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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
影章 奈々未
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影章 奈々未 009

新しいアパートでの生活は、予想していたよりもゆっくりと馴染んでいった。


引っ越しの当日、彼と二人でそれぞれの荷物を新しい部屋に運び込んだ。私の荷物はダンボール七箱、彼の荷物はダンボール十二箱だった。私の七箱と彼の十二箱が空の部屋に並べて置かれた朝、私はその十九箱をしばらく玄関から眺めていた。


十九箱は、私たちのこれまでの全部だった。


これまでの全部が十九箱に収まる量だった、ということが、私には少し不思議だった。私の人生のすべてが七箱に収まる。彼の人生のすべてが十二箱に収まる。二人ぶんで十九箱。並べてみるとそれほど多くもなかった。


それでも、その十九箱のなかに、これから二人で作っていく場所の最初の材料が入っていた。


彼が「どっちのを先に開ける?」と聞いた。


「お皿、先に出します」と私は答えた。


お皿をいちばん先に出した。私が施設のときから使っている、少し欠けたお皿が二枚。彼が一人暮らしのときに使っていた、白い丸い皿が四枚。並べてみると、彼のお皿のほうが私のお皿よりもずっとちゃんとしていた。


「奈々未さんのお皿、欠けてるね」


「これ、長くて」


「捨てなくていいの?」


「捨てないです」


私はそう答えた。


欠けたお皿を捨てない理由を、私は彼に説明しなかった。説明しなくても彼はわかってくれた。施設からもらってきた、私のいちばん古いお皿。それを捨てることが、私にはできなかった。捨ててしまうと、私の十四年間のホームでの時間が一緒に捨てられる気がした。


捨てられないというのは、私のなかではふつうのことだった。


彼の白いお皿の隣に、私の欠けたお皿を並べてしまった。


しまったあと、私はそれをしばらく見ていた。並んでいる二種類のお皿が、私たちのこれからの食卓の最初の形だった、といまになって思う。新しくて欠けていないお皿と、古くて欠けているお皿が、同じ棚のなかにふつうに並んでいた。それが私たちの新しい家の、いちばん最初の景色だった。


その日、私たちはお昼ごはんにコンビニのおにぎりを食べた。


お米を炊く道具をどっちが持ってきたか忘れていた。私のダンボールにも彼のダンボールにも炊飯器がなかった。二人とも相手が持ってくると思っていた。お互いに笑った。「明日、買いに行こうか」と彼が言った。「はい」と私は答えた。


明日買いに行くというのが、それまでの私のなかにはなかった新しい時制だった。


明日、一緒に、買いに行く。


その時制のなかに、これから毎日、彼がいた。


夜、私たちは新しい部屋で初めて眠った。


布団を二つ並べた。彼の布団と私の布団が隣り合っていた。彼が泊まりに来てくれた二月の終わりの夜には、彼は寝袋で寝てくれた。新しい家では寝袋ではなく布団だった。布団を二つ並べるというのが、寝袋とはずいぶんちがう感覚だった。


寝袋は彼の一時的なものだった。布団は彼の、長くつづくものだった。


布団のなかで、私はなかなか眠れなかった。


眠れなかったのは、八月の二十八日の夜と似ているようでちがった。誕生日の夜はその日の出来事の余韻のなかで眠れなかった。新しい家の最初の夜は、これからの日々の予感のなかで眠れなかった。


予感というのはぼんやりしたものだった。それでも、ぼんやりしているものほど私のなかでは長く起きていた。


隣の布団で、彼の寝息が聞こえた。


二月の終わりの夜に聞いた寝息と同じ音だった。私の耳には同じだった。一度しか聞いたことのない音が、もう聞き慣れた音になっていた。


私は、隣の彼の寝息のうえで、自分の呼吸を合わせてみた。


合わせることができる気がした。彼の吸う息と私の吸う息がたまにぴったりと重なった。重なるたびに、私のなかで何かが整っていく気がした。何が整っているのかはわからなかった。それでも、整っていることはわかった。


整っているうちに、私はいつのまにか眠った。


朝、目が覚めると、まだ彼は寝ていた。


私は、布団のなかから、彼の寝顔をしばらく見ていた。


彼の寝顔を見るのは初めてだった。二月の終わりの夜、彼は寝袋のなかで私のほうを向かずに寝ていた。新しい家では、彼は私のほうを向いて寝ていた。


向いているというのが、私には大きなことだった。


寝顔は起きているときの彼の顔より、少しだけ幼かった。幼いというのは年齢のことではなくて、力が抜けているという意味だった。起きているときの彼は、ふだんでもほんの少しだけ力が入っていた。寝顔の彼は、その力が全部抜けていた。


力が抜けた彼の顔を、私はしばらく見ていた。


見ているうちに、私のなかでひとつ決めたことがあった。


私は、この人の寝顔を、これからずっと見ていく。


決めたというよりも、自然とそうなるということが私のなかでわかった。わかったというのが、その朝の私が自分に許した、もうひとつのことだった。


許したことを、私は布団のなかで彼に告げなかった。告げる必要がなかった。


許したことは私のなかにあるだけで、彼の寝顔はふだん通り寝ているだけだった。寝ているだけの彼に、私はそっと、心の中で「おはよう」と言ってみた。


彼はまだ寝ていた。


返事はまだなかった。


それでも、私のなかで、その朝の「おはよう」は彼に向けてたしかに届いた気がした。



同棲を始めてから、私たちは毎日「ただいま」を言い合うようになった。


「ただいま」と、私が玄関で言う。


「おかえり」と、彼が奥から答えてくれる。


それが私たちの、いちばん最初の、毎日の約束だった。


最初のうち、私は「ただいま」を言うことにまだ慣れなかった。慣れなかったのは、長いあいだ、私が「ただいま」を言わない人だったからだった。言わない人が急に毎日「ただいま」を言うようになるのは、私のなかで少しずつしか馴染まなかった。


彼は、私の「ただいま」を、毎日ちゃんと受け取ってくれた。


「おかえり」の声は毎日少しずつちがった。疲れている日はちょっとだけ低く、元気な日は少しだけ高かった。彼は私の「ただいま」の調子に合わせて、「おかえり」の調子を変えてくれていた。変えてくれていることが、私には毎日わかった。


わかっていることを、私は彼に伝えなかった。伝えると彼はそれを意識して、変えなくなった気がした。意識せずに自然に変わってくれているほうが、私にはありがたかった。


「ただいま」「おかえり」のたびに、私はホームの林先生のことを、すこしだけ思い出していた。


林先生に私が「ただいま」を言える日のことを、私はずっと前から待っていた気がしていた。待っていた相手は彼でも林先生でもお母さんでもよかった。私が待っていたのは人ではなくて、「ただいま」を返してくれる人がいる、という状態だった。


その状態のなかに、私はようやく入っていた。


入ったあと、私はその状態に少しずつ慣れていった。慣れるというのが、私のいちばんの得意だった。慣れたあとには、その状態が私のふつうになった。


ふつうになっていくということが、私にはすこしだけこわかった。


こわかったのは、ふつうになったものはいつかなくなる、ということを私が知っていたからだった。母も父もホームの先生たちも、ふつうだったときになくなった。なくなったときに、ふつうだったものは急に特別になった。


彼の「おかえり」が私のふつうになっていくにつれて、私はその「おかえり」をたまにこわく感じることがあった。


こわく感じることを彼に話さなかった。話したら彼は私に「ずっといるから大丈夫だよ」と言ってくれた気がした。言ってもらっても、私のなかでこわさが消える保証はなかった。こわさを抱えたまま生きていくのも、私の人生の形のひとつだった。


抱えたまま、それでも、私は毎日「ただいま」を彼に言った。


彼も、毎日「おかえり」を私に返してくれた。



大学三年生の冬になった。


私たちの同棲生活は、もう一年と少しが経っていた。一年半というのは、私にとってはいままででいちばん長い「同じ人と毎日一緒にいる」期間だった。ホームの大部屋でも子どもたちは出たり入ったりした。学校の友達はたいてい卒業のときに離れていった。一年半、毎日、同じ人と帰ってくるというのが、私のなかで初めての経験だった。


経験してみると、私はその期間に、思っていたよりもずっとなじんでいた。


なじんでいたのは、私が予想していたよりも、私と彼のあいだに衝突が少なかったからだった。衝突がないのがふつうの恋人や夫婦の関係ではない、ということは本で読んで知っていた。それでも、私と彼のあいだには、ふつうの本に書いてあるような衝突がほとんどなかった。


なかったのは、彼が私にぶつかってこなかったからだった。


彼は、私にぶつかるということをしなかった。何かが気に入らないとき、彼は黙った。何かをしてほしいとき、彼はそっと言った。何かをやめてほしいとき、彼はもっとそっと言った。彼の意思の伝え方は、いつも私にちょうどよい強さだった。


私のほうも彼にぶつからなかった。


ぶつかるというやり方を、私は知らなかった。ホームでは、ぶつかると誰かに迷惑がかかった。ぶつからずに、自分をすこしずつ引いてまわりに合わせる。それが私のいちばんの得意だった。


それでも、彼に対しては、ぶつからずに合わせるということとは、少し違うやり方が私のなかでできあがっていた。


彼に対しては、私は合わせなくても、私のままでいられた。


私のままでいられるというのが、私と彼のあいだに衝突がないいちばんの理由だった。彼に合わせる必要がなかった。彼も、私に合わせる必要がなさそうだった。お互いに、お互いを変えようとしないでいた。


変えようとしないでいるというのは、おたがいに、おたがいを十分に好きだから、できることだった。


「好き」という言葉を、私は彼にまだちゃんと言ったことがなかった。


彼も私にまだ言っていなかった。


「付き合ってください」と彼が言って、私が「はい」と答えてから、一年と九ヶ月が経っていた。そのあいだに私たちは、「好き」と言わずに毎日「ただいま」と「おかえり」を言っていた。


「好き」という言葉が、私たちには必要なかった。


「ただいま」と「おかえり」の中に、その言葉はすでに入っていた。



十二月の終わりだった。


その夜、私たちはリビングのソファに座ってコーヒーを飲んでいた。私は、コーヒーに砂糖をひとつ入れていた。彼は砂糖を入れていなかった。彼は、「珈琲 まるせ」で告白してくれた日から、砂糖を入れずにコーヒーを飲むようになっていた。理由を、私は彼に聞かなかった。


外は寒かった。窓のガラスに私たちの部屋の明かりが薄く映っていた。映っているなかに、ソファに座っている私と彼が二つ並んでいた。並んでいる二つを、私はぼんやり見ていた。


「奈々未さん」


彼が言った。


「はい」


「来年、卒業だね」


「はい」


「卒業したら、NPOに行くんだよね」


「はい」


「俺は、別の製薬会社に入る」


私たちは、そのことを、もう何度か話していた。話していたから、その夜の彼の言葉は何かを確認するための言葉だった。確認しないと、お互いの予定がちゃんと前に進んでいることを、自分のなかで整理できなかったのかもしれない。


彼がしばらく黙った。


黙っている彼を、私は待った。彼が何かを言いたいときに黙る癖を、私はもう知っていた。黙ったあとに、彼は必ずちゃんと言葉を見つけて口に出してくれる。だから、私は急がせずに待った。


「これからも、二人で?」


彼が聞いた。


私は、コーヒーカップを両手で包んだ。


包んだのは、その瞬間の自分の答えを慎重に組み立てるための時間だった。


「これからも、二人で」


私は繰り返した。


繰り返したのは、彼の言葉をもう一度、自分のなかに入れるためだった。入れた瞬間に、私のなかでひとつの答えが立ち上がった。


立ち上がった答えを、私はまだ自分の口から外に出していなかった。


その答えを口に出すまでに、私はもう少しだけ時間が必要だった。それまで考えてこなかったことを、その夜、私は自分の口から外に出そうとしていた。


「あの」


私は言った。


「うん」


「私、ずっと、思ってたことがあるんです」


「うん」


「ホームにいたときから、ずっと」


彼は、私の答えを急がせなかった。コーヒーカップに手をかけたまま、私の顔をふつうに見ていた。ふつうに見ていてくれるというのが、その夜の私にはいちばんちょうどよい温度だった。


私はコーヒーを一口飲んだ。


目を閉じる癖が、その夜も出た。閉じている数秒のあいだ、私はこれから言うことをもう一度、自分のなかで確かめた。


確かめてから、目を開けた。


「自分だけの家族を作りたい、って」


私はそう言った。


「ずっと、思ってたんです」


言ったあと、私の声はいつもの私の声より、少しだけ細かった。細くなったのは、その言葉が、私の人生のいちばん深いところから出てきた言葉だから、だった。深いところから出てくる言葉は、出てくる途中で私の喉をすこしだけ細くした。


「ホームにいた頃から、ずっと、思ってた」


私は続けた。


「ずっと、思ってた」というのは、本当だった。


ホームの大部屋で、夜、布団のなかで、私は何度かその願いを自分のなかで転がしていた。自分だけの家族というのが何かは、当時の私にはよくわからなかった。それでも、自分だけ、というのが何かを示していた。私だけの、と私の口は繰り返した。私だけの、ふつうの、まだ来ていない、未来の、家族。


その願いはずっと私のなかにあった。


それを私はその夜、彼に初めて伝えた。


伝えたあと、私の中で何かがほんの少しだけ軽くなった。


軽くなったのは、長いあいだ自分の中に持っていたものを、ようやく誰かに見せられたからだった。誰にも見せないでいた願いは、私の中ですこしずつ重くなっていた。重くなっていたものを、私は彼の前に静かに置いた。


置かれた願いを、彼はしばらくただ見ていた。


しばらく見たあとに、彼はコーヒーカップを置いた。


そして、私の左手を自分の右手で包んだ。


包むという動作は、私の母から、林先生から、佐和子お母さんから、私が受け取ってきた動作だった。両手で片手を包む。包まれた手は、包んでくれた人の温度をゆっくり自分のなかに入れた。


その夜、彼の右手が私の左手を包んだ。


包まれた私の左手は、彼の体温でゆっくり温まった。


「叶うよ」


彼はそう言った。


それだけが答えだった。


ほかに付け加える言葉は、彼にも私にもいらなかった。


私は、自分の目が、少しだけ熱くなるのを感じた。


熱くなったのを彼に見られないために、私はすこしだけ視線を落とした。


視線を落とした先には、彼の手に包まれた私の左手があった。


包まれた左手のなかで、私の薬指の付け根はいつもなぞる場所だった。いま、その場所は彼の手に包まれていた。包まれていることが、私にはいままでにない新しい感覚だった。薬指の付け根を誰かに覆ってもらうのが、はじめての経験だった。


その経験のなかで、私の薬指はふだんとちがう状態にあった。


「叶うよ」と、彼はもう一度言ってくれた。


「叶うよ」を、彼は繰り返してくれた。


繰り返してくれたことが、私のなかでたしかな形を持った。


「ありがとうございます」


私はそう答えた。


「ありがとうございます」が、その場面でもふつうの答えではなかった。それでも、それが私の口から自然と出てきた言葉だった。


彼は、私の手を、しばらく包んだままでいた。


その夜、私たちはそれ以上、特別な話はしなかった。


彼の手が私の左手を放したあと、私たちはまたいつものコーヒーを飲んだ。窓の外の冷たい空気が、ガラスの向こうで夜を作っていた。窓のなかに映っている私と彼は、さっきとほとんど同じ姿勢でソファに座っていた。


ほとんど同じだった。それでも、ちょっとだけちがった。


ちがっていたのは、私のなかでその夜、ひとつ何かが決まったからだった。


決まったものが何かは、その夜の私にはまだはっきりとした輪郭を持っていなかった。それでも、決まったということだけはわかった。


決まったものは、これからゆっくりと形を持ちはじめる。


私は、その夜、それ以上考えなかった。考えると、私はそれを大きくしすぎた。大きくしすぎる前に、私はコーヒーの最後の一口を飲んだ。


最後の一口は、底に沈んだ砂糖が少しだけ溶け残っていた。


いつものコーヒーの、いつもの最後の一口。


それでも、その日の最後の一口は、いつもとは少しだけちがう「ひとつ」が入っていた。


「ちがう『ひとつ』」を、私はその夜ももらった気がした。


もらった「ひとつ」が何かは、まだわからなかった。それでも、もらったという感覚だけが、私のなかにはっきりとあった。



その夜の彼の手の温度を、私は布団に入ったあともしばらく思い出していた。


布団のなかで、私は自分の左手をもう片方の手で包んでみた。


自分の手で自分の手を包むのは、誰かに包まれた感覚とはちがった。それでも、形だけは似ていた。形を似せてみると、その夜の彼の手の温度の記憶が、少しだけ戻ってきた気がした。


戻ってきた温度のなかで、私はふと思った。


「自分だけの家族を作りたい」と私が言ったとき、彼は「叶うよ」と答えた。


「叶うよ」というのは、これから私と彼でそれを叶える、という意味だった。


私と彼で、家族を作る。


「家族」という言葉は、私のなかで長いあいだ空いた席だった。母の出ていった日以来、私はその席に誰かを座らせることを考えてこなかった。考えても座る人がいなかった。座る人を探そうとも思わなかった。


その席に、彼が座ってくれるということだった。


それだけではない、と私は布団のなかで思った。


私と彼で、もう、家族だった。


家族というのは、二人になっただけでもう家族だった。三人になる必要はなかった。三人になればもっと家族だ、というのもちがう気がした。いまの私と彼で、もう十分に家族の形だった。


それでも、私のなかで、その夜、ぼんやりともうひとつの予感が立ち上がっていた。


いつか、私たちにもうひとり、家族が増えるかもしれない。


ぼんやりした予感だった。それでも、その予感は私のなかで消えなかった。


消えないままで、私はその夜眠った。


眠るときに、隣の彼の寝息がすぐそばで聞こえた。


彼の寝息を聞きながら、私は心の中でもう一度、彼に「ありがとうございます」と言った。


返事はなかった。


それでも、その夜の「ありがとうございます」は彼に届いていた。

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