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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
御方の祝福とともに I
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御方の祝福とともに I 004

 春の風は、その朝、ひどく穏やかだった。


 窓の外では、まだ若い陽光が石造りの建物の壁をやわらかく照らしている。遠くで鳥が鳴き、どこかの家の煙突からは朝の支度の煙がまっすぐ上がっている。街路を行く人の足音が、石畳の上で規則的に響く。荷物を抱えた商人が、開いたばかりの店の前で挨拶を交わしている。シュトラーの朝は、いつもこうして静かに動き出していく。


 けれど、エミナの胸の内だけは少しも穏やかではない。


 その日、彼女は夜明けよりも早く目を覚ましていた。浅い眠りを何度も繰り返したせいで、頭は少しぼんやりしている。それでも身体は妙に冴えていて、緊張だけが皮膚のすぐ下をちりちりと走る。枕元に置いた新しい制服から、糊と綿のまだ硬い匂いが立ちのぼってくる。その清潔な匂いが、今日という日の初めてを嗅覚から告げてくる。


 エミナは、この街で生まれ育った人族の娘である。父は石工で、母は布を織る職人だった。兄が二人いて、妹が一人いた。六人家族で、狭い家に暮らしていたが、食卓はいつも賑やかだった。


 助産師という仕事を志したのは、十二の頃だった。


 その年の秋、隣家の奥さんが出産した。難産だった。夜通し叫び声が聞こえて、エミナは眠れなかった。翌朝、隣家から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたとき、エミナは理由もなく泣いていた。何がそんなに嬉しいのか、自分でもわからなかった。ただ、泣かずにはいられなかった。


 その日の夕方、母に連れられて隣家へ挨拶に行った。生まれたばかりの赤ちゃんを見た。小さかった。信じられないほど小さかった。拳を握って、目を閉じて、眠っていた。その存在が、この世に来たばかりだということが、エミナには奇跡のように思えた。


「助産師さんが助けてくれたのよ」と母が言った。「夜通し、ずっと傍にいてくれたんだって」


 エミナは、その言葉を聞いて、自分がなりたいものを知った。


 助産師見習いとして働き始めたのは、十七の頃だった。最初は薬草の分類と器具の洗浄から始めた。地道な仕事だったが、嫌だとは思わなかった。これが命に寄り添う仕事の土台なのだと、最初から信じていた。


 リオナという先輩に出会ったのは、見習いを始めて半年が経った頃。


 彼女は、この仕事を二十年以上続けているベテランだった。年の頃は四十代の半ば。整った身なり、穏やかな目元、忙しい朝でも決して慌てたように見えない所作。何百もの命の誕生に立ち会ってきた人間の、静かな確かさがあった。


 エミナが初めてリオナと仕事をしたとき、その手際の良さに目を奪われた。無駄な動きがない。迷いがない。でも急いでいる様子もない。必要なことを、必要なときに、必要なだけやる。


「命はね、ちゃんと自分で生まれてくるの」


 リオナはある日、そう言った。


「私たちはその手助けをするだけ。でもその手助けが、どれだけ大切かということを、忘れてはいけないのよ」


 エミナはその言葉を、手帳に書き留めた。今でも時々、読み返す言葉。


 リオナは厳しかった。間違いはきちんと指摘した。でも貶めることはなかった。間違いの理由を一緒に考えて、次にどうすればいいかを一緒に探した。エミナにとって、リオナは先輩であると同時に、どこか姉のような存在でもあった。怖くもあり、頼もしくもあり、憧れでもある、そういう人。




 ベッドから起き上がり、静かに制服を手に取る。


 まだ新しい布地は少し硬く、糊のきいた感触が指先に残る。袖を通しながら、エミナは小さく息を吐く。


「……大丈夫」


 言ってみる。けれど自分の声は思っていたより頼りなく、少しだけ震えていた。


 鏡の前に立つ。深呼吸をひとつ。ふたつ。それから、ぎこちなく口元に笑みを作ってみる。


「大丈夫、大丈夫……」


 今日、エミナは初めて出産に立ち会う。


 助産師見習いとして学んできたことは多い。手順も、準備も、呼吸の確認も、器具の受け渡しも、頭では何度も繰り返してきた。何十回も練習した。リオナの仕事を傍で見ながら、目で覚えた。


 けれど、知っているのと立ち会うのとでは、きっと違う。命がこの世へ現れる瞬間に、自分もその場にいる。そう思うだけで、胸が詰まりそうになる。


 朝食は半分しか食べられない。緊張のせいで食欲がない。それでも無理に口に入れた。今日は体力がいる仕事だと、リオナに言われていたからだ。パンの焼けた匂いすら、今朝は少し遠く感じる。


 食べながら、窓の外を見る。春の朝の光が、石造りの建物を斜めに照らしている。隣家の子供が、走って学校へ向かっていた。転びそうになって、でも転ばなかった。石畳の継ぎ目を飛び越えながら、角を曲がって消えていった。


 エミナはその光景を見て、少し気持ちが落ち着く。


 今日も、街はいつも通り動いている。誰かが走って、誰かが歩いて、誰かが笑っている。その中で、今日も新しい命が、この世に来る。それはこの街の毎日の一部だ。自分はその一部に、今日初めて加わる。そう思うと、少しだけ、呼吸が楽になる。


 病院へ向かい、分娩室へ続く廊下に立った時、エミナは自分の足が少し強ばっているのに気づく。やけに長く感じる廊下。一歩踏み出すたびに、心臓が喉元までせり上がってくるような気がする。手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。


 廊下の壁には、小さな神棚が設けられている。語りの御方ナスレスクへの祈りを捧げる場所だ。エミナは立ち止まって、胸の前で手を組んだ。


「語りの御方ナスレスク様」


 小さな声で言った。廊下には自分しかいない。


「今日、初めて命の誕生に立ち会います。どうか、お母さんと赤ちゃんを守ってください。そして私が、今日必要なことを、ちゃんとできるようにしてください」


 祈り終えて、顔を上げる。廊下の先から、やわらかな足音が近づいてくる。


「おはよう」


 落ち着いた声。顔を上げると、リオナがいた。整った身なり、穏やかな目元。忙しい朝でも決して慌てたように見えない所作は、今日も変わらない。


 リオナは一目でエミナの様子を見抜いたらしく、少しだけ口元を緩める。


「……緊張しているわね」


 その一言に、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。エミナは恥ずかしそうに眉を寄せる。


「はい。すごく」

「それでいいのよ」


 リオナは、まっすぐにそう言う。


「緊張するのは当然。でも大丈夫。命はね、ちゃんと自分で生まれてくるの」

「……自分で」

「ええ。私たちはその手助けをするだけ」


 そう言って、リオナは一瞬だけ窓の外へ目を向けた。


「それに、語りの御方はきっと見守ってくださっているわ」


 エミナは小さく頷いた。その言葉を聞くと、不思議と呼吸が整う。


「行きましょう」





 リオナの後について、分娩室へ入る。


 中ではすでに陣痛が始まっていた。若い女性がベッドに横たわり、汗に濡れた額で深く息を繰り返している。その傍らには夫がいて、彼女の手をしっかり握っていた。顔には不安が浮かんでいる。けれど、握る手には逃げないという決意が見えた。


 分娩室の空気は、外の春の空気とは全く違う。温かく、湿っていて、どこか張りつめている。消毒に使った薬液のつんとした匂いと、湯気の熱、汗の塩気。それらが一つに混ざって部屋の中央に溜まっている。窓は小さく、外の光は柔らかく差し込んでいたが、部屋の中心にはベッドがあり、その周りに必要なものが整然と並べられていた。


 エミナは胸の前で手を揃え、できるだけ穏やかに声を出した。


「初めまして。助産師のエミナと申します。今日、一緒に頑張らせてください」


 緊張で喉は少し硬かったが、それでもなんとか笑顔を作った。母親は苦しそうにしながらも、うっすら頷いてくれる。


 リオナはすでに動いていた。母親の状態を確認し、器具の位置を確かめ、医師と短い言葉を交わす。その動きに無駄がない。長年の経験が染みついた、静かで確かな動き。エミナは自分の役割を思い出す。記録を取ること。器具を渡すこと。リオナの指示に従うこと。頭の中で何度も繰り返してきたことだ。でも今、その全てが、生きた時間の中で起きている。


「エミナ」


 リオナの声が飛んだ。


「タオルを温めておいて。温度は手で確かめること」

「はい」


 動いた。体が動いた。緊張はあった。でも手は動いた。


 時間が経つにつれ、部屋の空気が変わっていく。最初は穏やかな緊張だった。でもそれが、少しずつ凝縮されていくような感じがする。全員の意識が、一点に向かっていく感覚。


 母親の呼吸が変わった。浅く、速く、そして深く。父親の顔から、不安が消えた。不安の代わりに、真剣さだけが残る。妻の手を握る力が、少し強くなったのが、エミナの目にも見えた。


 医師の声が、低く落ち着いている。リオナの指示が、簡潔で明確だ。


「エミナ、布を替えて」

「はい」

「水を含ませてあげて」

「はい」


 自分の声も、その流れの中へ混ざっていく。


 母親が声を上げた。痛みをこらえる声だった。それでも荒れた声ではなかった。前に進もうとする意志があった。


「大丈夫です、しっかり息を吐いて」


 エミナは母親の隣に立って言った。母親がエミナを見た。一瞬だけ、目が合った。苦しそうだったが、その目には確かに意志があった。


 その目を見て、エミナは自分の役割がわかった気がした。技術ではない。ここにいること。逃げないこと。


 長い時間のように感じたが、実際にはそれほどでもなかったかもしれない。医師の声が、少し変わった。


「もうすぐだ」


 部屋全体が、その一言で変わる。父親が立ち上がった。妻の頭の傍に移動して、その額に手を当てた。


「頑張れ」


 それだけだった。でもその一言には、長い夜を一緒に過ごしてきた二人の時間が全部入っていた。


「もう少し、そう、その調子」


 リオナの声が、穏やかに響く。


「旦那さん、手を離さないであげて」


 そして。


 部屋に、初めての産声が響いた。


 エミナは一瞬、動けなかった。泣き声だった。小さくて、でも確かで、力強い泣き声。この世に生まれてきたことへの、最初の主張。


「産まれました!元気な女の子です!」


 医師の声が飛んだ。その一声は、春の空気そのものを塗り替えるみたいに鮮やかだった。


 エミナの肩から、一気に力が抜けた。知らず知らずのうちに、肩に力が入っていたことに、その瞬間初めて気づく。妻を支え続けていた夫も、張りつめていた呼吸をようやく吐き出したように、その場で崩れそうになった。よかった。本当に、よかった。


 その瞬間だった。


「もうひとりいるわ!双子よ!」


 リオナの声が飛んだ。エミナは目を見開いた。一度緩みかけた緊張が、今度はもっと鋭い形で身体を走る。


「は、はい!」


 弛みそうになった意識を引き戻し、次の準備へ走る。手が震えそうになるのを押さえ込みながら、必要な器具を揃える。


 父親は、最初の声を聞いてその場に崩れそうになっていたのに、今度は再び目が覚めたような顔になっていた。妻を見た。妻も夫を見た。二人の間に、言葉はなかった。でも何かが通じていた。


「もう少し頑張りますよ」


 リオナが母親に向かって言った。穏やかだったが、確かな声。母親は目を閉じたまま、うっすら頷いた。


 二つ目の陣痛が来た。最初より短かった。でも母親の体には、すでに長い時間の疲労が積み重なっていた。エミナはリオナの指示に従い続けた。考えていなかった。考える余裕がなかった。ただ、必要なことをやった。やるべきことをやった。


 部屋の空気が、また一点に向かって収束していくのを感じる。医師の声が変わった。リオナの動きが変わった。


「もうすぐ」


 そして、まもなく。


「男の子!こっちも元気よ!」


 二つ目の産声が、今度は重なるように響いた。部屋の空気が変わった。


 父親は両手で顔を覆い、肩を震わせながら何度も「ありがとう」と繰り返していた。妻に向けて。生まれた子どもたちに向けて。そしてきっと、語りの御方に向けても。


 母親は汗に濡れたまま、静かに目を閉じた。小さなふたつの命の重みをその胸に受け止めるように、ゆっくりと息を吐いた。


 エミナには、その光景がひどく美しいものに見えた。まるで一枚の絵画みたいに、静かで、やわらかく、強かった。


 少し経ってから、エミナは自分が泣いていることに気づく。いつの間にか、頬が濡れていた。拭おうとして、手が震えていることにも気づく。震えは恐怖ではなかった。もっと別の何かだった。


 リオナが横に来た。


「大丈夫?」

「はい」とエミナは言った。「泣いてしまいました」

「いいのよ」


 リオナは静かに言う。


「私も、最初はそうだったから」


 エミナは驚いて、リオナを見た。リオナは前を向いたままだった。でもその横顔に、何か遠いものを見ているような、穏やかな色があった。


「二十年以上経った今でも、誕生に立ち会う度に、少しだけ涙が出ることがある」


 リオナは小さな声で言う。


「それは弱さじゃない。命に向き合っている証拠よ」


 部屋が落ち着いてきた頃、二人の赤ちゃんは並んで眠っていた。姉の方が先に眠った。弟の方はまだ少し声を上げていたが、それもすぐに収まった。父親は椅子に座って、妻の手を握ったまま、目を閉じていた。眠っているのかもしれなかった。それでも手は離さなかった。


 母親は静かに目を開けて、二人の子供を見ていた。その目に、疲労があった。でも疲労より深いところに、温かい光があった。


 エミナはその光景を、少し離れたところから見ていた。自分は今日、この場にいた。この瞬間の一部だった。それが、実感として、じわじわと体に染みてくる。


「エミナ」


 リオナの声がした。


「よく頑張ったわ」


 短い言葉。でもその言葉を聞いて、エミナは改めて、自分がここにいることの意味を感じた。命が二つ、今日この世に来た。自分はその場にいた。それだけで、十分だった。





 それから五日後。


 ナスレスク信仰のある地では、古くからのしきたりがある。助産師が初めて命を取り上げた時、その子の生誕の祝福へ参列すること。それは単なる儀礼ではない。命に対する責任を胸へ刻み、自らの祈りの形を見つめ直すための、助産師としての本当の第一歩。


 白い布を纏い、エミナは病院の裏手に設けられた小さな神殿へ向かう。春の日差しはやわらかく、道の両脇には色とりどりの花が咲いている。清められた小道には、花の香と、焚きしめられた微かな香の匂いが重なっている。清められた小道を歩くたびに、不思議と心が落ち着いていくのを感じる。五日前の緊張とは違う、静かで穏やかな気持ち。


 神殿は小さかった。大きな聖堂のような威厳はない。でもその小ささが、今日という日には合っていた。生まれたばかりの命を迎えるための場所は、こういう規模でいいのかもしれない——エミナはそう思う。


 石畳が敷かれた小道の先に、白い石造りの建物がある。入り口には春の花が飾られている。誰かが今朝、飾ったものだろう。まだ新しく、花びらに露が残っていた。建物の前には、すでに何人かが集まっていた。


 双子の両親がいた。父親は娘を抱いていた。五日前とは顔が違った。あの夜の緊張も、不安も消えていた。代わりに、少しぎこちない手つきで娘を抱く、新しい父親の顔があった。母親は息子を抱いていた。疲労の色はまだあったが、それよりも深いところに、温かい光があった。五日前に見た、あの光。


 リオナも来ていた。白い布を纏って、静かに立っていた。エミナと目が合うと、小さく頷いた。それだけだったが、十分だった。


 神殿の前には、若い神官見習いが立っていた。白い祭服に身を包み、緊張を隠すように背筋を伸ばしている。その横顔にはまだ少年の面影が残っていたが、目だけは真剣だった。眉が少しだけ困ったような形に下がっている——そういう顔立ちの青年だった。エミナは少し親近感を覚えた。五日前の自分も、きっとあんな顔をしていたのではないかと思った。


 彼は参列者を一人ずつ見渡した。それからゆっくりと、準備を整え始めた。


 祝福の儀式は、静かに始まった。神官見習いが、ナスレスクの聖印を高く掲げた。


 その瞬間、風が止んだ。ざわめいていた花々が、ぴたりと動きをやめる。空気はふいに澄み切り、世界そのものが息をひそめたみたいに静まり返る。


 神殿の天蓋から差し込む光が、ゆっくりと金色を帯びていく。花々が一斉にそよぎ、香りがふわりと濃くなる。大気そのものが、目には見えない何かで満たされていくような神聖さがあった。エミナは思わず息を止めた。


 それは、語りの御方ナスレスクの祝福を賜る瞬間だった。


「語りの御方の導きのもとに産まれし命たちに、祝福と未来への光を」


 神官見習いの声が、風そのものみたいに静かに響く。


「名も、声も、夢も、そして魂も、導かれしものとして受け入れられんことを」


 その声は空へ溶けていくように消えた。


 エミナは目を閉じた。この光景は、世界のどこで子が生まれても変わらず訪れるものだと、教わってきた。種族を問わず、人の生まれに等しく注がれる御方の祝福。生まれた命は、その瞬間に語りの種を授かり、見守られ、そして語りのひとつとして受け入れられるのだと。


 目を閉じた暗闇の中で、エミナは五日前のことを思い出す。分娩室に初めて入った朝の緊張。リオナの落ち着いた声。母親の、苦しそうでいて前を向いていた目。父親の、握り続けた手。双子の、最初の泣き声。


 二つの命が、この世に来た。自分はその場にいた。それが今、胸の中で静かに輝いている。


 祝福の光が、部屋全体に満ちていく感じがした。エミナは、自分の隣に立つリオナをそっと見た。リオナは目を閉じていた。胸の前で手を組んで、静かに祈っていた。その顔は穏やかだった。二十年以上この仕事を続けてきた人間の、静かで深い顔。


 どれほどの命の誕生に立ち会ってきたのだろうと、エミナは思う。どれほどの喜びを見てきたのだろう。どれほどの悲しみも、見てきたのだろう。それでも、リオナは今日もここにいた。新しい命の誕生を祝うために、ここに立っていた。その姿を見て、エミナは自分がこの仕事を選んだことを、改めて良かったと思った。


 参列者たちは一斉に目を閉じ、手を組んでいた。父親は娘を抱いたまま、目を閉じていた。その腕の中で、娘は眠っていた。何も知らずに、ただ温かい腕の中で眠っていた。母親は息子を胸に抱いて、静かに祈っていた。その口元が、わずかに動いていた。何を祈っているのかは聞こえなかった。でもエミナには、なんとなくわかった。この子が健やかに育ちますように。幸せでありますように。きっとそういう祈りだった。


 二人の子供は、まだ何も知らなかった。この世界のことを、自分たちを待っている人たちのことを、これから歩んでいく長い道のりのことを。


 でも今、その小さな命は、温かい腕の中にいた。見守られていた。愛されていた。それで十分だった。


 エミナも、そっと目を閉じた。胸に浮かぶのは、分娩室にこだました最初の産声。涙をこぼしながら笑っていた父親の顔。疲れ切った身体で、それでも子を抱き寄せた母親の腕。そして自分の手に残っているような気がする、小さな命の重み。


 そのすべてが今、やわらかな光と共に心の中へ満ちていた。


「語りの御方ナスレスク様」


 胸の前でそっと手を組む。


「この子たちが、健やかに、幸せに育ちますように」


 祈りながら、エミナはこの五日間を思い返した。分娩室の緊張。双子が生まれた瞬間の驚きと喜び。リオナの「よく頑張ったわ」という言葉。帰り道、春の空が妙に青く見えたこと。全部が、今日この瞬間に繋がっていた。


 祈り終えて、エミナはもう少しだけ目を閉じたままでいた。次に胸に浮かんだのは、少しだけ個人的な願いだった。


 いつか、私にも。


 あんなふうに誰かの手を握って、命の誕生を迎える日が来るのだろうか。優しくて、少し頼りなく見えるくせに、いざという時にはちゃんと責任を取ってくれるような人。子どもが好きで、笑うとくしゃっと目尻が下がるような人。


 そこまで考えて、自分でも少し恥ずかしくなる。欲張りすぎかしら。でも、私だって、あたたかい家庭を築いてみたい。


 その願いが浮かんだとき、不思議と恥ずかしさより先に、温かさの方が大きかった。いつかそういう日が来るかもしれない。来ないかもしれない。でも願うことは、誰にでも許されていることだと思った。


 祝福の鐘が、澄んだ音で空へ響いた。止まっていた風が、ふたたびやわらかく流れ出す。花びらがひらひらと舞い、金色の光はゆっくりと淡くほどけていった。


 神官見習いが、聖印をゆっくりと下ろした。その顔から、緊張が少しだけ解けていた。父親が目を開けた。娘を抱き直して、妻を見た。妻も目を開けて、夫を見た。二人の間に、言葉はなかった。でも十分だった。


 参列が終わって、小道を歩きながら、エミナはリオナに話しかける。


「リオナさん」

「なに?」

「助産師になって、良かったと思いますか」


 リオナは少し間を置いた。


「毎日思うわ」


 そう言って、少しだけ笑った。


「特に、こういう日は」


 エミナは頷いた。


「私も、そう思います」


 まだ見習いだった。まだわからないことの方が多かった。でも今日という日が、自分の中に確かに刻まれていた。春の日差しの中を、二人は並んで歩いた。花の香りが、風に乗って流れていた。


 その夜、エミナは手帳を開いた。日付を書いて、今日のことを書き留めた。祝福の儀式のこと。金色の光のこと。双子の眠っている顔のこと。リオナの言葉のこと。最後に、一行だけ付け足した。


 この仕事を続けよう、と。


 ペンを置いて、窓の外を見る。夜の空に、星が出ていた。


 エミナは胸の前で手を組んだ。


「語りの御方ナスレスク様」


 静かに言った。


「ありがとうございました。どうかあの子たちが紡ぐ物語を、見守ってください」


 少しだけ迷ってから、心の中でそっと付け足した。


 そして、私の願いも。ほんの少しだけでいいから、心に留めておいてください。


 窓の外で、風が柔らかく吹いた。星が、静かに輝いていた。

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