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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
影章 奈々未
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影章 奈々未 004

高校三年の夏。

夏休みのあいだ、私と彼はたまに「まるせ」で会っていた。

学校がないと、会うのに少しだけ理由が必要になる気がしていた。理由を持ち寄って、私たちは喫茶店で勉強した。していたのは勉強だった。勉強の合間にぼんやりする時間が長くなっていた、ということでもあった。


私は私服を着て、彼の前に座っていた。


白いTシャツにデニムのスカート。

ホームを出てから自分で買った服のなかで、いちばん何の特徴もない服を、私はそのとき着ていた。

特徴のない服が好きだった。

特徴のない服を着ている人を、人はあまりじろじろ見ない。

じろじろ見られないでいたかった。

ひかりホームを出てアパートに住み始めて以来、私は、ずっと、なるべく見られない服を選んできた。


彼はそれを特に気にしていないようだった。

気にしていないというのは、見ていないということではない。

私の服を彼はちゃんと見ていた。見て、何も言わなかった。

見ているのに何も言わないというのは、たぶん、ふつうの服をふつうに受け取ってくれたということだった。


その日、私たちは参考書を広げてコーヒーを飲んでいた。

私はコーヒーに砂糖をひとつ入れた。

ぽとん、と音がした。

スプーンでかき混ぜて一口飲んだ。

目を閉じる癖が、その日も出た。

目を閉じている数秒のあいだ、私はここではない場所を一瞬だけ持った。

そのここではない場所には、私と彼と夏の光が、三つだけ並んでいた。


目を開けた。

彼は自分のアイスティーのグラスについた水滴を、指で拭っていた。

指で拭った跡がグラスの表面に線になって残った。

その線を私は目で追った。

彼の指がさっきまでそこにあったという証拠が線として残っているのが、私には、少しだけ嬉しかった。


「飽きた」


彼が、言った。

私もほとんど同じタイミングで参考書を閉じていた。


「私も」


私たちは窓の外を見た。

商店街の通りで八月の日差しが白く焼けていた。

アスファルトの上の陽炎が揺れていた。

歩いている人はほとんどいなかった。

世界が暑さで止まっているように見えた。


しばらく、私たちは黙っていた。


黙っている時間は、私と彼のあいだでは苦しい時間ではなかった。

話していないあいだも、私たちは、たぶん何かを話していた。

何を話しているのかは自分でもよくわからない。

それでも、何かを話していた。


私はコーヒーカップの縁を人差し指でなぞった。


カップの縁を人差し指で一周。

それから、もう一周。

左手の薬指の付け根を右の親指でなぞる癖は、その日は出ていなかった。

人差し指でカップの縁をなぞるのは、ただの手持ち無沙汰だった。


それなのに、私は唐突に口を開いた。


「施設って」


そう言ってから、私は続きをすぐには言わなかった。

続きを言うべきかどうか、自分のなかでまだ決まっていなかった。

でも、口はもう開いていた。

開いた口は、たぶん、続けないと不自然だった。


「誕生日とか、特別なことないんですよ」


私は、そう続けた。


声は平坦に出た。

平坦に出るように、私は意識して出していた。

重く出したくなかった。重く出すと、聞いた人が重く受け取ってしまう。

重く受け取らせる話を、私は人にしたくなかった。


「ケーキとかないんですか」


彼が、聞いた。


「ないわけじゃないけど、みんな一緒の日にまとめてやるので」


私は、答えた。


「八月生まれも九月生まれも、まとめて九月に、みたいな。自分だけの日、みたいなのがなくて」


そう言ったとき、私は、自分が「自分だけの日」という言葉を自分の口で初めて使ったことに気づいた。

「自分だけの日」がないということは、ずっと前から知っていた。

それでも、その「ない」を「自分だけの日」という言葉で名づけたのは、その日が初めてだった。


名づけてしまった、と思った。


名づけたものは、たぶん、これからずっと、私のなかに輪郭を持ったまま残る。

名づける前はふんわりと、ただの「ない」だったものが、名づけたあとには「自分だけの日」がないという、はっきりした「ない」になった。


「寂しくないですか」


彼が、聞いた。


「寂しいかどうか、よくわからなかったです。そういうものだと思ってたので」


私は、答えた。


その答えは本当だった。

ホームにいるあいだは、寂しかったかどうかを考えなかった。

考える必要がなかった。

ホームの外の世界を知らなければ、寂しいという感情の置き場所が、私のなかにまだ作られていなかった。


「今は?」


彼が、聞いた。


「今は」


私は、繰り返した。

繰り返したのは、答えを探すための時間がほんの少しだけ欲しかったからだ。


「寂しかったんだなって、少しわかります。比べるものができたから」


私は、答えた。


そう答えてから、私は、自分の答えが思っていたよりずっと正直であることに気づいた。

ふつうなら、もう少しぼかして答える。

「そうですね」「あんまり考えたことなかったです」「ふつうですよ」のどれかで、たぶん、その話題は終わらせられた。

それなのに、私は終わらせなかった。


終わらせなかったのは、彼が聞いてくれたからだった。

「寂しくないですか」と聞ける人と、私は、もうずいぶん前から会っていた気がする。

本当は一年近く前に図書館で会ったばかりなのに、私のなかではずいぶん前から会っていたような気がしていた。


彼は、しばらく何も言わなかった。


何も言わない時間は、たぶん、彼が言葉を探していた時間だった。

「大変だったね」も「かわいそう」も、たぶん、彼は考えて消した。

私は、それを知っていた。

知っていたというのは、彼の頭のなかが見えていたわけではなくて、そういう人だと私が私の中でもう決めていたということだった。


「来年」


彼が、言った。


「来年の誕生日、何か食べにいきましょう」


私は窓の外から視線を戻した。

来年という言葉が、その日ふいに、私の前に置かれた。


「なんで来年なんですか」


私は、聞いた。

聞いたのは、来年という時間の遠さに、私の理解が少し追いつかなかったからだ。


「誕生日、いつですか」


「再来週です」


「じゃあ再来週」


彼は、言った。


私はコーヒーカップに手をかけて、持ち上げかけてやめた。

やめたのは、手が少しだけ震えていた気がしたからだ。

震えるほどのことが起きたとは思っていなかった。

それなのに、私の手は、震えるか震えないかのぎりぎりのところにいた。


「なんで」


私は、聞いた。


「誕生日だから」


彼は、答えた。


「誕生日だから」と彼は、言った。

それ以上の理由を彼は言わなかった。

それで、十分だった。

それ以上の理由を言われたら、たぶん、私は、それを重く受け取って断ってしまった。


「高原さんって」


「思ったより、ちゃんとしてますね」


私は、そう言った。


そう言ったあとで、私は、自分の言葉が思っていたよりずっと軽い口調で出たことに気づいた。

重くなりかけていた話を、私は自分のほうから軽くしようとしていた。

軽くしないと、たぶん、私はその場で泣いてしまった。

泣くつもりはなかった。


「どういう意味ですか」


「いい意味です」


私は、そう答えた。


コーヒーを一口飲んだ。

カップの中はもうほとんど空で、最後の一口は、底に沈んだ砂糖がほんの少しだけ溶け残っていて、いつもより甘かった。

最後の一口だけ甘いコーヒーというのが、その日、私のなかで、初めて意味を持った。


ふだんなら、最後の甘さはただの偶然だった。

その日はちがった。

最後に少しだけ甘いものを、私は置き土産としてもらえた気がした。

誰からもらったのかはわからなかった。

それでも、もらった気がした。


マスターが「おかわりは」と聞いた。

低くて短い声だった。

マスターの声を、私はそれまでにほとんど聞いたことがなかった。


「お願いします」


私は、答えた。

彼も「お願いします」と言った。

マスターは何も言わずにカウンターに戻っていった。


二杯目のコーヒーが来るまでの数分間、私と彼はまた窓の外を見ていた。


陽炎はまだ揺れていた。

それでも私のなかでは、何かが少しだけ止まっていた。

止まっていたものが何かはわからなかった。

ただ、止まっていたということだけがわかった。


二杯目のコーヒーが来た。

私は、もう一度、砂糖をひとつ入れた。

ぽとん、と音がした。

同じ動作。同じ砂糖の数。

それでも、その日の「ひとつ」は、ふだんの「ひとつ」とは少しだけ違うひとつだった。


「八月の何日ですか」


彼が、聞いた。


「二十八日」


「二十八日」


彼は私の誕生日を、その場で繰り返した。


繰り返してくれた。

ホームの先生たちが私の名前を繰り返して呼んでくれたのと同じだった。

「奈々未ちゃん」を繰り返し呼んでくれた人たちの上に、いま「二十八日」を繰り返してくれる人がひとり増えた。

名前ではなく日にちだった。

それでも、繰り返してくれたものはぜんぶ、私のなかで、似た重さを持って残った。


「夕方、大丈夫ですか」


「大丈夫です」


それで、決まった。


特別な約束ではなかった。

ただ、再来週の夕方に彼とご飯を食べに行くという約束だった。

それなのに、私のテーブルの下の左手は、いつのまにか、すこしだけ汗ばんでいた。



その日からあとの二週間を、私はうまく覚えていない。


うまく覚えていないというのは、何もなかったということではない。

たぶん、いろいろなことがあった。

夏休みの宿題はまだ残っていたし、ホームから連絡が来て、ホームの先生が「ななちゃん、元気にしてる?」と短く聞いてくれて、私は「元気です」と返した。いつも通りの二週間だった。


それなのに覚えていない。

頭の中の容量を、たぶん、ほかのことに使っていたから、ふつうの二週間をふつうに記憶する余白がなかった。


ほかのことに使っていたというのは、彼との二十八日のことを考えていたということだ。


考えていたというのも正確ではない。

考えるというより、何かを準備するという気持ちが、ずっとあった。


私は、誕生日を誰かに祝ってもらった経験がなかった。


ひかりホームでは、九月の最後の日曜日に、その三ヶ月のあいだに誕生日を迎えた子たちのためにまとめてケーキを買ってくれた。

私の誕生日は八月だから、七月と八月と九月の子たちが、まとめて九月の最後の日曜日に祝われた。

それは、悪いことではなかった。

ケーキは私の生まれた日付とは違う日付の上に乗っていたけれど、ケーキはケーキで、おいしかった。

おいしいケーキを、私は年に四回食べていた。

七月から九月までの夏のケーキと、十月から十二月までの秋のケーキと、一月から三月までの冬のケーキと、四月から六月までの春のケーキ。

自分の誕生日に対応する季節のケーキを、私は五回か六回食べていた。


それでよかった、と当時の私は思っていた。

それでよかったというのは、たぶん、それしか知らなかったから言えた言葉だった。


二十八日。


ふだんの八月二十八日は、夏休みの宿題が大詰めになる日だった。

カレンダーの上で二十八日に色を塗ったことは、一度もなかった。

塗る必要がなかった。

塗らないでいるあいだ、私のなかで二十八日はずっと、ふつうの日だった。


それが、あの日「まるせ」で彼に「二十八日」と繰り返されたあとから、少しずつちがう日になっていった。


カレンダーの上で、二十八日に色を塗りたくなった。

塗らなかったけれど、塗りたくなったということが、私のなかでは新しいことだった。

何かを特別にしたいという気持ちを、私は、たぶん、それまでにあまり持ったことがなかった。


特別という言葉を、私は自分からあまり使ってこなかった。


ホームの先生たちは、私たちに「特別」と言わないでくれた。

「あなたは特別」と言われた子は、たぶん、特別じゃなくなったときが怖い。

ホームの先生たちは、子供がふつうの「ふつう」のなかで育つように、たぶん、注意深く言葉を選んでくれていた。

いま振り返ると、そのことがよくわかる。

当時はわからなかった。


特別という言葉は、私のなかでは長いあいだ、空いていた席だった。


そこに誰かが座る日が来るのかどうか、私は知らなかった。

来なくてもいい、と思っていた。

来ないということに、私は慣れていた。

慣れることが、私のいちばんの得意だった。


それなのにその二週間のあいだ、私のなかで誰かが、空いていた席に座ろうとしていた。


座らせていいのか、私は自分でも決めかねていた。

座ってもらってしまったら、もしいなくなったときに空くからだ。

空くということを、私はずいぶん前から知っていた。

空いた席を見るのが、私はいやだった。


それでも、二十八日が近づいていくのを、私は止められなかった。

止められなかったというより、止めたくなかった。

止めたくないと思っている自分が、私にはまだ少しだけ、慣れない自分だった。


二週間のうちの八月二十六日の夜、私は自分の服を全部出した。


アパートの六畳一間で、ベッドの上にクローゼットの中身を全部広げた。

広げて見て、私は、自分がどれだけ少ない服しか持っていないかを改めて確認した。


ホームを出るときに、ホームの倉庫からもらえる服はもらってきた。

それから、自分でアルバイトをして、月に一着か二着、安い服を買い足してきた。

それでも、ベッドの上に広げてみると、たいした数ではなかった。


シャツが四枚。Tシャツが六枚。スカートが二枚。ズボンが二枚。ワンピースが一枚。

特別な服は、一枚もなかった。


私はベッドのへりに座って、しばらく服を眺めていた。


「何を着ていけばいいのか、わからない」


そう、自分に、声に出して言った。

声に出すと、その問いは、たぶん、答えを少しだけ近くに連れてきた。


私は、ふだんの「まるせ」で着ているTシャツとデニムのスカートを、まず選ばないことに決めた。

いつもと同じ服を着ていったら、いつもと同じ日になる気がした。

いつもと同じ日に、私はしようとしていなかった。

そのことに、その夜、初めてはっきりと気づいた。


つぎに、いちばんかわいい服を選ぼうとして、それもやめた。

いちばんかわいい服というのは、たぶん、私のなかには、なかった。

私はかわいい服を、ほとんど持っていなかった。

かわいい服を選んだら、たぶん、「がんばっている」が彼に伝わりすぎた。

がんばっていると伝わるのは、私には、たぶん、少し重すぎた。


私は、白いブラウスと紺色のスカートを、最後に選んだ。


白いブラウスは、ホームを出るときにもらってきた服のひとつだった。

もとはホームの卒業生の誰かのおさがりだった、と聞いた。

私の手に渡ったときには、まだ十分にきれいだった。誰かがちゃんと洗濯してアイロンをかけて、私の番が来るまでたぶん何人かのあいだを回って、私のところに来た。

私のところに来たブラウスを、私はホームを出てからの一年と数ヶ月のあいだ、二回か三回しか着ていなかった。


紺色のスカートは、自分で買ったものだった。

膝丈の、まっすぐな、装飾のないスカート。

買ったときに、店員さんが「シンプルですね」と言った。シンプルは、ほめ言葉なのか、特になんでもない感想なのか、私には判別できなかった。

判別できないままレジに持っていって、買って、それからほとんど着ていなかった。

着る機会がなかった、ということだった。


ブラウスとスカートをベッドの上に並べて、私は、それを見つめた。


たぶん、悪くないと思った。

「自分が選んできた」というのが彼に伝わる程度には、ふだんの服とは違っていた。

それでも、「がんばりすぎている」とは伝わらない程度には地味だった。


そのちょうど中間の、いちばん難しい場所に、私は立てている気がした。

立てているということが、私には、少しだけ新しい感覚だった。


ブラウスのボタンを、私はいちばん上まで留めることに決めた。


留めない選択肢も、たぶん、あった。

首元を少しだけ開けるほうが、ふつうの十八歳の服装かもしれない。

それでも私は、留めることに決めた。

「ちゃんとしている」と彼に伝わってほしかった。

「ちゃんとしている」というのは、たぶん、私が彼に「ちゃんと」してもらった、その分を私のほうから彼に返したいということだった。


返したい、と私は初めて思った。


ホームを出るまで、私は、誰かから受け取った分を誰かに返したいと思ったことが、たぶん、なかった。

受け取った分は受け取ったまま、私のなかにただ置いてあった。

返す相手も返す方法もわからなかった。

返さなくていい、とホームの先生たちは、たぶん、私たちに思わせてくれていた。


それなのに、八月二十六日の夜、私は初めて返したいと思った。

返したい相手は彼だった。

「誕生日だから」と特別な理由を言わずに私の誕生日を覚えてくれた彼に、私は何かを返したかった。


返せるものが、私には何もなかった。

お金もなかった。経験もなかった。気の利いた言葉もなかった。

それでも、白いブラウスのいちばん上のボタンを、私は留めることに決めた。

それが、その夜、私にできることだった。


服を選び終えて、私はベッドの上に広げた他の服を、またクローゼットに戻した。


戻しながら、私は、自分の服が少ないことが、その日は悲しくなかった。

少ない服のなかから、私は選んだ。

選べたということが、私には、十分なことだった。


その夜、私はなかなか眠れなかった。


布団のなかで、私は、ブラウスのいちばん上のボタンが彼に、ちゃんと伝わるかどうかを、何度も考えた。

伝わらないかもしれない、と思った。

ボタンひとつ、私が留めたかどうか、たぶん、彼は気づかない。

それでも、いいと思った。

気づかれないままで、伝わらないままで、それでも私は留めようとしていた。

気づかれないところで、私が自分をちゃんとこしらえようとしていた、というだけのことだった。


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