影章 奈々未 003
本を渡したあと、私は彼が棚から離れる気配を待った。
すぐには、離れなかった。棚の向こうで、紙のページをめくる音がした。彼はその場で本を選び終えて、選んだ本を開いて、立ち読みを始めたらしかった。
しばらくして、棚の向こうの気配が動いた。私は本に視線を戻していたから、彼がどう動いたのかは見ていなかった。ただ、足音が、私の側に回り込んできた。
彼は、私が座っているテーブルの、私の対角線の席に座った。
四人がけのテーブルだった。私は窓側の手前の席にいた。彼は廊下側の奥の席に座った。最大限、私から離れた席だった。それでも、同じテーブルだった。
私は驚かないようにした。
驚いた顔をすると、彼は次に来たときに同じテーブルには座らない、と思った。驚かれた人は、次に同じことをしにくくなる。ホームの先生たちが、私のいろいろなことに驚かないでいてくれたのと、同じ理由だった。
私は本を読み続けるふりをした。ふりをした、というのは、本の文字がまた頭の中に入ってこなくなっていたからだ。目の前のページから、文字が、もうずいぶん遠かった。
彼は彼のほうで、選んできた本を読んでいた。何の本かは見えなかった。本のサイズと厚さから、文庫本だろうとはわかった。私の側のテーブルの上に、彼が空けたままにしている彼の筆箱と、ノートと、シャープペンシルがあった。
ノートを開いていないのに、シャープペンシルを出している。私はそのことが少し気になった。本を読むのに、シャープペンシルはいらないはずだった。
何かを書きながら本を読む人なのだろう、と思った。それはなんとなく彼に似合っていた。読みながら考える人。考えながら書く人。
私は、自分のシャープペンシルを、ノートと一緒に机の上に出していた。ノートには何も書いていなかった。書く予定もなかった。ただ、机の上に何かを置いておきたかった。机の上に何もないと、本以外の場所に置く場所のない手が、落ち着かなかった。
そのシャープペンシルが、転がった。
私が肘で動かしてしまったのか、それともそもそも傾いていたのか、原因はよくわからない。気づいたときには、銀色の細いものが、ノートのへりを越えて、机の縁を越えて、落ちた。
落ちる音は、思っていたよりも軽かった。床にぶつかって軽い金属の音がして、それから、たぶん、彼の側のほうへ転がっていった。
私は、慌てた。
慌てたのは、シャープペンシルが落ちたからではなかった。彼の側に転がっていった、ということに、慌てた。ふつうなら、自分のものは自分で拾う。でも、転がっていった場所が、ふつうではなかった。
私が立ち上がるよりも先に、彼が立ち上がった。
立ち上がって、彼の側の床にしゃがんだ。拾った。しゃがんだまま、私のほうを見て、シャープペンシルを差し出した。
私も立ち上がっていた。立ち上がって、テーブルを半周して、彼のところまで歩いた。彼はしゃがんだまま、私に手を伸ばしていた。手だけが、私のほうに伸びていた。さっきとは逆だった。さっきは棚の向こうで私が本を拾って彼に渡した。今度は、彼が、私の落としたものを拾って返してくれた。
「ありがとう、ございます」
私はそう言った。今度は、私が、お礼を言うほうだった。
彼はしゃがんだまま、私を見上げていた。見上げている彼の顔を、私はそのとき、初めて、まっすぐ見た。さっき本を渡したときには棚があった。彼の顔は棚の向こうにあって、はっきりとは見えなかった。今度は、何もなかった。
彼の目は、ふつうの目だった。特別な色でも特別な形でもなかった。それでも、私の頭の中の「たかはら なぎ」と、目の前の顔が、ようやくぴったりと重なった。
「さっきは」
彼が、立ち上がりながら、言った。
「え」
「さっき、本、拾ってもらって」
「あ」
私は、何を言われているのかが、一拍遅れて理解できた。棚の向こうで、私が拾って渡した、あの本のことだった。
「いえ」
私は小さく首を振った。どういたしまして、と言えるほど、私は、言葉を、持っていなかった。
彼は自分の席に戻ろうとして、足を一歩動かした。動かしてから、もう一度、私のほうを見た。それから、たぶん、決めたように、言った。
「あの、高原、です」
彼は、自分の名前を、自分から名乗った。
自分から名乗る、というのは、たぶん、彼にとって、ふつうの動作ではなかった。ふつうの動作ではないからこそ、私はそれをよく覚えている。ふつうじゃない動作を、人は、よく覚える。
「二年、四組です」
彼はそう続けた。
私はその「二年四組」を、頭の中ではすでに知っていた。それでも、声に出して言われたのは、初めてだった。頭の中で何度も繰り返した「たかはら なぎ」が、本人の口から「高原。二年四組」として出てきた瞬間、私の中の名前は、ようやく、本人公認の名前になった。
そして、私は、ほんの一瞬、迷った。
迷ったのは、驚いたふりをするかどうか、だった。ふつうの初対面の人なら、ここで「あ、はい」とか「えっと、はじめまして」とか、初めて知った人みたいな反応をするはずだった。でも、私は、彼の名前を、すでに、頭の中で何百回も繰り返していた。驚けなかった。驚いたふりは、たぶん、できた。できたけれど、しないほうがいい気がした。
嘘をついた状態で、自分の名前を渡したくない、と、私はそのとき、ぼんやり思った。
「吉野です」
私は答えた。自分の名前を、自分から名乗るのは、私にとってもふつうの動作ではなかった。ホームでは聞かれてから答えた。新しい学校でも、自己紹介の場面で「吉野奈々未です」と一回だけ言って、それから半年以上、自分から名乗る場面はなかった。
「二年二組です」
私は続けた。
「吉野、さん」
彼は、私の名前を、その場で繰り返した。
繰り返してくれた。私の名前を、彼が、自分の口で、私の前で、もう一度言った。
私はそのとき、首をいつもより少しだけ深く右に傾けていた。ちゃんと、聞いている。ちゃんと、私の名前を、あなたの声で、もう一度、覚えてください。
「奈々未です」
私は、もう一段、踏み込んだ。
踏み込むつもりは、最初はなかった。吉野です、二年二組です、で、もう、十分すぎるくらいだった。それなのに、私は、下の名前まで、自分から言った。
下の名前まで言ったのは、たぶん、彼が「吉野、さん」と私を呼んでくれたからだった。呼ばれたから、もう少しだけ、自分を渡したくなった。呼ばれることに、私はあまり慣れていなかった。慣れていない分、呼ばれた喜びを、私はうまく処理できなかった。
「奈々未、さん」
彼は、もう一度、繰り返してくれた。
奈々未、と、彼は、私を呼んだ。正確には「奈々未さん」だった。それでも、彼の声で「奈々未」という三文字が出てきたのは、私の人生のなかで、大きなことのひとつだった。
母が呼んでくれたときの「奈々未ちゃん」。ホームの先生たちの「奈々未ちゃん」、それから「ななちゃん」。親戚の「お前」「あの子」。クラスの「吉野さん」。
そのどれとも違う響きで、「奈々未さん」が、彼の声でそこにあった。ひとつ、新しい呼ばれ方が、私のなかに、増えた。
私は、ここで、一度、息を吸った。
そして、もう一段、踏み込んだ。踏み込んだのは、嘘をついたままにしておきたくなかったからだ。
「実は」
私は、言った。
「え」
「実は、高原さんのこと、知ってました」
「え」
彼は、ほんとうに、驚いた顔をした。私が「驚いたふりをしなかった」ことに、彼が遅れて気づいた瞬間だったかもしれない。
「掲示板で、見ました」
私は、続けた。
「生徒会の掲示板の名簿に、二年四組の高原凪、って書いてあって」
「ああ」
「私、転校してきたばっかりで」
私は、なぜ、もう一言を続けようとしているのか、自分でもよくわからなかった。続けないほうが、たぶん、ずっと、ふつうだった。それでも、続けた。
「知ってる人が、いなかったから」
「うん」
「掲示板で、いろんな人の名前と、顔を、覚えようとしてました」
そう言ってから、私は、私自身が思っていたよりずっと正直に話していることに気づいた。自分の話を、自分から、誰かに話す、ということを、私はあまりしてこなかった。
「だから、たかはらさんの名前も、その中で、覚えてました」
私は、最後にそう言った。
「その中で」と私が言ったのを、彼は、たぶん、私が思っていたよりも、ちゃんと聞いていた。その中の、ひとり、だった、と、私は言っていた。その中の、特別なひとり、ではなくて、ひとり、だった、と。
それを聞いて、彼は少しだけ笑った気がした。気がした、というのは、はっきり笑ったわけではなくて、笑った形の息を、ほんの少しだけ、吐いたからだ。
「そっか」
彼は、それだけ言った。
「そういうことか」
それから、彼は自分の席に戻った。戻りながら、何も言わなかった。何も言わないでくれたのが、ありがたかった。
私も、自分の席に戻った。戻りながら、手の中のシャープペンシルをぎゅっと握っていた。温かかった。彼の手の温度が、まだ軸に残っていた。残っているのは、たぶん、本当はもう数秒の話だった。それでも、私の指は、その温度を、忘れないようにしていた。
席に戻って、私は本に視線を落とした。本の文字は、もう、まったく読めなかった。読めなくてよかった。私の頭の中は、いま、文字を入れる余白がなかった。
高原凪。名前と、顔と、声と、指の動きと、手の温度と、もうひとつ、私の名前を、彼の声で——全部が、私の中で、ひとつの像になった。
それで、その日の図書館の出来事は、終わりだった。
その日のあと、私と彼は、たまに図書館で会った。
「たまに」というのが、どれくらいの頻度なのかは、いま思い返してもうまく数えられない。週に一度のこともあったし、二週間会わないこともあった。会っても、ほとんど話さなかった。お互いに同じ図書館にいた、というだけだった。
会ったときには、彼は私に「吉野さん」と小さく声をかけてくれた。私は「高原さん」と返した。それだけだった。それだけが、私にとっては、ずいぶん大きなことだった。
私は、自分が彼の動きの細部を見るようになっていることに、しばらくしてから気づいた。
最初は、覚えた名前と顔を結びつけたかっただけだった。次に、覚えた顔と動きを結びつけたくなっていた。動きと、声と、本の選び方と、ペンの持ち方と、ノートの開き方。気づかないうちに、私は彼のことを覚えていた。
彼は、私が来ると、少しだけ姿勢を変えた。私が窓側のいちばん奥の席に座ると、彼は読んでいた本の角度をほんの少し変えて、私の側に顔を向けやすいようにしていた。そのことを、彼は気づかれていないと思っていた。気づいていたのは、私だけだったかもしれない。
文化祭の日、私はクラスの喫茶店で接客をしていた。
午後の一時間だけ、休憩の時間が回ってきた。私は中庭のベンチで、ひとりで休憩をとった。ベンチでは、ひとりだった。
ひとりが嫌だったわけではない。ひとりに慣れていた。ひとりは、私の人生のもとの形だった。それでも、その日のベンチのひとりは、いつものひとりと少しだけ違った。ベンチに座って中庭を眺めていると、誰かの視線を、私はかすかに感じていた。
視線は、たぶん、二階の窓のあたりからだった。校舎の二階から、誰かが私を見ている。私はそれが誰かを振り返って確かめなかった。確かめなくてもわかる気がした。
その視線が、彼の視線かもしれない、と思った。思っただけで、振り返らなかった。
振り返らなかったのは、もし違っていたら、私の中の何かが小さく崩れる気がしたからだ。そう思える自分が、私には少し新しかった。誰かの視線で何かが崩れるかもしれない、と思う、ということは、その人を、もう少しだけ、自分の中の大事なところに置いてしまっている、ということだった。
振り返らないまま、私は中庭を見続けた。時間が来たら、私は教室に戻った。振り返らなかったことを、その日の夜、ひとりのアパートで、何度も思い出した。
私は、振り返らないでよかった、と思った。たぶん、あれは彼だった。振り返らないでおいたから、あの視線は、いまも私の記憶の中で、高原さんの視線のままでいられる。振り返って確かめてしまったら、ちがう人だったかもしれないという可能性が消える代わりに、あったはずの可能性も、いくつか消えた。振り返らないことで、私は、その日の彼を、私のなかにずっと置いておけた。
その秋から冬にかけて、私と彼の距離は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと縮まっていった。
縮まる過程は、ここに書ききれない。書ききれないというより、書く言葉が、見つからない。言葉が見つからないのは、それがいいことだったからだ。いいことは、たいてい、言葉に変えると少しだけ目減りする。言葉に変えずに、覚えていればいい。覚えていることは、目減りしない。そのことを、私はその冬のあいだに、自分の体でゆっくりと覚えた。
二年生の冬休みの前のある日、廊下で、彼に呼ばれた。
「吉野さん」
彼が、私の名前を呼んだ。
「はい」
私は答えた。答えながら、私の首は、少し右に傾いていた。
廊下で名前を呼ばれるのは、初めてではなかった。図書館で何度か呼ばれていた。それでも、廊下で呼ばれたのは初めてだった。
廊下、というのは、いろんな人が通る場所だ。図書館は静かで人が少ない場所だった。図書館で名前を呼ばれるのは、ふたりだけの場所で呼ばれるということだった。廊下で呼ばれるのは、ちがった。ほかの人がいる場所で、私の名前を、彼が選んで呼んだ。
それだけのことだった。それだけのことが、私にとっては、ずいぶん大きなことだった。
「あの、もしよかったら」
彼は、言った。
「これ、よかったら、読んでみてください」
そう言って、彼は、一冊の文庫本を私に差し出した。
文庫本は、彼が図書館で読んでいたものではなかった。彼自身の本だった。表紙に彼の指の跡があった。何度もページをめくった跡が、本の縁にあった。自分のものを、貸してくれた。
「あ」
私は、本を受け取りながら、何か答えなければ、と思った。
「ありがとう、ございます」
私は、その日、もう何度目になるかわからない「ありがとうございます」を言った。初めて図書館で会った日にも言って、それから何度も言っている。彼に向かって、私はこれからもずっと「ありがとう」を言う人なのかもしれない、と、その瞬間、ぼんやり思った。
「読み終わったら、感想を、教えてください」
彼は、そう言った。
「はい」
「急がないので」
「はい」
「じゃあ」
彼は、それだけ言って、行ってしまった。
私は、廊下の真ん中に、文庫本を抱えたまま、しばらく立っていた。彼の本を、私が、預かっている。私が彼の本を預かっているというのは、私がその本を彼に返さなければならないということだった。返すために、私と彼は、また会う約束をしたことになる。
約束、という言葉を彼は使わなかった。私も使わなかった。それでも、約束は、確かに、私の腕の中にあった。
冬休みになる前、私はアパートに帰る道で、彼の本をずっと抱えていた。本の表紙はつるつるしていた。背表紙には、彼の指でなぞられた跡があった。私は、その背表紙を、自分の指で撫でた。
撫でながら、私は、自分の名前を呼ぶ人がひとり増えた、と思った。
ホームを出てから、私を呼ぶ人は減る一方だった。ホームを出るというのは、呼ばれる場所を失うことだった。それが、その日、ようやく、ひとり増えた。
私を呼ぶ人が、ひとり増えた。それだけのことだった。それだけのことが、私にとっては、ずいぶん大きなことだった。
知らない国の知らない町の名前を覚えるのが好きだった子。クラスメイトの名前を最初の一週間で全部覚えた子。廊下で聞こえた「たかはら」という一語で彼の名前を確定させた子。そういう子が、ようやく、ようやく、自分の名前をひとつ取り戻した。
「吉野さん」は、まだ「奈々未」ではなかった。「奈々未」になるまでには、もう少し時間がかかる。それでも、その日、私は、確かにひとつだけ、名前を取り戻した。
そのことを、誰にも話さなかった。話す相手も、いなかった。それでも、私は知っていた。
私の中で、ひとつ、名前が増えた。
呼ばれる名前と、いない母。そのふたつのあいだで生きていくのだろうと、五歳の私は知らないまま眠った。十六歳の私は、もう、知っていた。知ったうえで、それでも、私を呼ぶ人がひとり増えた、と、その夜、西向きの窓のあるアパートで、私は思った。
それで、たぶん、よかった。
それで、たぶん、よかったのだ。




