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序章030

 奈々未の葬儀は、三月に入ってすぐのこと。


 凪が一人で手配する。葬儀社に連絡する。電話。名前を言って、状況を説明する。「ご家族様ですか」と聞かれる。「夫です」と答える。「ご愁傷さまでございます」と言われる。


 二度目。四ヶ月前にも同じ言葉を聞いた。同じトーン。同じ温度のなさ。業務として発せられる哀悼の言葉。一度目のときは、その温度のなさが気になった。二度目の今は、気にならない。温度がなくていい。温度があったほうが辛い。


 日程を決める。場所を決める。祭壇の規模を決める。花の種類を決める。全部、四ヶ月前にやったことと同じ手順。手順を知っている自分がいる。知っていることが、少し恐ろしい。二十代の人間が、葬儀の手配を二度経験して、手順を覚えている。覚えるべきではないことを覚えている。


 遺影の写真を選ぶ。


 携帯の中の写真を探す。スクロールしていく。奈々未の写真が何枚もある。二人で撮った写真。凪が撮った写真。奈々未が自分で撮った写真。どれも奈々未が笑っている。口角が上がって、すぐ戻る笑い方。でも写真の中では戻らない。上がったまま止まっている。シャッターが押された瞬間の奈々未が、そのままそこにいる。


 一枚ずつ見ていく。沖縄の写真。砂浜で振り返っている。「来てよかった」と言ったときの顔。台所の写真。エプロンをしている。凪が不意打ちで撮って「やめてよ」と言った写真。公園の写真。ベンチに座っている。桜が背景にある。


 NPOの施設の前で撮った写真を見つける。奈々未が少し照れた顔をしている。凪が「撮るよ」と言ったら「恥ずかしい」と言った。でも結局撮らせてくれた。目が細くなっている。背景に施設の建物が見えている。子供たちが出入りする建物。奈々未が毎日通っていた建物。


 この写真にする。


 連絡先を考える。


 奈々未に親族はいない。施設育ち。身寄りがない。凪が奈々未の唯一の家族。


 でも奈々未には、凪以外にも人がいた。


 NPOに連絡する。奈々未の上司に電話する。事情を話す。声が途切れる。上司は黙って聞く。最後に「参列させてください」と言う。「他の職員にも声をかけていいですか」と聞かれる。凪は「お願いします」と答える。


 岡田に連絡する。メッセージ。短い文面。「奈々未が亡くなった」。送信する。三十秒後に電話が来る。


「何かできることはあるか」と岡田は言う。声が低い。


「葬儀に来てくれるか」


「行く」


 それだけ。岡田は余計なことを聞かない。


 帯広の叔母にも連絡する。母の姉。電話をかけると、三コール目で出る。


「凪ちゃん?」


 凪は話す。途切れながら。叔母は聞く。聞き終わると「行くわ」と言う。前回の両親の葬儀のときと同じ。即答。帯広から東京まで。遠い。でも来ると言う。


 迷ったのは、高校時代の友人への連絡。


 沢田。北川。松本。高原製薬の件があって疎遠になっていた。連絡先は携帯に残っている。最後にメッセージを送ったのがいつか覚えていない。半年以上前。あるいは一年以上前。


 連絡するべきか。奈々未の葬儀だから、奈々未を知っている人間には連絡すべきだろう。三人とも奈々未を知っている。高校時代から。凪と奈々未が付き合い始めた頃から。


 でも来てくれるかどうか。高原製薬の件で凪から距離を置いた三人。凪に関わることを避けていた三人。奈々未の葬儀だとしても、来ることは凪と接触することになる。


 来なくても、責めない。責める気もない。来ないならそれでいい。でも知らせないのは違う。奈々未を知っていた人間が、奈々未の死を知らないまま過ぎていくのは違う。


 メッセージを送る。三人に。同じ文面。奈々未が亡くなったこと。葬儀の日時と場所。それだけ。


 送信して、携帯をテーブルに置く。返信が来るかどうか、わからない。


 葬儀の日。三月の初め。


 凪は朝から式場にいる。葬儀社のスタッフと打ち合わせをする。祭壇の位置。花の配置。椅子の並べ方。家族葬用の小さな部屋。両親のときと同じ規模の場所を予約した。五人しか来なかった両親のときと同じ。


 最初に来たのは岡田。開式の三十分前。黒いスーツ。ネクタイを真っ直ぐに結んでいる。岡田はこういうとき、きちんとする人間。凪を見て、軽く頷く。何も言わない。隣に立つ。


 次に、NPOの上司が来る。職員が三人一緒に来る。全員黒い服。上司が凪のところに来て「お悔やみ申し上げます」と言う。丁寧な言葉。でもその奥に、別のものがある。この人は奈々未と一緒に働いていた。奈々未の仕事を知っていた。奈々未がどんな人間かを知っていた。その人間の「お悔やみ」には、事務的ではない何かが含まれている。


 叔母が来る。帯広から。新幹線と在来線を乗り継いで。前回と同じ黒い服。髪を少し切っている。四ヶ月前より短い。凪を見つけると、まっすぐ歩いてくる。


「凪ちゃん」と叔母は言う。凪の手を取る。両手で。母の手に似た手。握る。温かい。


「来てくれてありがとうございます」と凪は言う。


「当たり前よ」と叔母は言う。目が少し赤い。来る途中で泣いたのかもしれない。


 開式の十分前。


 式場の入り口に、見覚えのある顔が現れる。


 沢田。


 凪は一瞬、自分の目を疑う。沢田がいる。黒いスーツを着て、式場の入り口に立っている。凪を探している。目が合う。


 沢田の後ろに、北川がいる。


 その隣に、松本がいる。


 三人とも来ている。


 凪はしばらく動けない。式場の中で、前列の椅子の横に立ったまま。三人の顔を見ている。


 高原製薬の件で距離を置いていた三人。凪のメッセージに返信が来たのは、送った翌日だった。三人とも「行く」とだけ。短い返信。でも来た。


 沢田が凪のところに歩いてくる。北川と松本がその後ろについてくる。


 沢田が凪の前に立つ。


「凪」と沢田は言う。


 何も言えない。凪は頷くだけ。


 沢田は凪の肩に手を置く。少しだけ力を入れる。握るのでもない。叩くのでもない。ただ手を置いて、力を入れて、離す。


「連絡くれてありがとう」と沢田は言う。


 凪の中で、何かが動く。連絡くれてありがとう。メッセージを送ったのは凪。来たのは沢田。ありがとうを言うのは凪のほうのはず。でも沢田が先に言っている。知らせてくれてありがとう。奈々未のことを知らせてくれてありがとう。知らなかったら来られなかった。知らせてくれたから来られた。


 北川が「何か手伝うことあるか」と聞く。凪は首を振る。松本は何も言わず、深く頭を下げる。


 三人が後ろの列に座る。


 開式の五分前。


 凪は式場を見渡す。椅子が埋まっていく。三列だった椅子が、葬儀社のスタッフによって五列に増やされている。それでもまだ人が入ってくる。NPOの関係者がさらに何人か来ている。凪が知らない顔。奈々未が仕事を通じて繋がっていた人間たち。NPOの上司が連絡してくれたのだろう。


 二十人以上が式場にいる。


 両親の葬儀は五人だった。凪と奈々未と叔母と葬儀社のスタッフと弁護士。純粋に見送りに来た人間は三人だけだった。椅子は余っていた。余った椅子のほうが多かった。


 今日は椅子が足りない。


 凪の中で、複数の感情が同時に動く。


 誇らしい。奈々未はこんなにも多くの人間に覚えられていた。愛されていた。施設で育って、家族がいなくて、一人で弁当を食べていた奈々未が。その奈々未の葬儀に、二十人以上が来ている。椅子が足りなくなるほど。


 悔しい。父と母は五人だった。四十年以上働いた父。三十年近く家庭を守った母。二人の人生には、もっと多くの人間がいたはず。取引先。同僚。近所の人。親族。でも不祥事があって、高原という苗字がついているというだけで、人が来なかった。来られなかった。来たくなかった。


 申し訳ない。奈々未も高原の苗字を持っていた。凪と結婚して、高原になった。その苗字のせいで、嫌がらせを受けた。「産むな」と書かれた紙が届いた。それでも奈々未のところには人が来る。奈々未という人間の力が、高原という苗字の重さを超えている。父と母にはできなかったことを、奈々未は——奈々未自身の存在が——成し遂げている。


 三つの感情が混ざって、凪の胸の中で渦を巻く。


 凪は前列に座る。隣は空いている。両親の葬儀のとき、この隣に奈々未がいた。凪の手を握っていた。


 今日は空いている。


 そしてもう一つ、凪が気づいたことがある。


 後ろの列の端に、見慣れない三人が座っている。開式の直前に来た。凪は顔を見ていない。後ろを振り返る余裕がなかった。

 読経が始まる。


 式の間、凪は遺影を見ている。


 施設の前の奈々未。笑っている。目が細い。照れた顔。「恥ずかしい」と言いながら笑った顔。


 読経の声が小さな部屋に満ちている。低い声。一定のリズム。凪はその声の中で、遺影の奈々未を見ている。写真の中の奈々未は笑ったまま。口角が上がったまま。戻らない。


 焼香が始まる。一人ずつ。列ができている。


 両親のときには列ができなかった。三人しかいなかったから。今日は列ができている。長い列。一人一人が立ち上がって、前に進んで、焼香台の前に立って、手を合わせて、戻る。その動きが繰り返される。何度も。


 その列を見ているだけで、凪の目頭が熱くなる。


 こんなにも人が来ている。奈々未を見送りに。奈々未のために。


 焼香の順番。NPOの上司。職員たち。沢田。北川。松本。叔母。岡田。一人ずつ。全員が祭壇の前で手を合わせている。


 叔母が焼香を終えて席に戻るとき、凪の肩に手を置く。何も言わない。手を置いて、少しだけ力を入れて、離す。それだけ。それだけで通じるものがある。佐和子——母——と同じ手。姉妹の手。


 最後の列の三人——見慣れない三人——も焼香に来る。凪は初めてその姿をはっきりと見る。


 男。角刈り。がっしりした体型。背が高い。百八十センチ近い。黒いスーツがきつそうに見える。肩幅が広い。首が太い。建設現場か、工場か、体を使う仕事をしている人間の体格。顔は日に焼けている。三月の時点で日焼けしている。外の仕事。


 女。細身。男とは対照的な体格。黒いワンピース。髪を一つにまとめている。目が赤い。式の間ずっと泣いていたのだろう。ハンカチを握っている。白いハンカチが、握りしめられて皺だらけになっている。


 女の腕の中に、赤子がいる。生まれて数ヶ月。小さい。白い服を着ている。眠っている。式の間、一度も泣き声は聞こえなかった。読経の声の中で、静かに眠っていた。


 三人が焼香台の前に立つ。男が先に焼香する。大きな手が不器用に動いている。慣れていない。こういう場に慣れていない人間の手の動き。女が赤子を片腕で抱いたまま、もう片方の手で焼香する。赤ちゃんが少しだけ身じろぎする。目は覚めない。


 三人が席に戻る。


 凪は三人の背中を見ている。知らない人間。凪の知り合いではない。奈々未の知り合いか。NPO関連か。でもNPOの職員とは別のところに座っている。別のグループ。


 式が終わる。


 式が終わった後、参列者が一人ずつ凪のところに来る。


 NPOの職員の一人が最初に来る。三十代の女性。奈々未と同僚だった人。


「奈々未さん、子供たちに人気だったんです」と女性は言う。目が赤い。「特に小さい子たちが。奈々未さんが来ると走ってきて」


「はい」と凪は言う。


「あの子たちに今日のことを伝えるのが——」


 女性は途中で言葉を切る。涙が落ちる。「すみません」と言って、ハンカチで目を拭う。


「いいえ」と凪は言う。


 別の職員が来る。男性。奈々未より年上。「奈々未さんは真剣でした。どの子に対しても」と言う。短い言葉。でもその言葉の重さが伝わる。


 沢田が来る。


「凪」と沢田は言う。「ずっと連絡しなくて、悪かった」


 ずっと連絡しなくて。高原製薬の件があってから。距離を置いていたことを、沢田は「連絡しなかった」と表現している。


「いい」と凪は言う。「来てくれただけで十分だ」


 沢田は少し黙る。何か言いたそうな顔をしている。言おうとして、やめる。今日はそういう日ではない。今日は奈々未の日。凪と沢田の間のことは、別の日にすればいい。


「また連絡する」と沢田は言う。


「ああ」


 北川が「奈々未さんは本当にいい人だった」と言う。松本は何も言わず、深く頭を下げる。


 叔母が来る。凪の手を取る。


「凪ちゃん」と叔母は言う。声が少し震えている。


「佐和子がいたら——」と叔母は言いかけて、止める。佐和子。母の名前。母がいたら、ここにいただろう。母は奈々未のことが好きだった。お腹に手を当てて「ばぁばですよ」と言った。最後の電話で「奈々未さんを大切にしてね」と言った。


「佐和子の分まで、心配してるからね」と叔母は言う。


「ありがとうございます」と凪は言う。


 叔母は凪の顔をしばらく見ている。見ている目が、母の目に似ている。姉妹の目。同じ形の目。その目が心配している。凪のことを。


 岡田が来る。


「飯は食えてるか」


「食えてない」と凪は正直に答える。


「食え。何でもいい。コンビニの弁当でもいい。食え」


「ああ」


「俺に何かできることがあったら、いつでも言え。時間を問わず」


「ああ」


 岡田がもう一つ言う。


「無理するな」


 凪は頷く。無理するな。叔母も似たようなことを言った。無理しないでね。心配してくれている。凪のことを思って言ってくれている。


 人が少しずつ帰っていく。NPOの職員たちが帰る。松本が帰る。北川が帰る。沢田が最後に「また連絡する」と繰り返して帰る。


 叔母が帰ろうとする。入り口で一度振り返って、凪に手を振る。小さく。凪も手を上げる。叔母が出ていく。


 式場に残っている人間が減っていく。岡田がまだ残っている。入り口の近くに立っている。


 そして——あの三人家族が、まだ残っている。


 後ろの列の端に座ったまま。帰っていない。他の参列者が帰っていく中で、座ったまま。男が椅子に座っている。女がその隣に座っている。赤子を抱いている。


 凪は三人を見る。三人も凪を見ている。女のほうが、凪を見ている。目が赤い。式の間ずっと泣いていた目。


 女が立ち上がる。ゆっくりと。男も立ち上がる。女の一歩後ろに。


 二人が凪のほうに歩いてくる。


 女が前に出る。赤子を両腕で抱いている。まだ眠っている。白い服。小さな拳が、女の胸元の近くで握られている。


「あの」と女が言う。声が震えている。


 凪は立ち上がる。


「高原さん、ですよね」


「はい」


「鎌田と申します」


 鎌田。知らない名前。凪は首を傾げる。奈々未の知り合いか。NPOの関係者か。でもNPOの職員とは一緒に来ていなかった。


 鎌田の妻は少しの間、言葉を探している。唇が動くが音が出ない。何か言おうとして、言葉が形にならない。目から涙が溢れている。式の間堪えていたものが、凪の前に立ったことで決壊している。


 後ろにいた男——鎌田の夫——が一歩前に出る。妻の肩に手を置く。大きな手。日に焼けた手。その手で、妻の細い肩を支えている。


 女が深呼吸する。一度。二度。目を閉じて、開いて。それから口を開く。


「奈々未さんに——あの日——助けていただいたのは——私たちです」


 凪の中で、何かが止まる。


 あの日。


 助けていただいた。


 凪は女の顔を見ている。女が何を言っているのか、最初の数秒は処理できない。あの日。助けていただいた。あの日とはいつか。何を助けたのか。


 病院で、医師が何か言っていた。横断歩道で。歩行者を庇おうとして。でもあのとき凪の頭は何も処理できていなかった。言葉は耳に入った。でも意味にならなかった。断片のまま、頭の中に散らばっていた。


 今、この女の言葉で、断片が繋がり始める。


「あの交差点で——」と女が続ける。声が途切れながら。「信号が青で——この子を抱いて——渡ろうとしたんです」


 この子。腕の中の子。この子を抱いて、横断歩道を渡ろうとした。


「そしたら——車が——左から——止まらなくて——」


 凪は聞いている。体が動かない。椅子の横に立ったまま、動けない。


「私、動けなかったんです。足が動かなくて。この子を抱いてて。どうすればいいかわからなくて」


 女の声が震えている。言葉が一つずつ、絞り出されている。


「そしたら——横から——誰かが——」


 女の目から涙が落ちる。頬を伝って、顎から落ちる。赤ちゃんの白い服の上に落ちる。小さな染み。


「奈々未さんが——私たちの前に——体を——入れてくれて——」


 凪の頭の中で、場面が組み上がっていく。


 横断歩道。信号は青。鎌田の妻が子供を抱いて渡ろうとしている。車が来る。左折車。止まらない。鎌田の妻は動けない。赤子を抱いているから。足がすくんでいるから。


 奈々未がいた。近くにいた。NPOの帰り道。同じ横断歩道を渡ろうとしていた。車が来るのを見た。母子が動けないのを見た。


 奈々未の体が動いた。


 考える前に。判断する前に。体が先に動いた。母子の前に。車と母子の間に。自分の体を入れた。


「この子は——無傷だったんです」と女が言う。「私も、軽い怪我だけで——」


 凪の中で、何かが崩れ始める。


「でも奈々未さんは——」


 女の声が完全に途切れる。嗚咽に変わる。言葉にならない。ハンカチで顔を覆う。肩が激しく震えている。


 男が妻を支えている。片腕で妻の体を支え、もう片方の腕で赤子を受け取ろうとしている。でも妻は離さない。抱いたまま泣いている。


 凪は立ったまま、聞いている。聞いているのか。聞いている。耳に入っている。全部入っている。でも処理が追いつかない。


 奈々未が、この人たちを庇った。この母子を。この赤ちゃんを。自分の体で。


 施設で育った奈々未。子供を守る仕事をしていた奈々未。泣いている子の前では泣かなかった奈々未。赤ちゃんを抱いて「温かかった」と言った奈々未。


 その奈々未が、最後の瞬間に、知らない子を守った。


 女がまだ泣いている。泣きながら、何かを言おうとしている。言葉を探している。崩れそうになりながら、まだ伝えなければならないことがあるから。


 凪は待つ。待つことしかできない。


 女が顔を上げる。涙で濡れた目で凪を見る。


「最後に——奈々未さんが——」


 声が震えている。一語ずつ。


「『赤ちゃん、無事でよかった』って——」


 凪の体が、凍りつく。


 赤ちゃん、無事でよかった。


 奈々未が。車に撥ねられて。地面に倒れて。それでも。自分のことではなく。子供のことを。


「——そう言って——笑ってくれたんです」


 笑った。


 あの笑い方をしたのだろうか。口角が上がって、すぐ戻る、あの笑い方。子供が無事だとわかって、笑った。最後に。


 凪の頭の中で、霊安室の奈々未の顔が浮かぶ。口元の微かな弧。誇らしげな顔。あの弧は、これだったのか。赤ちゃんが無事だったから。守れたから。やるべきことをやったから。


 笑ったのか。最後に。


「なんとおわびすればいいか——」


 女が崩れ落ちる。


 膝が折れる。式場の床に。体が沈んでいく。男がとっさに体を支える。片腕で妻の体を受け止めて、もう片腕で赤子を抱え直す。大きな腕。がっしりした腕。その腕で妻と子を同時に支えようとしている。でも二本の腕では足りない。妻の体重と子の体重を、同時に支えきれない。


 赤子が目を覚ます。


 泣き出す。


 ふぎゃあ、と。小さな声。数ヶ月の赤ちゃんの泣き声。式場の中に響く。ふぎゃあ、ふぎゃあ、と。力強い泣き声。肺の全部を使って泣いている。口を大きく開けて。顔を赤くして。


 元気に泣いている。


 凪はその泣き声を聞いている。立ったまま。動けないまま。


 この泣き声を、奈々未が守った。この声を。この肺を。この命を。この赤ちゃんが今日も泣けるのは、奈々未が体を入れたから。奈々未がここにいないのは、この赤ちゃんがここにいるから。


 交換。


 命の交換ではない。奈々未はそんなつもりで体を動かしたのではない。交換しようと思ったのではない。ただ、目の前に赤ちゃんがいて、車が来て、体が動いた。それだけ。計算ではない。取引ではない。


 でも結果として、そうなっている。奈々未がいない場所に、この赤ちゃんがいる。


 凪は一歩前に出る。


 体が動いている。何をしているかわからない。でも動いている。崩れている女の腕を取る。支える。立たせようとする。


「大丈夫です」と凪は言う。


 大丈夫。何度目か。何百回目か。この一年で何度も言った。嘘かもしれない。大丈夫かどうかわからない。でもそう言う。この人たちの前で。


 女が凪を見上げている。床に膝をついたまま。涙で濡れた顔で。


「おわびなんて、いらないです」と凪は言う。声がかすれている。凪自身も泣いているかもしれない。目が熱い。


「奈々未は——」


 言葉を探す。奈々未は何か。奈々未は何をした人間か。


「奈々未は、子供を守ることが、仕事でした」


 それだけ。それだけしか出てこない。でもそれが全部。施設の子供たちを守っていた。泣いている子のそばにいた。赤ちゃんを抱っこした。そして最後に、知らない赤ちゃんを守った。仕事として。天職として。奈々未の人生そのものとして。


 鎌田の妻が、凪の手を取る。両手で。握る。強く。震えている手で。


「ありがとうございます——ありがとうございます——」


 繰り返している。何度も。凪は握られた手をそのまま握り返す。この手を奈々未が守った。この手が抱いていた赤ちゃんを、奈々未が守った。


 男が妻を立ち上がらせる。ゆっくりと。大きな体で支えながら。妻が立つ。ふらつく。でも立つ。


 赤ちゃんがまだ少し泣いている。男が揺すっている。大きな腕で。少しずつ泣き止んでいく。声が小さくなる。やがて静かになる。眠りに戻っていく。


 男が凪を見る。男の目も赤い。泣いてはいない。泣くのを堪えている。顎の筋肉が硬い。噛み締めている。


「すみませんでした」と男は言う。低い声。太い声。でも震えている。


「謝らないでください」と凪は言う。


 三人が帰っていく。男が妻の背中を支えている。妻が赤ちゃんを抱いている。三人の背中が式場の入り口に向かっていく。


 入り口のドアの前で、女がもう一度振り返る。凪を見る。目が合う。


 何かを言おうとする。口が動く。でも声が出ない。代わりに、深く頭を下げる。長い。五秒。十秒。頭を上げて、ドアの向こうに消えていく。


 式場に、凪と岡田だけが残る。


 岡田が凪のそばに来る。


「大丈夫か」


 凪は少し間を置いてから「わからない」と答える。


 いつもは「大丈夫だ」と言う。今日は言えない。わからない。大丈夫かどうか、本当にわからない。


 岡田は何も言わない。凪の隣に立っている。


 凪は椅子に座る。遺影を見ている。奈々未が笑っている。施設の前で。写真の中で。


 岡田が「帰れるか」と聞く。


「もう少しだけ」と凪は言う。


「わかった。先に出てる。外で待ってる」


 岡田が式場を出ていく。凪一人が残る。


 祭壇の花が匂っている。白い菊。白い百合。両親のときと同じ花。同じ匂い。四ヶ月前と同じ。


 凪は椅子に座ったまま、頭の中が回り始める。


 グルグルと。止まらない。


 叔母の声。「無理しないでね」。温かい声。心配の声。

 岡田の声。「無理するな」。短い声。でも本気の声。


 無理するな。温かい言葉。凪のことを思って言ってくれている。感謝している。本当に感謝している。


 でも。


 でも——と凪の中で、別のものが動く。


 無理するな、と言われても。無理しないでいられると思っているのか。無理しないで生きていけると思っているのか。


 奈々未がいなくなった。

 両親がいなくなった。

 子供がいなくなった。

 全部いなくなった。


 縋るものが、何もない。何一つない。


 家がある。「おかえり」のない家が。砂糖の瓶とカップが二つ並んでいる台所が。

 仕事がある。久保の下で「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」と言われる仕事が。

 友人がいる。今日来てくれた。でも明日からまた疎遠に戻るかもしれない。


 岡田がいる。でも岡田は家族ではない。家族がいた場所に、岡田は入れない。


 縋るものがない。


 母の手紙には「奈々未ちゃんと生きて」と書いてあった。その奈々未がいない。

 父の手紙には「お前一人で抱えるな」と書いてあった。一人で抱えるなと言われても、一人になってしまった。抱え合う相手がいない。


 「無理するな」。


 その言葉を聞くたびに、凪の中で何かが軋む。温かい言葉であることはわかっている。善意であることもわかっている。でもその善意が、今の凪には少しだけ痛い。


 無理するな、と言える人間は、無理しなくてもいい何かを持っている。帰る場所があるか。待っている人がいるか。「おかえり」と言ってくれる誰かがいるか。


 凪には、もうない。


 だから無理するしかない。無理しなかったら、何もしなくなる。何もしなくなったら、この椅子から立ち上がれなくなる。立ち上がれなくなったら、終わる。


 無理することが、凪が生きている証拠。無理しないという選択肢は、凪にはない。


 頭の中で、鎌田の妻の声が回っている。


「『赤ちゃん、無事でよかった』って——そう言って、笑ってくれたんです」


 赤ちゃん、無事でよかった。


 奈々未の最後の言葉。


 奈々未は最後の瞬間に、自分のことを言わなかったのだろう。痛いとも。怖いとも。助けてとも。凪の名前も呼ばなかっただろう。子供のことを言った。赤ちゃんが無事かどうかを確認した。無事だとわかって「よかった」と言った。笑った。


 どこまでも奈々未らしい。子供を守る人間だった。最後まで。


 凪は誇らしいと思う。奈々未が誇らしい。あの霊安室の顔。口元の微かな弧。あれは、赤ちゃんが無事だった安堵の弧だったのか。やるべきことをやった人間の弧だったのか。


 同時に、凪は砕けそうになる。


 奈々未は守れた。凪は奈々未を守れなかった。奈々未が最後に見たのは無事な赤ちゃんの顔だった。凪が最後に見たのは霊安室の奈々未の顔だった。


 守れた人と、守れなかった人。


 赤子の泣き声が、頭の中に残っている。ふぎゃあ、ふぎゃあ。元気な泣き声。力強い泣き声。肺の全部を使って泣く声。


 あの赤ちゃんが生きている。奈々未がそれを選んだ。選んだのではない。体が動いた。体が選んだ。奈々未の体が、考える前に、赤ちゃんのほうを選んだ。


 凪は遺影を見る。笑っている奈々未。


「お前らしいよ」


 声に出す。初めて。式場に一人で。遺影に向かって。


「お前らしいよ。最後まで」


 声がかすれている。涙が出ているのかもしれない。出ているかどうか確認しない。


 凪は立ち上がる。足が重い。でも立つ。立って、遺影に向かって一度だけ頭を下げる。


 式場を出る。


 外に岡田が待っている。壁に背中をつけて、携帯を見ている。凪が出てくると顔を上げる。


「帰れるか」


「帰れる」


「送ろうか」


「いい。一人で帰る」


 岡田は少し迷ってから「わかった」と言う。「メシは食えよ」


「ああ」


 岡田が帰る。凪一人が残る。式場の前の歩道。三月の午後。空が明るい。春が近い。奈々未が「春になったら」と言った春。桜が咲く頃。


 電車に乗る。座席に座る。窓の外を見る。街が流れていく。普通の街。普通の人たち。


 家に着く。ドアを開ける。暗い部屋。「おかえり」がない。もう四日目。


 台所に入る。コーヒーを淹れようとする。カップを棚から出す。一つだけ。右手で一つだけ取る。棚にもう一つ残る。奈々未のカップ。取り手に小さな欠け。「味は変わらないから」と奈々未は言っていた。


 やかんに火をかける。湯を沸かす。粉を入れる。湯を注ぐ。


 砂糖の瓶の前で、手が止まる。


 入れる。一杯。スプーンでかき混ぜる。溶ける。


 一口飲む。甘い。温かい。同じ粉。同じ砂糖。同じ分量。でも味が違う。淹れた人間が違うから。


 テーブルの向かいの椅子。空いている。


 その夜から、凪は酒を飲むようになる。


 帰り道にコンビニで缶ビールを買う。なんとなく。飲むと、輪郭がぼやける。頭の中のものの輪郭が。ぼやけるだけで消えない。でも少しだけ呼吸が楽になる。


 日が経つ。奈々未の匂いが家から消えていく。枕。服。シャンプー。毎晩、奈々未の枕に顔を近づける。匂いを確認する。日ごとに薄くなる。やがて匂わなくなる。匂わなくなっても、やめない。やめたら最後の確認になるから。


 ある夜、ビールを飲んだ後、引き出しの中に「奈々未さんへ」の封筒を見つける。母が奈々未に宛てた手紙。奈々未が読んで、引き出しにしまった手紙。


 開けない。酔った頭で読みたくない。


 封筒をテーブルに置く。空の缶の横に。見ている。母の字。「奈々未さんへ」。


 頭の中で、今日の葬儀が再生されている。


 二十人以上が来た式場。両親のときの五人。椅子が足りなくなった。沢田と北川と松本が来た。叔母が帯広から来た。NPOの職員が泣いていた。


 鎌田の妻が崩れ落ちた。赤ちゃんが泣いた。


『赤ちゃん、無事でよかった』


 奈々未の最後の言葉。


 あの赤ちゃんは今夜も泣いているだろう。今夜もミルクを飲んでいるだろう。今夜も鎌田の腕の中で眠っているだろう。


 あの赤ちゃんが生きている。奈々未が守ったから。


 凪はテーブルに額をつける。封筒が目の前にある。「奈々未さんへ」。


 開けない。まだ。いつか開ける。いつかがいつなのか、わからない。


 朝が来る。コーヒーを淹れる。一人分。砂糖を一つ。飲む。足りない。


 靴を履く。ドアを開ける。廊下に出る。ドアを閉める。鍵をかける。


 チェーンはかけない。


 中にかける人間がいないから。

明日も20時に投稿します。

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