御方の祝福とともに I 003
紡遣者
——それは、人々を魔物や無貌魔の脅威から守り、語りを紡ぐために遣わされる者たちの総称である。
人類の生存圏を広げるため、魔を祓い、道なき地に新たな語りを拓く者。脅威から人々を守り、誰かの物語がそこで途絶えることを拒む者。街から街へ渡り歩き、語られなくなった物語に再び火を灯す者。
体力と技術があれば誰でもなれる。貴族の子も、孤児も、元農夫も、元商人も、志と力さえあれば門を叩くことができる。
だが志だけでは生き残れない職業でもある。魔物は強く、無貌魔はさらに危険で、この世界の脅威は人間の都合に合わせてくれない。どれほど腕が立っても、どれほど経験を積んでも、運が悪ければ一度の仕事で全てが終わる。それが紡遣者という生き方だ。
そう呼ばれる者たちの中に、かつて一時は名を馳せた男がいる。グンダ、という。
その日もグンダは、街の紡遣者ギルドの隅で酒を煽っている。春だというのに、北の街の空気はまだ冷たい。扉が開くたびに入り込んでくる風に、酒場のざわめきが少し揺れる。古い木の床に染みついた酒の匂いと、卓の向こうから流れてくる燻製肉の脂の香。その重たい匂いの層が、グンダの肩口あたりにまとわりついてくる。
グンダはもう四十が見えてきた年齢。目つきが鋭く、口は悪く、黙って座っているだけで新人の紡遣者が視線を逸らすような男である。身体つきはまだ頑丈だが、右腕だけがない。肩口から先が、空白になっている。前回の仕事で魔物に食いちぎられたのだ。
一命は取り留めた。だが、それだけだ。
利き腕を失えば、紡遣者としては終わりだった。剣も槍もまともに振れない。盾だって扱えない。護衛も討伐も探索も、片腕ではできることが激減する。グンダ自身、それを誰よりよくわかっている。だからこそ、酒を煽るしかない。
「……クソが」
吐き捨てて、また飲む。喉を焼く感覚だけが、まだ自分が生きていると教えてくる。
グンダには学がない。読み書きは最低限。帳簿なんて見ただけで頭が痛くなる。言葉遣いは荒いし、もともとの顔つきもあって、昔から一般人にも子供にも少し怖がられてきた。
だが、仕事だけはきっちりやる男である。依頼前の準備は怠らない。移動中に手を抜かない。索敵は丁寧で、撤退の判断も早い。粗暴なだけの男だと思って近づけば、誰より真面目に任務をこなす。新人たちは、そんなグンダを密かに憧れの目で見ていた。古参の紡遣者たちも、あいつは腕がいい、あいつなら背中を任せられると認めていた。
だが本人は、そんなことを知る由もない。いや、知ろうともしない。好かれるためにこの仕事をしていたわけじゃない。これしか生きる道がなかっただけだ。
グンダが紡遣者になったのは、十七の頃だった。
出身は主大陸の西の農村だった。両親は農夫で、兄弟が四人いた。貧しかったが、飢えるほどではなかった。家は狭く、食事は質素で、それでも誰かが笑っている家だった。土と藁と、母の煮炊きする豆の匂い。あれが、グンダの知る「家」の匂いだった。
それが変わったのは、グンダが十二の年の冬。
魔物が村を襲った。大きな個体だった。普段は森の奥に潜んでいるはずの種類が、餌を求めて人里まで下りてきた。村には紡遣者がいなかった。領主に助けを求めたが、援軍が来る前に三軒が潰された。
グンダの家は潰されなかった。でも父が死んだ。庇ったのだ。
母と弟妹たちを背に、農具を手に立ちはだかった父が、一撃で倒された。グンダはその場にいた。見ていた。動けなかった。
その後、紡遣者が来て魔物を討った。遅かった。父はすでに息をしていなかった。
紡遣者が去るとき、グンダは村の外れまでついていった。
「俺を連れてってくれ」
そう言った。十二歳の子供が、大人に向かって言った。
紡遣者は断った。子供は連れていけないと言ったが、グンダは引き下がらなかった。三日間、引き下がらなかった。
結局、紡遣者は断り切れなかった。正確には、三日間諦めずに立っていた子供を、見捨てられなかった。それがグンダの紡遣者としての始まりだった。
十七の頃には一人前と認められた。二十を過ぎた頃には、同じ隊の仲間から信頼されるようになった。三十を過ぎた頃には、名前が一人歩きするようになっていた。グンダに頼めば確実だ、という評判が、ギルドの中で広がっていった。
本人は相変わらず口が悪く、愛想もなく、礼儀も最低限だった。でも依頼は誠実にこなした。それだけが、グンダの誇りだった。
その誇りが、腕一本と一緒に消えた。
そう思っていたから、酒を飲むしかなかった。次に何をすればいいか、まったくわからない。紡遣者以外の自分というものを、三十年近く考えたことがない。
「相変わらず、ひどい飲み方ね」
ずかずかと近づいてきた女紡遣者が、グンダのテーブルに紙束をどさりと置く。グンダより少し年下で、遠慮も愛嬌もほどほどに持ち合わせた、口の強い女。名をセナという。数年前にパーティを組んで仕事をしたことがある。
「……なんだよ」
「仕事」
「見りゃわかる」
「そういう意味じゃなくて」
セナは椅子を引いて勝手に座ると、求人票の一枚を指で叩く。
「知り合いが街外れに治療院を開いたの。人手が足りないらしいわ」
「だから?」
「受付と、ちょっとした用心棒。どう?」
グンダは一拍置いてから、鼻で笑った。
「受付?俺が?冗談じゃねえ」
「こっちだって半分は冗談で持ってきたわよ」
「だったら失せろ」
「でも向こうは本気」
セナは肩をすくめる。
「一度、顔合わせだけでもしてほしいんだってさ。院長が」
「暇じゃねえ」
「暇でしょ、今」
返す言葉がなかった。グンダは舌打ちした。酒を一気に飲み干す。
どうせ行ったところで断るだけだ。そう思った。だが、断るために行くくらいなら構わないという、投げやりな気分もあった。セナがこういう話を持ってくるのは初めてではない。大抵は断ってきた。でも今日は、なぜか腰が上がる。
酒のせいかもしれない。それとも、ただ、このまま座っているのが嫌になっただけかもしれない。
「……一度だけだ」
「はいはい」
セナは満足そうに立ち上がった。
治療院は、街外れの静かな一角にあった。
想像していたより、ずっと小さい。看板も控えめで、外壁には春の花を植えた小さな鉢が並んでいる。家庭的、という言葉がいちばんしっくりくるような場所だ。扉の前まで近づくと、中から薬草を煮出した匂いがかすかに漏れてくる。甘苦い、鼻の奥に沁みるような匂い。酒場の脂ぎった空気とはまるで別の世界の匂いだ。
「ここかよ……」
グンダは眉をひそめる。こんな柔らかい場所、自分とはまるで縁がないと思った。
建物の前に立って、少し迷った。入るべきかどうかではなく、どう入るべきかを迷っていた。ノックして待つのが礼儀だとはわかっていたが、そういう所作に慣れていない。
結局、扉を二度叩いて待った。扉が開いて、中から一人の男が顔を出す。細身で、グンダよりいくつか若く見える。白衣の袖を肘まで捲り上げていて、手にはまだ布巾を持っている。どうやら雑務の途中だったらしい。
「来てくれてありがとう」
男は、拍子抜けするほど自然に笑った。
「僕が院長のラセルです。……と言っても、こんなに小さい治療院で院長なんて、大袈裟かな」
少しだけ照れたように笑う。嫌味な感じがまるでしない。
グンダはその顔を見て、少しだけ拍子を狂わされた。
「……グンダだ」
「うん。知ってます」
ラセルは頷く。グンダの右腕の欠けた部分を見た。見たが、そこで視線を止めない。確認して、次に進んだ、という感じの目の動き。
「無理にとは言いません。でも、あなたに受付をお願いしたくて」
グンダは思わず眉間に皺を寄せる。
「……あんた、目が見えてんのか?」
本気の問いだった。片腕で、愛想もなく、どう見ても患者を安心させるような顔じゃない。
だがラセルは、そこで笑わなかった。茶化しもしなかった。
「もちろん」
それだけ言って、グンダをまっすぐ見た。
「あなたがここにいてくれるだけで、安心する人がきっといます」
あまりにも迷いのない言い方だった。グンダは一瞬、言葉を失う。そんなことを面と向かって言われたのは、たぶん初めてだった。皮肉かとも思った。だが、ラセルの顔には本気以外の何もなかった。
気づけば、引き受けていた。
最初の数日は最悪だった。
治療院へ来た子供はグンダの顔を見て泣き出し、年寄りは露骨に身を引いた。それはわかっていた。わかっていたが、いざその場面に直面すると、グンダは返す言葉が見つからない。謝ることもできない。ただ、黙って、次の患者の名前を呼んだ。
「椅子に座って待て」「騒ぐな」「口を黙ってろ」
言ってから、ああ駄目だなと思う。だが直し方がわからない。三十年近く、こういう場所で仕事をしてこなかった。人を安心させる言葉の使い方を、グンダは知らない。知る必要がなかった。紡遣者として生きてきた間、グンダに必要だったのは、脅威を排除することだった。敵に向かって優しく語りかける必要はなかった。
それでもラセルは、一度も怒らなかった。
「ありがとう、グンダさん」
診察の合間に、柔らかくそう言う。
「あなたがいるだけで、みんな安心できます」
「……皮肉か?」
グンダが睨むと、ラセルは首を振る。
「本気だよ」
そう言って、少しはにかむように笑う。その笑顔を見るたび、グンダはどうにも毒気を抜かれてしまう。
ラセルという男を、グンダは最初、少し不思議に思っていた。
この治療院を開いたのは、ラセルが二十五の時だという。街の中心部ではなく、外れを選んだのは、中心部に比べて家賃が安かったからと、もう一つ理由があると言う。
「外れの方が、来にくい人が多いから」
「来にくい人?」
「お金がない人とか、身分が低い人とか。中心部の大きな治療院には、なんとなく入りにくいって感じる人が意外と多くてさ」
ラセルはそう言って、薬草を刻む手を止めない。
「そういう人が来やすい場所にしたかったんだよね」
グンダはしばらく黙っていた。この男は、善人だ。厄介な種類の善人ではなく、ただ真っ直ぐな善人。そういう人間は、グンダの周りにはあまりいなかった。紡遣者の世界は、生き延びることに精一杯な人間が多い。善意を持ち続けることが難しい場所だった。
「……苦労するだろうな、そんなことしてると」
グンダが言うと、ラセルは少し笑う。
「してるよ。毎月ぎりぎりだもん」
あっさりと言った。
「だからグンダさんに来てもらえて助かってる。用心棒も兼ねてくれるし」
「俺が用心棒になるつもりで来たと思ってんのか」
「違うの?」
「……半分くらいはそのつもりだ」
「じゃあ半分合ってる」
ラセルはまた笑う。グンダは舌打ちしたが、悪い気はしなかった。
ある時、ラセルが治療している様子を間近で見る機会があった。
熱に浮かされた子供の額に触れ、骨を痛めた老人の足を確かめ、産後の女の呼吸に耳を澄ませる。普段の柔和な顔とは違う、真剣で静かな目。慌てもせず、驕りもせず、ただ目の前の一人をちゃんと助けようとしている顔。
グンダはその時、ぼんやり思った。人を守るってのは、剣を振ることだけじゃないのかもしれない、と。
紡遣者として生きてきた三十年近く、グンダが守ろうとしてきたのは、命だった。魔物を倒すことで、誰かの命が続く。それがグンダの仕事だった。だがラセルがやっていることは、もう少し違う形の守り方だった。
命が続いた後の、その命の質を守ること。痛みを和らげること。不安を取り除くこと。明日を生きる力を補うこと。それも守ることだと、グンダはその日初めて思った。
ある日、幼い姉弟がやってきた。
弟は風邪をこじらせていて、真っ赤な顔で泣きじゃくっている。その手を引いてきた姉の方も、咳をしていて見るからに辛そうだった。二人とも、着ている服が薄かった。春になってもまだ寒いこの街で、冬物の服が買えなかったのだろうと、グンダには見当がついた。
「やだぁ!いたいのやだぁ!」
弟がぐずりながら暴れる。姉は困ったように弟をなだめていたが、自分もふらふらで、今にも倒れそうだった。
グンダは気づけば立ち上がっていた。
「貸せ」
ぶっきらぼうに言って、弟をひょいと膝に抱え上げる。片腕でも、そのくらいはできた。
「えっ」
「鼻垂れてるぞ」
乱暴に見えないよう気をつけながら、布で鼻を拭いてやる。弟はびっくりして泣き声を止めた。大きな男に急に抱き上げられて、泣くことも忘れたのかもしれない。
「静かにしてりゃすぐ終わる」
グンダは低い声で言った。
「姉ちゃん困らせるな。男だろう」
弟はしゃくりあげながら、ぐっと唇を噛む。姉の方も、ほっとしたように肩の力を抜いた。
その様子を見ていたラセルが、ぽつりと言った。
「グンダさんも、もうすっかり受付の顔だね」
グンダは咄嗟に顔をしかめる。
「やめろ。変なこと言うな」
だが、その言葉は妙に耳に残る。
受付の顔。
そんなもの、自分とはいちばん遠いと思っていた。
けれどあの日から、少しずつ、グンダの言葉は変わっていった。
「待ってろ」が「少しだけ待ってくれ」に。「騒ぐな」が「静かにしような」に。「そこに座れ」が「そこ、楽なら座ってていい」に。
誰かに命じられたわけじゃない。ラセルに矯正されたわけでもない。ただ、治療院に集まる人間たちが、あまりにも自然に、当たり前に、日々を生きていたからだ。
病に倒れた者。怪我をした子供。腹を抱えた妊婦。心配そうに付き添う父親。不安そうな顔で処方箋を握る老人。
誰も英雄じゃない。誰も大きな戦いをしているわけじゃない。それでも全員が、それぞれの名もない物語を必死に生きている。
グンダはようやく知る。語りってものは、血と戦いだけでできているんじゃない。確かに剣で守る物語もある。だが同じくらい、薬湯の匂いのする部屋で、子供の熱を下げ、誰かの不安を少し軽くするような、そんな物語もあるのだと。
かつて勇気と両腕で守ろうとした物語。それはいま、気配りと、少しだけ丸くなった言葉で守る物語に変わりはじめていた。
夜、患者がみな帰ったあとの治療院は静かだ。
ラセルは奥で薬草を整理しているらしく、微かに器の触れ合う音がする。薬湯の残り香がまだ部屋の隅にほんのり漂っている。グンダは受付台に座って帳簿をまとめていた。片腕では作業が遅い。紙を押さえるだけでも手間取る。それでも、焦らず、一つずつ、確かめながら進めた。
窓の外には、春の月が出ていた。
あの日のことを、グンダはふと思い出す。
父が倒れた夜のこと。雪の中で、自分だけが動けなかった。立てなかったのではない。足は動いた。でも体が動かなかった。父が倒れて、魔物がまだそこにいて、母と弟妹が背後にいて、それでも体が動かなかった。
あの夜以来、グンダは自分に誓った。もう動けないなどとは言わない。どんな状況でも、体が動く限り、前に出る。それが紡遣者として生きた三十年近くだった。
だが腕を失って、動けなくなったと思っていた。
剣が振れなければ前に出られないと、思い込んでいた。
グンダはふと手を止める。目を閉じる。
帳簿の上に、片腕が置かれている。ペンを握った手。字は汚いが、確かに数字が並んでいる。患者の名前が書いてある。今日来た人間の記録が、そこにある。
剣は振れない。魔物とは戦えない。でも、今日ここに来た人間たちの名前を、グンダは全員覚えていた。顔も覚えていた。どんな様子だったかも、覚えていた。
それも、守ることの一つかもしれなかった。
そして、静かに祈った。
「語りの御方ナスレスクさま」
昔の自分なら、こんな言葉を口にしたあとで舌打ちしていたかもしれない。けれど今は、不思議とそれが自然だった。
「乱暴者だったおれでも、明日の誰かの語りを、すこしだけでも穏やかにできるかもしれないって……そう思わせてくれて、ありがとうございます」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「どうか明日もまた、誰かの物語に、優しい一幕が訪れますように」
春の夜は静かだった。
治療院の窓からこぼれる灯りの中で、片腕の男は、もう自分を終わった人間だとは思っていなかった。




