてた」
「引き出しに入れたでしょ」
彼は台所に立っていった。
引き出しの音が聞こえた。彼が引き出しを開けて、宝くじの券を探していた。輪ゴムの束の下から券が出てきた。
彼はテーブルに戻ってきた。手のなかに二枚の券があった。少しよれていた。引き出しの中でほかのものに紛れて、角が折れかけていた。隣にあったスーパーのレシートのインクが、券の端に少しだけ移っていた。
「これ、ですよね」
「うん」
「奈々未さん、確認して」
彼は私に券を渡した。
私は、自分の一枚を、まず確認した。
下二桁、ちがった。下三桁、ちがった。
私の券ははずれだった。
「私のは、はずれです」
「そっか」
「凪の、見てください」
彼は、自分の券をテーブルのうえに置いた。
スマートフォンの画面と手元の券を見比べながら、彼は番号を一つずつ追っていった。
下から確認していくのが彼の癖だった。下二桁から合っていくというのが、宝くじの確率の順番だった。下から確認していけば、はずれの券は早くはずれだとわかる。
下二桁、合っている。
そう彼がつぶやいた。
下三桁、合っている。
そう彼がつぶやいた。
下四桁、合っている。
声がすこしだけ止まった。
下五桁、合っている。
「奈々未さん」
彼は私を呼んだ。
「はい」
「全部、合ってる」
私は、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「全部」
「うん」
私たちは、しばらく、何も言わなかった。
何も言わなかったのは、その瞬間の自分たちの状況を、私たちの頭がすぐには信じきれなかったからだった。
「もう一度、見ていいですか」
私は聞いた。
私は彼から券を取った。
自分でも確認した。一度、二度、三度。番号を声に出さずに、私は唇のなかで読み上げた。番号はぜんぶ合っていた。
私の顔は、彼の顔のすぐ近くにあった。
私の息が彼にかかるくらい近かった。
私は顔を上げた。
彼を見た。
「どうしよう」
私は言った。
「どうしようって言われても」
「二千万よ」
「知ってる」
私たちは、テーブルを挟んで向かい合ったまま、しばらく何も言えなかった。
台所の蛇口から、水が一滴落ちる音がした。
冷蔵庫のモーター音が、低く唸っていた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
日曜の朝の、いつもの音だった。
その、いつもの音の中に、二千万という数字が落ちてきた。
落ちてきた数字を、私たちはすぐには扱いきれなかった。
扱いきれない数字を、私はその朝しばらく、テーブルのうえに置いたままにしておいた。
「夢を買うんだから」と、私は十二月の夕方に言った。
その夢が当たった。
夢が当たるというのが、私の人生で起きるとは思っていなかった。
ホームを出てから、私の人生には当たりというものがほとんど来なかった。それが私のふつうだった。私のふつうの中に、その日、当たりがひとつ落ちてきた。
落ちてきた当たりを、私はその朝、自分のなかですこしずつ慎重に扱うことにした。
当たりは、軽く扱うものではなかった。
そして、私のなかで、ぼんやりとふくらみつつあったものが、その朝からすこしずつ明確な輪郭を持ち始めた。
二千万円があれば、その「もうひとつ」のことができる、と私は思った。
「もうひとつ」のことが何かは、まだ彼には言わなかった。
言わなかったのは、私のなかでそれがまだ、私だけのものだったからだった。
いずれ、彼にもわかる。
彼にもわかる日が、思っているよりもすこしだけ早く来るかもしれない、と私はその朝ぼんやり思った。
受け取った二千万円を、私たちはその日のうちに二人で話し合った。
私はメモ帳を出した。
ふだん私が使っている、表紙の少し擦れた小さなメモ帳だった。シャープペンシルを構えて、私は最初の行に「二千万」と書いた。それから、その下に線を引いて「使い道」と書いた。
「もう少し浮かれてもいいのに」
彼が言った。
「充分浮かれてる」
私は答えた。
そう答えながら、私は自分の浮かれ方が、彼のいう「浮かれ方」とはちがうことを知っていた。
私の浮かれ方は、感情を文字にして管理することだった。文字にしないと、感情は私のなかでどこに行くかわからなかった。どこに行くかわからない感情を、私はあまり好きではなかった。文字にすれば、感情はメモ帳のうえに置かれた。置かれた感情は、私の手の届くところにいてくれた。
それが私の浮かれ方だった。
彼は、メモ帳を覗き込みながら、小さく笑った。
話し合いは二時間くらいかかった。
コーヒーをおかわりして、トーストをもう一枚焼いて。メモ帳のページが三枚埋まった。
結論はこうだった。
半分の一千万は、将来のために、手堅く、定期預金にする。
残りの一千万のうち、三百万で、すこし広い部屋に、引っ越す(敷金・礼金・引っ越し費用・家具)。
二百万は、旅行と、二人の生活費の足しに。
残りの五百万は、当面、手をつけずに、普通口座に、入れておく。
書き終わったメモ帳を、私はしばらく見ていた。
数字を書き出してみると、二千万円は思っていたよりもたくさんのことができる金額だった。同時に、思っていたよりもなくなりやすい金額でもあった。手堅く慎重に扱えば、私たちのこれからをちゃんと支えてくれる金額、というのが私のなかでの二千万円の輪郭だった。
「旅行、どこがいい」
彼が聞いた。
「海」
私は即答した。
迷いがなかった。
メモ帳のペンが止まった。
顔を上げると、彼が私を見ていた。
「どこの海?」
「どこでもいい。海が見えれば」
私は答えた。
答えてから、私は自分がなぜ即答したのかを、自分でもすこし不思議に思った。
考えて答えたわけではなかった。「旅行、どこがいい」と聞かれた瞬間に、私の口から自然と「海」が出た。頭の上のほうではなくて、もっと下の、お腹のあたりから出てきた答えだった。
海。
私は、ホームを出てから、海を見たことがなかった。
ホームにいた頃も、見たことがなかった。修学旅行で海のある場所に行ったことがあったかもしれない。それでも、私の記憶のなかに海は残っていなかった。海の匂いも、波の音も、砂の感触も、私は知らなかった。
テレビのなかで海を見たことは、何度かあった。
テレビの海は、画面のなかで青く光っていた。波の音はテレビのスピーカーから、すこし雑音まじりに聞こえた。砂浜のうえを、知らない子どもたちが走っていた。それは私の知らない場所だった。
知らない場所のひとつとして、海は私のなかにずっと置かれていた。
その「知らない場所」を、私はその日ふいに口に出した。
「どこでもいい」と私は言った。
「どこでもいい」と言ったのは本当だった。海であればどこでもよかった。場所はどこでもよくて、海であることだけが、私にとって揺るがないことだった。
彼は何も聞かなかった。
聞かないでくれたというのが、その日の彼のいつもの判断だった。私がなぜ海と即答したのかを、彼はその場では聞かないでおいた。聞かれていたら、私は「テレビでしか見たことがないから」とふつうに答えた。それでも、聞かれないというのが、その日の私にはいちばんありがたかった。
その翌週、彼は沖縄行きの航空券を予約してくれた。
「沖縄?」
私は彼に聞いた。
「うん」
「なんで沖縄なんですか」
「二月で、海に入れる気がするから」
彼はそう答えた。
二月の沖縄がオフシーズンで安かったことも、理由のひとつだった。それでも、彼が最初に言った理由は「海に入れる気がするから」だった。
「海に入れる」というのが彼の選んだ理由だったことが、私のなかでたしかな形を持った。
彼は、私が海をただ見るだけではなくて、足の裏で感じたいと思っているかもしれないことを、わかってくれていた。
わかってくれていたことを、私は彼に言わなかった。
言うと、彼はそれを意識して、次から私の気持ちにわざわざ合わせようとしてくれた。意識せずに自然に合わせてくれているほうが、私にはありがたかった。




