影章 奈々未 005
誕生日当日、私は、いつもよりも早く目が覚めた。
朝の五時だった。
カーテンの向こうは、まだ暗かった。
西向きの窓のあるアパートでは、朝、明るくなるのがふつうの部屋より遅い。それでも五時はまだ早かった。
私は布団のなかで、しばらく天井を見ていた。
天井を見ているのは、ひかりホームのときからの癖だった。
知らない部屋で初めての朝を迎えるたびに、私はまず天井を見た。
ホームを出てアパートで暮らすようになっても、毎朝、私は天井を見る癖が抜けなかった。
天井を見ると、自分がいまどこにいるかを、もう一度確かめられた。
その朝の天井は、いつもの天井だった。
いつもの天井なのに、その日は、いつもの天井とは少しだけ違って見えた。
何が違うのかはわからなかった。
ただ、違うことはわかった。
私は布団から出て、台所に行った。
水を一杯飲んで、それからコーヒーを淹れた。
インスタントだった。「珈琲 まるせ」のコーヒーとはぜんぜんちがう味だった。
それでもコーヒーだった。
砂糖をひとつ入れた。
ぽとん、と音がした。
スプーンでかき混ぜて一口飲んだ。
目を閉じる癖が、その朝も出た。
目を閉じている数秒のあいだ、私はここではない場所を持った。
そのここではない場所には、私と、今日の夕方の彼が、二人だけ並んでいた。
他には何もなかった。
目を開けた。
台所の小さな窓の外が、ほんの少しだけ明るくなり始めていた。
私は、二十八日の朝から夕方までを長く感じることになる、と予感した。
予感は的中した。
朝の七時、私はシャワーを浴びた。
ふだんは夜にしか浴びないシャワーを、その日は朝にも浴びた。
浴びてから、もう一度浴びる必要が夕方になってからあるかもしれない、と思った。
そのことを、私は、まだ決められていなかった。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、それから私は、もう一度布団に入った。
眠りたいわけではなかった。
ただ、することがなかった。
夕方の五時まで、ぜんぶで十時間あった。
十時間というのは、長い時間だった。
布団のなかで、私は目を閉じた。
目を閉じていると、いろいろな考えが頭のなかを通った。
今日、彼は何を着てくるんだろう。
今日、彼は、私の白いブラウスのいちばん上のボタンに気づくだろうか。
今日、私たちは何を話すんだろう。
いつもの「珈琲 まるせ」で話していることと同じことを話すんだろうか。
それとも、誕生日だからちがうことを話すんだろうか。
ちがうことというのが、私には想像できなかった。
ふつうの誕生日に人は何を話すのか、私は知らなかった。
テレビで見たことはあった。
ドラマや映画で、誰かが誰かの誕生日を祝う場面を、私はいくつか見てきていた。
それでも、テレビの誕生日と自分の誕生日が同じものなのかどうか、私にはわからなかった。
たぶん、ちがった。
テレビの誕生日には、いつもお祝いのケーキとろうそくと歓声があった。
私の今日の誕生日には、たぶん、それらのどれもない。
私の今日の誕生日には、彼がいる。
それで十分すぎる、と思った。
布団のなかで、私は、ときどき、左手の薬指の付け根を右の親指でなぞった。
なぞる癖は、私の癖だった。
いつからあった癖か、自分でもよく覚えていなかった。
ひかりホームの図書コーナーで本の背中を撫でていたころには、たぶん、もうあった気がする。
指で何かをなぞる癖は、私の指のなかにずっと住んでいた。
その朝、私は、いつもよりもなぞる回数が多かった。
布団のなかは、本の背中もなく紙の名前もなく、ただ私の左手の薬指の付け根が、なぞる場所としていちばん近かった。
だから、なぞった。
なぞっているあいだ、私の指は、たぶん安心していた。
何度もなぞっているうちに、私は、ふと思った。
ここに、何かが嵌まる気がする。
何が嵌まるのかはわからなかった。
指輪というほどの具体性は、当時の私のなかには、まだなかった。
それでも、何かが嵌まる場所として、私の左手の薬指の付け根はずっと空いていた気がした。
空いているということが悪いことだとは思わなかった。
空いている場所は、たぶん、いつか誰かが何かを置きにくる場所だった。
その日の朝、私は、その「いつか」がもしかしたら思っていたよりも遠くないところにあるのかもしれない、とぼんやり思った。
ぼんやり思っただけで、それ以上は考えなかった。
考えると、たぶん、私は、それを自分のなかで大きくしすぎた。
大きくしすぎる前に、私は布団から出ることにした。
昼の十二時、私はお昼ごはんを食べた。
近所のコンビニでサンドイッチを買ってきた。
ふだんならお湯を沸かしてカップ麺を食べる日だったけれど、その日は夕方にイタリアンを食べる予定だったから、お昼に重たいものは食べたくなかった。
お腹を空かせて、いきたかった。
彼が選んでくれた店のご飯を、ちゃんとおいしく食べたかった。
サンドイッチを食べながら、私は、今日の昼間がこんなにも、特別ではないふつうの昼間として進んでいくことに、少しだけ驚いていた。
夕方の五時に彼と会う予定がある、というだけで、昼間はふつうだった。
昼間がふつうだからこそ、夕方が特別になる、と、たぶん、そういうことだった。
ふつうの日常のなかにある、ひとつの夕方。
それが誕生日の正しい形なのかもしれない、と、私はサンドイッチを食べながら考えた。
ふつうの昼間が終わった。
四時、私は白いブラウスと紺色のスカートに着替えた。
ブラウスのいちばん上のボタンを留めた。
ボタンを留める指は、少しだけ震えていた。
震えるほどのことではない、と自分に言い聞かせた。
それでも、震えた。
鏡の前に立った。
六畳一間のアパートの、小さな鏡だった。
鏡には、私の上半身しか映らなかった。
それでも私は、自分の格好をしばらく見ていた。
白いブラウスの襟は、襟元で小さく折り返されていた。
ボタンは、いちばん上まで留まっていた。
シンプルだった。
私は、シンプルという言葉が、その日初めて、ほめ言葉のように感じられた。
「行こうか」
鏡に向かって、私はそう声に出して言った。
声に出して言うと、自分がちゃんと行こうとしている、ということが、私の体にもう一度伝わった。
自分の体に、自分で言い聞かせる。
それも、ホームの先生たちからいつのまにか、覚えていた癖だった。
四時半、私はアパートを出た。
駅まで歩いて十五分かかった。
約束は、駅の改札の前で五時だった。
私は四時四十五分に改札の前に着いた。
早すぎたかもしれない、と思った。
着いたとき、彼はまだいなかった。
私は改札の前で彼を待った。
待っている時間は長くなかった。
ほどなくして、彼が来た。
たぶん、私と同じくらい早く来ようとしていたのだと思う。
改札を抜けてくる彼を見て、私は少しだけ目を見張った。
目を見張ったのは、彼がいつもと違う服を着ていたからだった。
白いシャツに、ベージュのチノパン。
いつものTシャツではなかった。
彼も、選んできていた。
選んできてくれた、ということが、私のなかで、その瞬間にたしかな形を持った。
彼も、私のために選んだ。
白いシャツのいちばん上のボタンは留まっていなかったけれど、シャツのしわは、たぶん、アイロンで伸ばされていた。
髪は、いつもより少しだけ整っていた。
彼が近づいてくるあいだ、私は、自分がほんの少しだけ息を止めていることに気づいた。
「待ちましたか」
彼が、聞いた。
「今来たところです」
私は、答えた。
それは、嘘だった。
本当は、ずいぶん前から、私はここで待っていた。
それでも「今来たところ」だと私は、答えた。「ずっと待っていました」と言えば、彼を急がせてしまう気がしたから。
彼の息は、少しだけ上がっていた。
彼も、約束よりずっと早く来ようとして急いで来たのだと思う。
たぶん、二人とも早く来ていた。
そして、たぶん、二人とも、それを口にはしなかった。
歩きながら、私は思った。
こういう嘘は、たぶん、嘘のうちに入らない、と。
こういう嘘の積み重ねが、たぶん、いいものだった。
八月の終わりの夕方は、まだ暑かった。
でも、真夏の暑さとは少しだけ違った。
空気の中に、秋の気配が微かに混じっていた。
夏の匂いではなく、秋の手前の匂い。名前のない季節の匂い。
私はその匂いを嗅ぎながら、彼の半歩後ろを歩いた。
半歩、後ろ。
いつから私は、半歩後ろを歩く癖を持つようになったんだろう、と考えた。
答えは出なかった。
たぶん、ずいぶん前からだった。
私は、ずっと、誰かの半歩後ろを歩いてきたのかもしれない。
その日の半歩は、ちがった。
半歩後ろから、私はちゃんと彼の背中を見ていた。
背中が見える距離が、ちょうどその日の私にはよかった。
イタリアンの店は、駅から五分のところにあった。
道は、私の知らない道だった。
駅前の大通りから一本入って、商店街の裏の細い道を歩いて、少しわかりにくい角を曲がった先にあった。
彼が迷わずに歩いていた。
迷わずに歩くということは、たぶん、彼がその道を一度確かめに来ていたということだった。
確かめに来ていたということを、私は口に出さなかった。
口に出すと、たぶん、彼が照れた。
照れさせたくなかった。
確かめに来てくれたということを、私は私のなかで知っているだけでよかった。
店の前に、小さな看板が出ていた。
筆記体のアルファベットで、店の名前が書いてあった。
私は英語の筆記体を、ちゃんと読めなかった。
でも、知っていた。
事前に彼が店の名前を一度だけ言ってくれていたから、目の前の筆記体がその音と結びつくということは、たぶん、できた。
「ここです」
彼が、ドアを開けてくれた。
ドアを開けてくれるというのは、私のこれまでの人生で、あまり経験のないことだった。
ホームでは、子供たちが自分でドアを開けた。
学校では、自分でドアを開けた。
自分以外の誰かが私のためにドアを開けてくれるというのは、私のなかでは、たぶん、ふつうのことではなかった。
私は、彼の開けてくれたドアの中に入った。
中は、口コミの通り、落ち着いた雰囲気だった。
照明が暖色で、テーブルの上にキャンドルが灯っていた。
キャンドルの火が揺れていた。
白いテーブルクロスの上に、揺れる影が模様を作っていた。
壁には、イタリアの風景の写真が何枚か飾ってあった。
ピアノの曲が、小さく流れていた。
「いらっしゃいませ」
店員さんが、笑顔で私たちを迎えた。
笑顔で迎えてくれるというのも、私には、新しい感覚だった。
ホームの先生たちは、私たちが帰ってくると「おかえり」と言ってくれた。
それは「迎える」ではなく「受け入れる」だった。
笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってもらえるのは、たぶん、ちがう種類の歓迎だった。
窓際の席に案内された。
座ると、店員さんがメニューを置いていった。
メニューは、革のような表紙で重かった。
こういう重さのメニューを、私はこれまで手に取ったことが、ほとんどなかった。
私はメニューを開いた。
パスタのページで、手が止まった。
字が、私の知っているパスタの名前と、知らない名前と、両方あった。
ボロネーゼは知っていた。カルボナーラも知っていた。
でも、アーリオ・オーリオなんとか、というのは知らなかった。
写真は付いていなかった。
「何にしますか」
彼が、聞いた。
「迷ってます」
私は、答えた。
「ゆっくり選んでいいですよ」
彼は、そう言ってくれた。
ゆっくり、選んでいい。
そう言ってくれる人は、ホームの先生たち以外で、たぶん、彼が初めてだった。
私はメニューを、もう一度最初から見直した。
「高原さんは決まったんですか」
「ボロネーゼ」
「早い」
「迷わないタイプなので」
「私は迷うタイプです」
私たちは、そう話した。
「迷うタイプ」と私は彼に、自分のことを言った。
迷うタイプと自分で自分を言うのも、私には、新しいことだった。
ふだんの私は、自分を「迷うタイプ」だとは、たぶん思っていなかった。
私はふつう、自分の食べたいものをすぐに決められる人だった。
それなのにその日、私は迷っていた。
迷っていたのは、たぶん、メニューのせいだけではなかった。
何を食べるかを決めるということ自体が、その日の私にはいつもより重みを持っていた。
彼が選んでくれた店で、私が選ぶ料理を、私は彼に見せることになる。
見せられるものを、私はちゃんと選びたかった。
五分くらい、迷った。
最後に、私はトマトとモッツァレラのパスタを選んだ。
選んだ理由は、白いブラウスのいちばん上のボタンを留めた理由と、たぶん、似ていた。
奇をてらわない、けれどふつうの選択でもない、その中間。
ボロネーゼを選ぶと彼と同じになって、それは、たぶん、私には近すぎた。
ペペロンチーノを選ぶと安すぎて、彼が選んでくれた店に失礼な気がした。
トマトとモッツァレラというのが、その中間の、私にいちばん近い場所だった。
サラダを一つ取り分けることにして、デザートも一つずつ頼んだ。
私はティラミスを選んだ。
ティラミスというのを、私はそれまでに食べたことが、ほとんどなかった。
「ドリンクはコーヒーですか」
彼が、聞いた。
私は、少しだけ迷った。
迷ったのは、ふだんの私だったら、迷わずに「コーヒー」と答えていたからだ。
コーヒーに砂糖をひとつ入れて、目を閉じて一口飲むのは、私のふつうの、ありふれた動作だった。
その日は、ふつうの日ではなかった。
私は、答えた。
「ここでは、カフェオレにしてみます」
カフェオレ、と自分で言ってから、私は、自分がいつもとちがう選択をしたことに、ほんの少しだけ、驚いた。
驚いたというのは、変な驚きだった。
私は、私がいつもとちがう選択をする人ではない、と思っていた。
「そうなんですね」
彼が、言った。
「何ですか」
私は、聞いた。
「いつもと違うなと思って」
彼は、答えた。
私は、答えなければならないと思った。
答えなければ、たぶん、私の選択は、ただの気まぐれに見えた。
気まぐれではなかった。
それを彼に伝えたかった。
「今日は特別なので」
私は、そう答えた。
「特別」という言葉を、私は、その日初めて、自分から人に対して使った。
使ってから、私は、自分の口から「特別」という音が出たことに、自分でも驚いた。
長いあいだ、私のなかで、空いていた席に、誰かが座った瞬間だった。
座ったのは、彼だった。
彼が、空いていた席に座ってくれた。
いや、彼が座ったというより、彼を私のなかの席に私が座らせた、ということだったかもしれない。
「特別」と私が言ったあと、彼は何も言わなかった。
何も言わずに、ただ、ほんの少しだけ自分のグラスの水を飲んだ。
水を飲むというのは、たぶん、何かを言わないために口を使う動作だった。
何かを言いそうになったのを、彼は、たぶん、自分のなかで押し戻したのだった。
押し戻したことが、私にはありがたかった。
もし彼が「俺も今日は特別だ」と言っていたら、私は、たぶん泣いた。
泣くつもりはなかった。
食事が運ばれてきた。
パスタは、おいしかった。
おいしいというよりも、私には、たぶん、初めての種類の味だった。
トマトの酸味とモッツァレラのまろやかさが、私の知っているトマトソースのパスタの味とはちがった。
ちがう味を、私は、その日初めて、自分から選んで食べた。
食事をしながら、私たちはいつも通りの話をした。
学校のこと、本のこと、試験のこと。
「あの数学の先生、板書が読めない」と彼が言って、私は「あの字は暗号だと思ってます」と答えた。
「この前の英語の長文、訳わかんなくなかったですか」「あれはひどかった。三回読んでもわからなかった」
ふだんの「珈琲 まるせ」で話していることと、ほとんど同じことを私たちは話した。
特別な話を、私はしなかった。
彼もしなかった。
たぶん、私たちは二人とも、特別な話をしないでいたかった。
「特別」は、私たちの口にしないところで、ちゃんとその日の店のなかにあった。
わざわざ口にすると、「特別」は、たぶん薄くなった。
だから、私たちはふつうの話をふつうに続けた。
ふつうの話をいつもより少しだけ長くするということ自体が、私たちにとっての「特別」だった。
気がついたら、二時間近くいた。
デザートのティラミスは、食べたことのない味だった。
苦さの中に甘さがあった。
ふだん、私は苦いコーヒーに砂糖をひとつ入れて飲んでいたけれど、ティラミスは最初から、苦さと甘さが混ざっていた。
苦いまま飲めるようになることが重要だ、と私は、ずっと思って生きてきた。
でも、ティラミスを食べながら、私は、もう一つ知った。
苦さと甘さが最初からちゃんと混ざっているものというのも、世界にはある。
そういうものが世界にはある、ということを、その日、私は彼と一緒に知った。
カフェオレも、おいしかった。
コーヒーよりも、たぶん、私には合っていた。
砂糖は入れなかった。
カフェオレには、もうミルクの甘さが入っていたから。
食事を、ゆっくり終えた。
窓の外が暗くなっていくのを、私たちは二人で見ていた。
街灯が点いて、通りの色が変わっていった。
昼の白さから、夜の橙色へ。
キャンドルの炎が、暗くなった窓ガラスに映った。
私と彼の顔も、窓ガラスに薄く映っていた。
窓のなかに、私と彼が二人並んでいた。
ひかりホームの廊下の窓で、私は、ずっと「外」を見ていた。
「外」には、母がいなかった。
「中」にも、母はいなかった。
それでも、窓があると外と中が分かれて、私は少しだけ落ち着けた。
その夜の窓は、ちがった。
窓のなかに、私と彼がいた。
窓の外には、知らない人たちがいた。
外にも中にも、もう、私だけはいなかった。
そのことに、その夜、私は初めて気づいた。
気づいたというよりも、たぶん、体が先に知っていて、頭があとから追いついた。
私だけではない夕方を、私は自分の窓のなかに持っている。
持てたということが、私にはずいぶん大きなことだった。
帰り際、店を出ると、八月の終わりの夜は、昼間の暑さが嘘のように涼しかった。
風が吹いた。
風が、私の髪を少しだけ揺らした。
髪が揺れたのは、たぶん、彼にも見えていた。
見えていただろうけれど、彼は何も言わなかった。
何も言わないでくれたのが、ありがたかった。
「髪が揺れていますよ」と言われたら、たぶん、私は髪を押さえてしまった。
押さえずに、揺らしていたかった。
私たちは、駅まで歩いた。
並んで。
半歩分の距離を保って。
いつもの半歩ではなかった。
その日の半歩は、いつもの半歩より少しだけ近かった気がする。
近かったというのは、たぶん、私の体感だけだった。
実際の距離は、ふだんと変わらなかったかもしれない。
それでも、私の体は近く感じていた。
歩きながら、私は彼の足音を聞いていた。
彼の足音は、私の足音より、ほんの少しだけゆっくりだった。
彼が、私に合わせてくれていた。
合わせてくれているということを、口に出さなかった。
口に出すと、合わせていたものが、たぶんほどけた。
ほどかずに、ただ私は、合わせてくれている彼の足音の上を歩いた。
駅の改札の前で、私たちは立ち止まった。
「ありがとうございました」
私は、言った。
「どういたしまして」
彼は、答えた。
それで、終わってもよかった。
ふつうの一日が終わるなら、それで十分だった。
それなのに、私は、もう、何か言いたかった。
言うべきことが、私のなかにひとつあった。
それは、ずっと言うべき相手がいなかった言葉だった。
言うべき相手が、その夜、私の目の前にいた。
私は、息を吸った。
息を吸う音が、自分でも聞こえた気がした。
息を吸って、それから吐く前に、私は、もう一度、息を吸い直した。
吸い直したのは、たぶん、一度では足りなかったからだ。
「あの」
私は、言った。
少し、間を置いた。
鞄の紐を、両手で握っていた。
握る力が、いつもより少しだけ強かった気がした。
強く握ったのは、たぶん、握っていないとどこかへ流れてしまいそうな気がしたからだった。
「誕生日に、誰かとご飯食べたの、初めてで」
私は、そう言った。
言ったあと、私は、自分の声が自分の耳にいつもよりずっと小さく聞こえたのを覚えている。
小さく出したわけではなかった。
ふつうの大きさで出したつもりだった。
それなのに、自分の耳には小さく聞こえた。
たぶん、私の頭のなかがその瞬間、その言葉だけを大きく聞いていたから、相対的に、外に出した声が小さく聞こえたのだった。
彼は、何も言わなかった。
何も言わない時間が、長かった。
長い時間というのが、たぶん、十秒だったか、二十秒だったか、もうわからない。
それでも、長かった。
何も言わない彼の沈黙が、何かを言うかわりに、私に届いていた。
「何か言うより、黙っているほうがいい」
たぶん、彼はその瞬間、そう判断してくれた。
判断してくれたということが、私にはわかった。
わかったのは、私がホームの先生たちから、長いあいだその「判断」を受け取ってきていたからだった。
何も言わずに、ただ黙って横にいてくれる人を、私は知っていた。
彼も、その人たちと同じ判断ができる人だった。
「また来年も」
しばらくして、彼が、言った。
来年も。
その言葉のなかに、一年後もこうして私と彼が一緒にいる、ということが含まれていた。
私は、うつむいた。
うつむいたのは、彼から顔を隠したかったからではなかった。
ただ、足元を見たくなった。
足元には、何もなかった。
駅前の、なんでもないアスファルトがあるだけだった。
何もないものを見ていると、たぶん、私のなかで、いろいろなものが整理された。
口角が、少しだけ上がった。
すぐに、戻った。
いつもの、私の笑い方。
目が、少しだけ光った気がした。
光ったのは、たぶん、改札の蛍光灯の反射だった。
それでも、もしかしたらちがうものだったかもしれない。
ちがうものだったとしても、私はその夜、その「ちがうもの」を彼に見せたくなかった。
見せないために、私はすぐに顔を上げた。
「はい」
私は、答えた。
「来年も」
私は、繰り返した。
繰り返したのは、たぶん、「来年も」という言葉を、私のなかにちゃんと置きたかったからだった。
ちゃんと置けば、たぶん、来年まで、私のなかから消えなかった。
消えないでほしかった。
彼は、笑った。
今までで、いちばん力の抜けた笑い方では、まだなかった。
「珈琲 まるせ」で、私が「はい」と答えた日の彼の笑い方がもしあったとしたら、それのほんの少しだけ前の段階の笑い方だった。
「じゃあ、また」
「はい」
「気をつけて」
「はい」
私は、改札を通った。
通る前に、もう一度振り返った。
彼は、まだ立っていた。
立って、私が改札を通るのを見届けてくれていた。
見届けてくれているということが、私のなかで、たしかな形を持った。
私も、彼を見た。
手を、小さく振った。
彼も、手を小さく振った。
改札を通った。
ホームに降りた。
電車を待った。
電車を待っているあいだ、私は、ずっと、左手の薬指の付け根を右の親指でなぞっていた。
なぞる癖は、その夜、いつもよりも深かった気がする。
いつもなら、なぞりながら何かを考えていた。
その夜は、何も考えていなかった。
ただ、なぞっていた。
なぞっていることが、私の体にその日の彼の感触を覚えさせている気がした。
彼の感触、というのは変な言葉だった。
私と彼は、その日、手を繋いでいなかった。
触れたところは、たぶん、なかった。
それなのに、私のなぞる指は、何かを覚えようとしていた。
たぶん、彼の声を覚えようとしていた。
たぶん、彼が見届けてくれた、その視線を覚えようとしていた。
たぶん、「来年も」と彼が言ったときの、ほんの少しの間を覚えようとしていた。
指は、知っていた。
指はずっと、何かを覚えるということを、私に教えてきていた。
電車に乗った。
私の住むアパートまで、電車で十五分、駅から歩いて十五分の道のりだった。
電車のなかで、私は窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
窓のなかの私は、ふだんの私とたぶんほとんど同じ顔をしていた。
それでも、ほんの少しだけちがう気がした。
何がちがうのかは、わからなかった。
アパートに着いた。
ドアを開けて、入った。
「ただいま」とは言わなかった。
言う相手がいなかった。
いつもなら、言わないのがふつうだった。
その夜は、言わないことに、ふだんよりも少しだけ寂しさを感じた。
寂しさを感じたということが、私には、新しいことだった。
ホームを出てから、私は誰もいない部屋に帰ることに、たぶん、慣れていた。
慣れていたのに、その夜、寂しいと感じた。
寂しいと感じたのは、たぶん、寂しくない夕方を知ってしまったからだ。
知ってしまったあとに、寂しさは輪郭を持って、私のなかに戻ってきた。
「自分だけの日」を持てた夜の終わりに、私はまた、自分だけの部屋にひとりで帰ってきた。
自分だけの日と自分だけの部屋は、ちがうものだった。
自分だけの日には、彼がいた。
自分だけの部屋には、私だけがいた。
両方、あった。
両方あることを、私はその夜、初めてちゃんと受け取った。
両方あるということは、たぶん、これからの私の人生の形だった。
自分だけの部屋に帰る私と、自分だけの日を持てる私が、両方、私だった。
それで、たぶん、よかった。
ブラウスを、ハンガーにかけた。
スカートを、ハンガーにかけた。
白いブラウスのいちばん上のボタンは、店の中で最後まで留まっていた。
彼がそれに気づいたかどうかは、わからない。
気づかなくてもいいと思った。
留めたのは、私だった。
留めたまま帰ってこられたということが、私には、十分だった。
寝間着に着替えた。
布団に入った。
天井を見た。
いつもの天井だった。
その夜の天井は、その朝の天井と少しだけちがって見えた。
何がちがうのかは、わからなかった。
ただ、ちがうことはわかった。
私は布団のなかで、その日のことを、もう一度最初から思い出した。
「珈琲 まるせ」で「自分だけの日みたいなのがなくて」と言った私。
「再来週です」と答えた私。
「再来週」のあとに、彼が「じゃあ再来週」と返してくれた、あの瞬間。
ブラウスを選んだ夜。
駅で「待ちましたか」と聞いた夕方。
イタリアンの店で「今日は特別なので」と言った瞬間。
ティラミスを食べながら、苦さと甘さが最初から混ざっているものが世界にはある、と知った瞬間。
窓に、私と彼が二人映っていたこと。
駅の改札の前で「誕生日に、誰かとご飯食べたの、初めてで」と言えたこと。
「来年も」と彼が言ってくれたこと。
ぜんぶ思い出してから、私は目を閉じた。
目を閉じる癖は、その夜も出た。
閉じている数秒のあいだ、私はここではない場所を持った。
そのここではない場所には、今日の夕方が置いてあった。
今日の夕方の全部が、そこに置いてあった。
明日からも、私の人生は続いた。
続くということを、私は知っていた。
続いていく日々の中に、もうひとつ、私だけの日ができた。
作ってもらったというよりも、彼と一緒に作った。
作った日は、たぶん、これから、私のカレンダーのなかで毎年、色がつくことになる。
毎年、色がつく。
そのことを、私はその夜、初めて自分に許した。
許すというのは、変な言葉だった。
それでも、許すしか、たぶん、ふさわしくなかった。
「色をつけてもいい」と、私はようやく自分に許せた。
来年の八月二十八日も、たぶん、私は彼とご飯を食べる。
来年の八月二十八日には、たぶん、私は、もういまよりも少しだけ迷わずに、メニューを選べる。
来年の八月二十八日には、もしかしたら私は彼に、もう少しだけ近づいているかもしれない。
「来年も」を、彼は私に約束してくれた。
約束という言葉は、彼も私も使わなかった。
それでも、約束はたしかにその夜、私のなかにあった。
約束を、私は生まれて初めて、自分のために持った。




