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序章031

 奈々未の葬儀は、凪が一人で手配する。


 葬儀社に連絡する。日程を決める。場所を決める。遺影を選ぶ。携帯の中の写真を探す。NPOの施設の前で撮った写真を選ぶ。少し照れた顔で笑っている奈々未。


 連絡を入れる先を考える。奈々未の親族はいない。施設育ち。身寄りがない。凪が唯一の家族だった。


 NPOに連絡する。上司が「参列させてください」と言う。


 岡田に連絡する。メッセージ。「奈々未が亡くなった」。三十秒後に電話が来る。「行く」と岡田は言う。


 帯広の叔母に連絡する。母の姉。両親の葬儀にも来てくれた。事情を話す。声が途切れる。叔母は黙って聞く。「行くわ」と言う。両親のときと同じ。即答。


 それから、凪は少し迷ってから、もう一本の電話をかける。


 沢田。高校時代の友人。卒業以来、ほとんど連絡を取っていない。高原製薬の不祥事が報道されてからは、一度も。年賀状すら来なくなっていた。


 番号を押す。コール音が鳴る。出るかどうかわからない。凪の番号を見て、出ないかもしれない。


 四回目で出る。


「……高原?」


 久しぶりに聞く声。変わっていない。高校のときと同じ声。


「久しぶり」と凪は言う。


「どうした」


 凪は話す。奈々未のこと。事故のこと。葬儀のこと。


 沢田はしばらく黙る。それから「行く」と言う。「北川にも連絡する」。


 北川。もう一人の友人。凪と沢田と北川。高校の頃、三人でよくいた。文化祭のとき、凪が奈々未をベンチで見つけた日、沢田と北川もいた。


「松本にも声かけていいか」と沢田は聞く。


「ああ」


「わかった。みんなで行く」


 みんなで行く。その言葉に、凪は少し驚く。高原製薬の件で疎遠になっていた友人たちが、来ると言っている。凪のためではない。奈々未のために。


 葬儀の日。三月に入っている。


 式場に着くと、凪は驚く。


 小さな家族葬用の式場を予約していた。両親のときと同じ規模。十人も入れば窮屈になる部屋。でも椅子が足りなくなっている。


 来ている。


 岡田。叔母。NPOの上司と職員が四人。沢田。北川。松本。高校時代の友人が三人。それだけではない。NPOの別の職員が二人、自主的に来ている。奈々未と同僚だった女性。奈々未と一緒に子供たちの面倒を見ていた男性。


 二十人近くが、小さな式場に集まっている。


 両親のときは五人だった。凪と奈々未と叔母と葬儀社のスタッフと弁護士。五人で二人を送った。


 今日は二十人近くが、奈々未一人を送りに来ている。


 凪はその光景を見て、胸の中で何かが動く。名前のつかない感情。誇らしさと、悔しさと、申し訳なさが混ざっている。


 奈々未はこんなにも多くの人間に愛されていた。凪が知らなかった場所で、凪が見ていなかった時間に、奈々未は人とつながっていた。施設の子供たちだけではない。同僚たちにも。高校時代の友人たちにも——正確には、凪の友人たちにも。奈々未は凪の友人たちに、凪とは別の形で慕われていた。


 両親は八千人の従業員を抱えていた。知人友人も多かったはず。でも葬儀に来たのは五人。奈々未は施設育ちで、身寄りがなくて、凪が唯一の家族で。それなのに二十人が来ている。


 その差が、凪には重い。


 誇らしい。奈々未がこんなにも多くの人間に愛されていたことが。自分の妻が、これだけの人間の心に残る人間だったことが。


 悔しい。両親のときにはこうならなかった。高原製薬の社長の家族であるというだけで、人が離れていった。父と母は、五人に送られた。


 申し訳ない。奈々未をこの場所に連れてきたのは凪。凪と出会わなければ、凪の家族にならなければ、嫌がらせも報道陣も「産むな」の手紙も、全部なかった。


 凪は前の列に座る。隣の椅子は空いている。両親の葬儀のとき、隣には奈々未がいた。今日は空いている。


 凪の目が、式場の後ろのほうに止まる。


 見慣れない三人がいる。角刈りでがっしりした体型の男。隣に細身の女。女の腕の中に、小さな赤ちゃんがいる。生まれて数ヶ月だろう。毛布にくるまれている。


 凪は知らない顔。誰なのか。


 読経が始まる。僧侶の声が小さな部屋に響く。人が多い。体温で部屋が温まっている。両親のときは寒かった。五人分の体温では温まらなかった。


 凪は遺影を見ている。奈々未が笑っている。


 焼香が始まる。一人ずつ順番に。


 岡田が焼香する。頭を下げる角度が深い。叔母が焼香する。目が赤い。母の手に似た手でハンカチを押さえている。


 沢田が焼香する。凪と目が合う。小さく頷く。それだけ。北川と松本が続く。三人が並んで焼香する姿を見て、凪は高校時代を思い出す。四人でいた。その輪に奈々未が加わった。文化祭の日にベンチで。


 NPOの職員たちが焼香する。一人の女性が遺影の前で少しだけ立ち止まる。唇が動いている。


 後ろの列で、あの三人家族の女性が焼香する。赤ちゃんを夫に預けて、前に出る。手が震えている。焼香しながら泣いている。


 式が終わる。


 式の後、参列者が凪のところに来る。


 岡田が最初に。


「飯は食えてるか」


「食えてない」


「食え。何でもいい。無理するな」


 無理するな。凪はその言葉を聞く。


 叔母が来る。凪の手を取る。両手で包む。


「一人で抱えないで」と叔母は言う。両親のときと同じ言葉。「佐和子がいたら、奈々未ちゃんのこと、本当の娘みたいに可愛がったと思うわ」


「はい」と凪は言う。


「無理しないでね」と叔母は言う。


 無理するな。無理しないで。


 沢田と北川と松本が来る。


「連絡しなくて悪かった」と北川が言う。「高原製薬のこと、どう連絡していいかわからなくて」


「いい。来てくれただけで」


「奈々未さん、いい人だったな」と松本が言う。「あの文化祭のとき、お前が声かけたんだよな。よかったよ、お前が声かけて」


 凪はその言葉を受け取る。よかったのか。凪が声をかけなければ、奈々未は別の人生を歩いていた。もしかしたら今も生きていたかもしれない。でもそんなことを言っても仕方がない。


「ありがとう」と凪は言う。


 全員が帰りかける。そのとき。


 あの三人家族が近づいてくる。


 角刈りの男が前にいる。横に細身の女。腕の中に赤ちゃん。赤ちゃんは眠っている。


 女が凪の前に立つ。目が赤い。式の間ずっと泣いていた。


「あの」と女が言う。声が震えている。「高原さん、ですよね」


「はい」


「私、鎌田と申します」


 凪の中で何かが繋がる。あの交差点。横断歩道。母子。奈々未が庇った。


「あの日——」鎌田の声が震える。「あの交差点で、奈々未さんに——」


「奈々未さんが、この子を——」鎌田は赤ちゃんを見る。「この子を、庇ってくださったんです」


 凪は黙って聞いている。


「私、ベビーカーを押して渡ってたんです。信号は青で。この子が乗ってて。そしたら車が——」


 声が途切れる。途切れるたびに間が入る。夫が妻の肩に手を置いている。


「奈々未さんが、走ってきて。私たちの前に。この子の前に——」


 鎌田は一度深く息を吸う。目から涙が溢れている。


「最後に、奈々未さんが——」


 声が絞り出すように細い。


「『赤ちゃん、無事でよかった』って——」


 凪の中で、時間が止まる。


 赤ちゃん、無事でよかった。


 奈々未の最後の言葉。車に撥ねられて、地面に倒れて。その状態で、最初に口にした言葉が。自分の体の痛みでも、助けてでもなく。赤ちゃん、無事でよかった。


 自分の子を失った奈々未が。名前を呼んであげられなかった奈々未が。お腹に手を当てて動きを待っていた奈々未が。体だけがまだ母親をやっていた奈々未が。


 最後の瞬間に、他人の赤ちゃんが無事だったことを喜んでいる。


「なんとお詫びすればいいか——」


 鎌田が崩れる。膝が折れる。凪の前でゆっくりと崩れ落ちる。夫が支える。両腕で妻を抱える。鎌田は夫の腕の中で泣いている。声を出して。


「すみません、すみません——」


 腕の中の赤ちゃんが目を覚ます。母親の泣き声で。赤ちゃんが泣き出す。小さな声。生まれて数ヶ月の、か細い泣き声。でも力がある。肺が動いている。生きている。元気に泣いている。


 式場の中に、二つの泣き声がある。鎌田の泣き声。赤ちゃんの泣き声。凪は泣いていない。涙が出ない。


 凪は崩れ落ちた鎌田の前に立っている。何を言えばいいかわからない。


 凪の口から出てきた言葉は、自分でも予想していなかった。


「赤ちゃん、元気そうですね」


 鎌田が顔を上げる。涙で濡れた顔。


 凪は赤ちゃんを見ている。泣いている赤ちゃん。小さな顔。口を大きく開けて泣いている。生きている。奈々未が守ったから。


「元気そうで、よかったです」と凪は言う。


 鎌田がまた泣く。夫が支える。赤ちゃんが泣く。


 全員が帰る。式場に凪一人が残る。


 椅子に座る。遺影を見る。奈々未が笑っている。


 頭の中がぐるぐると回っている。


 岡田の声。「無理するな」。

 叔母の声。「無理しないでね」。「一人で抱えないで」。

 鎌田の声。「赤ちゃん、無事でよかった」。


 全部が頭の中で回っている。止まらない。


 無理するな。


 凪は椅子に座ったまま、その言葉を噛んでいる。


 無理するな。体を壊すな。心を壊すな。一人で背負うな。わかっている。善意の言葉。正しい言葉。


 でも凪の中で、静かなものが動いている。怒りとは違う。もっと冷たいもの。


 無理するな。


 もう縋るものがないのに。


 父がいなくなった。母がいなくなった。子供がいなくなった。奈々未がいなくなった。全部がなくなった。一つずつ。順番に。何も残さずに。


 残っているのは何か。久保の下での仕事。岡田。それだけ。


 それだけしか残っていない人間に、「無理するな」と言う。無理する対象がない。何のために無理する。誰のために無理する。全員いない。


 無理するもしないも、もう意味がない。


「赤ちゃん、無事でよかった」。


 奈々未の最後の言葉。頭の中で繰り返される。


 奈々未は最後の瞬間に、よかった、と言った。自分が倒れているのに。赤ちゃんが無事だったことを。


 凪はその言葉をどう受け取ればいいかわからない。美しいと思うべきか。奈々未らしいと思うべきか。


 思えない。まだ思えない。


 凪の中にあるのは、もっと生々しいもの。


 なぜ奈々未が死ななければならないのか。庇わなければ奈々未は生きていた。そのまま家に帰ってきた。「おかえり」と言ってくれた。


 庇った。飛び出した。それが奈々未だから。


 わかっている。わかっているが、凪の中で何かが叫んでいる。声にならない叫び。


 なぜ奈々未なのか。なぜいつも奈々未なのか。施設で育ったのも奈々未。家族がいなかったのも奈々未。子供を失ったのも奈々未。他人の子を庇って死んだのも奈々未。


 なぜ全部が奈々未にのしかかるのか。


 答えがないまま、頭が回り続ける。


 凪は式場を出る。家に帰る。暗い部屋。「おかえり」がない。


 コーヒーを淹れる。一人分。砂糖を一つ。飲む。甘い。温かい。足りない。淹れた人間が違う。


 奈々未の枕に顔を近づける。匂いが薄くなっている。もうほとんど匂わない。


 引き出しを開ける。「奈々未さんへ」の封筒がある。母の字。母が奈々未に宛てた手紙。今日も開けない。


 目を閉じる。眠れない。


「赤ちゃん、無事でよかった」


 奈々未の最後の言葉が、暗い部屋の中で光っている。優しくて、強くて、凪にはまだ受け止めきれない言葉。


 そしてもう一つ。


「無理するな」


 善意の言葉。正しい言葉。でも今の凪には、刃のように刺さる言葉。


 無理するな。

 もう何もないのに。


 凪はベッドの上で、天井を見ている。暗い天井。一人の部屋。


 この先に何があるのか。凪にはわからない。わからないまま、朝が来るのを待っている。


 待っているのは、朝が来るのか。

 それとも、全部が終わるのを待っているのか。


 凪にはまだわからない。


明日も20時に投稿します。

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