表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/45

序章032

  三月になる。


 奈々未が死んで、一ヶ月が経つ。両親が死んで、五ヶ月が経つ。凪はその数字を、カレンダーを見ながら確認する。キッチンの壁にかかっているカレンダーは、奈々未が去年の暮れに買ったもの。猫の写真が月替わりで印刷されている。三月の猫は、窓辺で丸くなっている三毛猫。奈々未がこのカレンダーを選んだとき、「猫飼いたいね」と言っていた。凪は「いつかね」と答えた。いつか、という言葉にはまだ未来があった。


 朝、目が覚める。六時半。携帯のアラームが鳴る前に目が開く。天井を見る。白い天井。染みが一つある。引っ越してきた日からある染みで、奈々未が「顔に見える」と言っていた。凪にはただの染みにしか見えない。今も見えない。


 起き上がる。台所に行く。冷蔵庫を開ける。卵がある。牛乳がある。どちらも凪が一昨日買ったもの。奈々未が買った食材は、もうない。最後の豆腐を食べたのは二週間前で、味はしなかった。


 フライパンに油をひく。卵を割る。焼く。トーストを焼く。コーヒーを入れる。砂糖は入れない。入れようとして、やめる。砂糖を入れたコーヒーは奈々未が作るもの。自分で入れても同じ味になるはずだが、同じではない。それがわかっているから、入れない。ブラックのまま飲む。苦い。苦いまま、飲み下す。


 窓の外に、三月の朝の光がある。薄い光。冬と春のあいだの、どっちつかずの光。空気はまだ冷たい。窓を少し開けると、外から排気ガスと、どこかのベランダに干された布団の匂いが混ざって入ってくる。生活の匂い。誰かが生きている匂い。凪はその匂いを吸い込んで、窓を閉める。


 スーツを着る。ネクタイを締める。鏡は見ない。歯を磨くときだけ洗面台の鏡に映るが、自分の顔を見ていない。ネクタイの結び目だけ確認する。手の動きは覚えている。目を閉じていてもできる。


 玄関で靴を履く。ドアを開ける。廊下に出る。ドアを閉める。鍵をかける。チェーンはかけない。中にかける人間がいないから。その事実がもう一ヶ月続いている。一ヶ月前は、チェーンをかけ忘れていた。かけ忘れたのではなく、かける習慣が体に残っていなかった。奈々未が生きていたとき、帰宅すると奈々未がチェーンをかけていた。凪が外出するときは、奈々未が内側からかけた。その音を聞いて、凪は安心した。カチャリ、という小さな音。守られている音ではなく、守る意志の音。


 今は何も鳴らない。


 エレベーターに乗る。一階に降りる。エントランスを出る。駅まで歩く。電車に乗る。会社に行く。仕事をする。定時に帰る。その繰り返し。


 毎日同じことをしている。起きて、食べて、着替えて、出て、働いて、帰って、飲んで、眠る。それだけの日々。誰かがこの日々を外から見たら、普通に見えるかもしれない。普通の社会人の、普通の平日。でも中身が違う。外殻だけが動いている。中は空洞。空洞のまま、外殻が毎朝六時半に起き上がって、スーツを着て、電車に乗る。


 会社では岡田が時々声をかけてくる。「飯、行くか」と岡田が言う。「行く」と凪は言う。二人で社員食堂に行く。カレーを食べる。味がする日としない日がある。岡田は凪に余計なことを聞かない。仕事の話か、どうでもいい話だけする。それがありがたい。ありがたいと思える自分がまだいることが、少し意外でもある。


 久保は相変わらず凪に厳しい。書類を投げ返す。「作り直せ」と言う。凪は作り直す。三回、四回、作り直す。以前はそれに怒りを感じた。今は感じない。感じないのではなく、感じる余裕がない。怒るためには余裕が必要で、凪にはそれがない。ただ作り直す。機械的に。


 帰宅する。


 部屋が暗い。電気をつける。誰もいない。「おかえり」がない。その不在に、まだ慣れない。慣れないというより、不在を感じるたびに胸の奥が軋む。軋みに慣れただけで、不在には慣れていない。


 冷蔵庫からビールを出す。飲む。一本。二本。三本目の途中で、手が止まる。


 酒の量が、少し減っている。


 減らそうと決めたわけではない。意志の力で減らしたのでもない。ただ、飲んでも眠れない夜が増えた。以前は飲めば落ちた。意識が途切れるように眠れた。でも最近は、飲んでも頭が回り続ける。天井を見ながら、考えが止まらない。考えの内容はいつも同じ。奈々未のこと。両親のこと。振り返らなかった朝のこと。あの赤ちゃんの笑顔のこと。


 眠れないなら飲む意味がない。飲んでも眠れないなら、飲まない方がまし。翌朝の頭痛がない分だけ、まし。そういう計算が、体のどこかで働いている。意志ではなく、計算。省エネ。壊れかけた機械が、無駄な動作を省く。それに近い。


 三本目のビールを流しに捨てる。缶を潰す。ゴミ袋に入れる。


 ソファに座る。テレビはつけない。もう長いこと、テレビをつけていない。つける理由がない。ニュースは見たくない。高原製薬の話題がまだ出ることがある。バラエティは耳に障る。ドラマは、幸せそうな人間を見ていられない。


 窓の外を見る。


 眠れない夜が、三月の半ばまで続く。


 ソファに座って、窓の外を見る。それが夜の過ごし方になる。テレビの代わりに、窓。画面の代わりに、夜の街。


 五階の窓から見える景色は、たいしたものではない。向かいのマンションの壁と、その向こうに見える街路灯の列。遠くにコンビニの看板が光っている。信号機が赤から青に変わる。車が一台通る。また静かになる。


 凪はその景色を、毎晩見ている。見ているというより、眺めている。眺めているというより、目を向けている。目を向けているだけで、何かを見ようとしているわけではない。ただ、暗い部屋の中で目を閉じていると考えが止まらないから、目を開けて何かを見ている。


 向かいのマンションに、明かりがついている部屋がある。三階の右から二番目。カーテン越しに、人影が動いているのが見える。テレビの光が明滅している。誰かがあの部屋で生活している。起きて、テレビを見て、そのうち寝る。普通の夜を過ごしている。


 その明かりの一つ一つに、誰かの生活がある。


 凪にはそれがひどく遠い。同じマンションの住人ですら遠い。エレベーターで乗り合わせる隣人の顔を見ても、何も感じない。以前は会釈していた。今もしている。でも以前の会釈と今の会釈は違う。以前は、この建物に一緒に住んでいる人間への、緩やかな連帯があった。今はただ、筋肉が動いているだけ。


 深夜一時。二時。三時。


 時計の数字だけが動いている。凪の中では何も動かない。時間が経っているという感覚が薄い。一時も三時も、同じ暗さ。同じ静けさ。同じ窓の外。変わるのは信号の色と、向かいのマンションの明かりが一つ消え、また一つ消えていくこと。


 ある夜——三月の半ば、風の強い夜——凪は窓の外を見ていて、別のものを見ていることに気づく。


 窓に、自分の顔が映っている。


 外が暗く、部屋に明かりがついているとき、窓はほとんど鏡になる。凪は窓の外を見ていたつもりで、窓の表面に映る自分の顔を見ていた。街の明かりと自分の顔が重なって、半透明の像になっている。向かいのマンションの壁を背景に、凪の顔が浮かんでいる。


 その顔を、しばらく見る。


 知らない顔がある。


 頬が削れている。目の下に影がある。唇の色が悪い。髪が少し伸びている。最後に床屋に行ったのがいつか、思い出せない。ネクタイを締めるとき、鏡では結び目しか見ていなかった。歯を磨くとき、口元しか見ていなかった。自分の顔全体を、正面から見たのがいつか。


 父の顔を思い出す。


 あの夜、実家のソファに沈むように座っていた父の顔。目の下の影。憔悴。ネクタイが緩んでいた。背筋が曲がっていた。「俺の責任だ」と言った父の顔。


 窓に映る凪の顔に、同じ影がある。


 父と同じ影。父が背負っていたものと、凪が背負っているものは違う。父は八千人の従業員とその家族の生活を背負っていた。凪は何も背負っていない。背負うものがもう何もない。なのに同じ影が出ている。背負うものがないことの重さが、背負うものがある重さと同じだけ顔に出ている。


 それに気づいたとき、凪は少し驚く。


 自分の顔が変わっていたことに、一年以上気づかなかった。毎朝鏡の前に立っていたのに。毎朝ネクタイを締めていたのに。顔を見ていなかった。見る必要を感じていなかった。見たくなかったのかもしれない。


 窓に映る顔は、正面から凪を見ている。逃げようがない。鏡なら顔を背ければいい。でも窓は、外を見ようとしても自分が映る。夜の窓は、そういう構造をしている。


 凪は窓に映る自分を見ながら、台所の方から漂ってくる匂いに気づく。生ゴミの匂い。二日ほど出し忘れている。奈々未がいた頃は、ゴミ出しの曜日を一度も忘れなかった。奈々未がカレンダーに印をつけていたから。猫のカレンダーの隅に、小さな丸が書いてある。奈々未の字。今でもカレンダーにはその丸が残っている。でも凪はそれを見ても、体が動かない日がある。ゴミ袋を縛って、玄関に置いて、そのまま忘れる。


 匂いが部屋に染みている。生活が腐っていく匂い。


 凪はその匂いの中で、窓に映る自分の顔を見続ける。


 この一年で何が起きたか。


 頭の中で、一つずつ並べてみる。高原製薬の不祥事。資産の消滅。報道陣の包囲。遺族の正しい怒り。匿名の電話。生ゴミの詰められた郵便受け。壊されたインターホン。母の背中。赤いスプレー。脅迫の手紙。警察の一歩引いた目。久保の言葉。田中部長の異動。両親の死。便箋二枚。五人の葬儀。奈々未の流産。名前を呼んであげられなかった、という言葉。寺通い。笑い方が変わっていく奈々未。体だけがまだ母親をやっている残酷さ。チェーンの音がしない夜。正月。NPO復帰。赤ちゃんを抱っこした日の奈々未の顔。「春になったら」。そして、振り返らなかった朝。奈々未の事故。母子を庇ったこと。霊安室。鎌田家。「赤ちゃん、無事でよかった」。三十人以上が来た葬儀。


 並べてみると、整然としている。時系列に沿って、一つずつ並んでいる。でも実際にはそうではなかった。これらは同時に、重なりながら来た。一つが終わらないうちに次が来た。一つを受け止める暇もなく、次が来た。そして次が来て、また次が来て、気づいたら全部終わっていた。


 何かに怒る前に、次が来た。何かを悲しむ前に、また次が来た。


 凪はそのことに——三月の半ば、眠れない夜の窓の前で——初めて気づく。


 怒れていなかった。


 悲しめていなかった。


 ただ、こなしていた。


 処理していた。手続きをしていた。電話をかけて、書類を書いて、頭を下げて、ドアを閉めて、鍵をかけて、次の日も同じことをして。感情を挟む隙間がなかった。感情は贅沢品で、凪にはそれを味わう余裕がなかった。


 一年分の感情が、処理されないまま奥に積み重なっている。地層のように。マグマのように。表面は乾いている。でもその下に、熱いものが溜まっている。溜まっているのに、出口がない。


 窓に映る自分の顔が、その地層の重さを映している。頬の削れ方。目の下の影。口元の力のなさ。一年分の未処理の感情が、顔に出ている。


 凪は窓から目をそらす。ソファの背もたれに頭を預ける。天井を見る。白い天井。染みが一つ。顔に見える、と奈々未は言った。凪には見えない。今も見えない。


 でも窓に映った自分の顔は、見えた。見えてしまった。見なかったことには、できなかった。


 怒りの矛先を、凪は探し始める。


 それは意識的な作業になる。夜、窓の前に座りながら、一人ずつ、候補を検討する。怒りをぶつけるべき相手は誰か。この一年で凪の人生を壊したのは誰か。


 最初に浮かぶのは、父の会社の役員たち。


 承認外の原料を使用していたのは彼らだ。コスト削減という判断をしたのは彼らだ。その判断が高原製薬の不祥事を招き、凪の人生を変えた。出発点は彼ら。


 でも、と凪は考える。


 彼らの判断がなければ、不祥事は起きなかった。不祥事が起きなければ、報道もなかった。嫌がらせもなかった。両親は死ななかった——たぶん。でもそれは「たぶん」でしかない。不祥事がなくても、別の何かが起きていたかもしれない。起きなかったかもしれない。因果の鎖を辿っても、確実に「ここが原因だ」と言える地点に辿り着かない。


 それに、役員たちに怒りをぶつけたところで、何も変わらない。彼らは今、自分たちの問題を抱えている。裁判。賠償。社会的制裁。凪が怒りをぶつけなくても、彼らは十分に追い詰められている。凪の怒りは、彼らにとっては無数の怒りの一つにすぎない。


 違う。次。


 嫌がらせをしてきた人間たち。


 匿名の電話をかけてきた声。郵便受けに生ゴミを詰めた手。インターホンを壊した力。玄関に「死ね」と書いたスプレー缶を持った誰か。奈々未に「人殺しの孫を産むな」と書いた手紙を送った誰か。


 顔が見えない。


 全員、顔が見えない。声だけの人間。手だけの人間。悪意だけが届いて、本体がない。怒りをぶつけようにも、宛先がない。電話番号は変えた。引っ越しも考えた。でも相手が見えないから、どこへ逃げても追いかけてくる気がした。追いかけてこなかったとしても、追いかけてくる気がする、という感覚が消えない。


 それに、と凪は考える。あの人間たちの怒りには、正当な部分がある。高原製薬の薬を飲んで家族を失った人間が、高原という名前に怒りをぶつけること。それ自体は間違っていない。方法が間違っているだけで、感情は正当。正当な感情に対して怒り返すことが、凪にはできない。


 違う。次。


 久保。


 「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」。あの言葉。周りに聞こえるように言ったあの声。書類を投げ返すあの手つき。凪を人間として扱わないあの目つき。


 久保への怒りは、他の候補より具体的。顔がある。名前がある。毎日会う。怒りをぶつける相手として、最も手が届く。


 でも久保は——凪にはわかっている——小さい。


 久保は凪の人生を壊した人間ではない。久保は壊れた後の凪を踏んだ人間。壊したのは別の何かで、久保はその残骸の上に立って、自分の小ささを凪にぶつけているだけ。怒りの矛先としては、スケールが合わない。久保に怒りをぶつけても、凪の一年は変わらない。


 違う。次。


 あの車を運転していた人間。


 奈々未を轢いた車。歩道に突っ込んできた車。運転していた人間の名前を、凪は知らない。警察から聞いたはずだが、頭に残っていない。残す気がなかったのかもしれない。


 鎌田家の夫が言っていた。妻と子どもを庇っていただいて、と。奈々未は、目の前に車が突っ込んできたとき、母子を庇った。奈々未が選んだ行動。運転手が奈々未を殺したと言えるのか。直接的にはそう。でも奈々未が庇わなければ——凪はその思考を止める。止めなければならない。奈々未が庇わなければ、という仮定は、奈々未が母子を見捨てていれば、という仮定と同じ。それは奈々未ではない。


 奈々未はああいう人間だ。目の前で誰かが傷つくのを見たら、動く人間。NPOで子どもたちの名前を呼ぶのが上手だった人間。施設で育ち、一人で生きてきて、それでも誰かのために動ける人間。


 運転手を恨むことは、奈々未の選択を否定することになる。それは凪にはできない。


 違う。


 候補がなくなる。


 凪は窓の前で、空になったリストを見つめる。役員。匿名の悪意。久保。運転手。全部検討して、全部外れた。怒りはある。確かにある。胸の奥で、地層の下で、マグマのように溜まっている。でもそのマグマを注ぎ込む穴がない。噴火口がない。


 怒りの矛先が、内側に向きそうになることがある。


 自分が悪かったのではないか。もっと早く動いていれば。もっと強く奈々未を守っていれば。あの朝、振り返っていれば。仕事を休んで一緒に歩いていれば。


 その思考は、夜中の三時に最も強くなる。暗い部屋で、一人で、酒も飲まずに座っていると、自分を責める声が頭の中で大きくなる。おまえが悪い。おまえが何もしなかったから。おまえが弱かったから。


 でもそれも違う、と凪は思う。


 自分を責めても何も変わらない。変わらないだけでなく、自分を責めることは——凪にはわかっている——一種の怠慢。自分を責めれば、他の何かを考えなくて済む。自分が悪かったと結論づければ、それで思考が止まる。楽になれる。その楽さは、酒で眠るのと同じ種類の楽さ。


 凪はその楽さを拒む。


 拒むことだけが、今の凪にできる抵抗。


 台所から、コーヒーの残り香が漂ってくる。今朝飲んだブラックコーヒーの匂い。苦い匂い。砂糖のない匂い。奈々未なら「砂糖、足りないね」と言うだろう。でも奈々未はいない。砂糖を足してくれる人間がいない。苦いまま飲むしかない。


 苦いまま飲む。


 それが今の凪の生き方。砂糖なしの、苦い日常。それをただ飲み下す。飲み下しながら、怒りの矛先を探し続ける。


 三月の終わり、ある夜のこと。


 凪は奈々未の本棚の前に立っている。


 本棚は寝室の壁際にある。奈々未が使っていたもの。小さな三段の本棚で、文庫本と新書が並んでいる。凪は奈々未が死んでから、この本棚に触れていなかった。触れる理由がなかった。凪の本は別の場所にある。この棚は奈々未のもので、奈々未のものには触らないようにしていた。触ると、何かが決定的に変わる気がして。


 でも今夜は、理由もなく、本棚の前に立っている。


 立ったまま、背表紙を見る。奈々未が読んでいた本が並んでいる。教育関連の本が多い。子どもの発達心理学。児童福祉。それに混じって、小説が何冊かある。文庫本。背表紙が少し焼けているものもある。古本屋で買ったのかもしれない。奈々未は新品より古本を好んだ。「誰かが読んだ本の方が、なんか安心する」と言っていた。


 一冊を手に取る。


 奈々未がよく読んでいた文庫本。タイトルは覚えていない。でも表紙の色は覚えている。薄い青。海の色に似ている。沖縄で見た海の色よりもっと淡い、曇りの日の海のような青。


 背表紙に、親指の跡がついている。


 奈々未の癖。本を読むとき、右手の親指で背表紙を撫でる。無意識にやっている。読んでいる間中ずっと、親指が背表紙の上を行ったり来たりする。凪が「それ、癖ですか」と聞いたとき、奈々未は自分の手を見て「知らなかった」と言った。


 その親指の跡が、背表紙に残っている。繰り返し撫でられた部分だけ、わずかにツヤが違う。光の加減でかろうじてわかる程度の、微かな痕跡。でも凪にはわかる。ここを奈々未の指が通った。何度も何度も、この上を指が滑った。


 本を開く。


 栞が挟まっている。どこまで読んだかわかる。百八十七ページ。全体の三分の二くらいの位置。続きは読まれない。この本の物語は、奈々未にとって百八十七ページで止まっている。永遠に。


 文字を読もうとする。目が文字を追う。でも意味が頭に入らない。文字の形は見えるのに、言葉として組み立てられない。三行読んで、一行目の内容を忘れている。


 本を閉じる。


 奈々未はこの本を読みながら、何を考えていたのだろう。この文字の並びを、奈々未の目が追っていた。この栞を、奈々未の手が挟んだ。このページを開いて、このページを閉じて、栞を挟んで、次に読むときのために場所を残した。次があると思っていたから。


 次はなかった。


 凪は本を棚に戻す。元の場所に、元の向きで。


 本棚の匂いを嗅ぐ。紙の匂い。古い紙と、新しい紙が混ざった匂い。その下に——もう、ほとんど残っていないが——奈々未の匂いがある。かもしれない。あると思いたいだけかもしれない。でも鼻を近づけると、紙の匂いの奥に、シャンプーでも洗剤でもない、人間の匂いが、かすかにある。


 消えかけている。


 枕の匂いはもう薄い。服の匂いはクローゼットの中で籠もって変質している。洗面台のコップからは何の匂いもしない。奈々未がここにいた証拠が、少しずつ蒸発していく。物理的に、化学的に、消えていく。


 本棚だけが、まだ少しだけ残している。紙が匂いを吸っているから。奈々未が何時間もかけてこの本を読んでいたから。その時間の分だけ、紙が奈々未の存在を吸い込んでいる。


 凪は本棚の前を離れる。


 リビングに戻る。窓の前に座る。


 怒りとは別の何かが、胸の中にある。名前をつけるなら、悲しみ。でも悲しみという言葉では足りない。悲しみは感情の名前だが、凪が感じているのは感情というより状態に近い。奈々未がいないことへの、実感のなさ。まだどこかにいる気がする。帰ってくる気がする。台所でコーヒーを作っている気がする。砂糖を一つ入れている気がする。「おかえり」と言う気がする。


 でも帰ってこない。


 帰ってこないという事実を、頭は理解している。でも体が理解していない。体はまだ、奈々未がいる前提で動いている。二人分のコップを出しかけて、一つに戻す。二人分の米を研ぎかけて、減らす。洗濯物を畳むとき、奈々未の分を探す手が止まる。


 体が理解するまで、時間がかかるのだろう。


 どれくらいかかるか、わからない。一ヶ月では足りなかった。二ヶ月でも足りないかもしれない。一年かかるかもしれない。一生かかるかもしれない。


 窓に映る自分の顔が、また見える。


 やつれた顔。でも——三月の初めに見たときと、少し違う。


 目が違う。


 三月の初めは、空洞。何も映していない目。ただ暗い穴が二つ開いているだけの目。でも今は、何かが宿り始めている。小さな、かすかな光。怒りの光だと、凪は思う。


 怒りの矛先は見つかっていない。個人ではない。社会でもない。もっと大きな何か。凪の人生を、こういう形にした何か。その何かに名前をつけることが、凪にはまだできない。


 でも探している。


 探しているという事実だけが、凪を動かしている。探すことをやめたら、凪は本当に止まる。止まったら、もう動けないかもしれない。だから探し続ける。答えがなくても、矛先が見つからなくても、探すという行為そのものが、凪の足を動かしている。


 窓に映る自分の目に、怒りの光がある。


 どこへ向ければいいかわからない怒りが、それでも凪の中で燃え始めている。燃え始めているのに、どこにも向けられない。向けられない怒りは、内側を焦がす。焦がされながら、凪は座っている。窓の前で。夜の街を背景にした自分の顔を見ながら。


 生ゴミを出し忘れている台所の匂い。飲み残しのコーヒーの匂い。そして本棚から立ち上る、紙と、消えかけた誰かの匂い。


 三月が終わる。


 凪は窓の前に座ったまま、四月を迎える。怒りの矛先を探しながら。まだ見つからないまま。でも探すことをやめないまま。


 胸ポケットの中に、便箋が二枚ある。母の手紙と、父の手紙。洗濯のたびに出して、また入れる。角が少し丸くなってきている。文字はまだ読める。


 『奈々未さんと生きて。』


 奈々未はもういない。でもその言葉は消えない。便箋の中で、母の字で、まだそこにある。


 生きている。


 凪はまだ生きている。怒りがある限り、生きている。

明日も20時に投稿します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ