御方の祝福とともに I 001
今日から新章【御方の祝福とともに I 】の投稿をします。
よろしくお願い致します。
春を寿ぐその日、城塞都市シュトラーの朝は、やわらかな熱気を帯びる。
長く厳しい冬を越えた北の街にとって、春はただの季節ではない。生き延びた証であり、失われずに残った命がもう一度息を吹き返す季節。誰もがそう知っていて、誰もがそのことを口にしない。
夜明けから街は動きはじめている。石造りの街路には色とりどりの布が渡され、花籠が吊るされていく。昨夜のうちに飾り付けを済ませた者たちの仕事の上に、今朝その仕上げをする者たちの手が重なる。店先には季節の菓子と焼きたてのパンが並ぶ。バターの溶ける匂い、焼いた肉の脂、甘い菓子の香。それらが一つに溶けて、街全体へ薄く漂っていく。その混じり合った匂いを胸いっぱいに吸い込むと、冬が一歩遠のく気がする。
雪解け水の流れる溝のそばで、子供たちがはしゃいでいる。人族の子と竜人族の子が並んで走っていく。岩人族の老人が日当たりのいい場所に椅子を出して、その様子を目を細めて見やる。樹人族の女が花籠を抱えて石畳を歩く。
竜人族も、岩人族も、樹人族も、人族も。この日ばかりはなおさら、みな同じく春を寿いでいる。
シュトラーは城塞都市である。中央大陸の北部、マグナ王国の北端。三方を城壁に囲まれ、残る一方は切り立った崖へと続いている。冬は長く、雪は深く、寒い。魔物の出没も多い地域だ。
だからこそ、春が来ると街全体が弾けるように明るむ。冬の間は互いに体を寄せ合うように生きていた人々が、春の光の下で顔を上げる。見知った顔に笑顔を向ける。久しぶりだな、という言葉が街路のあちこちで交わされていく。
この街で生まれ育った者にとって、冬を越えることは当たり前の営みだ。けれどその当たり前の裏には、毎年必ず誰かがいなくなるという事実がある。老人が、病人が、運の悪かった紡遣者が。そういう人間が冬の間に消えていく。
だから春は、残った者の祭りでもある。そのことを声にする者はいない。ただ、パンの匂いを吸い込む深さの中に、それはある。
広場の中心に、シュトラー聖堂の高い尖塔が春空へ向かって伸びている。
石造りの聖堂は、この街で最も古い建物である。建てられてから何百年が経っているか、正確に知る者はいない。壁の一部には古い時代の紋様が刻まれているが、今では判読できない部分の方が多い。石肌には苔と、長年染み込んだ香煙の残り香がある。近づくと、ひやりとした石の匂いに、古い蝋燭の脂がほのかに混じる。
その鐘が、ひとつ、ふたつ、静かに鳴り渡る。人々が足を止める。談笑していた声が、少しずつ小さくなっていく。子供たちも走るのをやめて、大人の隣に立つ。何かが始まる——その空気が広場全体へ広がっていく。
やがて、白い祭服を纏った老司教トゥルパンが、聖堂前の壇へ姿を現す。
老いてなお背筋の伸びた男である。髪も眉もとうに白く、顔には深い皺が刻まれている。七十を超えているはずだが、立ち姿に衰えは感じられない。長年この街で司教を務めてきた男。この街で生まれた者の多くは、幼い頃からこの男の説法を聞いて育ってきている。
けれどその目には、北の春の光みたいなやわらかな強さが宿っている。
トゥルパンは民衆をゆっくり見渡す。いつもの信徒たち。祝いのついでに広場へ出てきた者たち。子供を肩車した父親。花籠を抱えた母親。紡遣者たち。仕事の手を止めた職人たち。四つの種が、同じ広場に立っている。
その光景を見て、トゥルパンは満足そうにひとつ頷く。そして、よく通る声で口を開く。
「耳を傾けなさい。冬を生きた者たちよ」
広場の空気がすっと澄む。
「雪を制し、飢えを凌ぎ、寒さに勝ち、我らはまたここに立っております。これは我らの力のみならず、語りの御方ナスレスクの導きあってこその春であります」
トゥルパンは胸の前で手を組む。人々もそれに倣うように静かに頭を垂れる。
「今日という日に、我らは忘れてはならぬ物語を、あらためて思い起こさねばなりません」
春の祝祭の日、シュトラーでは毎年ひとつの説法が行われる。誰もが知っている神話。子供ですらそらで口ずさめるほど、何度も何度も語られてきた、世界の始まりと試練の物語。
トゥルパンは、その物語を朗々と語りはじめる。
「はじめに、人族あり」
静かな声。だが老いを感じさせない確かさがある。
「ついで、偉大なる三柱の神があらわれ給うた」
天を引き裂く竜の女神クラザル。地に刻み込む岩の男神ルーガト。命を包む緑森の女神ミセリア。その名を口にするだけで、広場の空気が少しだけ厳かになる。
「クラザルは竜人族を創り給うた。その強靭なる翼をもって空を駆け、太き尾の一撃にて嵐すら調伏し、眷属たる竜人族へ誇りを授け給うた」
竜人族の子供が、誇らしげに胸を張る。その隣で、父親とおぼしき竜人族の男が小さく微笑む。
「ルーガトは岩人族を創り給うた。その頑健なる身体と揺るがぬ意思にて、大地の奔流にも屈せず、人々の想いを刻み残す力を授け給うた」
岩人族の老人が静かに目を閉じる。その表情に、祖の神への敬意がある。隣に立つ岩人族の若い女が、老人の腕にそっと手を添える。
「ミセリアは樹人族を創り給うた。その癒しの力をもって傷ついた同胞を癒し、再び立ち上がる優しさを授け給うた」
樹人族の女が、連れていた子にそっと花を握らせる。子供は花を受け取って、また前を向く。
「三柱の神々は、兄姉——そう古き書には記されております。竜女神クラザルは長姉。岩男神ルーガトは壮年の兄。森女神ミセリアは母なる姉。いずれも己が眷属を持ち、己が領分を持ち、この世界に大いなる足跡を残された、格高き神々であらせられます」
トゥルパンは一度息を継ぐ。
「そして、末の一柱として——幼神ナスレスク」
トゥルパンの声が、わずかに柔らかくなる。
「御方は、他の三柱のごとく己が種族を創り給うことをなさいませんでした。眷属を持つことが、御方の役目ではなかったからであります」
広場の誰かが、小さく身じろぎをする。
「幼き御方は、兄姉の神々の傍らにあって、ただすべての声を分け隔てなく聴くものとして、この世に在り給うた。竜の咆哮も、岩の鼓動も、森のざわめきも、そしてのちに生まれいづる人の祈りすらも。御方は眷属を持たぬがゆえに、全ての声の器となりうる——そのように在り給うた神であらせられたのです」
広場にいる者たちの多くが、そこで自然に胸の前へ手を当てる。特別な作法というより、呼吸のように染みついた動き。
「神々の加護のもと、四種族はそれぞれの力を活かして生きておりました」
だが、とトゥルパンは続ける。
「いつからか、人々は驕りを知りました」
その一言で、広場の空気がわずかに張りつめる。
「そして四種族は、どの種がもっとも優れているかを争うようになったのです」
トゥルパンは、そこでしばし沈黙する。春の風が、誰かの肩の花飾りを揺らす。風に混じって、広場の端の屋台から煮た蜂蜜の甘い香が、ふっと漂ってくる。祭りの匂いが、この沈黙の中で妙に遠く感じられる。
広場の空気は、重い。祭りの日の賑わいが、一時だけ遠のいた気がする。それほど、この沈黙は重い。
トゥルパンは長年この説法をしてきた。何十回と繰り返してきた。けれどこの場面だけは、毎年同じ重さで沈黙を置く。言葉より先に、沈黙で伝えるものがある——長年の経験が、そう教える。
「かの去神大戦の勃発であります」
その声に、何千年も前の出来事を語るとは思えない痛みが滲む。
「四種族は、血で血を洗う争いを繰り広げました。どの種が強いか。どの種が正しいか。その問いに答えが出ることはなく、ただ命が失われ続けたのです」
「はじまりは、些細な諍いであったと記されております。水源をめぐる言い争い。領地の境をめぐる小さな衝突。けれど一度燃えた火は、もはや誰の手にも止められませんでした」
トゥルパンの声が、一段低くなる。
「竜人族の吐く炎は森を焼き、樹人族の撒く毒は川を汚し、岩人族の魔法は山を崩し、人族の武器は戦場を屍で埋め尽くしました。焼かれた森から逃げ延びた獣たちは、行き場を失い、やがて飢えて互いを食み合ったと申します。天には煙が絶えず立ち上り、太陽の光すら届かぬ日々が幾年も続いたと伝えられております」
「街が焼かれ、森が枯れ、川が赤く染まりました。戦いは世代を超え、争いを始めた者が死してなお続きました。父を殺された子は剣を取り、その子の子もまた剣を取り——やがて誰ひとり、なぜ戦うのかを覚えておらぬ世代へと至ったのです。憎しみだけが血に乗り、語り継がれていきました。なぜ戦っているのかを忘れたまま、ただ戦い続けた時代があったのです」
広場のあちこちで、若い者たちが神妙な顔をする。この神話は子供のころから聞いている。それでも、毎年あらためて聞くたびに、胸の奥へ何かが沈んでいく。
「竜女神クラザルは、ご自身の創られた竜人族が、あれほど誇り高き翼を持ちながら、その翼で他種の村を焼き払う姿を見て、深く嘆かれました」
「岩男神ルーガトは、大地に刻まれるはずの民の歴史が、戦の記録ばかりで埋め尽くされていく様を見て、静かにお怒りになりました」
「森女神ミセリアは、ご自身の授けられし癒しの力が毒に転じ、優しさが武器へと姿を変えていく様を見て、お泣きになりました」
トゥルパンは一度、目を伏せる。
「神々は、己が創りし種が互いを傷つける姿に、もはや耐えきれぬとお感じになったのです。三柱は天の座にて膝を寄せ合い、長く長く、話し合われたと伝えられております。幾度となく、人々を引き返させようとなさった。幾度となく、声を届けようとなさった。けれど驕りに染まった耳には、もはや神々の言葉すら届きませんでした」
「ついに三柱は、ひとつの結論に至られたのです。この地を去る、と。己が愛する種族の姿を、これ以上見ていられぬがゆえに。神々はご自身のためにもまた、この世を離れることを選ばれたのです」
最前列にいた老人が、目を閉じて頷いている。その隣の中年の女性が、胸の前で手を組む。少し後ろにいた若い男は、目を伏せる。
「だが、去る前に、三柱は我らへひとつの試練を遺された」
トゥルパンの声が、少し強くなる。
「『おまえたちが、それほど争いを好むのならば。人同士でなく、共通の魔と戦うがよい』、と」
ざわ、と群衆の空気が揺れる。
「クラザルは、魔へ力を与えられました。竜人族の剛き腕にも劣らぬ膂力を。その一撃で石壁を砕く腕を。人族の槍では容易に貫けぬ強靭な皮を」
「ルーガトは、魔へ狡猾さを与えられました。岩人族の魔法に迫る知恵を。人を欺き、罠を仕掛け、闇に潜んで獲物を待つ老獪さを。時にそれは、人間よりも人間らしく振る舞うほどの深さを持つと申します」
「ミセリアは、魔へ尽きることなき繁栄を与えられました。一匹を討てば十匹が生まれ、十匹を討てば百匹が森から湧き出ずる——それは、かつて樹人族に授けられた豊穣の祝福を、ほとんどそのまま魔のがわへ差し向けられたかのごとき呪いでありました」
「かくして、この世には終わりなき脅威が放たれたのです。力と、知と、数と——三柱が己が眷属に授けられた賜物の一つひとつが、そのまま魔の身へと写し取られた。それこそが、神々の怒りの形、そして試練の形でありました」
数多の魔物。そして凶悪な無貌魔。森や荒野に蠢く、人の営みを脅かすものたち。
トゥルパンは、広場に集う民の顔をひとりずつ見るように視線を巡らせる。
「我らがいまなお魔と戦い続けているのは、かつての我らの傲慢への報いであります。だからこそ、我らは決して忘れてはなりません。竜人族も、岩人族も、樹人族も、人族も、等しく語りの御方のもとで平等であるということを」
この言葉に、広場の空気が静かに応える。今の世界の常識。差別は、昔の愚かな争いの残り香にすぎない。御方のもとでは、四種族に優劣はない。だからこそ共に手を取り、共に魔と戦わねばならない。
広場の端で、紡遣者とおぼしき若い竜人族の男が、静かに話を聞いている。傷だらけの手。鱗の一部が欠けている。つい最近まで戦っていた手。その男は説法の間、ずっと黙って聞いている。
隣に立っていた人族の老婆が、その男をちらりと見て、小さく頭を下げる。男も頭を下げる。言葉は交わさない。けれどその動作だけで、何かが通じている。
広場のどこかで、子供が泣きはじめる。母親がすぐに抱き上げる。子供はすぐに泣き止んで、また母親の腕の中で説法を聞く。
岩人族の職人が、石畳の継ぎ目に視線を落としながら聞いている。何かを考えている。何を考えているかはわからない。けれどその顔は、普段の仕事の顔とは違う。
それぞれが、それぞれの形で、この物語を聞いている。
「帰らざる神々は去られた」
トゥルパンは、深く息を吸う。
「その名は残れど、真なる姿は時代の中へ消えたり。像は崩れ、書は封じられ、彼らは声なきものとなられた」
広場の空気が、しんと静まる。子供たちも動かない。老人も目を閉じたまま動かない。風だけが、ゆっくりと広場を流れていく。
「だが」
その一語だけで、広場にいた子供たちまで息を呑む。
「幼神ナスレスクは、この地に留まり給うた」
トゥルパンの声は、そこで確信に満ちたものへ変わる。
「皆さんに問います」
トゥルパンは、いつもと少し違う問いかけをする。毎年同じ説法をしながら、この部分だけは毎年少しずつ言い方を変えてきた。同じ言葉を繰り返すより、問いかける方が聴く者の心に深く届く——長年の経験から、そう知っている。
「三柱の神々が去られた後、この世界はどうなったと思いますか」
広場にいる者たちが、少しざわめく。
「魔が蔓延り、四種族は疲弊し、希望を失いかけた時代がありました。誰もが神に祈ろうとした。しかし祈りに応える声はない。帰らぬ神々は、もう声を持たぬ存在となっておられたのです」
トゥルパンは広場を見渡す。
「それでも、最後まで祈り続けた者たちがおりました。焼け落ちた神殿の跡で、瓦礫の上に膝をつき、幾日も幾夜も祈り続けた民がおりました。泣き疲れ、声も枯れ果て、それでもなお祈りを止めぬ者たちが」
「そのとき、ナスレスク様が応えてくださった」
老司教の声に、静かな確信が宿る。
「他の三柱がすでに天の座を離れられた、その後のこと。ただ御方のみが、この地に留まり——そして、応えられたのです。幼き末の神が、兄姉の神々の去られた空席のただなかに、ひとり立ち尽くされながら」
トゥルパンは、まるで本当にその声を聞いたかのように、はっきりと告げる。
「御方は言われたのです。『——僕は、ここにいる。兄上も、姉上たちも、行ってしまわれた。……だけど、僕は残ろう。君らを、ひとりにはしない。命に寄り添おう。声を聞こう。泣かずともよい。僕が、そばにいる。この地を守り、語りを絶やさないと——誓うのさ』、と」
広場の誰かが、ほうと小さな息を漏らす。
「その声は、まず焼け跡の民のもとへ届きました。絶望の底にあった者たちへ、最初に。そしてその者たちの口から、また別の者たちへと伝えられていった。語りが、語りによって受け継がれていった。それこそが、今日まで続く御方への信仰のはじまりであります」
広場にいた者の中には、目を閉じて涙ぐむ者すらいる。何度聞いても、この一節だけは胸に来る。
「御方には、去ることができたのです」
トゥルパンは、そこで一度間を置く。
「三柱の神々と同様に、この地を離れることができた。いや、むしろ御方は最も傷ついておられた。四種族の争いを、誰よりも近くで見てこられた御方こそが、最も深く心を痛めておられた。それでも、残ることを選ばれた。それがなぜか、皆さんはわかりますか」
広場の老婆が、そっと目頭を押さえる。隣に立つ孫娘が、祖母を見上げる。祖母は何も言わない。ただ、前を向いている。
「御方がこの地に残られたのは、力があったからではありません。義務があったからでもありません」
トゥルパンの声が、静かに続く。
「ただ、人を愛しておられたからです」
その言葉が、広場に静かに落ちる。
「考えてみてください」
トゥルパンは、広場の人々ひとりひとりを見るように視線を巡らせる。
「幼き御方にとって、兄姉の神々は世界のすべてであったはずです。クラザル様、ルーガト様、ミセリア様——末の一柱であられた御方が、その背にどれほど憧れ、その腕にどれほど守られておられたかは、我ら人の身にも想像に難くないでしょう」
「その三柱が、ひとり残らず、この地を去られたのです。末の神一柱を、この地に置き去りにして」
トゥルパンの声に、静かな震えが混じる。
「御方は、どれほど心細く思われたことでしょうか。どれほど、兄上、姉上、と呼びかけたい気持ちを堪えられたことでしょうか。ご自身もまた三柱の背を追って、この地を去りたいと願われた瞬間が——もしかすれば、あったかもしれません」
「それでも、御方は残られたのです」
トゥルパンの声が、わずかに強くなる。
「幼き末の神は、ご自身の心細さを、ご自身の胸の内へと呑み込まれました。そして、この地に留まることを選ばれた。神としての責務を全うするために。絶望の底にあった民を、ひとりにはしないために」
トゥルパンは、そこで一度言葉を切る。広場の空気が、しんと静まり返る。
「皆さん。これを、健気と申さずに、なんと申しましょうか」
「これを、美しい愛と申さずに、なんと申しましょうか」
老司教の声に、心からの敬意が満ちていく。
「御方の愛は、強者の愛ではありません。満ち足りた者の愛でもない。ご自身もまた、寂しかった。ご自身もまた、心細かった。それでもなお、誰かのそばに在ろうとされた——そういう、健気な愛でありました」
「我らが御方を敬い奉るのは、御方が強大なる神であられたからではないのです。御方が、ご自身の心細さよりも我らを選んでくださった——その一事への、尽きぬ感謝のゆえなのであります」
「争い続ける愚かな人類を。誤りを犯し、傷つけ合い、それでも懸命に生きようとする人類を。御方は愛しておられた。その愛ゆえに、残ることを選ばれた。その愛ゆえに、今もこの世界を見守っておられる」
「御方の祝福は、この世界に生きる全ての命に届いております」
トゥルパンは、少し柔らかい声で言う。
「生まれた命が最初に受け取るもの。御方からの、この世への歓迎の印。それは見えないけれど、確かにそこにある。その祝福を受けた限り、皆さんの人生は御方に見守られております。皆さんの語りは、御方に届いております」
広場の空気が、温かくなっていく。春の日差しのせいだけではない。人々の顔が、柔らかくなっていく。祭りの賑わいとは少し違う、内側から来るような温かさが、広場に漂う。
どこかで、また焼き菓子の甘い香がふわりと流れる。さっきまで遠く感じていたその匂いが、今は広場の温度と溶け合っていく。
「かくして、幼神ナスレスクは我らが唯一神にして語りの御方となられた」
トゥルパンは続ける。
「御方は今も、この世界を見守っておられます。御方の目は、この広場にいる皆さんを見ておられます。御方の耳は、皆さんの声を聞いておられます。北の厳しい冬を越えた皆さんの苦労を、御方は知っておられます。冬の間に失われた命を、御方は悼んでおられます。そして今日、春の光の下に立つ皆さんの喜びを、御方は共に喜んでおられます」
トゥルパンの声に、老いた確かさがある。信じているから言える言葉。疑いが一切ない声。
「いまや神はただひとり」
トゥルパンは、聖堂の尖塔を仰ぐように顔を上げる。そして右手を高く掲げる。
「我らが主ナスレスクを讃えよ」
「我らが主ナスレスクに仕えよ」
「我らが主ナスレスクの御名を、未来へと受け継ぐべし」
民衆が応える。その唱和は、春の青空の下で澄み切った鐘の音のように響きわたる。
トゥルパンは、そこでようやく手を下ろす。その表情に、長い役目を果たした者の安堵がある。
「春を迎えたこの日に、どうか皆、思い出してください」
最後に、彼は穏やかな声で言う。
「我らがここに共に立てるのは、御方が見捨てなかったからです。争いの愚かさを、もう二度と繰り返してはなりません。四つの種は、語りの御方ナスレスク様のもとでひとつの民であると、忘れてはならないのです」
風が吹く。広場に飾られた花が揺れ、祝祭の布がはためく。
やがて緊張がほどけるように、広場にはまた賑わいが戻ってくる。子供たちが走り出し、露店では笑い声があがり、誰かが焼き菓子を買い求める。説法は終わった。けれどその言葉は、春の日差しのように、広場じゅうへ静かに浸み込んでいく。
トゥルパンは祭壇を降りる前に、もう一度だけ民衆を見渡す。四種族が肩を並べて笑い合っている。それこそが、御方の望まれた語りなのだと、老司教は心の底から信じている。
彼は胸の前で静かに手を組む。
「語りの御方ナスレスク様。どうかこの春も、我らの語りをお守りください」
その祈りには、疑いなど微塵もない。
◆
街のすぐ近くに、森がある。
街の賑わいから少し離れた場所に、その森は広がっている。城壁の外、街道を少し外れたところから、木々がはじまる。湿った土と若い葉の匂い。街の祝祭の匂いとは別の層で、そこに立ち込めている。
その森の中に、朽ちた遺跡がある。
かつては何かの祭祀場だったのだろう。石畳が敷かれている。苔に覆われた円卓。風化した椅子が並んでいる。そして一つだけ、乳白色の椅子が、壊れずにそこにある。
遺跡の石畳の上に、一人の男が眠っている。
上着を体にかけて、落ち葉を集めた寝床で、眠っている。顔は穏やかだ。右手に傷がある。乾いた傷。
男が何者かを、この街の誰も知らない。どこから来たかも、なぜここにいるかも、知らない。
語りの種を持たぬ男。この世界の誰にも知られぬ男。
ただ、眠っている。夢を見ているのかもしれない。
朝の光が、木々の隙間から差し込んでくる。その光が、男の顔に当たる。
広場では、春の祭りが続いている。笑い声が、森の中まで、かすかに届いてくる。
男はまだ、眠っている。




