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序章033

 四月になる。


 社会人になって二年が経つ。入社式の朝、奈々未に「似合ってる」と言われた日から、二年。凪はその計算を、朝ネクタイを締めながらする。洗面台の鏡にネクタイの結び目が映っている。二年前の朝と、同じ動作。同じ手順。右の大剣を長めにとって、左の小剣に巻きつけて、輪に通して、引く。手は覚えている。目を閉じていてもできる。


 でも何もかもが違う。


 二年前の朝、凪はこの動作をしながら緊張していた。初めてのスーツ。初めての革靴。奈々未が玄関で待っていた。凪が出てくると、少し離れて全身を見て、「似合ってる」と言った。口角が上がって、すぐ戻る。あの笑い方で。凪は「そうか」と答えた。照れていたのかもしれない。


 今、同じ動作をしている。ネクタイを締める。結び目を整える。鏡に映る結び目だけを確認する。顔は見ない。三月の夜、窓に映った自分の顔を見てしまってから、鏡で自分の顔を見ることを凪は避けている。避けているという自覚がある。見たくない。見ると、父と同じ影がある。


 台所に行く。コーヒーを入れる。ブラック。砂糖は入れない。トーストを焼く。バターを塗る。食べる。バターの匂いが指に残る。奈々未が生きていた頃の朝食には、もっと匂いがあった。味噌汁の湯気。焼き魚の煙。目玉焼きの縁が焦げる匂い。奈々未の朝食は品数が多かった。母の料理に似ていると思ったことがある。言ったことはなかったが。


 今の朝食はトーストとブラックコーヒー。それだけ。品数を増やす気力がない。増やす理由もない。自分一人のために味噌汁を作る気にはなれない。


 靴を履く。ドアを開ける。出る。閉める。鍵をかける。


 駅まで歩く。桜が咲き始めている。三分咲き。花びらがまだ小さくて、遠目には枝が少しピンクがかっている程度にしか見えない。通勤路の途中にある公園に、桜並木がある。去年の春——いや、一昨年の春、凪と奈々未はこの公園を歩いた。奈々未が「来年も来ようね」と言った。来年は来なかった。来年の春には、奈々未のお腹が大きくなっていた。桜を見に行く余裕がなかった。そしてその次の春——つまり今——奈々未はいない。


 凪は桜を見ない。目に入るが、見ない。見ると何かが動く。何が動くかはわからない。でも動かしたくない。今の凪には、余計なものを動かす余裕がない。


 電車に乗る。吊り革を持つ。車内に人の匂いが充満している。四月の朝の、スーツと整髪料と制汗剤が混ざった匂い。新入社員らしい若い男女が、緊張した顔で立っている。二年前の凪もああいう顔をしていたのだろうか。覚えていない。


 会社に着く。席に座る。パソコンを開く。


 怒りが、少しずつ形を持ち始めている。


 三月の終わりに感じた、目に宿り始めた光。あれが消えていない。消えるどころか、日を追うごとに、少しずつ輪郭が明確になっていく。怒りの矛先は見つかっていない。でも怒りそのものは、確かにそこにある。地層の下のマグマ。表面は乾いているが、下は熱い。


 その熱さが、四月になって少し上がってきている気がする。


 怒りに、三つの層があることに凪が気づくのは、四月の二週目の夜。


 窓の前に座っている。酒は飲んでいない。水を飲んでいる。コップに水を注いで、少しずつ飲む。以前は酒。今は水。水の方が頭が回る。頭が回ることが良いことかどうかわからない。でも考えることをやめたくない。考えることをやめたら、探すこともやめてしまう。


 三つの怒り。


 凪はそれを、窓の前で一つずつ分解していく。混然としていたものを、層に分ける作業。地層を掘るように。上から順に、掘り下げていく。


 一つ目は、直接的な怒り。


 久保への怒り。嫌がらせをしてきた人間への怒り。匿名の電話をかけてきた声への怒り。玄関に落書きをした誰かへの怒り。インターホンを壊した手への怒り。「人殺しの孫を産むな」と書いた筆への怒り。


 これは単純。やられた、という怒り。殴られたら痛い、その痛みへの反応。直接的で、具体的で、相手の顔が見えるものもあれば見えないものもあるが、構造としては単純。おまえが俺に、あるいは俺の大切な人間に、ひどいことをした。だから怒っている。


 でもこれは、凪が一番小さいと感じる層。


 なぜ小さいか。久保が凪に書類を投げつけるのをやめても、凪の人生は変わらない。匿名の電話が止まっても、両親は帰ってこない。落書きが消えても、奈々未は帰ってこない。直接的な怒りは、直接的な加害に対する反応にすぎない。加害が止まっても、凪の損失は残る。


 だからこの怒りは、表面の層。一番上に積もっている砂。掘れば、すぐ下に別のものがある。


 二つ目は、社会への怒り。


 高原製薬の不祥事は、凪が起こしたことではない。凪は何もしていない。何一つ。不正を指示したのは役員であり、凪はその事実すら知らなかった。でも凪の苗字がそこにある。高原。テレビのテロップを横に流れていく二文字。ニュースサイトの見出しに並ぶ二文字。凪の苗字がそこにある以上、凪は加害者の家族。


 社会はその苗字を見て、距離を置く。


 同僚が給湯室で話を止める。同期が昼食の誘いを断る。田中部長が異動になる。研修が見送りになる。久保がその距離を利用する。見知らぬ人間がその苗字に向かって怒鳴る。遺族がドアの前に立つ。全部、凪の苗字が引き起こしている。苗字が犯した罪に対する、社会の反応。


 凪は何もしていない。何もしていないのに、その構造の中に組み込まれている。


 怒りをぶつけられる側の論理は、凪にもわかる。怒りには行き先が必要。行き先のない怒りは、人を壊す。壊れないために、近くにある同じ記号に向かっていく。高原。その二文字に向かっていく。それはきっと自然な動き。水が低い方に流れるのと同じように、怒りは近くの標的に流れる。


 わかる。


 わかった上で、凪は怒っている。


 わかることと、受け入れることは違う。理解できる理由があっても、それで傷が消えるわけではない。「仕方ない」と思える部分はある。でも「仕方ない」で傷が治るなら、医者はいらない。仕方なくても、痛い。仕方なくても、怒りがある。


 この怒りは、一つ目より深い。一つ目は個人への怒りだが、二つ目は構造への怒り。個人を入れ替えても構造は残る。久保がいなくなっても、別の久保が来る。匿名の電話をかける人間が一人いなくなっても、別の人間がかけてくる。構造が変わらない限り、怒りの供給は止まらない。


 でもこの怒りも、凪にとっては中間の層。一番深い層ではない。


 一番深い層は、もっと下にある。


 三つ目の怒りに辿り着くのに、何日かかったか。


 四月の半ばを過ぎた頃、凪はようやくそれを言語化できるようになる。言語化できるようになったということは、それまでは言葉にできなかったということ。言葉にできないまま、ずっと底に沈んでいた。一番重いから、一番下に沈んでいた。


 三つ目は、正義を盾にした攻撃への怒り。


 この一年で、凪が最も消耗したのはそこ。


 遺族の怒りは正当。被害者への謝罪は当然。高原製薬の不祥事を批判する報道は正しい。久保の「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」という言葉も、完全な嘘ではない。


 全部、間違っていない。


 間違っていないから、凪には反論できない。間違っていないから、怒りをぶつけ返せない。間違っていない正義の前で、凪はただ受け取るしかない。受け取って、飲み込んで、黙る。それ以外の選択肢が、凪にはない。


 でも正義は、それを振るう人間を免責しない。


 凪は窓の前で、その構造を解剖する。静かに。丁寧に。一つずつ。


 遺族の怒りは正当。高原製薬の薬を飲んで家族を失った人間が怒ることは、当然のこと。凪にもそれがわかる。わかるから、ドアの前に立った女性に何も言えなかった。「うちの娘を返してください」という声に、凪は何も返せなかった。正しいから。


 でも玄関の落書きは正当ではない。


 批判は正しい。でも深夜の匿名電話は正しくない。


 久保の指摘には理がある。でも周りに聞こえるように言うことは、指導ではない。


 奈々未への脅迫文は、どこにも正義がない。妊娠中の女性に「人殺しの孫を産むな」と書くことに、正義はない。


 でも——凪がそれを指摘しようとした瞬間に、別の言葉が来る。「被害者のことを考えたことがあるのか」。「高原製薬の薬を飲んで死んだ人間のことを考えろ」。「加害者の家族が被害者面するな」。


 正義の外皮を被った攻撃。それに対して、凪には立てる旗がない。旗を立てた瞬間に、その旗ごと倒される。「おまえが旗を立てる資格はない」と言われる。そしてそれが、完全に間違っているとは言い切れない。


 その構造が、凪を一番消耗させている。


 怒ることすらできない怒り。怒ったら、さらに正義で殴られる。黙れば、黙認したことになる。どちらに動いても損をする。動かなくても損をする。三方向から壁で囲まれていて、唯一開いている方向は崖。


 凪は窓の前で、その構造を見つめる。見つめながら、コップの水を飲む。冷たい。四月の水道水は、まだ冷たい。


 正義を盾にした攻撃は、最も防ぎにくい。なぜなら盾が正義だから。正義に穴を開けようとすると、穴を開けた側が悪者になる。盾の後ろにいる人間が何をしていても、盾が正義である限り、そちら側は守られている。


 その構造を作ったのは誰か。


 誰でもない。社会がそうなっている。加害者の家族は声を上げられない、という暗黙の了解が社会にある。了解を誰が作ったかは不明。でも了解は存在する。凪はその了解の中にいる。その中で沈黙を強いられている。


 沈黙は、外から見れば謙虚に見える。内側から見れば、窒息。


 凪は三つの怒りを、三つの層として見分けられるようになる。一つ目は表面。二つ目は中間。三つ目が最も深い。最も深い怒りが、最も言葉にしにくい。言葉にしにくいから、処理もされない。処理されないまま、ずっと底に溜まっている。


 マグマの温度が、少し上がる。


 窓の外から、夜桜の匂いが微かに入ってくる。窓を閉めていても、換気口から入る。甘い匂い。春の匂い。凪はその匂いを吸って、少し顔をしかめる。甘い匂いが、今の凪には合わない。苦い方がいい。ブラックコーヒーの方がいい。砂糖のない方がいい。


 でも匂いは選べない。入ってくるものは入ってくる。怒りと同じ。来るものは来る。選べない。


 四月のある夜、凪は酒を飲まずに窓の外を見ている。


 珍しいことではなくなってきている。三月の終わりから、酒を飲まない夜が増えた。今ではむしろ、飲まない夜の方が多い。飲んでも眠れない。飲まなくても眠れない。同じなら、飲まない方がまし。頭が回る分だけ、まし。


 窓に自分の顔が映る。


 三月より、少し違う顔。やつれてはいる。でも目が、違う。何かを見ている目になっている。三月は空洞だった目に、光が入っている。怒りの光。どこへ向ければいいかわからない光。でも確かに光っている。


 その目が、凪には少し怖い。


 怒りを持った目というのは、こういう顔をしているのか、と思う。自分の顔なのに、知らない顔に見える。でも嫌ではない。空洞より、光がある方がいい。光の正体が怒りでも。


 怒っていいと思う。


 怒れていなかった。ただこなしていた。一年があった。その一年分の怒りが、今頃になって出てきている。遅い。でも遅くても、怒りは怒り。


 暗い復讐心、という言葉が頭に浮かぶのは、その夜。


 久保の顔が浮かぶ。あの言葉を、周りに聞こえるように言った顔。嫌がらせの電話をかけてきた声。玄関に落書きをした誰かの、見えない顔。奈々未を追い詰めた——直接ではないにしても、間接的に、少しずつ、奈々未の世界を窒息させていった全員の、見える顔と見えない顔。


 殴りたい。


 考える前に、そう思う。久保の顔を、机に叩きつけたい。電話をかけてきた声の主を探し出して、同じ目に遭わせたい。落書きをした手を、壁に押しつけたい。奈々未に「人殺しの孫を産むな」と書いた指を、一本ずつ折りたい。


 その衝動は、本物。


 頭で考えて出てきたものではない。一年分の怒りが、腹の底から直接出てきている。理屈を経由していない。感情の最短距離。殴りたい。痛みを与えたい。与えた分だけ、自分の痛みが軽くなるかもしれないという錯覚。錯覚だとわかっていても、衝動は消えない。


 体が熱い。手が震える。コップを持つ手に、知らずに力が入っている。水面が揺れている。指の関節が白くなるほど握っている。


 コップの中の水に、天井の光が反射している。揺れている。凪の手の震えが、水面に伝わっている。その揺れを見ながら、凪は台所の方から流れてくるわずかな匂いに気づく。今朝焼いたトーストの残り香。バターの匂い。日常の匂い。暴力とは無関係の、普通の朝の匂いが、まだ部屋に残っている。


 その匂いが、一瞬だけ、凪を引き戻す。


 でも、その熱の中に、別の何かがある。


 やってはいけない、という感覚。理屈ではない。理屈より先に来る。殴った瞬間に、何かが終わる、という確信。何が終わるかは言葉にできない。でも終わる。確実に終わる。


 久保と同じ種類の人間になる。嫌がらせをしてきた人間と、同じ側に立つ。正義を盾にした攻撃に憤っていた凪が、暴力を盾にした報復をする。盾の裏にいることは同じ。振るう武器が変わるだけ。


 奈々未が、凪に求めていたものを、自分の手で壊す気がする。


 奈々未は凪に何を求めていたか。強さではない。正しさでもない。ただそこにいてくれること。隣にいること。話さなくても、いること。それが奈々未にとっての凪。暴力を振るう人間は、隣にいる人間ではない。暴力は距離を作る。殴った瞬間に、凪は奈々未が好きだった凪ではなくなる。


 凪はそれが嫌。


 殴りたい。でもやってはいけない。その二つが、同時に本物。どちらかが嘘なら楽。衝動が嘘なら従わなければいい。理性が嘘なら従えばいい。でも両方が本物。両方が、凪の中で同じ強さで存在している。


 衝動が来るたびに、理性が追いかける。追いついたと思ったら、また衝動が来る。手の震えが、しばらく収まらない。


 窓の外を見る。夜の街が見える。あの明かりの中に、久保がいるかもしれない。嫌がらせをしてきた誰かがいるかもしれない。


 殴れる距離にいるかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、凪は立ち上がる。台所に行く。水を飲む。冷たい。少し、熱が引く。蛇口の水を手に受けて、顔を洗う。水が冷たい。四月の水道水。頬に当たる冷たさが、衝動の温度を数度下げる。


 窓の前には戻らない。


 その夜は、早く眠ろうとする。布団に入る。眠れない。でも目を閉じている。目を開けたら、また窓を見る。窓を見たら、また向こう側に立っている誰かの顔を想像する。想像したら、また殴りたくなる。


 目を閉じたまま、暗闇の中で、衝動と理性がせめぎ合っている。波のように寄せては返す。寄せるのが衝動。返すのが理性。でも波が高くなるたびに、砂浜が少しずつ削られていく気がする。理性の堤防が、少しずつ薄くなっていく気がする。


 怖い、という感覚が、辛うじて衝動を押さえている。殴った後の自分が想像できない。想像できないことを、衝動のままやることが、凪には怖い。怖いから、やらない。怖いという感情が、最後の防壁になっている。


 防壁は一ミリ。


 でも一ミリあれば、今夜は越えない。


 朝になる。目が覚める。眠れたのか眠れなかったのかわからない。でも朝が来ている。窓の外が明るくなっている。カーテンの隙間から、朝の光が入っている。


 凪は起き上がる。台所に行く。コップに水を注ぐ。酒ではなく、水を。


 窓の前に座る。朝の窓には、自分の顔が映らない。外が明るいから。窓はただの窓。透明な板。向こう側に、四月の朝がある。桜が咲いている。公園の桜が、昨日より少し多く咲いている。


 怒りの矛先は、まだ見つからない。


 でも探している。


 探している限り、凪はまだ動いている。怒りがある限り、凪は生きている。殴りたいという衝動を抱えたまま、殴らないという選択を毎晩繰り返しながら、凪は生きている。


 窓の向こうに、四月の街が広がっている。


 凪は水を飲む。苦くない。甘くもない。ただの水。でもそれでいい。


 怒りの矛先を、探し続ける。




明日も20時に投稿します。

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