序章035
今日は二話投稿します。今日で序章が終わります。
落ちる。
そう思ったはずなのに、衝撃が来ない。
いつまで経っても来ない。地面が来ない。体がどこかにぶつかる感覚がない。アスファルトの硬さがない。五階から落ちた体が受けるべき衝撃が、どこにもない。
風がない。重力もない。さっきまで耳を切っていた落下の風が、消えている。体が加速している感覚もない。止まっている感覚もない。動いているのか止まっているのかわからない。
目を開けているのか閉じているのか、それすらわからない。
白い。
白い静寂がある。光なのか色なのか物質なのか、判別できない。白い何かが、視界の全方向を満たしている。上も下も右も左も白い。遠くも近くも白い。距離感がない。奥行きがない。白い空間の中に、俺だけがいる。
冷たい。
空気が冷たいのではない。空気があるのかどうかもわからない。冷たさだけが、体の表面に貼りついている。服を通して、皮膚に触れている。凍えるほどではないが、内臓の奥まで届くような、芯を突く冷たさ。
息はできる。
息ができるということは、空気がある。空気があるということは、ここは真空ではない。それだけ確認する。息ができる。心臓も動いている——たぶん。脈を感じる。首の横に、血が通っている感覚がある。
生きている。
生きているのか。死んだはずなのに。五階から落ちた。地面に当たった。意識が消えた。死んだ、と思った。なのに息ができている。心臓が動いている。
死んでいない。
死んでいないとしたら、ここはどこか。
その問いが頭に浮かんだ瞬間——白が割れる。
割れるという表現が正しいかわからない。白い何かが、ゆっくりと引いていく。潮が引くように。白い幕が剥がれるように。視界の端から、白ではないものが侵食してくる。灰色。くすんだ白。薄い金色。そういう色が、白の中に染み出してくる。
足の下に、何かがある。
硬い。冷たい。平面。立っている——いや、膝をついている。俺は膝をついている。両膝が硬いものの上にある。石。石の床。ひび割れた、大理石のような石の床。
手を床につく。手のひらに石の冷たさが伝わる。指を広げる。指の間に、細い線が走っている。床に刻まれた紋様の一部。線は浅い。風化している。長い時間をかけて磨り減った線。
顔を上げる。
広間がある。
巨大な、石造りの広間。天井は——見えない。暗い高みのどこかに、星屑のような光が漂っている。天井があるのかないのかわからない。あるとしたら、途方もなく高い。ないとしたら、この空間は上方向に無限に続いている。
空気が重い。
重いという表現は正確ではない。密度が高い。空気の中に何かが混じっている。歴史が混じっている。長い時間が混じっている。この場所が存在してきた時間の重さが、空気の中に溶けている。
匂いがある。
石の匂い。冷たい石の匂い。日本の神社で嗅いだことのある、古い石造りの匂いに近いが、もっと深い。もっと古い。石そのものが匂うのではなく、石に染みた時間が匂っている。何千年分か、何万年分か。それだけの時間を吸い込んだ石が、かすかに匂いを放っている。
その匂いの下に、焦げた匂いが混ざっている。何かが焼けた匂い。遠い昔に焼けたものの残滓。今は冷えているが、焼けたという記憶だけが匂いとして残っている。
広間の全容が、少しずつ見えてくる。
大理石で造られている。全体がくすんでいる。磨かれていた光沢は、もうない。長い時間をかけて、表面の艶が失われている。ひび割れが至る所にある。壁にも床にも天井——天井は見えないが——の方向にも。ひび割れは自然のものではない。何かの力で砕かれた痕跡。圧力か、衝撃か、あるいはもっと別の何かの力で。
床一面に、魔法陣が刻まれている。
ファンタジーの物語に出てくる、あの模様。でも実物を見たのは初めて——当然だ。現実には存在しないものだから。存在しないはずのものが、今、膝の下にある。
巨大な円形。直径は——十メートル以上。二十メートルあるかもしれない。広間の床全体を覆うほどの大きさ。幾何学的な模様が幾重にも重なって、複雑な図形を構成している。同心円の中に三角形があり、三角形の中に文字のようなものが並んでいる。読めない。文字なのかどうかもわからない。記号かもしれない。模様かもしれない。
ただし、魔法陣は壊れている。
線のいくつかが途切れている。黒く焼け焦げた部分がある。何かに抉られたように、深く削れた部分がある。完全な図形だったはずのものが、あちこちで破損している。円の一部が欠けている。三角形の一辺が消えている。文字の半分が潰れている。
壊れた魔法陣。それが俺の膝の下にある。
中央に目を向ける。
円卓がある。
巨大な石の円卓。直径は二メートルほど。表面には模様が刻まれているが、風化していて判読できない。縁が砕けている。全体がわずかに傾いている。水平ではない。かつては水平だったのだろうが、何かの力で押されたか、支えの一部が壊れたか、傾いている。
その円卓の向こう側に——
五つの席がある。
俺は膝をついたまま、その五つの席を見る。
正面に、ひときわ大きな白い席がある。真っ白。あるいは、かつては真っ白だったのだろう。今はくすみ、大きな亀裂が走っている。幾何学的な模様が刻まれた表面の一部が欠けて、中身が見えている。中身は——空洞。石でできた外殻の中に、空洞がある。でも空洞の中に微かな光が残っている。消えかけた光。蛍の光よりもまだ弱い、消えそうで消えない光。
白い席の後ろに、巨大な石像が立っている。鎧をまとい、剣を構えた戦士の像。だが——首が欠けている。首があったはずの場所に、何もない。断面だけがある。切られたのか、砕けたのか。断面は滑らかではない。力任せに破壊された断面。
白い席の左に、紅い席がある。
翼を模した意匠が施されている。翼の片側が砕けている。もう片側は鋭くねじ曲がっている。翼の先端が天を指すはずの形が、横に折れて地面を指している。色が変わっている。紅が黒ずんでいる。乾いた血のようにも見える。
紅い席の後ろにも石像がある。首がねじれている。首から上が、九十度——いや、それ以上——横を向いている。顔の正面が、左の壁を向いている。前を向いていない。前を向くことを、強制的にやめさせられた像。
白い席の右に、黒い席がある。
原石のような鉱石が散りばめられている。水晶か、黒曜石か。光を受けると鈍く光る石。だが、いくつかは抜け落ちている。ぽっかりと空洞になっている。歯が抜けた口のように。抜け落ちた石がどこにあるかは、わからない。
黒い席の後ろの石像は、顔面だけがごっそり削られている。顔面があった場所に、平面がある。のっぺらぼう。表情がないのではなく、表情を乗せる面そのものが除去されている。
黒い席のさらに右に、緑の席がある。
植物の彫刻が絡みついている。蔦と花。装飾として刻まれたのか、本物の植物が石化したのか。どちらにしても、異常。蔦が石を食い破るように広がっている。花が石の内側から突き出ている。装飾ではない。侵食。植物が石を侵食している。緑の席は、自分自身の装飾に食い破られている。
緑の席の後ろの石像は、花と蔦に貫かれている。胸の中心から蔦が生え、肩から花が咲いている。石を内側から突き破っている。美しいようにも見えるし、おぞましいようにも見える。
四つの席。白、紅、黒、緑。全部壊れている。全部の後ろに石像が立っていて、全部の石像が壊れている。
五つ目の席が、ある。
乳白色の椅子。
他の四つとは全く違う。飾り気がない。権威を誇るような意匠がない。彫刻もない。模様もない。ただの椅子。シンプルな、滑らかな、乳白色の椅子。小さい。他の四つの半分ほどの大きさ。子どもが座るための椅子のように見える。
妙に綺麗。
他の四つが壊れ、風化し、くすんでいる中で、この椅子だけが新品のように綺麗。傷一つない。ひび一つない。時間が経過していないかのように。あるいは、時間が経過しても壊れないものであるかのように。
そして——その椅子の後ろには、何もない。
他の四つの席の後ろには石像がある。守護者の像。剣を構えた戦士の像。でもこの椅子の後ろには何もない。空間だけがある。守護者がいない。守る者がいない。
その椅子だけが、不気味なほど自然に、そこに在る。
この広間の中で最も権威のない席が、最も無傷で残っている。
その矛盾が——
椅子に、誰かが座っている。
小さな影。
最初は子どもだと思った。子どもが座っている。十歳くらいの子ども。乳白色の椅子に腰かけて、足をぶらぶらさせている。足が地面に届いていない。椅子が小さいのに、さらにその子どもは小さい。
服を着ている。見覚えがある。
俺が小学四年生の頃に着ていた服と、同じ服。紺色のパーカー。フードが少し大きくて、首の後ろでだぶついている。あのパーカーは、母が買ってくれたものだ。「これくらい大きい方が長く着られるから」と母が言って、ワンサイズ大きいのを選んだ。凪はそれを一年半着た。
なぜこの子どもが、あの服を着ているのか。
顔を見る。
喉が凍りつく。
俺だ。
幼い頃の俺。まだ何も失っていなかった頃の俺。両親に愛されることが当たり前で、未来を疑ったことなんてなかった頃の俺が、乳白色の椅子に腰かけて、嬉しそうにこちらを見ている。
足をぶらぶらさせながら。
その顔は、確かに俺の顔。十歳の頃の俺の顔。写真で見たことがある。母がアルバムに貼っていた写真。剣道の道場の前で、竹刀を持って立っている写真。あの頃の顔。
でも表情が違う。
あの頃の俺は、写真の中でいつも少し真面目な顔をしていた。笑顔の写真は少なかった。笑っていても、口を閉じたまま微笑んでいる程度。大袈裟な笑い方をする子どもではなかった。
今、目の前にいるこの子どもは——俺の顔をした何かは——笑っている。
大きく、嬉しそうに、底意地が悪く、笑っている。口角が上がっている。目が細くなっている。楽しくて楽しくて仕方がない、という笑い方。
無邪気。ぞっとするほど無邪気。
無邪気なのに、底意地が悪い。子どもの笑顔と、大人の悪意が、同じ顔の上に同居している。矛盾している。矛盾しているのに成立している。それが不気味。人間の顔にはありえない組み合わせ。
「やっと会えたのさ。タカハラナギくん」
声が出る。その子どもの口から。
弾むような声。待ちわびていた友達にでも会えたみたいな、気味が悪いほど明るい声。子どもの声帯で出せる範囲の、軽い声。でもその軽さの裏に、深さがある。洞窟の入り口で聞く反響のような深さ。声が軽いのに、響きが底なし。
俺は膝をついたまま、その子どもを見ている。
見ながら、喉の奥から声を出す。
「……誰だ」
掠れた声。声が出ること自体に少し驚く。死んだと思っていたから。声が出るということは、喉がある。喉があるということは、体がある。体があるということは——まだここに、いる。
「その顔で喋るな」
俺の声。低い。怒りが混じっている。恐怖も混じっている。でも怒りの方が先に出る。俺の顔を使うな。俺の幼い頃の顔を使うな。あの頃の俺は、こんな笑い方をしなかった。あの頃の俺は——まだ何も失っていなかった。その顔を借りて、こんな笑い方をするな。
子どもがきょとんとした顔をする。驚いた顔。本当に驚いているのか、驚いたふりをしているのか、区別がつかない。
それから、くすくすと笑う。
「ひどいなぁ。君の顔なのに」
笑い方が気持ち悪い。子どもの顔に、子どもの笑い方がされている。それは正しい。子どもが子どものように笑っている。それだけなら正しい。でもその笑いの奥にあるものが、子どものそれではない。奥に別の何かが詰まっている。古いもの。深いもの。長い時間をかけて醸成された、嗜虐的な愉悦。子どもの殻の中に、それが詰まっている。
虫の足をむしりながら「おもしろいね」と言う子どもの声に、似ている。残酷さに自覚がない声。残酷さを残酷だと思っていない声。それが日常であるかのような声。
「おまえが、窓の……」
「うん。あれもぼくだよ」
あっさりと認める。
あまりにも軽く。あまりにも簡単に。否定しない。隠さない。ごまかさない。「あれもぼくだよ」と、まるで昨日の夕飯を聞かれたかのように答える。
胸の奥で何かが煮えたぎる。
俺の人生を壊したことを。奈々未を殺したことを。両親を死なせたことを。そんな顔で——俺の幼い頃の顔で——認めやがる。
「……邪神め」
吐き捨てるように言う。声が震える。怒りで震えているのか、恐怖で震えているのか、自分でもわからない。
子どもが少しだけ口を尖らせる。不服そうな顔。叱られた子どもの顔。でもその不服さも、演技なのか本心なのかわからない。
「ぼくのことを邪神だとか言うけど、ちゃんと名前があるのさ」
胸に手を当てる。やたらと得意げ。胸を張っている。自己紹介をする子ども。学校の授業で前に立って、名前と好きなものを言う子どもの仕草。
「ぼくの名前はナスレスク。結構偉いのさ」
にんまりと口角を上げる。
「気軽にナスレスク様って呼んでくれて結構さ」
「死んでも呼ぶか」
「もう死んでるみたいなものじゃないか」
けろりと言う。
その一言に、背筋が冷える。冷えるのは恐怖ではない。事実だから冷える。死んでるみたいなもの。五階から落ちた。意識が消えた。ここがどこかわからない。生きているのか死んでいるのかわからない。「死んでるみたいなもの」という言葉が、事実に近い。事実に近い言葉を、こんなに軽く言われる。
「……何だ、おまえ」
「だから、語りの御方ナスレスク様だってば」
「そういう意味じゃねぇよ……!」
思わず怒鳴る。声が広間に反響する。石の壁に当たって、何度か跳ね返ってくる。反響が消えるまでの間、ナスレスクはまた楽しそうに笑っている。怒鳴り声を聞いて、むしろ嬉しそうになっている。
俺は立ち上がる。
膝が笑っている。力が入りにくい。右手に痛みがある。見ると、窓を殴った傷が残っている。ガラスの破片で切れた跡。乾いた血がこびりついている。痛みはある。でも痛みは遠い。この場所の異常さの方が近い。死んだはずなのに立っている。死んだはずなのに痛みがある。痛みがあるということは、体がある。体があるのに、ここは現実ではない。現実ではないのに、痛い。
それよりも、目の前にいるこいつだ。
俺の顔をした、俺ではない何か。
幼い俺の形をして、乳白色の椅子に腰かけて、嬉しそうに足をぶらぶらさせているこいつが——俺の人生をここまで壊した張本人。
そう思った瞬間、体の奥から何かが上がってくる。マグマが上がってくる。地層を突き破って、噴き出そうとしている。三月から溜まり続けていた怒り。四月に三つの層に分類した怒り。全部が一つになって、目の前のこいつに向かっている。
「全部おまえがやったのか」
声が低い。自分でも気づかないくらい、低い。腹の底から出ている声。喉を通っているが、喉で作った声ではない。もっと深いところから出ている。
「父さんの会社のことも。両親の死も。流産も。奈々未の死も。全部、おまえがやったのか」
一つずつ並べる。並べるたびに、声に力が入る。並べるたびに、怒りが具体的になる。
ナスレスクはじっと俺を見る。
その目が細くなる。嬉しそう。こちらが怒れば怒るほど、嬉しそうな顔になっていく。怒りを浴びている。浴びて、それを楽しんでいる。シャワーのように浴びている。心地よさそうに。
「だいたいはね」
軽い声で言う。
「細かいところは人間がやったことだけど、流れはぼくが作ったのさ」
あっけらかんと。まるで庭仕事の説明をするように。「ここの花壇はぼくが作ったけど、草むしりは隣のおばさんがやってくれたんだよ」という口調で、俺の人生の崩壊を語る。
俺の両手が、知らず知らずのうちに握られている。爪が掌に食い込む。右手の傷が痛む。血が滲む。でも止まらない。握り続ける。
「なぜだ」
声が震える。怒りで震える。
「なぜ俺の人生を壊した。理由を言え」
ナスレスクは一瞬だけ間を置く。
間を置く、という動作がある。間を計っている。最大限の効果を出すタイミングを計っている。俺が最も傷つくタイミングを。俺の怒りが最も燃えるタイミングを。
足をぶらぶらさせながら、少し首を傾ける。子どもが何かを思い出そうとするときの仕草。でもこいつは思い出そうとしているのではない。どう言えば最も効果的かを計算している。
「君の人生はね」
ナスレスクが言う。声が少し柔らかくなる。
「最初から、幸せになるよう決まってたのさ」
俺は黙る。黙るしかない。意味がわからない。
「愛されて、愛して、満ち足りて、穏やかに老いていく。そういう、ひどく整った人生が、君には用意されてたんだよ」
ナスレスクは嬉しそうに続ける。語るのが楽しくて仕方がないという声。自分の作品を解説する芸術家のような声。
「お嫁さんとずっと一緒に生きて、子どもも育てて、お父さんの背中を見ながら立派な大人になっていく。お母さんの優しさを受け継いで、自分も誰かに優しくできる人間になっていく。そういう、きれいな物語」
一言一言が、胸に刺さる。
奈々未と一緒に生きて。子どもを育てて。父の背中を見ながら。母の優しさを受け継いで。全部、俺が持っていたもの。持っていて、失ったもの。持っていたことすら、失ってから初めてわかったもの。
それが「用意されていた」と。最初から。
「でもね」
にこりと笑う。
「ぼくはね、運命とか因果ってやつが、ずぅーっと昔からキライなのさ」
キライ、という言葉を、子どもが嫌いな食べ物を言うときの口調で言う。ピーマンがキライ。人参がキライ。そのレベルの軽さで、「運命がキライ」と言う。
頭の中で、何かが切れる。
「……やめろ」
「最初から決められてるなんて、つまらないじゃないか」
楽しそうに言う。心底楽しそうに。自分の正しさを確信している声。
「整いすぎた人生って、退屈なんだよねぇ。ぼくは退屈が嫌いなのさ」
「ふざけるな!!」
叫ぶ。喉が裂ける。声が広間を震わせる。石の壁が振動する。天井の星屑が揺れる。
「それだけのことで! たったそれだけのことで、両親を死なせて、奈々未を死なせたのか!!」
声が割れる。声の中に涙が混じる。涙は流していない。でも声が泣いている。
ナスレスクはきょとんとした顔をする。
まるで何がそんなに怒っているのかわからない、という顔。何がそんなに大騒ぎなのか理解できない、という顔。その顔が、怒りをさらに煽る。
「だいたいそうかな」
ナスレスクは言う。
「ぼくにとっては、そういうことなのさ」
その答えが、俺には一番重い。
謝罪ではない。弁明でもない。哲学でもない。後悔でもない。ただ、「そういうこと」だと言った。俺の両親の死も、奈々未の死も、この存在にとっては「そういうこと」の範疇に収まっている。飽きたから壊した。それだけ。
退屈だったから。
俺の人生が整いすぎていて、退屈だったから。
だから壊した。
その理由の軽さが、行為の重さと釣り合わない。釣り合わないことが、最も残酷。理由が軽ければ軽いほど、失われたものの重さが際立つ。重い理由なら、まだ納得できたかもしれない。世界を救うためだった、とか。何かの均衡を保つためだった、とか。そういう理由なら、飲み込めたかもしれない。
退屈だったから。
飲み込めるわけがない。
「返せよ……」
怒鳴り声のはずなのに、最後は掠れる。声が枯れている。叫びすぎている。でもまだ声を出す。出さずにはいられない。
「返せよ、俺の人生を……奈々未を……!」
ナスレスクは、じっと俺を見上げる。
俺は立っている。ナスレスクは椅子に座っている。物理的には俺の方が高い位置にいる。見下ろしている。でも見下ろしているのに、圧倒されている。見上げているナスレスクの方が、圧倒的に上にいる。
ナスレスクの顔に浮かぶもの。
憐れみではない。罪悪感でもない。反省でもない。同情でもない。
歓び。
純粋な、混じりけのない、歓び。
「うふふ」
ぞくり、と悪寒が走る。背筋から首筋へ。首筋から頭頂部へ。冷たいものが駆け上がる。
「やっぱり君、まだ折れてない」
その言葉に、俺は息を呑む。
折れていない。何も残っていないと思っていた。空っぽになったと思っていた。三月の夜、窓に映る自分の顔を見て、空洞だと思っていた。
けれど違う。
胸の奥にはまだ、燃えかすみたいに残っているものがある。
怒り。憎しみ。そして——取り戻したいという、どうしようもなく醜い執着。
奈々未を取り戻したい。両親を取り戻したい。あの日々を取り戻したい。砂糖入りのコーヒーを取り戻したい。「おかえり」を取り戻したい。「よく頑張った」を取り戻したい。夜中の台所のホットミルクを取り戻したい。
全部、取り戻したい。
その執着は醜い。死んだ人間は帰ってこない。それは凪が一番よく知っている。知っているのに、取り戻したいと思う。不可能だとわかっていても、思う。思うことをやめられない。
でもその醜さが——今の俺の、最後の燃料。
取り戻したいという執着だけが、俺を立たせている。
ナスレスクがくるりと踵を返す。
椅子から降りて、砕けた円卓にそっと触れる。子どもの手が、石の縁に触れる。小さな手。俺の幼い頃の手。あの手で、竹刀を握っていた。あの手で、母の手を繋いでいた。その手が、砕けた円卓を撫でている。
「ぼくの世界へおいでよ、タカハラナギ君」
柔らかい声。誘うようでいて、命じるようでもある声。友達を遊びに誘う声と、王が臣下に命じる声が、同じ声の中に混在している。
「そこで力をつけて、ぼくを滅ぼしてごらん」
「……何?」
「もし君がほんとうにぼくまで辿り着いて、ほんとうにぼくを滅ぼせたなら」
ナスレスクが振り返る。微笑んでいる。
「歪める前の、君本来の人生へ繋ぎ直してあげるのさ」
信用なんてできるわけがない。
こいつは俺の人生を壊した張本人。退屈だったから壊した。運命がキライだから壊した。その程度の理由で、父と母と奈々未を——そして生まれてくるはずの子どもを——奪った存在。信用できるわけがない。
「そんな話、信じると思うか」
「信じなくてもいいよ」
あっけらかんと言う。表情が変わらない。信じてもらえなくても、別に構わないという顔。
ナスレスクの指が、砕けた円卓の縁を撫でる。その指先が触れた瞬間——
床の紋様が、光る。
かすかに。欠けた線の一本一本が、淡い光を帯びる。壊れていたはずの魔法陣の線が、触れられた点から放射状に、じわじわと光を取り戻していく。完全ではない。欠けた部分は欠けたまま。でも残っている線が、微かに光っている。
「ここはね、神々の間なのさ」
ナスレスクが言う。声のトーンが少し変わる。いつもの軽さの中に、わずかな重みが混じる。
「この場所で為された契約は、ぼくでも破ることができない」
床の光が広がっていく。欠けた線の間を飛び越えるように、光が伝播していく。壊れた魔法陣の残骸が、かすかな光で繋がっていく。
「神々の間というのは、そういう場所なんだよ。たとえ原初の神であっても、ここで交わされた約束を覆すことはできない」
原初の神。その言葉が引っかかる。原初の神とは何か。ナスレスクがそう呼ぶ存在は何か。でも今は聞く余裕がない。
「それだけは、保証してあげるのさ」
ナスレスクはそう言って、にっこりと笑う。
保証。この存在の「保証」に、どれだけの価値があるのか。退屈だから人の人生を壊す存在の保証。運命がキライだから幸福を奪う存在の保証。
でも——
「でも、他に道はないじゃないか」
ナスレスクが言う。俺が何かを言う前に、先回りするように。俺の思考を読んでいるかのように。
その一言が、胸に突き刺さる。
……そうだ。
信じるかどうかじゃない。他に何もない。
ここがどこかわからない。生きているのか死んでいるのかもわからない。地球に帰る方法もわからない。帰ったところで——帰ったところで、何がある。奈々未はいない。両親はいない。空っぽの部屋がある。チェーンのかかっていないドアがある。砂糖の入っていないコーヒーがある。
帰る場所がない。
このまま終わるなんて、絶対に嫌だ。
奈々未を失ったまま。両親を失ったまま。俺の人生を弄ばれたまま終わるなんて、そんなのだけは認められない。認めたら、それは——奈々未の死を受け入れることになる。両親の死を受け入れることになる。「退屈だったから壊した」という理由を、受け入れることになる。
それだけは、嫌だ。
「……行けばいいんだな」
「うん」
ナスレスクが頷く。嬉しそうに。
「おまえを殺せば……取り戻せるんだな」
ナスレスクは、にぃっと笑う。
その笑い方。あの窓の中の笑い方と同じ。嗜虐的で、底がなくて、楽しそうで、気持ちが悪い。
「そういうことにしてあげるのさ」
その言い方に、また怒りがこみ上げる。「そういうことにしてあげる」。上から。どこまでも上から。俺の人生を壊した張本人が、俺に恩を売るような口調で、俺の願いを「叶えてあげる」と言う。
けれど、もう迷いはない。
「やる。ぶっ殺してやる」
「えらいえらい」
ぱち、ぱち、と子どもみたいに拍手する。小さな手が合わさって、乾いた音が広間に響く。
「じゃあ、餞別をあげなくちゃあね」
ナスレスクはにこにこしながら言う。
「君たちの世界ではさ、転生した人間には贈り物をあげるんだろう?」
「……何の話だ」
「知らないの? 君たちの世界でよく書かれてる物語だよ。異世界に転生した人間が、神様からチートな能力をもらって無双するやつ。ぼく、結構好きなのさ」
楽しそうに言う。
俺は言葉が出ない。こいつは——俺たちの世界の物語を知っている。異世界転生もの。ライトノベル。アニメ。マンガ。そういうジャンルを知っている。
「ぼくがずっと見てたって言ったじゃないか。君たちの世界のこと、いろいろ知ってるのさ。面白い物語がたくさんあって、飽きないんだよねぇ」
この存在は、俺たちの世界を外側から眺めながら、娯楽として消費していた。人の人生も、人が紡いだ物語も、全部こいつの暇つぶし。テレビを見るように。SNSを眺めるように。他人の生も死も、こいつにとっては画面の向こうの出来事。
「でも君の場合はちょっと違うのさ」
ナスレスクが続ける。一歩、こちらへ近づく。
「そっちの物語みたいにチートをあげるのも悪くないけど、ぼくはもう少し、手応えのある物語が好きなのさ」
手応えのある物語。俺の人生を「物語」と呼んでいる。俺の苦しみを「手応え」と呼んでいる。
「だからまあ、三つだけ。本当に三つだけ、餞別をあげようと思うんだよね」
ナスレスクが三本の指を立てる。子どもの指。小さな指が三本。
「ああ、でもその前にひとつだけ忠告しておくのさ」
ナスレスクは、くるりと背を向けて乳白色の椅子の前へ戻る。
「向こうへ行って、ぼくのことをあんまり大声で罵るのはおすすめしないのさ」
「……は?」
「前に招待した子がね、それやって邪教徒扱いされたんだ」
あまりにも軽い口調。世間話のような口調。
「火炙り。ふふ。かわいそうだったのさ」
笑いながら言う。かわいそう、という言葉に、これっぽっちも「かわいそう」という感情が乗っていない。記録を読み上げるような声。データを報告するような声。
「一応ね、ぼく、あの世界じゃ唯一神ってことになってるのさ」
唯一神。
その言葉を聞いて、俺は周囲を見る。この広間。五つの席。壊れた四つと、無傷の一つ。壊れた石像。欠けた魔法陣。
かつては五つの神がいた場所。今は一つだけが残っている場所。
こいつが唯一神。
「……前にも、いたのか」
「いたよ」
あっけらかんと答える。
「まあ、君ほどは楽しめなかったけどね」
ぞっとする。
俺が最初ではない。こいつはこれを繰り返している。俺の前にも誰かがいた。こいつに人生を壊されて、この場所に来て、同じように怒りながら異世界に送られた。
その誰かは、どうなったのか。
火炙りになった者がいた。他には。
「他は、どうなった」と俺は聞く。
「さあ」とナスレスクは言う。「いろいろさ。頑張った子もいたし、すぐ折れた子もいたし。ぼくを滅ぼせた子は、今のところいないけどね」
今のところ、という言葉が引っかかる。「今のところいない」ということは、滅ぼせる可能性はゼロではないということ。あるいは、ゼロではないと思わせたいだけかもしれない。
「じゃあ俺が最初の一人になってやる」
「楽しみにしてるよ」
ナスレスクは、にこりと笑う。その笑いに温度がない。氷の彫刻のような笑い。形はあるが、温かさがない。
心の底から思う。
クソだ、と。
たぶんその感情が顔に出ている。ナスレスクは満足そうに目を細める。
「うんうん。そういう顔、好きなのさ」
三十分後に今日の二話目を投稿します。




