御方の祝福とともに I 002
シュトラーの春は短い。
長く厳しい冬がようやく終わり、城塞都市を覆っていた雪が解けはじめると、街のあちこちで一斉に花が咲く。石造りの壁の隙間からも、通りの脇のまだ湿った土の上からも、小さな色が顔を出す。白、薄紫、淡い黄、名も知らない青。冬を知っている者ほど、春の色に目を奪われる。
だがその春も、気づけば過ぎていく。夏が来て、秋が来て、また冬が来る。シュトラーの冬は長い。次の春まで、また長い時間がかかる。
だからこそ、この街の者は春を大切にしている。惜しむように、噛みしめるように。一日一日を、確かめながら生きている。
若き神官見習いクロスは、聖堂へ向かう石畳の道を歩きながら、足を止める。通りの端、雪解け水の流れる溝のそばに、小さな花がいくつも咲いている。どれも背丈は低い。踏みつければ簡単に折れてしまいそうなのに、不思議とまっすぐ空を向いている。湿った土と若い茎の匂いが、足元からかすかに立ちのぼる。
クロスは困ったように少し眉を下げ、それから柔らかく微笑む。
彼の眉は、普段からすでに少し困ったような形をしている。生まれつきそういう顔なのだと、孤児院の仲間たちによく言われてきた。笑っているのか悲しんでいるのかわからない、と。本人としては笑っているつもりなのだが、その眉のせいで、いつも少しだけ心配そうに見える。
「今年も、ちゃんと咲いたんだな」
そう呟いて、胸の前でそっと指を組む。
「語りの御方ナスレスクよ。短き春にも、それぞれの語りを咲かせてくださること、感謝いたします」
祈りの言葉は、呼吸に近い。大げさな儀式ではなく、日々を生きる中で自然とこぼれる感謝。誰かに見せるためのものではなく、ただそうしないと気持ちが落ち着かない、そういう種類の祈り。
城塞都市シュトラーは、大陸北部のマグナ王国、そのさらに北端に位置している。三方を城壁に囲まれ、残る一方は切り立った崖になっている。崖の下には川が流れている。冬になると川面が凍り、その上を渡ろうとした者が落ちる事故が毎年起きる。それでも渡ろうとする者がいるのは、崖の向こうに近道があるからだ。
街の外れには森林地帯が広がり、その先には人の領域ではないものが息づいていると誰もが知っている。冬は長く、厳しく、油断した者から順に命を削る。だからこそ、短い春の温みは、この街の者にとって特別だ。
クロスにとっても、それは同じだ。いや、もしかするとクロスにとっては、この街の誰よりも春が特別かもしれない。
幼い頃、両親は魔物に襲われて死んだ、と聞いている。
その時のことを、彼は断片的にしか覚えていない。雪に濡れた地面。冷たくなった母の手。泣き叫ぶ自分を抱き上げてくれた誰かの腕。その腕が誰のものだったかも、もう覚えていない。
ただ、寒かった。
それだけははっきり覚えている。骨の奥まで凍るような寒さ。その寒さの中で、自分だけがまだ温かかった。母の体はもう温かくない。父の体もそう。自分だけが温かくて、その温かさが申し訳なかった——その感覚だけが、雪の匂いと一緒に今も胸の奥に残っている。
その後、クロスはシュトラー孤児院で育つ。
孤児院は聖堂の裏手にある、石造りの建物。古くて、廊下が軋んで、冬になると窓の隙間から風が入ってくる。それでも飢えず、凍えず、無事に大きくなれたのは、孤児院の人々と聖堂の支えがあったからだ。
院では毎年、冬になるたびに子供が一人か二人減る。病気で、事故で、それぞれの理由で。春になると、その分だけ食卓が広くなる。広くなった食卓を見るのが、クロスは子供の頃から苦手である。
師と出会ったのは、クロスが八歳の冬。
その年の冬は特に厳しかった。孤児院の子供が三人、立て続けに熱を出した。一人は助かった。二人は助からない。
クロスは夜中に一人で起きて、聖堂の外の石段に座っている。泣いている。声を出さずに泣いている。孤児院の中で泣くと、他の子供たちが起きてしまうから、外に出て泣いている。
そこへ、白い法衣を纏った老人が通りかかる。
「泣いているのか」と老人は言う。
「泣いていません」とクロスは言う。顔が濡れているのに。
老人はしばらくクロスを見る。それから、隣に座る。冷えた石の匂いに、ふっと香煙の残り香が混じる。老人の法衣から流れてくる匂いだ。
「何が悲しい」
クロスは黙る。言葉にするのが難しかった。悲しいという言葉では足りない。怖い、という言葉の方が近い。でもその怖さも、うまく説明できない。
「死ぬのが、怖いです」とクロスはようやく言った。「みんなが、死んでいくのが」
老人はしばらく黙っている。
「そうだな」と老人は言った。「怖い。私も怖い」
クロスは驚く。大人が怖いと言うのを、初めて聞いた気がした。
「だが」と老人は続ける。「喪失で語りは終わらない。歩いた者の先に、次の頁は開かれる」
その言葉の意味が、八歳のクロスにはよくわからない。でも声の質が、何かを伝えている。この老人は嘘をついていない、という確信だけがあった。
その老人が、トゥルパン司教。
それからクロスは、トゥルパンのもとで祈りの言葉と文字の読み方を教わってきた。トゥルパンは厳しい。遅刻を嫌い、曖昧な言葉を嫌い、中途半端な信仰を嫌う。しかし不思議と、怒鳴ることはない。怒るときは静かになる。その静けさが、怒鳴り声より重い。
クロスが何かを間違えると、トゥルパンはただ黙って待つ。クロス自身が気づくまで待つ。それが時として、とても長い時間になる。
悲しみに押し潰されそうな夜には、よくあの言葉を思い出してきた。
喪失で語りは終わらない。歩いた者の先に、次の頁は開かれる。
その言葉を、クロスは今でも信じている。信じることで、冬を越えてきた。
通りへ出ると、焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてくる。
通りの角にあるパン屋だ。冬の間は重たい黒パンばかりだったが、春になると少しだけ柔らかい生地のものが増える。今朝は窓から白い湯気が上がっている。焼きたての小麦の匂いに、ほのかなバターの香が混じる。焼きたての匂いというのは、どんな朝でも人を少し前向きにさせる力がある——クロスはそう思っている。
「お、クロス坊。今日も聖堂かい」
店先でパンを並べていた岩人族の店主が、太い腕を振って声をかけてくる。店主はガルタという。この店を三十年以上続けているという。冬の間も店を閉めない。どんな吹雪の朝でもパンを焼く。それがガルタの誇りだ。
「はい。師に呼ばれていて」
「真面目だねぇ。あとで余りが出たら持ってってやるよ」
「ありがとうございます。でも、ちゃんと買います」
「神官見習いは頑固だなぁ」
ガルタが豪快に笑う。クロスも少しだけ笑って会釈する。
以前、ガルタがパンを余分に持たせようとしたとき、クロスは断った。ガルタは「なんで受け取らないんだ」と聞いた。クロスは「施しを受けるより、対等に買いたいのです」と答えた。ガルタはしばらく黙って、それから「変な坊主だな」と言って笑った。それ以来、ガルタはクロスに何かを押しつけることをやめた。でも毎朝声をかけるのはやめない。
「祝祭、楽しかったか?」とガルタが聞く。
「はい。トゥルパン師の説法は、今年も心に染みました」
「あの爺さんの説法はいいよなぁ」とガルタは言う。「毎年同じ話なのに、毎年違う気がする。不思議なもんだ」
「語り手の誠実さが、聞く者に届くのだと思います」
「難しいことを言うねぇ」
ガルタはパンを一つ手に取って、ひょいとクロスに放る。
「今日はおまけだ。受け取れ」
「あ、でも」
「売り物じゃない。俺が渡したいから渡すんだ。施しじゃない」
クロスは少し迷ってから受け取る。温かい。
「ありがとうございます」
「行ってこい。お師様を待たせるな」
その時、路地の向こうから子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
人族の子。樹人族の子。まだ角の小さい竜人族の子も混じっている。どうやら、何かごっこ遊びをしているらしい。
「帰らぬ神々は、今日も喧嘩しているのだ!」
「違うよ、ここはまだ仲裁の前!」
「じゃあ、わたしがナスレスク様やる!」
「ずるい!ぼくがやる!」
「だめ!昨日はあんたがやったでしょ!」
クロスは思わず足を止める。どうやら、ナスレスク神話をもとにしたごっこ遊びらしい。幼い頃、自分もやった覚えがある。帰らぬ神々が争い、そこへ語りの御方ナスレスクが現れて仲裁する。子供たちの間では定番の遊びだ。
だが今は、その肝心のナスレスク役を巡って、まさに喧嘩が始まりかけている。
「うーん……」
クロスの眉が、もともと困った形をしているのに、さらに困ったように下がる。このまま放っておけば、たぶん本気の泣き合いになる。でも、今日は師に呼ばれていて、聖堂へ急がないといけない。遅れたらまずい。たぶん、かなりまずい。
けれど、頭の中にすぐひとつの教句が浮かぶ。
同じ卓に座る者は、剣より先に言葉を交わせ。
「……うん、そうだよな」
クロスは小さく頷く。仲裁くらいなら、そう時間はかからないはずだ。そう思って路地へ入ったのが、たぶん最初の間違い。
「みんな、みんな、落ち着いて」
路地へ入ると、子供たちがいっせいに振り向く。五人いた。人族の子が二人、樹人族の子が一人、竜人族の子が二人。年の頃は七歳から十歳くらいだろうか。全員が、今まさに喧嘩の真っ最中だった顔をしている。頬が赤く、目が潤んでいる子もいる。
「あ、クロス兄ちゃんだ!」
「クロス兄ちゃん、決めて!誰がナスレスク様やるのがふさわしい!?」
「え、ええと……」
そんなもの、いきなり決められるわけがない。クロスは困ったような眉をさらに困ったように下げる。
「まず喧嘩はだめだよ。ナスレスク様も、きっと悲しむから」
「でも、みんなやりたがるんだもん!」
「うん、それは……わかるけど」
そりゃあ、子供たちにとってナスレスク役は一番おいしい役だろう。争う神々を収めて、みんなに慕われて、最後に良いことを言う。英雄であり、王であり、優しい導き手。誰だってやりたい。
クロスは子供たちの顔を一人ずつ見る。一番声が大きいのは、人族の男の子。髪が跳ねていて、膝に泥がついている。おそらくこの遊びを最初に言い出した子だろう。
その隣で唇を尖らせているのは、竜人族の女の子。まだ小さな角が二本、頭の横から生えている。昨日もナスレスク役をやったと言っていたが、それでもまたやりたいらしい。
樹人族の子は少し後ろに立って、黙って二人の喧嘩を見ている。背が高く、肌が木の皮に似た淡い茶色をしている。争いには加わっていないが、目が「早く解決してほしい」と言っている。
もう一人の人族の子と、もう一人の竜人族の子は、端の方で小声で何かを話している。おそらく独自の解決策を模索しているのだろうが、まだ結論が出ていないようだ。
「だったら、交代にしたらどうかな」
クロスが提案すると、子供たちはむうっと唇を尖らせる。
「でも今すぐやりたい」
「順番待ちはやだ」
「じゃあ、クロス兄ちゃんがナスレスク様やってよ!」
「え?」
一瞬、意味がわからなかった。
「クロス兄ちゃん、いつもナスレスク様の話するじゃん!」
「ぴったり!」
「やってやって!」
「い、いや、私は……」
断ろうとした。したのだが、気づけば木の枝を杖代わりに持たされていた。
「ほら、帰らぬ神々がいま争ってるから!」
「仲裁して!」
「早く!」
押し切られた。
結果として、クロスは子供たちに混じって神話ごっこに参加する羽目になる。
帰らぬ神々の役は、人族の男の子と竜人族の女の子が担った。二人ともさっきまで喧嘩していたのに、神々の役に入った瞬間に別の喧嘩を始めた。今度は演技としての喧嘩。
「クラザル、貴様の一族は空ばかり見ておる!」
「何をルーガト!おぬしこそ、地にしか目がいかぬではないか!」
「喧嘩上手だな、この二人……」
クロスは思わず呟く。さっきまで本気で揉めていたのに、役に入ると急に生き生きとしている。
樹人族の子はミセリア役を引き受けた。台詞を覚えていたのか、流暢に喋りはじめる。
「汝らの争い、もはや天地を揺るがしておる。こうなっては、この地を去るしかあるまい……」
「うまいじゃないか」
クロスは素直に感心する。そして全員の目が、クロスに向く。
ナスレスク様の出番。
クロスは木の枝を握る。何を言えばいいのか、少し考える。子供たちはじっとクロスを見ている。樹人族の子が台詞を待っている目をしている。人族の男の子が「早く」という顔をしている。
「え、ええと……争いの先に残るのは、沈黙だけ、です……だから……」
「ちがうちがう!もっとかっこよく!」
「そ、そうかな!?」
「もっと堂々と!ナスレスク様だよ!?」
クロスは少し背筋を伸ばす。
トゥルパン師の説法を思い出す。あの声の質。広場全体を静かにさせる、あの確かさ。
「……僕は、残ろう」
今度は少し違う声で言った。子供たちが静かになる。
「兄上も、姉上たちも、行ってしまわれた。……だけど、僕は残ろう。君らを、ひとりにはしない。命に寄り添おう。声を聞こう。泣かずともよい。僕が、そばにいる」
竜人族の女の子が、目をまるくした。
「かっこいい……」
「もっと!」
クロスは思い切って続ける。
「悲しみで語りは終わらない。歩いた者の先に、次の頁は開かれる。だからこそ僕は、最後の一人になっても、この地で語りを紡ぎ続けるのさ」
子供たちが、しんと静かになる。本当に静かになった。さっきまでの喧嘩が嘘のよう。樹人族の子が、小さな声で「すごい……」と言う。人族の男の子が、なぜか目が潤んでいた。
「な、なんで泣いてるの」
「泣いてない!」
「泣いてるよ」
「泣いてないって言ってるだろ!」
その瞬間、全員が笑い出す。クロスも笑った。気づけばクロスも、困りながら笑っている。
ごっこ遊びはそこで終わりとなった。子供たちは「もう一回!」と言ったが、クロスは「師に呼ばれているから」と断った。今度は本当に断った。
「また遊ぼうね、クロス兄ちゃん!」
「今度はもっとかっこいい台詞考えてきて!」
「私もナスレスク様やりたかったのに」
「次はやらせてあげる」
「本当に?」
「本当に」
クロスは手を振って路地を出る。
石畳の道を聖堂へ向かって歩きながら、さっき自分が言った言葉を思い返す。
悲しみで語りは終わらない。歩いた者の先に、次の頁は開かれる。
トゥルパン師が八歳の自分に言ってくれた言葉。あの夜、石段に座って泣いていた自分に。子供たちに向けて言ったつもりが、自分に向けても言っていた気がした。
クロスは少し足を速める。
聖堂の前に着いたのは、約束の刻を少し過ぎた頃。石段の上には、腕を組んだ先輩神官が立っている。人族の男で、年の頃は二十代後半。真面目で面倒見はいいが、小言もきっちり言う人だ。名をルセという。
ルセはクロスの顔を見る。クロスはすでに頭を下げていた。
「す、すみません……」
「師に呼ばれていたんだろう?」
「はい……」
「何をしていた」
「その、子供たちが喧嘩していて……」
「ほう」
「仲裁しようとしたら、気づいたらごっこ遊びに混ざっていて……」
「ほう?」
ルセの眉が上がる。クロスはますます小さくなる。
「すみません……」
しばらくの沈黙のあと、ルセは大きくため息をつく。
「まったく、お前は……」
怒られる。そう身構えた次の瞬間、ルセは呆れ半分の顔で肩をすくめた。
「まあ、それもお前の良いところなのかもしれないな」
「……え?」
「だがな」
ぴしり、と額を小突かれる。
「語りの御方もおっしゃっておられる。約した刻を裏切るな。さもなくば語りは綻ぶ、だ」
「はい……本当に、すみません……」
しゅんと肩を落とすクロスを見て、ルセはもう一度ため息をつく。けれどその口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
「師はまだ奥におられる。急げ」
「はい!」
クロスはぺこりと頭を下げ、石段を駆け上がる。
聖堂の扉を開けると、冷たい石造りの廊下に春の光が差し込んでいる。床に光の模様が落ちている。窓のステンドグラスを通した光。色が混ざって、床に模様を作っていく。冷えた石の匂いに、古い蝋の脂と、ほのかな香煙の名残が重なる。クロスはその光の中を歩く。
廊下の奥には、師の部屋がある。何のために呼ばれたのかはわからない。叱られるかもしれない。何か仕事を頼まれるかもしれない。あるいは、また何かを教わるかもしれない。どれでもよかった。
ここに来るたびに、クロスはいつも少し背筋が伸びる感じがする。この場所が好きだ。石造りの壁も、冷たい空気も、古い木の廊下の軋む音も。
全部が、自分をここまで育ててくれたもの。
背後では、春の風が花の香りとパンの匂いを運んでいる。
路地の向こうでは、また子供たちの笑い声がしている。
「帰らぬ神々は、今日も喧嘩しているのだ!」
「ちがうよ、ここはもうナスレスク様が来た後!」
「じゃあ、悲しみで語りは終わらないって言って!」
「悲しみで語りは終わらない!歩いた者の先に、次の頁は開かれる!」
子供たちが、クロスの台詞を繰り返していた。
クロスは廊下の途中で少し足を止める。聞こえるはずのない声が、石造りの壁を通して、かすかに届いた気がした。
彼は小さく笑って、また歩き始める。
今日もシュトラーには、平和な語りが満ちていた。




