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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
御方の祝福とともに I
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御方の祝福とともに I 005

 秋は、気づいた時にはもう終わりかけていた。


 城壁の隙間を抜けてくる風が、朝も昼も容赦なく冷たい。葉を落とした木々の枝は細く空を引っ掻き、石畳の路地には乾いた落ち葉が吹き溜まっている。冬はもうすぐそこまで来ている。そんなこと、誰に教わらなくたってわかる。


 シュトラーの秋は短い。春が短いように、秋も短い。夏が終わったと思ったら、もう次の冬の準備が始まっている。街の人々は足を速めて歩き、店先には保存食が積まれ始め、どこか急ぐような空気が漂っている。乾いた落ち葉と、どこかから流れてくる燻製肉の煙の匂い。その二つが秋の終わりの匂いとしてシュトラーの路地に染みついている。


 その空気の中で、少年は路地の隅で腹を抱えてしゃがみこんでいた。


 少年は竜人族だった。まだ角が小さい。頭の両側から、親指ほどの角が生えている。竜人族の成人には立派な角があるが、少年のはまだ小さく、髪の毛に隠れてしまうくらいだった。


 翼もまだ十全に動かせない。竜人族の成人の証の一つは空を飛べることだが、少年はまだその段階に達していない。いつか一緒に飛ぼうなと、父ちゃんが言っていた。父ちゃんは誰よりも速く飛べた。それが少年の自慢だった。


 今は自慢できる相手がいない。


 お腹が減った。昨日もほとんど食べていない。その前だって大したものは口にしていない。お腹が空きすぎると、逆に何も考えられなくなるのだと、最近知った。


 父ちゃんはまだ帰ってこない。紡遣者として仕事に行ったまま、ずっと帰ってこない。大人たちは何も言わないけれど、たぶんみんな知っている。たぶんもう、帰ってこないんだってことを。でも、少年は知らないふりをしていた。だって、そういう顔をすると、大人たちはすぐ悲しい顔をするからだ。父ちゃんのことを話す時の、あの変な沈黙が嫌だった。


 母ちゃんもいない。母ちゃんは、少年が生まれた時に身体を悪くして、それからずっとナスレスクさまのもとで治療してもらっている——と、そう聞かされていた。でも、それも嘘だって、ほんとはわかっていた。死んじゃったんだ。たぶん、ずっと前に。けれどそれも知らないふりをしていた。父ちゃんが、その話になると黙ってしまうから。父ちゃんが悲しそうな顔をするのが嫌だった。


 父ちゃんのことを、少年はよく覚えている。


 大きな男だった。竜人族の中でも体格が良く、角が立派で、尾の力が強かった。紡遣者として長年仕事をしてきたせいで、体のあちこちに傷があった。でも少年には、その傷がかっこよく見えた。


 父ちゃんは口数が少なかった。でも少年に話しかける時だけは、少しだけ表情が柔らかくなった。


「自分で自分を守れないような奴は、紡遣者になる資格がない」


 そう言いながら、少年に木の棒の振り方を教えてくれた。


「ずる賢い大人ってのはどこにでもいる。悪い大人についていくんじゃねえぞ」


 そう言いながら、街を歩く時に人の見分け方を教えてくれた。


 父ちゃんが仕事に出る朝、少年はいつも見送った。父ちゃんは振り返らなかった。でも扉を閉める直前に、一度だけ少年の頭に手を置いた。それが父ちゃんのいつもの挨拶だった。最後に仕事に出た朝も、同じだった。


 少年は今でも、あの手の重さを覚えている。


 だから、もういい。誰も言わないなら、自分で決めるしかない。ひとりで生きていくしかないのだ。少年はそう決めていた。幼いなりに、本気で。


 父ちゃんは強い紡遣者らしい。なら、きっと自分だって強くなれるはずだ。父ちゃんは今は仕事で遠くへ行っているだけなのだ。いつか帰ってきた時に、「強くなったな」と褒めてもらうのだ。そう言い聞かせることで、少年は毎日を続けていた。




 その時、路地の向こうから足音がした。少年はびくりと顔を上げる。


 ほら、きた。ナスレスクさまの神殿から来たふりをしたおじさんだ。きっと、そうだ。捕まえて、本当は神殿なんかじゃない、もっと怖い場所へ連れていくつもりなんだ。ナスレスクさまの信徒のふりをするなんて、なんて悪い大人なんだろう。そんなことをしたら、きっとバチが当たるに決まってる。


 そうだ。自分はこれから紡遣者になるんだから。だったら、わるいやつにはムクイってやつを与えなきゃならない。


 少年は足元の石を掴んだ。そして、思いきり投げた。


「うわっ!?」


 石は見事に男の肩へ当たった。男は素っ頓狂な声を上げ、次の瞬間にはものすごい勢いで怒鳴った。


「こらっ!!何するんだお前ぇ!!」


 ……すっごく怖かった。思っていたよりずっと怖い声だった。


 後から考えれば、その男はただの通行人だった。神殿に参拝した帰りの、普通の信徒だった。でも少年にはそれがわからなかった。怖い声を聞いた瞬間に、体が動いていた。少年は一瞬で青ざめ、そのまま一目散に逃げ出した。走った。転びそうになりながらも、とにかく走った。


 なんとか撒けた頃には息が切れ、心臓が喉から飛び出しそうだった。壁に手をついてぜいぜいと呼吸しながら、少年は確信した。やっぱり悪い奴に決まってる。あんな怖い声を出すなんて、絶対そうだ。


 でも、走ったせいで余計に腹が減った。少年は壁にもたれたまま、自分の腹を押さえる。あたりを見回した。通りに人が歩いていた。荷物を持った大人たちが、足早に通り過ぎていく。誰も少年を見ていなかった。少年がそこにいることを、誰も気にしていなかった。


 その気にされなさが、少年にはいつも少し刺さった。


 盗みは悪いことだって、ナスレスクさまも父ちゃんも言っていた。それは知っている。でも——と、少年は必死に理屈を探す。いや、おれは紡遣者になるんだから。紡遣者はゲンチチョータツってやつが基本だって父ちゃんが言ってた気がする。だったら、これは仕方ない。たぶん、そういうことだ。


「……よし」


 小さく頷く。ちょうど通りの角に、パン屋があった。表に並べられた丸パンからは、まだ焼きたての小麦の匂いが立ちのぼっていた。空腹の腹に、その匂いが直接突き刺さってくる。


 少年は丸パンをひとつ掴んで、そのまま走る。


「ちょっ、こらああっ!!」


 すぐに店の姉ちゃんの声が追いかけてきた。これも、すっごく怖かった。だけど、たぶん今度は自分が悪い。それくらいは、少年にもわかった。結局、また必死で逃げることになった。


 息は切れるし、腹は痛いし、パンは少し潰れてしまった。ようやく人気のない場所まで来て、少年は壁際にへたり込んだ。パンを抱え込みながら、小さく齧った。


 おいしかった。おいしいのが、余計につらかった。


 日が傾いてくる。空気がどんどん冷えていく。腹の中に入ったパンなんてあっという間になくなって、すぐにまた寒さと空腹だけが残った。


 このままだと、本当に危ない。そう思った瞬間、目の奥がじんわり熱くなる。


 でも、泣かない。つよい紡遣者は泣かないんだ。父ちゃんは、何があっても泣かなかった。


 少年は唇を噛み、涙を押し込めた。それから路地裏をとぼとぼと歩く。石畳の隙間には夜の冷えが沈み込み、薄い靴底越しに足が痛かった。人の気配は少ない。家々の灯りだけが、遠くにあたたかく見えた。




 その時だった。


「きみ、今日は寒いね。ぼくと手を繋ぐといいのさ」


 声がした。驚いて顔を上げる。そこには、一人の竜人族が立っていた。


 どこかで見たことがあるような気がした。いや、見たことがあるというより、知っているはずの顔に少し似ていた。でも、誰なのかは思い出せない。


 兄ちゃんは、にこにこと笑っていた。少しだけ気味が悪いくらい、やさしい笑顔だった。少年は咄嗟に身構える。悪い大人かもしれない。神殿のふりをしたおじさんの仲間かもしれない。


 けれど、差し出された手はなぜか怖くなかった。振り解こうと思えば振り解けたはずなのに、なぜだか指先がそのまま止まった。


 兄ちゃんの手は、ひどくあたたかかった。


「こっちにいくと、良いことがあるのさ」


 兄ちゃんは当たり前みたいに言う。


「大丈夫。ぼくはなんでも知ってるのさ」


 それから、少年の手を引いて路地を歩き出した。少年は半信半疑のままついていく。


「……なんで、知ってるの」

「なんでもお見通しだからさ」

「うそだ」

「うそじゃないのさ」


 兄ちゃんはくすくす笑った。


「きみの物語は、まだ始まったばかりなんだよ」


 兄ちゃんは歩きながら言う。


「いま苦しいのは、きっとまだ語られるべき章が書かれていないからさ」

「語るって、誰が聞いてくれるの?」


 兄ちゃんは少しだけ目を細めた。


「ぼくが聞くのさ」


 その声は、冗談みたいに軽いのに、なぜかちゃんと耳に残った。


「そしてきっと、いつか君も、誰かの話を聞くようになる。孤独を繋ぐ糸になるのさ」


 難しい言葉は、半分くらいしかわからなかった。でも、不思議と嫌じゃなかった。


 しばらく黙って歩いた。兄ちゃんの手はずっとあたたかい。路地の冷たい空気の中で、その温かさだけが確かだった。



「……ひとりで生きていくって決めたんだね。えらいのさ」


 兄ちゃんが、ぽつりと言った。少年は足を止めかけた。


「……なんで、それ」

「さっき言ったろう?」


 兄ちゃんは揶揄うみたいに笑う。


「ぼくはなんでもお見通しさ」


 その瞬間だった。


 ずっと我慢していたものが、急に決壊した。涙がぼろぼろこぼれた。自分でも驚くくらい止まらない。なんでだかわからない。でも、この兄ちゃんの前では、泣いてもいいような気がしてしまった。


「父ちゃん……帰ってこないんだ」

「うん」

「ほんとは……わかってる」

「うん」

「ひとりは、やだ……」


 言葉にした瞬間、もう止まらなかった。


 母ちゃんのことも。父ちゃんがいなくなったことも。悪いことをして、ナスレスクさまに見捨てられるのが怖かったことも。強くなりたいのに、全然強くなれないことも。ぜんぶ、ぜんぶ話した。


 兄ちゃんは、一度も遮らなかった。ただ、にこにことしながら、ちゃんと聞いてくれた。それが嬉しかった。離れたくない、と少年は思った。このままずっと手を引いていてほしい、と。


 だから思わず、にいちゃんが、本当のにいちゃんだったらよかったのに——そう言いかけて、急に恥ずかしくなって口をつぐんだ。


 もじもじしているうちに、兄ちゃんが足を止めた。


「着いたのさ」


 そこは孤児院だった。


 見上げた建物の前には、ずんぐりむっくりした大人が立っていた。しかも片腕がない。顔も怖い。少年はびくっとして、慌てて兄ちゃんの後ろへ隠れようと振り返る。


 だが。そこに、もう兄ちゃんはいなかった。


「……え?」


 さっきまで確かに繋いでいた手の温もりだけが、まだ指先に残っていた。辺りを見回した。路地の左右を見た。でも兄ちゃんの姿はどこにもない。煙みたいに、消えていた。


 どこから来て、どこへ消えたのか。そもそも何者だったのか。少年には何もわからない。ただ、手の温もりだけが残っていた。




 混乱している少年に、片腕の男がゆっくり近づいてきた。


 怖い。また悪い大人かもしれない。少年は後ろに下がろうとした。でも後ろには壁があった。逃げ場がなかった。


 男は少年の前に来て、立ち止まった。ゆっくりと少年を見下ろす。怒っている顔ではなかった。かといって、優しい顔でもなかった。ただ、見ていた。


 それから、男は口を開いた。


「……寒かったろ」


 その言葉が、あまりにも予想外だった。


 怒鳴られると思っていた。捕まえられると思っていた。でも男が言ったのは、それだけだった。妙だった。妙におかしくて、少年は思わず笑ってしまう。


「だって……顔、こわいのに、声はやさしい」


 言った瞬間、しまったと思った。怒られるかもしれない。だが男は、わずかに呆れたように鼻を鳴らしただけだった。


「よく言われる」


 少年は男を見上げる。怖い顔だった。目つきが鋭くて、眉間に深い皺があって、口元が固かった。でも声は、さっき聞いたように、顔に似合わない。それに、片腕がなかった。肩口から先が、ない。少年はそれを見て、少し考えた。


「おっさん、紡遣者?」

「元な」

「元?」

「腕を失ったら、紡遣者は続けられない」


 男はそれだけ言った。淡々としていた。悲しそうでも、怒っているわけでもなかった。ただ、そういう事実として言った。


 少年はそれを聞いて、少しだけ黙った。このおっさん、なんだか父ちゃんに少し似てる。


 そう言うと、男は一瞬だけ目を見開いた。


「……ああ」


 それから、ゆっくり頷いた。


「おまえの父親、知ってるぞ。一緒に仕事したことがある」


 その言葉に、少年は目を丸くする。


「ほんとに!?」

「ほんとだ」

「父ちゃん、強かった!?」

「強かったな」


 男は少しだけ口元を緩めた。


「かっこつけで、無茶ばっかりして、でも最後にはちゃんと人を助ける奴だった」


 それから、少しだけ間を置いて付け足した。


「酒に弱いくせに強がって飲んで、毎回潰れてたけどな」

「えっ」

「そういうとこはちょっとダサかった」


 少年は思わず吹き出した。父ちゃんのそんな話、初めて聞いた。なんだか急に、胸の奥の固いものが少しだけ緩んだ気がした。


 男は治療院で受付の仕事をしているが、孤児院にもたまに顔を出しているのだと、後からシスターたちに教えてもらった。何十年も紡遣者をやってきた男で、この街ではそれなりに知られた存在らしかった。名を、グンダといった。


 少年はその夜、孤児院の中に入った。シスターが温かいスープを出してくれた。湯気と、煮込んだ根菜の匂い。それが体の芯まで染み込んでくる。ベッドを使っていいと言ってくれた。毛布もあった。少年は毛布にくるまって、天井を見た。腹の中にスープが入っていた。体が温かかった。


 泣かなかった。泣かないでいられた。でも目が少し熱かった。ここが、しばらくいる場所になるのかもしれないと、そのとき初めて思った。


 それから数か月、少年はその孤児院で暮らすことになった。


 最初はルールもよくわからなかったし、知らない子供ばかりで落ち着かなかった。院には竜人族の子も、人族の子も、岩人族の子もいた。みんなそれぞれに、何かを失ってここに来ていた。最初の一週間は、少年は誰とも話さなかった。食事の時間になると食堂に降りて、端の席に座って、黙って食べて、部屋に戻った。


 あの怖い顔したおじさん——グンダが来た日も、少年は端の席にいた。グンダは少年を見た。少年もグンダを見返す。互いに何も言わなかった。ただ、少年の前にパンをひとつ置いて、別のテーブルに座った。それだけだった。でも少年には、それが不思議とありがたかった。何かを言われるより、ただ置かれたパンの方が、言葉より重かった。


 友達ができたのは、二週間が経った頃。同じ竜人族の男の子だった。年は少年より一つ下で、角がまだ生えていなかった。その子が先に話しかけてきた。


「ねえ、翼、いつ動かせるようになるかな?」


 唐突な質問だった。


「知らない」と少年は答えた。

「ぼくも知らない。でも早く動かせるようになりたい」

「どうして」

「飛びたいから」


 それだけの会話だった。でも翌日、また同じ子が隣に座った。その次の日も。気づいたら、毎日隣にいた。


 喧嘩もした。ある日、食堂の席をめぐって別の子と言い合いになった。少年は引かなかった。相手も引かなかった。シスターに止められるまで、二人は睨み合っていた。


 その夜、グンダが少年の部屋の前を通った。


「喧嘩したそうだな」

「した」

「勝ったか」


 少年は少し考えた。


「引き分け」

「そうか」


 それだけ言って、行った。叱られると思っていたから、少年は少し拍子抜けした。でも翌日、グンダが少年に言った。


「喧嘩するなら、相手の言い分を聞いてからにしろ。聞いた上で納得できなかったら、その時に喧嘩しろ」

「どうして」

「聞かずに喧嘩すると、たいてい後で損をするからだ」


 理屈だった。でもその理屈が、少年にはわかりやすかった。父ちゃんの言い方に似ていた。


 読み書きも少しずつ覚えた。シスターの一人が教えてくれた。最初は文字の形が全部似ていて、何度見ても覚えられなかった。でも諦めなかった。父ちゃんは、諦めたら終わりだと言っていた。


 ある日、グンダが帳簿をつけているのを見た。片腕で、ゆっくりと文字を書いていた。


「おじさんも、字を書くの?」

「治療院の仕事でな」

「難しくない?」

「難しい。でも覚えた」


 少年は黙ってその手を見ていた。片腕で、ゆっくりと、確かめながら書いていく手を。難しくても覚えた。その一言が、少年の背中を少し押した。


 そしてある冬の朝。まだみんなが寝静まっている時間に、少年はひとりで食堂に降りていた。寒かった。急に、どうしようもなく寂しくなった。


 窓の外は暗かった。雪が降っていた。シュトラーの冬の最初の雪。


 少年は窓の外を見ながら、父ちゃんのことを考えた。母ちゃんのことを考えた。あの兄ちゃんのことを考えた。その時、ふいに、あの兄ちゃんの声がした気がした。


 『君の物語を、君自身が歩むこと。それがいちばん美しい語りになるのさ』


 少年は顔を上げる。もちろん、そこに誰もいない。でも声は確かに聞こえた気がした。耳ではなく、胸の奥で聞こえた気がした。


 その日から、少しずつ何かが変わった。他の子供たちと積極的に話すようになった。手伝いをするようになった。聖句を覚えた。歌を覚えた。誰かが泣いていたら、隣に座ることを覚えた。笑う回数が増えた。名前を呼ばれる回数も増えた。誰かと「また明日」と言い合えるようになった。


 グンダが来た日、少年はもう端の席にはいなかった。食堂の真ん中で、他の子供たちと笑いながら食事をしていた。彼はその様子を、扉の前からしばらく見ていた。それから、少しだけ口元を緩めて、いつもの席に座った。少年は気づいて、手を振った。彼は手を振り返さなかった。でも鼻を一度鳴らした。それが彼なりの返事だと、少年はすでに知っていた。



 月日は流れた。


 少年は大人になった。角は立派になった。翼も生えた。初めて空を飛んだ日のことを、少年はよく覚えている。風が体を支えた瞬間の、あの感覚。あの日、少年は思い切り笑った。いまでは孤児院の食堂を手伝い、やんちゃなガキどもをまとめ、たまに迷い込んできた子に温かいスープを差し出す側になっている。


「ほら、ここ座って」


 この日も、入口で警戒していた小さな子にそう声をかけた。


「今日は寒かったろ」


 怯えた目。縮こまった肩。どこか、昔の自分を見ているみたいだった。だから、自然と次の言葉が口をついて出た。


「きっと、君の物語も始まったばかりだよ」


 言った瞬間、自分で少しだけ驚いた。あの竜人族の兄ちゃんが、あの夜言っていた言葉だった。


 そして、ふと思った。あの日、寒い路地裏で、自分の手を取って歩いてくれたあの人は。もしかしたら、語りの御方ナスレスク様だったのかもしれない。そう考えると、胸の奥に奇妙な温かさが灯った。


 語りの御方は、今もどこかで、誰かの隣を歩いているのだろうか。新しい語りが途切れないように。また別の孤独が、次の誰かへ手を伸ばせるように。そのために、静かに糸を紡ぎながら。


 その夜、少年は窓の外を見た。雪が降っていた。あの冬の朝と同じ雪。でも今は怖くなかった。寂しくもなかった。食堂の奥では、子供たちの声がしていた。笑い声が聞こえた。誰かが歌を歌っていた。


 少年は胸の前で手を組んだ。


「ナスレスク様」


 静かに言った。


「あの夜、手を引いてくれてありがとうございました。あなたのおかげで、ぼくの物語は続きました」


 少し間を置いてから、続けた。


「どうかこれからも、手を引いてもらえずにいる誰かの隣に、寄り添ってあげてください」


 祈り終えて、窓の外を見た。雪は降り続けていた。静かに、丁寧に、街全体を白く覆っていた。


 食堂からまた笑い声がした。少年は立ち上がって、その声の方へ歩いた。

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