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序章034

 五月になる。


 怒りの矛先を探し続けて、一ヶ月が経つ。見つからない。


 個人ではない。社会でもない。もっと大きな何か。でもその「何か」に、まだ名前がつかない。名前がつかないまま、五月の日々が過ぎていく。


 凪は毎日同じことをしている。朝起きて、コーヒーを入れて、ネクタイを締めて、駅まで歩いて、電車に乗って、会社に行って、久保に書類を投げ返されて、岡田と昼飯を食って、定時に帰って、暗い部屋に入って、水を飲んで、窓の前に座って、眠れない夜を過ごす。


 桜は散った。四月の終わりに、公園の桜並木が一斉に散った。花びらが歩道に積もって、踏むと靴の裏に貼りつく。五月に入ると、花びらの残骸が雨で流されて、替わりに新緑が枝を覆う。緑が濃い。生命の色。凪にはその色がまぶしい。まぶしくて、目を逸らす。


 五月の空気は湿り始めている。朝、窓を開けると、土の匂いがする。公園の土と、雨上がりの舗装路が混ざった匂い。冬の乾いた空気とは違う、何かを育てようとしている空気。草が伸びている。アスファルトの隙間からも伸びている。伸びようとする力が、そこら中にある。


 凪だけが、伸びようとしていない。


 毎晩、窓の前に座る。窓に映る自分の顔を見る。その顔は、少しずつ変わっている。やつれたまま。頬は削れたまま。でも目の光が強くなっている。三月は空洞。四月は微かな光。五月は、もう少しはっきりとした光。怒りの光。どこへ向けていいかわからない光が、日に日に強くなっている。


 その光が強くなるほど、凪は窓を見る時間が長くなる。


 夜の窓に映る自分の顔。街の明かりを背景にした、半透明の自分。向かいのマンションの壁と重なった自分の顔を、凪は毎晩見ている。見ていて、何を考えているか。考えていることはいつも同じ。怒りの矛先を探している。誰が凪の人生を壊したか。何が壊したか。


 でも見つからない。


 見つからないまま、五月の夜を過ごしている。


 ある夜のこと。


 五月の半ば。風のない夜。窓を閉めている。部屋の中に、夕食の残り香がかすかに漂っている。今夜はカップ麺を食べた。スーパーで買った安い味噌味のカップ麺。お湯を注いで三分待って、食べた。味噌の匂いが部屋に残っている。奈々未が作る味噌汁とは似ても似つかない匂い。奈々未の味噌汁は出汁の匂いがした。昆布と鰹の匂い。この匂いは化学調味料の匂い。塩っぱくて、平板で、温度のない匂い。


 凪はソファに座って、窓の外を見ている。水を飲んでいる。コップに水を注いで、少しずつ飲んでいる。


 窓に、自分の顔が映っている。いつも通り。やつれた顔。怒りの光を宿した目。見慣れた顔——この二ヶ月で、見慣れてしまった顔。


 でもその夜は、違うことが起きる。


 窓の中の自分が、笑う。


 一瞬。口角が上がる。ほんの一瞬——まばたきと同じくらいの短さで——窓の中の凪の口元が動く。


 凪は動いていない。自分の口元を確認する。動いていない。唇は閉じたまま。口角は上がっていない。鏡なら、自分が動けば鏡も動く。でも今、凪は動いていない。動いていないのに、窓の中の凪が動いた。


 見間違い、と凪は思う。


 疲れている。眠れない夜が続いている。一年以上、まともに眠れていない。幻覚を見てもおかしくない。ストレスで、人は見えないものを見る。聞こえないものを聞く。そういうことは知っている。


 もう一度、窓を見る。


 窓の中の自分は、無表情に戻っている。凪と同じ顔。やつれた、怒りを持った顔。口角は動いていない。


 見間違い。そうに決まっている。


 でも確かに見た。一瞬だけ、口角が上がった。その笑い方を、凪は知っている。見覚えがある。どこで見たか。


 考える。思い出す。


 テレビの画面の向こうで、SNSの画面の向こうで、凪の苗字を叩いていた人間たちの笑い方に似ている。直接手を下すわけではない。ただ遠くから見ていて、少しおもしろがっている。他人の不幸を、感想のように消費している。傍観者の笑い方。当事者ではないから笑える。自分には関係ないから笑える。


 あの笑い方。


 なぜ凪の顔が、あの笑い方をしたのか。いや、していない。見間違い。疲れている。そう思って、凪は窓から目をそらす。


 ソファの背もたれに頭を預ける。天井を見る。白い天井。染みが一つ。奈々未が「顔に見える」と言った染み。凪には見えない。今も見えない。


 でも窓の中の笑い方は、見えた。


 見えたことが、凪の中に小さな棘のように刺さっている。抜けない。抜こうとすると、余計に深くなる。だから放っておく。放っておいて、いつか抜けるのを待つ。


 その夜は、そのまま眠る。眠れないまま目を閉じて、いつの間にか朝になっている。


 あの夜から、凪は考え始める。


 日中も考える。仕事中、書類を作りながら、頭の片隅で考え続けている。電車の中でも考える。帰宅してからも考える。窓の前に座ってからも考える。


 自分の人生に起きたことを、もう一度最初から並べ直す。


 高原製薬の不祥事。報道。遺族の怒り。嫌がらせ。警察の冷たい目。久保の言葉。両親の死。奈々未の流産。奈々未の死。


 並べてみる。一つ一つは別々の出来事。繋がっていない。因果関係で結ばれているものもあるが、全部が一本の線で繋がっているわけではない。父の会社の不祥事と、久保の態度は、間接的な関係がある。不祥事がなければ久保の態度も変わっていたかもしれない。でも直接の因果関係ではない。匿名の電話と、奈々未の流産には、因果関係がない。嫌がらせのストレスが体に影響した可能性はあるが、医学的に証明できるものではない。


 別々の出来事。繋がっていない出来事。


 でも全部が、凪の人生の上で起きている。


 凪だけの人生の上で。


 偶然にしては、と凪は思う。


 偶然にしては、重なりすぎている。


 凪は確率を考える。一つの不幸が起きる確率は、それなりにある。誰にでも不幸は起きる。二つ重なることも、ある。交通事故に遭った直後に失業する、とか。でもこれだけのことが、一年半のうちに凪一人の人生の上で起きる確率は、どれくらいか。


 計算できない。でも直感的に、低い。ありえないほど低い。


 ありえないほど低いことが起きている。


 偶然ではないとしたら。


 必然だとしたら。


 誰かが、意図していたとしたら。


 凪はその考えに辿り着いて、自分で少し笑う。おかしくなってきた、と思う。陰謀論。被害妄想。疲弊した人間が陥る思考のパターンとして、教科書に載っていてもおかしくない。「全ては仕組まれていた」と考えることで、ランダムな不幸に意味を与えようとしている。意味がないことに耐えられないから、意味を捏造しようとしている。


 わかっている。それが正気の判断。


 でも消えない。


 消えないから、もう少し考えてみる。


 もし誰かが意図してこれだけのことを起こしたとしたら、どうやって。


 凪は仕事帰りの電車の中で、吊り革を持ちながら、頭の中でシミュレーションを走らせる。


 父の会社の役員たちに、コスト削減の判断をさせる。——これには、会社の内部にまで影響力を持つ存在が必要。株主か、取引先か、政治家か。理論上はできる。


 報道陣を動かす。——これも、不祥事さえ起きれば自動的に動く。報道は不祥事を追いかける。仕組まなくても動く。


 嫌がらせをしてきた人間たちに、凪の住所を知らせる。——住所の特定は、ある程度の技術があればできる。困難だが、不可能ではない。


 久保を凪の上司にする。——人事異動。田中部長を別部署に動かし、久保を後任にする。人事権を持つ人間なら、できる。


 ここまでは、人間の力の範囲内。


 ここから先が、違う。


 両親を追い詰める。——これは、不祥事と報道と社会的圧力の結果として起きた。意図して起こすには、不祥事そのものを引き起こす必要がある。不祥事は役員の判断の結果。役員の判断を操作するには——


 凪は考えるのを止めようとする。でも止まらない。


 奈々未の流産。——医学的な原因がある。ストレスが影響した可能性はあるが、それを意図的に引き起こすことはできない。体の内部で起きることを、外部から操作することは——


 できない。人間には。


 奈々未を、あの朝、あの場所に連れていく。——奈々未が「歩きたい気分で」と言って出かけたあの朝。あの道を歩かせ、あの時間にあの場所にいるようにし、そこに車が突っ込むようにする。経路を。タイミングを。車の速度を。全部を。


 できない。人間には、できない。


 富を持った人間なら、いくつかはできるかもしれない。情報を持った組織なら、いくつかはできるかもしれない。でも全部は無理。父の会社の内側にまで手を伸ばして、同時に凪のマンションの郵便受けに生ゴミを入れさせて、同時に奈々未の体の内部に干渉して、同時にあの日あの場所に車を走らせる。


 そんなことができる人間は、いない。


 そんなことができる組織も、ない。


 人間には、できない。


 凪は電車を降りる。駅の階段を上がる。改札を出る。夜の空気が、少し生温い。五月の夜風に、どこかの家の夕飯の匂いが混ざっている。カレーの匂い。誰かの家族が、今夜カレーを食べている。スパイスと、炒めた玉ねぎと、ルーが溶けた匂い。家庭の匂い。


 凪はその匂いの中を歩きながら、まだ考えている。


 人間ではない何か。


 顔が見えない何か。でも確かに、そこにいる何か。


 凪の人生に起きたすべてを——偶然ではなく——意図的に引き起こせるだけの力を持った、人間ではない何か。


 その考えが浮かんだとき、凪は自分で笑う。乾いた笑い。声には出さない。口角が少し上がるだけ。おかしくなってきた。疲弊して、被害妄想が膨らんで、ついに超自然的な存在を想定し始めた。精神科に行くべきかもしれない。いや、行くべきだ。行って、薬をもらって、眠った方がいい。


 でも消えない。


 人間ではない何か、という考えが消えない。


 翌日も、その翌日も、考え続ける。仕事中も、電車の中でも、眠れない夜も。


 考えれば考えるほど、その「何か」の輪郭が見えてくる気がする。人間ではない。でも意志がある。意志があって、動いている。凪の人生に起きたことは、偶然ではない。何かが、凪の人生を壊すために動いていた。


 では何のために。


 何のために凪の人生を壊す必要があるのか。


 凪は考える。窓の前で。水を飲みながら。


 楽しんでいるのかもしれない。


 人の人生が壊れるのを、楽しんでいる何か。人の怒りや悲しみを、おもしろがっている何か。あの窓の中の笑い方が、頭に浮かぶ。あの一瞬の笑い。傍観者の笑い。他人の不幸を消費する笑い。


 なぜあんな笑い方をしていたのか。


 わかる気がする。


 あれは、凪の苦しみを見て笑っていたのだ。


 力があって。意志があって。人の苦しみを楽しんでいる。


 人間ではない。


 では何か。


 神、という言葉が浮かぶのは、そこから。


 凪は宗教を信じていない。神を信じていない。神社に行くのは正月だけ。寺に行ったのは奈々未との水子供養のときだけ。キリスト教もイスラム教も仏教も、知識として知っているだけで、信仰として持ったことはない。


 でも今、自分の人生に起きたことを説明しようとしたとき、人間という枠に収まらない何かを想定しないと、説明がつかない。


 神なら、できる。


 人の運命に干渉できる。人の人生を好きな形に変えられる。見えないところから動かせる。父の会社の役員の判断に影響を与えられる。報道の流れを作れる。凪の住所を漏洩させられる。人事を動かせる。体の内部に干渉できる。天候を、交通を、タイミングを操作できる。


 凪の人生に起きたことは、全部、そういう存在がいれば説明がつく。


 でも善い神のはずがない。


 善い神が、こんなことをするわけがない。父と母を死なせて、奈々未を死なせて、生まれてくるはずの子どもを奪って、凪の人生をここまで壊した。それを楽しんでいるような笑い方をしていた。窓の中で、凪の顔を使って、笑っていた。


 善い神ではない。


 人の苦しみを楽しむ神。人の人生を玩具にする神。退屈しのぎに人間の幸福を壊す神。壊して、その反応を見て、おもしろがる神。


 邪神だ。


 その言葉が、静かに出てくる。


 叫んだわけではない。声に出したわけでもない。頭の中で、考えの末に、自然に浮かんでくる言葉。でも浮かんできた瞬間に、何かが定まる感覚がある。パズルの最後のピースが嵌まるような。嵌まった瞬間に絵が見える。見えたものが、怖いかどうかは別として、嵌まったことへの確信がある。


 長い間、名前がなかった。名前のない何かへの怒り。矛先のない怒り。三月から探し続けてきた矛先。


 今、名前がつく。


 邪神。


 邪神に決まっている。


 凪の中で、怒りが一点に集まり始める。散らばっていた怒りが、一つの点に向かって収束していく。三つの層に分かれていた怒りが、一つの名前の下に統合されていく。


 久保への怒りも。匿名の悪意への怒りも。社会の構造への怒りも。正義を盾にした攻撃への怒りも。全部、あの笑いの裏にいる存在に向かっていく。


 おまえが全部やったのか。


 凪はその問いを、頭の中で繰り返す。繰り返すたびに、怒りの温度が上がる。マグマの温度が上がる。地層を突き破りそうなほど上がる。


 でもまだ噴火しない。まだ窓の前で、水を飲みながら、座っている。


 邪神だ、と凪は思う。


 正気かどうかはわからない。たぶん正気ではない。正気の人間は、自分の不幸の原因を超自然的な存在に帰属させない。正気の人間は、精神科に行く。薬を飲む。カウンセリングを受ける。


 でも正気であることに、凪はもう興味がない。


 正気でも狂気でも、怒りは怒り。矛先が見つかったことには変わりない。矛先が邪神であるという結論が正気かどうかは、凪にとってはどうでもいい。


 怒りの行き先がある。


 それだけで、凪は少し楽になる。楽になるということは、正しいかもしれない。正しくないかもしれない。でも楽。


 窓に映る自分の顔を見る。怒りの光が、さらに強くなっている。空洞から微光へ、微光から光へ、光から炎へ。目の奥で、何かが燃えている。


 邪神。おまえが全部やったのか。


 窓の中の自分は、無表情のまま凪を見返している。あの夜の笑いは、もう見えない。でもあの笑いは確かにあった。凪は覚えている。


 覚えている。


 それから数日が経つ。


 凪は毎晩、窓の前に座っている。邪神、という言葉が頭の中に定着している。日中は仕事をしている。書類を作り、久保に投げ返され、岡田と昼飯を食い、定時に帰る。その間、頭の片隅では常に、邪神のことを考えている。考えているというより、その言葉が頭の中に常駐している。パソコンのバックグラウンドで動いているプログラムのように、意識しなくても動き続けている。


 五月の下旬。梅雨が近づいている。空気がさらに湿ってきている。朝、窓を開けると、土の匂いに水の匂いが混ざっている。雨が降りそうで降らない日が続いている。空が低い。雲が重い。その重さが、凪の気分と妙に合っている。


 ある夜。


 また窓の前に座っている。水を飲んでいる。コップの水は半分ほど減っている。部屋の電気はつけている。窓に自分の顔が映っている。


 自分の顔を見る。やつれた顔。怒りを持った目。いつもと同じ顔。


 そいつが、また笑う。


 今度は一瞬ではない。


 口角が上がる。上がったまま、止まる。凪を見ている。凪の顔をした何かが、凪に向かって笑っている。


 前回とは違う笑い方。前回は傍観者の笑いに似ていた。今度はもっと別のもの。楽しそう。底意地が悪い。嗜虐的。子どもが虫の足をむしるときの、あの笑い方に似ている。残酷さを楽しんでいる笑い。加害そのものが娯楽になっている笑い。


 凪は動けない。


 体が固まっている。手がコップを握ったまま、動かない。目が窓から離れない。離せない。窓の中の自分が笑っている。笑っている。自分の顔で。自分の口で。でも自分ではない。


 自分の口元を確認する。動いていない。唇は閉じたまま。口角は上がっていない。凪は笑っていない。笑っていないのに、窓の中の凪が笑っている。


 窓の中の口も、動いていない。


 動いていないのに、笑っている。口角が上がっているのに、口が動いていない。表情だけが変わっている。顔の筋肉の動きではない。もっと別の何かが、凪の顔の上に被さっている。凪の顔を借りて、別の何かが笑っている。


 背筋に、冷たいものが走る。


 頭のどこかで、とうとうおかしくなったと思う。この一年で壊れるものが全部壊れて、最後に頭がいかれた。幻覚を見ている。幻聴が来るのも時間の問題かもしれない。精神科に行くべき。今すぐ。明日の朝。





 ——声がする。





「ずっと見ていたのさ。タカハラナギくん」



 声。



 凪の口は動いていない。窓の中の口も動いていない。でも声がする。窓の方角から。窓の中から。凪の顔をした何かが、凪に向かって言っている。声の質は——楽しそう。軽い。子どもの声に近い。でも底がない。どこまでも落ちていくような深さが、軽さの裏に貼りついている。


 凪は動けない。


 コップを握ったまま、ソファに座ったまま、窓を見ている。窓の中の自分が、まだ笑っている。口角が上がったまま。目が細くなっている。嬉しそう。こちらが恐れれば恐れるほど、嬉しそうになっていく顔。


 頭のどこかで計算が走る。幻覚か、現実か。幻覚なら、精神科に行けばいい。薬を飲めばいい。現実なら——現実なら、何だ。窓の中に何かがいる。自分の顔を使って笑っている。声を出している。それが現実だとしたら。


 凪は数日前に考えたことを思い出す。


 邪神。


 力があって。意志があって。人の苦しみを楽しんでいる。人間ではない何か。


 今、その何かが、窓の中にいる。


 恐怖がある。当然ある。窓の中の自分が笑っている。声が聞こえている。正気の人間が恐れるべき状況。でも恐怖と同時に、別の何かがある。


 怒りの矛先が、見つかった。


 見つかった、と凪は思う。


 ずっと探していた。三月から。個人ではない。社会でもない。もっと大きな何か。その何かが、今、目の前にいる。窓の中で笑っている。凪の顔を使って。凪の苦しみを見て。楽しそうに。


 おまえか。


 おまえが全部やったのか。


 凪の中で、何かが切れる。切れるという表現は正確ではない。切れるのではなく、繋がる。散らばっていた怒りのすべてが、一点に向かって繋がる。三つの層が溶けて一つになる。久保への怒りも、匿名の悪意への怒りも、社会の構造への怒りも、正義を盾にした攻撃への怒りも、全部が一つの点に集まる。


 おまえだ。


 おまえが父の会社を壊した。おまえが報道を動かした。おまえが嫌がらせを仕向けた。おまえが久保を送り込んだ。おまえが両親を追い詰めた。おまえが奈々未の体に干渉した。おまえがあの朝、奈々未をあの場所に連れていった。


 全部おまえがやった。


 その確信が、恐怖を凌駕する。


 恐怖はまだある。ある。でも怒りの方が大きい。一年半分の怒りが、一点に集中している。その圧力の前では、恐怖は小さい。


 笑いが出る。


 凪の口から、声が出る。乾いた、静かな笑い声。おかしいとわかっている。窓の中の何かに向かって笑い返している自分が、おかしいとわかっている。でも止まらない。気が狂ったのかもしれない。狂ったのかもしれないが、それでもよかった。矛先が見つかった。それだけで、この一年半が報われた気がする。


「やっぱりいたのか」


 凪は言う。声が震えている。怒りで震えている。恐怖でも震えている。どちらの震えかわからない。両方かもしれない。


「クソが」


 窓の中の何かが、まだ笑っている。口角を上げたまま、凪を見ている。楽しそうに。嬉しそうに。


 凪は立ち上がる。


 コップが手から離れる。ソファの上に倒れる。水がこぼれる。クッションに水が染みる。凪はそれに気づかない。


 窓の前に立つ。


 窓の中の自分が——自分ではない何かが——まだ笑っている。近づいたことで、顔が大きく見える。凪の顔。凪の目。凪の口。でも凪ではない表情。嗜虐的な、底のない笑い。


 凪の中で、マグマが噴き出す。


 地層を突き破る。表面の砂を吹き飛ばす。一年半分の怒りが、一気に出口を見つけて噴き出す。久保への怒りも、匿名の電話への怒りも、玄関の落書きへの怒りも、正義を盾にした攻撃への怒りも、奈々未を失った悲しみも、両親を失った痛みも、名前を呼んであげられなかった後悔も、振り返らなかった朝の記憶も、全部が一つになって噴き出す。


「おまえが」


 声が出る。低い声。自分の声ではないような低さ。腹の底から出ている声。


「おまえがああああッ!!」


 叫ぶ。喉が裂ける。


「全部おまえがッ!」


 獣の声。人間の声ではない。一年半分の怒りが声になっている。声の形をした怒りが、窓に向かって叩きつけられている。


 右手を握る。


 拳ができる。爪が掌に食い込む。骨が軋む音がする。握った拳を、窓に向かって——窓の中で笑っているそいつに向かって——振り下ろす。


 殴る。


 ガラスが割れる。


 割れる音は、思ったより小さい。硬いものが砕ける、パリン、という音。それだけ。ドラマや映画で見る派手な音ではない。薄いガラスが、拳一つ分の穴を開けて、放射状にひびが走る。


 右手に痛みが走る。拳の甲から血が出る。ガラスの破片が皮膚を切っている。痛い。痛いが、痛みが遠い。怒りの方が近い。痛みは体の表面にあるが、怒りは体の中心にある。中心にある方が、優先される。


 拳が窓の向こう側に出ている。


 夜の空気が、穴から入ってくる。五月の夜の空気。生温い。湿っている。土の匂い。雨の匂い。まだ降っていない雨の匂いが、割れた窓から入ってくる。


 ガラスの破片が落ちる。室内側にも落ちる。外側にも落ちる。外側に落ちた破片は、五階の高さから落ちていく。地面に当たる音は聞こえない。遠すぎて。


 凪は拳を引き戻そうとする。


 引き戻そうとして——勢いが止まらない。


 殴った勢いが体を前に運んでいる。拳を振り切った体が、窓枠に向かって傾いている。窓枠は腰の高さ。腰が窓枠に当たる。上半身が前に出る。重心が外に移る。


 あ、と思う。


 一文字。それだけ。


 手が窓枠を掴もうとする。掴もうとして、右手はガラスの破片で滑る。血で滑る。左手が窓枠に触れる。触れるが、指が力を入れる前に、体が前に倒れる。


 重力。


 物理法則に従って、凪の体が窓から外に出る。上半身が先に出て、脚が後から追いかける。窓枠を蹴った感覚がある。蹴ったのではなく、体が出ていくときに脚が窓枠に当たっただけ。


 落ちる。


 五階の高さから。


 最初の一瞬は、落ちている感覚がない。浮いている感覚がある。重力がまだ加速をつけていない、最初の一瞬。無重力に近い一瞬。凪の体が空中にある。上も下もない一瞬。


 次の瞬間、加速する。


 夜の空気が、横を流れる。上から下に流れるのではなく、凪の体を中心にして、空気が横に引き裂かれていく。風ではない。凪の体が空気を切って落ちている。その抵抗が、横向きの流れになっている。


 コートの裾がはためく。髪が逆立つ。目が乾く。


 速い。


 五階からの落下は、思ったより速い。考える時間がない——と思ったのに、考えている。頭は動いている。体が落ちている間も、頭は動いている。不思議なほど明晰。


 一瞬だけ、空が見える。


 顔が上を向く瞬間がある。体が回転しているのか。わからない。でも一瞬、空が見える。夜空。五月の夜空。星が出ている。雲の切れ間に、星が出ている。


 星が綺麗だと思う。場違いなほど綺麗だと思う。




 そして——


 走馬灯、という言葉が頭に浮かぶ。浮かぶ前に、もう見えている。


 奈々未が、沖縄の海岸で振り返る。


 砂浜。波の音。風が温かい。空が青い。奈々未が少し先を歩いている。凪が呼ぶ前に、奈々未が振り返る。「来てよかった」と言う。口角が上がる。目が笑っている。あの笑い方。口角が上がって、すぐ戻る——でもこの記憶の中では、少し長く笑っている。いつもより長く。いつもより嬉しそうに。海が光っている。奈々未の後ろで、海が光っている。


 父が、洋食屋にいる。


 誕生日の夜。テーブルの向かいに座っている。ビーフシチューを食べている。横顔。口角が少し上がっている。仕事の顔ではない。節目の顔でもない。ただの父の顔。「よく頑張った」と言う声が聞こえる。短い言葉。素っ気ない言葉。でもその声には、確かに何かが乗っている。


 母が、夜中の台所にいる。


 オレンジ色の灯り。テーブルの前に座っている。お茶を飲んでいる。凪が台所の入り口に立つ。母が振り返る。「おいで」と言う。それだけ。それだけで十分。ホットミルクが置かれる。温かい。湯気が上がっている。母の声が聞こえる。「今日はどういう一日だった」。


 三つの記憶が、一瞬のうちに流れる。一瞬のうちに、全部が流れる。



 失う前の全部が、流れる。


 温かい。全部、温かい。


 その温かさが、落下の冷たさの中で、凪の中に広がる。広がって——


 地面が来る。


 衝撃。


 音がない。音があったはずだが、聞こえない。体が何かにぶつかる感覚がある。硬いものに。アスファルトに。五階の高さから落ちた体が、地面に当たる。


 痛みが——来ない。来ないのではなく、来る前に意識が途切れる。痛みが脳に届く前に、脳が処理を止める。回路が切れる。


 最後に見えるのは、夜空。


 星が出ている。五月の星。雲の切れ間に、白い光。


 奈々未の笑顔が、まだ残像として残っている。海岸で振り返った顔。「来てよかった」。


 意識が、薄くなっていく。


 薄くなって。


 薄くなって。


 消える。


 凪の意識が、消える。

明日も20時に投稿します。

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