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序章029

 その日、凪が仕事から帰ると、「おかえり」がなかった。


 二月の終わり。水曜日。奈々未がNPOに行く日。


 凪は定時で上がった。パソコンを閉じて、鞄を持って、席を立って、岡田に「お疲れ」と言って、エレベーターに乗って、ビルを出て、駅まで歩いて、改札を通って、ホームに立って、電車を待って、電車に乗って、座って、窓の外を見て、自分の駅で降りて、改札を出て、駅前のコンビニの前を通って、住宅街に入って、マンションのエントランスを通って、エレベーターに乗って、自分の階のボタンを押して、降りて、廊下を歩いて、鍵を出して、ドアの前に立った。


 全部いつも通り。一つ残らず、いつも通り。


 鍵を差し込む。回す。ドアを開ける。


 台所に灯りがついていない。


 いつもなら、凪が帰る時間に合わせて、台所の蛍光灯がついている。白い光が廊下の奥まで差し込んでいる。ドアを開けた瞬間に、その光が目に入る。光と一緒に、味噌汁の匂いが来る。何かを煮ている音がする。鍋が沸く音。菜箸が鍋の縁に当たる音。奈々未が台所にいる。凪がドアを開ける音を聞いて、奈々未が「おかえり」と言う。


 その全部が、防壁の解除コード。一つずつ、順番に、凪の中の力を抜いていく。光で二割。匂いで四割。音で六割。姿で八割。「おかえり」で十割。全部抜ける。


 今日は何もない。光がない。匂いがない。音がない。


「ただいま」と凪は言う。


 応答がない。


 声が暗い廊下に入っていく。壁に当たって、消える。反響がない。声を吸い込む壁。この廊下はいつもこんなに暗かったか。いつもこんなに長かったか。


 靴を脱ぐ。上がる。廊下を歩く。スリッパを履かずに。靴下のまま。フローリングが冷たい。暖房がついていない。部屋全体が冷えている。しばらく誰もいなかった部屋の冷え方。人の体温がない部屋の温度。


 リビングに入る。暗い。カーテンが閉まっている。朝、奈々未が出かけるときに閉めたまま。帰ってきたら開けるはずだったカーテンが、閉まったまま。


 台所を見る。いない。テーブルの上に何もない。夕食の支度が始まっていない。コンロの上にやかんがある。朝と同じ位置。動いていない。


 寝室を見る。いない。ベッドは整えてある。奈々未が朝出かける前に整えた。枕が揃っている。掛け布団がきちんと伸ばされている。


 洗面所を見る。いない。タオルが乾いている。朝掛けたまま。使われていない。


 トイレのドアが開いている。いない。風呂場のドアも開いている。いない。


 家中を見る。靴箱を確認する。奈々未の靴がない。出かけたまま帰っていない。


 まだNPOから帰っていないのだろうと凪は思う。


 残業かもしれない。子供たちと何かがあって、遅くなっているのかもしれない。以前にもあった。子供が泣き止まなくて、最後まで付き添って、帰りが七時を過ぎたことがある。そのとき奈々未はメッセージを送ってきた。「少し遅くなる」と。


 携帯を取り出す。メッセージを確認する。奈々未からのメッセージはない。今日一日、奈々未から何も来ていない。朝、凪が出かけるとき「行ってらっしゃい」と言った。それが今日の奈々未の最後の言葉。


 メッセージを送る。


「帰った。今日遅い?」


 送信する。


 暖房をつける。エアコンのリモコンを押す。ぴっ、と電子音がして、温風が出始める。冷えた部屋に暖かい空気が流れ込む。少しずつ。


 ソファに座る。コートを脱ぐ。ネクタイを緩める。


 携帯を見る。既読がつかない。


 時計を見る。午後七時十五分。奈々未はいつもなら六時過ぎには帰っている。一時間以上遅い。


 待つ。五分。携帯を見る。既読なし。十分。携帯を見る。既読なし。


 電話をかける。奈々未の番号を押す。コール音が鳴る。一回。二回。三回。長い。一回のコール音が長い。以前は三回目で出ることが多かった。鞄の中に入っていると、探すのに時間がかかって、四回目で出ることもあった。


 四回。五回。六回。七回。


 留守番電話に切り替わる。


 奈々未の声。録音された声。


「ただいま電話に出ることができません。メッセージをお残しください」


 奈々未の声が耳に入る。録音された声。でも奈々未の声。この声を録音したのはいつだったか。携帯を買ったとき。何年前。凪がそばにいたとき。「何て言えばいいの」と奈々未が聞いて、凪が「普通でいいよ」と答えた。奈々未が何度か録り直して、最終的にこの声になった。


 凪は何も残さずに切る。


 もう一度かける。同じ。七回のコール音。留守番電話。奈々未の声。同じ録音。同じ言葉。切る。


 三度目。かけようとして、やめる。三度かけて三度出ないのは、出られないということ。鞄の中で気づいていないだけかもしれない。マナーモードにしているのかもしれない。充電が切れているのかもしれない。


 理由はいくらでもある。いくらでもあるのに、凪の中で何かが鳴っている。警報のようなもの。小さいが、確かに鳴っている。


 午後七時三十分。


 メッセージを見る。「帰った。今日遅い?」。既読なし。灰色のまま。


 凪はソファに座ったまま、携帯を膝の上に置く。画面を見ている。既読がつくのを待っている。画面が暗くなる。タップする。明るくなる。既読なし。また暗くなる。またタップする。既読なし。


 十月のことを思い出す。母にメッセージを送った朝。「おはよう。今日も寒い」。既読がつかなかった。七時に送って、八時になっても、九時になっても。


 同じだ。


 同じ構造。同じパターン。メッセージに既読がつかない。電話に出ない。


 凪の心拍が少し上がる。胸の中で、鼓動が速くなっている。


 同じではない、と凪は自分に言い聞かせる。あのときとは違う。奈々未はNPOに行っている。仕事が長引いているだけかもしれない。携帯の充電が切れているだけかもしれない。


 でも体が覚えている。この構造を体が覚えている。既読がつかない。電話に出ない。その次に何が来るか、体が知っている。


 携帯が鳴る。


 凪の手の中で。膝の上に置いていた携帯が、振動して、音を立てる。


 画面を見る。知らない番号。


 凪の体が反応する。心臓が跳ねる。一拍だけ。大きく。肋骨の内側を叩くような鼓動。


 知らない番号からの着信。

 以前なら、嫌がらせの電話だと思って無視したかもしれない。着信拒否に追加して終わりだったかもしれない。


 でも今は違う。奈々未が帰っていない。メッセージに既読がつかない。電話に出ない。その状況で、知らない番号から着信が来ている。


 十月にもあった。母のメッセージに既読がつかなかった日。あの日、凪は実家に向かった。自分で確認しに行った。知らない番号からの着信はなかった。


 今日は来ている。知らない番号が。


 出る。


 指が画面をスワイプする。耳に当てる。


「高原様のお電話でしょうか」


 女性の声。落ち着いた声。事務的だが柔らかい。病院の受付の声に似ている。似ているのではない。そのもの。


「はい」と凪は答える。声が出る。声は出ている。


「こちら、○○病院の救急外来です」


 病院。救急。外来。三つの単語が順番に耳に入る。


「奥様の高原奈々未様のことでお電話しています」


 奈々未の名前が、他人の声で発音される。高原奈々未。凪以外の人間が、奈々未のフルネームを言っている。


 凪の手が携帯を握る。少し強く。画面に指の跡がつく。


「奥様が本日午後五時頃、交通事故に遭われまして——」


 交通事故。午後五時頃。


「——横断歩道を渡っておられたところ、左折してきた車両と——」


 横断歩道。左折。車。


「——搬送されまして、現在こちらの病院に——」


 搬送。病院。


 凪は立ち上がっている。いつ立ち上がったか覚えていない。ソファから立ち上がって、すでに廊下に向かっている。靴を履こうとしている。


「——すぐにお越しいただけますでしょうか」


「行きます」と凪は言う。


 声が出ている。自分の声が遠い。別の場所から聞こえてくるような声。口が動いて言葉が出て、相手が聞いて、住所を言われて、凪が復唱する。病院の名前。住所。最寄り駅。全部が自動で処理されている。凪の意志とは別の場所で、会話が成立している。


 この感覚を知っている。母の家のリビングのドアを開けた日。救急車を呼んだとき。番号を押して、住所を言って、状況を説明して。あのときと同じ。感情を切り離して、手順だけを実行している。


 電話を切る。


 靴を履く。右足。左足。紐を結ぶ余裕がない。結ばずにそのまま。コートを取る。着ようとして、腕が袖を通らない。手が震えている。もう一度。通った。ボタンは留めない。


 鞄を置いていこうとする。でも財布が中にある。鞄を持つ。


 ドアを開ける。廊下に出る。ドアを閉める。鍵をかけようとして、手が滑る。鍵穴に入らない。入った。回す。施錠する。


 エレベーターのボタンを押す。


 待つ。


 エレベーターが来るまでの数秒間、凪は廊下に立っている。体が震えている。寒いからではない。二月の廊下は寒いが、震えているのは寒さのせいではない。


 頭の中で、何かが高速で回転している。断片が飛び交っている。午後五時。横断歩道。搬送。病院。奈々未。


 午後五時。凪が会社にいた時間。パソコンの前にいた時間。書類を確認していた時間。久保から差し戻された報告書を修正していた時間。


 その時間に。


 エレベーターが来る。乗る。一階のボタンを押す。降りていく。階数の表示が変わる。数字が減っていく。


 一階。ドアが開く。エントランスに出る。外に出る。


 タクシーを呼ぶ。携帯のアプリを開く。指が画面の上で滑る。手が震えていて、正確にタップできない。一度失敗する。もう一度。呼べた。到着まで四分。


 四分。マンションの前の歩道に立って待つ。二月の夜。風がある。コートのボタンを留めていない。風がコートの中に入ってくる。スーツの上着の上を冷たい空気が通過していく。


 四分が長い。時計を見る。一分経った。三分残っている。もう一度見る。一分三十秒。二分三十秒残っている。


 歩道を人が通り過ぎていく。仕事帰りの人間。スーツの男。コートの女性。犬の散歩をしている老人。全員が凪の横を通り過ぎていく。誰も凪を見ない。凪がここに立っていることに、誰も気づかない。


 タクシーが来る。黒い車体。助手席の窓に「空車」の表示。手を上げる。車が止まる。後部座席のドアが開く。乗り込む。


「○○病院まで」と凪は言う。「救急外来のほうに」


「わかりました」と運転手は言う。


 車が動き出す。


 タクシーの中で、凪は窓の外を見ている。


 街灯が流れていく。信号が赤になる。止まる。青になる。動く。横断歩道を歩行者が渡っている。凪はその横断歩道を見る。ここではない。奈々未が渡っていたのはここではない。どこだ。NPOの近く。帰り道。いつもの道。


 いつもの道。凪が「気をつけて」と言ったこともないほど、普通の道。普通の横断歩道。信号がある。青で渡る。それだけのこと。毎日何万人もの人間がやっていること。


 午後五時頃。電話の声がそう言っていた。午後五時。NPOの終業は午後四時半。三十分。NPOを出て、三十分以内のどこかで。帰り道の途中で。


 凪は午後五時に何をしていたか。覚えている。久保に差し戻された報告書の修正をしていた。三度目の修正。赤ペンの入っていない「全部だ、使えない」ではなく、赤ペンの入った具体的な修正。いつもの作業。数字を直して、根拠を書き直して、表の体裁を整えて。


 その作業をしている間に、奈々未は横断歩道にいた。


 信号は青だったと電話の声は言った。奈々未は青信号で渡っていた。正しい行動をしていた。信号を守っていた。左折してきた車が、ハンドル操作を誤った。運転手のミス。奈々未には落ち度がない。


 落ち度がないのに。


 タクシーが走っている。凪は携帯の画面を見る。メッセージ。「帰った。今日遅い?」。既読なし。送信時刻は午後七時十五分。奈々未が事故に遭ったのは午後五時頃。


 二時間以上前に起きていた。凪がメッセージを送ったとき、奈々未はすでに病院にいた。凪が「今日遅い?」と打っていたとき、奈々未は。


 二時間。


 凪は二時間、知らなかった。会社で報告書を直していた。エレベーターに乗った。電車に乗った。駅から歩いた。コンビニの前を通った。エレベーターに乗った。鍵を出した。ドアを開けた。


 その全部の時間、凪は知らなかった。普通の夕方だと思っていた。奈々未が少し遅いな、と思った。それだけ。それだけしか思わなかった。


 もっと早く気づくべきだったのか。午後五時の時点で何かを感じるべきだったのか。虫の知らせ、と人は言う。大切な人に何かが起きたとき、何かを感じる、と。


 凪は何も感じなかった。報告書を修正していた。数字を打ち込んでいた。久保の赤ペンの指示に従っていた。奈々未が横断歩道で車に撥ねられていた時間に、凪は表の体裁を整えていた。


 感じなかったことが、凪には許せない。自分が許せない。


 タクシーの窓ガラスに、凪の顔が映っている。暗い車内で、外の街灯の光が顔を照らしている。疲れた顔。目の下に影がある。口元が下がっている。この顔で、二時間前まで仕事をしていた。何も知らないまま。


 病院が見えてくる。大きな建物。「救急」の赤い文字が暗闇の中で光っている。赤い光。遠くからでも見える。あの光に向かって、タクシーが走っている。


 正面に着く。凪は料金を払う。いくら払ったか、あとで思い出そうとしても思い出せない。降りる。


 自動ドアが開く。暖かい空気が出てくる。消毒液の匂い。蛍光灯の光。明るい。外の暗さとのコントラストで、一瞬目が眩む。


 受付に行く。カウンターの向こうに、女性が一人座っている。


「高原です。先ほど電話をいただいて」


 受付の女性が凪を見る。凪の顔を見る。名前を確認する。パソコンの画面を見る。


「少々お待ちください」


 誰かを呼びに行く。凪は受付の前に立って待つ。待っている間、周りを見る。救急外来の待合室。広い空間。椅子が並んでいる。何人か座っている。松葉杖をついた人。腕を押さえている人。付き添いの人。テレビが壁についている。音が小さい。ニュースが映っている。


 壁にポスターが貼ってある。インフルエンザの予防接種。禁煙外来。自動販売機がある。飲み物の自動販売機。温かい缶コーヒーと冷たいお茶が並んでいる。


 全部が目に入る。全部が処理される。でも意味がない。意味のない情報を、凪の目が勝手に拾っている。脳が何かで自分を埋めようとしている。空白を作りたくないから。空白を作ると、そこに想像が入る。想像が入ると、崩れる。


 医師が来る。五十代の男性。白衣。疲れた顔をしている。でも表情を整えている。この種の話を何度もしてきた人間の顔。


「高原奈々未さんのご家族ですか」


「夫です」


「こちらへ」


 別室に通される。小さな部屋。面談室。机と椅子が向かい合わせに置いてある。窓はない。蛍光灯だけ。


 凪は椅子に座る。医師が向かいに座る。


 医師が話し始める。


 本日午後五時頃。都内○○区の交差点の横断歩道上。歩行者用信号は青。左折してきた普通乗用車が、ハンドル操作を誤り。衝突。頭部を強打。救急搬送。搬送時の状況。処置の内容。手術。時間。


 言葉が耳に入る。一つずつ。


 医師の声は落ち着いている。事実を順番に述べている。感情を排している。専門用語が混じる。凪に理解できない言葉もある。でも全体の意味はわかる。全体の意味はわかっている。わかっているのに、理解が追いつかない。意味はわかるが、受け入れが追いつかない。


「手は尽くしましたが」と医師は言う。


 手は尽くした。


「午後五時四十二分でした」


 午後五時四十二分。


 四十二分。搬送されてから。手術をして。手を尽くして。それでも。


 凪はしばらく何も言えない。


 椅子に座っている。体が椅子に座っている。でも凪の意識はどこか別の場所にある。この部屋にいるのに、この部屋にいない。医師の顔が見えている。蛍光灯の光が見えている。机の上のボールペンが見えている。全部見えている。でも遠い。ガラスの向こうに見えているような距離感。


 医師が何か言っている。質問があるか。手続きのこと。連絡先のこと。凪は聞いている。聞いているが、処理できない。処理する場所が頭の中にない。


 十月にも同じことがあった。同じ部屋。同じ椅子。同じ種類の説明。同じ言葉。「手は尽くした」。同じ結末。


 二度目。二度目のはずなのに、慣れていない。一度目と同じように、何も処理できない。何も受け入れられない。二度経験すれば少しは慣れるだろうと思っていたかもしれない。思っていない。思ったことすらない。でもどこかで、二度目なら少しはましだろうと期待していたのかもしれない。


 ましではない。同じ。まったく同じ。


「会えますか」と凪は言う。


 声が出る。自分の声が聞こえる。かすれている。喉が乾いている。


「はい。ご案内します」


 案内されたのは、地下一階の部屋だった。


 エレベーターで降りる。廊下を歩く。上の階とは空気が違う。温度が低い。静か。人の気配が少ない。蛍光灯の光が、上の階より少し暗い。


 看護師が前を歩いている。凪がその後ろを歩いている。看護師の靴がリノリウムの床を踏む音。凪の革靴が床を踏む音。二つの足音だけが廊下に響いている。


 部屋の前に着く。ドアが閉まっている。看護師が凪を見る。


「準備はよろしいですか」


 準備。何の準備。覚悟のことを言っているのだろう。覚悟ができているか。凪にはわからない。できているかどうか。できるものなのか。こういうことに対して「準備ができた」と言える人間がいるのか。


「はい」と凪は答える。答えるしかない。答えなければドアが開かない。


 看護師がドアを開ける。


 白い部屋。小さな部屋。窓はない。蛍光灯の光だけがある。でも少し暗くしてある。落とした光。柔らかくしてある。


 中央にベッドがある。白いシーツ。白い枕。白い毛布。


 奈々未がいる。


 凪はドアの前に立ったまま、しばらく動けない。


 見えている。奈々未が見えている。ベッドの上に横たわっている奈々未が見えている。目を閉じている。毛布が胸のあたりまでかかっている。髪が枕の上に広がっている。


 凪は一歩を踏み出す。


 足が重い。重いのではなく、動かない。動かないのではなく、動くことを恐れている。近づいたら、確定する。遠くにいる間は、まだ確定していない。奈々未が眠っているだけかもしれない。疲れて眠っているだけかもしれない。近づいて、手に触れたら、確定する。


 一歩。二歩。三歩。


 ベッドのそばに立つ。


 奈々未の顔が見える。近くから。


 目を閉じている。まつげが頬に影を落としている。蛍光灯の光の角度で、まつげの影が少し長く見える。肌は白い。いつもより白い。でも穏やか。穏やかに見える。苦しみのない顔。痛みのない顔。


 凪は奈々未の顔を見ている。


 眠っているように見える。本当に、ただ眠っているだけのように見える。凪が朝先に起きて、隣で眠っている奈々未の顔を見ているときと、同じ距離。同じ角度。同じ静けさ。


 でも一つ、違うことがある。


 奈々未の口元。唇が少しだけ上がっている。左の口角が、ほんのわずかだけ。笑っているのではない。でも穏やかの向こうに、何かがある。


 凪はそれを見る。しばらく見る。


 誇らしさ、と呼べるかもしれない。


 唇の端に、微かな弧がある。痛みでも苦しみでもなく、もっと静かな何かがある。何かを成し遂げた人間の顔に似ている。あるいは、何かを受け入れた人間の顔。悔いのない顔。


 奈々未は施設で育った。家族がいなかった。一人だった。ベンチに一人で座っていた。弁当を一人で食べていた。名前を呼んでくれる家族がいなかった。


 凪に出会って、家族を得た。「おかえり」と言える相手を得た。コーヒーを淹れる朝を得た。手を握って眠る夜を得た。お腹の中に命を宿した。名前を考えた。失った。泣いた。立ち上がった。施設の子供たちのところに戻った。「春になったら」と言った。声を出して笑った。


 全部を生きた。


 短い時間だったかもしれない。凪と過ごした時間は、人生の中では短いほうだったかもしれない。でも奈々未はその時間を全部生きた。手を抜かなかった。逃げなかった。怖いときも「怖かった」と言えた。辛いときも凪の隣にいた。泣きたいときは泣いた。笑いたいときは笑った。


 その全部が、この顔に出ている。


 凪にはそう見える。見えるだけかもしれない。凪がそう見たいだけかもしれない。でも奈々未の口元には、確かに何かがある。苦しみではないもの。悔いではないもの。もっと静かで、もっと深い何か。


 生きたことへの、誇り。


 声なき誇り。誰に向けたものでもない。凪に向けたものでもない。ただ、自分の人生を最後まで生きたことへの、静かな確認。ここにいた。ここで生きた。一人ではなくなった。家族を持った。愛した。愛された。


 凪は椅子を引いて、ベッドの横に座る。パイプ椅子。座面が硬い。ギシリと音がする。


 奈々未の手を取る。毛布の下から出ている右手。


 冷たい。


 知っている冷たさではない。十一月の朝、タクシーの中で握った手の冷たさとは違う。あのときの冷たさは、握っていれば温まった。凪の体温が移って、少しずつ、少しずつ温まった。手から指先へ。指先から爪の先へ。五分もすれば、奈々未の手は凪の手と同じ温度になった。


 今の冷たさは、温まらない。


 握っている。凪の手は温かい。体温がある。その体温が奈々未の手に流れ込んでいるはず。流れ込んでいるのに、温まらない。奈々未の手が凪の熱を受け取っていない。受け取れない。


 凪は握る力を少し強くする。強く握れば温まるかもしれない。温まらない。もう少し強く。温まらない。


 凪の体が、まだ奈々未を温めようとしている。温まらないことを頭はわかっている。わかっているのに、体がやめない。体が勝手に熱を送り続けている。何ヶ月も何年も、この手を温めてきた。夜、眠る前に握って、朝まで温めてきた。ソファで隣に座って、冷たい手を握って、温めてきた。


 その習慣が、体に染みついている。温めることが、凪の体のデフォルトになっている。だからやめられない。やめなくていい。温まらなくても、握っていればいい。


 凪は奈々未の手を両手で包む。包んで、膝の上に置く。自分の膝の上に、奈々未の手を乗せて、両手で包む。


 奈々未の指が凪の指の間にある。細い指。コーヒーを淹れていた指。砂糖の瓶を傾けていた指。子供たちの頭を撫でていた指。凪の袖をつまんでいた指。ベビー服を畳んでいた指。手紙の封を切った指。涙を拭った指。


 全部の記憶が、この指にある。


 部屋は静か。地下の部屋。外の音が届かない。車の音も、風の音も、人の声も。何も聞こえない。凪の呼吸の音だけが聞こえる。凪の呼吸だけ。奈々未の呼吸がない。


 いつもは二つの呼吸があった。夜、暗い部屋の中で、二つの呼吸が聞こえていた。凪の呼吸と奈々未の呼吸が、少しずつリズムが合っていく。自然にそうなる。同じタイミングで吸って、同じタイミングで吐く。


 今は一つ。凪の呼吸だけ。リズムが合う相手がいない。


 時間が経つ。どのくらい経ったか、わからない。三十分か。一時間か。もっとか。


 凪は奈々未の顔を見ている。目を閉じた顔。口元の微かな弧。穏やかで、少しだけ誇らしげな顔。


 凪はこの顔を覚えておこうと思う。この角度。この光。この表情。目を閉じた奈々未の、この顔を。


 覚えておきたい。でもいつか忘れるかもしれない。人間は忘れる。母の台所の匂いを忘れるかもしれないと思ったように、奈々未のこの顔もいつか忘れるかもしれない。


 忘れたくない。


 凪は奈々未の顔を見ている。目に焼きつけるように。まつげの一本一本。眉の形。鼻の高さ。唇の線。頬の丸み。全部を。


 看護師が一度、ドアを少しだけ開けて覗く。凪を見て、何も言わずにドアを閉める。


 凪は奈々未の手を握ったまま、考えている。


 何か言うべきなのかもしれない。「ありがとう」とか。「ごめん」とか。「愛してる」とか。何か。最後の言葉。最後に伝える言葉。


 でも何も出てこない。言葉が出てこない。


 病院の夜のことを思い出す。流産の後の夜。奈々未が「何も言わないでくれて、ありがとう」と言った。あのとき凪は何も言えなかった。何も言えないことが正解だった。


 今も何も言えない。でも今度は、奈々未が「ありがとう」と言ってくれることはない。正解かどうかを教えてくれる人間が、もういない。


 凪は口を開く。


 何か出てくるはず。何か出さなければならない。この部屋を出たら、もう言えなくなる。今しかない。今、この部屋の中で、奈々未の手を握っているこの瞬間しかない。


「おやすみ」


 それが出てくる。


 毎晩言っていた言葉。毎晩の言葉。特別な言葉ではない。普通の言葉。日常の言葉。「おやすみ」。ベッドに入って、電気を消して、目を閉じる前に。毎晩。何百回と言った。何百回の「おやすみ」。


 でもそれしか出てこなかった。


 出てこなかったのではない。それが凪にとって一番正しい言葉だった。最後の言葉が「おやすみ」であること。特別ではないこと。大げさではないこと。普通であること。


 凪と奈々未の間にあったものは、最初から最後まで普通だった。普通の出会い。普通の付き合い。普通の同棲。普通のコーヒー。普通のおかえり。普通のおやすみ。特別なことは何もなかった。ただ一緒にいた。ただ隣にいた。それだけの、普通の日々。


 その普通が、凪にとっては全部だった。


 奈々未は答えない。


 答えないことを、凪は受け入れなければならない。受け入れられるかどうかわからない。でも受け入れなければならない。


 凪は立ち上がる。椅子から立ち上がる。奈々未の手を、そっとベッドの上に戻す。毛布の上に。手を離す。


 手を離した瞬間、掌が空になる。何も握っていない掌。さっきまで奈々未の手があった場所に、何もない。空気だけがある。


 立ち上がって、奈々未の額に手を当てる。額も冷たい。髪を少し撫でる。黒い髪。柔らかい髪。指の間を髪が通る。


 最後にもう一度、奈々未の顔を見る。


 口元の微かな弧。誇らしげな顔。


 この顔を覚えている。忘れない。忘れたくない。忘れるかもしれないが、今はここにある。今のこの瞬間は、覚えている。


 凪は部屋を出る。


 ドアを閉める。


 ドアが閉まる音。カチャリ。小さな音。


 廊下。明るい廊下。蛍光灯の光。消毒液の匂い。上の階に戻る。エレベーターに乗る。一階に着く。


 受付で手続きをする。書類に記入する。名前。住所。連絡先。署名。十月に同じことをした。同じ欄に、同じ字で、同じ情報を書く。二度目。


 手が震えている。ペンが揺れている。字が乱れる。一度目のときも震えていた。二度目も同じ。何度やっても慣れない。


 手続きが終わる。受付の人間が「何かあればご連絡ください」と言う。凪は頷く。


 病院を出る。


 外に出ると、二月の夜の空気が顔に当たる。冷たい。コートを着ている。着ているのに冷たい。体の中が冷えている。奈々未の手の冷たさが、まだ掌に残っている。温まらなかった冷たさ。もう温まらない冷たさ。


 タクシーを呼ぼうとする。携帯を取り出す。


 やめる。


 歩く。


 病院から自宅まで。どのくらいの距離かわからない。地図で見れば三キロか四キロか。歩いて四十分か一時間か。わからない。でも歩く。歩きたい。電車には乗りたくない。タクシーにも乗りたくない。密閉された空間にいたくない。外の空気の中を歩きたい。冷たい空気の中を。


 歩き始める。病院の前の道。大通り。車が走っている。ヘッドライトが凪の体を照らして、通り過ぎていく。


 歩きながら、何も考えていない。考えようとしているが、思考がまとまらない。断片だけが浮かぶ。


「おかえり」。


 砂糖入りのコーヒー。


 口角が上がって、すぐ戻る笑い方。


 袖をつまんで歩く指先。


「春になったら」。


 ベンチに一人で座っていた文化祭の日。


「ただいま電話に出ることができません」。


「大丈夫」。


「ごめんね」。


「一人じゃなかったから」。


「待っていてくれて、ありがとう」。


「コーヒー、淹れるね」。


「砂糖、足りてる?」。


「行ってらっしゃい」。


 全部が断片。順番もなく浮かんでは消える。浮かんでは消える。消えては浮かぶ。


 歩いている。足が動いている。右足。左足。交互に。地面を踏んで、進んでいる。革靴の底が歩道を叩く音。一定のリズム。進んでいる。進んでいるのに、どこにも着かない気がする。歩いているのに、家に近づいている気がしない。


 でも近づいている。知っている交差点を通る。知っているコンビニの前を通る。知っている住宅街に入る。


 マンションが見えてくる。エントランスの灯りが点いている。


 あの灯りの向こうに、今日から、奈々未はいない。


 エレベーターに乗る。ボタンを押す。自分の階。上がっていく。階数表示が変わる。ドアが開く。


 廊下を歩く。部屋のドアの前に立つ。鍵を出す。今度は手が震えていない。出したときに震えていたはず。でも今は震えていない。何かが止まっている。震える力すら残っていない。


 鍵を差し込む。回す。開ける。


 暗い部屋。帰る前につけた暖房が、部屋を温めている。温かい空気が顔に当たる。温かい。でも暗い。灯りをつけていなかった。


 靴を脱ぐ。廊下を歩く。リビングの灯りをつける。


 誰もいないリビング。


 テーブル。ソファ。窓。本棚。紙袋がリビングの隅にある。ベビー服とおむつ。奈々未が「そのままにしておいて」と言った紙袋。


 台所の灯りをつける。


 誰もいない台所。コンロ。やかん。冷蔵庫。調味料の並び。コーヒーの粉の袋。砂糖の瓶。


 カップが棚に並んでいる。二つ。凪の分と奈々未の分。


 今朝、この二つのカップにコーヒーが注がれていた。砂糖が入っていた。二人で向かい合って飲んだ。湯気が二本立っていた。


 凪はテーブルの前の椅子に座る。


 座って、しばらく何もしない。暖かい部屋。静かな部屋。時計の音がする。カチ、カチ、カチ。冷蔵庫の音がする。ブーン。エアコンの温風の音がする。


「おかえり」がない。


 帰ってきたのに。ドアを開けたのに。靴を脱いだのに。座ったのに。


「おかえり」がない。


 解除コードが入力されない。防壁が下がらない。体の力が抜けない。帰ってきたのに、帰ってきていない。家の中にいるのに、ここではない場所にいる気がする。


 凪はテーブルの上に手を置く。両手を。開いた手のひらを、テーブルの天板に伏せる。


 退院した朝、奈々未が同じ姿勢をしていた。テーブルに手を伏せて、じっとしていた。あのときの奈々未。顔色が白くて、「少し」痛いと言った奈々未。あの姿勢を、今、凪がしている。


 手がテーブルの上にある。動かない。テーブルの木目が見えている。木目の線が走っている。この木目を奈々未も見ていたのか。あの朝。


 しばらくそうしている。


 どのくらいそうしていたか、わからない。


 気づいたら、テーブルの上に水滴が落ちている。凪の手の近くに。一滴。二滴。木目の上に水滴が広がる。


 泣いているのか。


 頬に手を当てる。濡れている。目から涙が出ている。いつから出ていたか、わからない。泣こうとしたわけではない。体が勝手に出している。


 母が奈々未のお腹に手を当てたとき、涙が一粒落ちた。あのとき凪は「泣くことと涙が出ることは違う」と思った。今、凪の体が同じことをしている。泣いているのではない。涙が出ている。


 涙がテーブルの上に落ちる。一滴。また一滴。木目の上に水滴が広がる。広がって、少しずつ乾いていく。乾く前にまた落ちる。


 凪はそれを見ている。自分の涙がテーブルに落ちるのを、見ている。止めようとしない。止められない。止める必要がない。


 胸ポケットに手を入れる。


 便箋が二枚。母の手紙と父の手紙。あの日からずっと入れている。毎日、スーツからスーツに移している。何ヶ月も。何百日も。


 取り出す。


 母の手紙を広げる。手が濡れている。涙で。便箋に涙が落ちないように、少し顔を逸らす。でも落ちる。一滴。便箋の端に。紙が少し波打つ。


『奈々未さんと生きて。それだけを守ってほしい。』


 母の字。丸みのある、柔らかい字。


 奈々未ちゃんと生きて。

 母がそう書いた。凪に残した最後の願い。たった一つの、シンプルな願い。


 生きられなかった。


 守れなかった。


 母の願いを、凪は果たせなかった。


 便箋を持つ手が震えている。文字が揺れている。目が滲んでいるのか、手が揺れているのか。両方。


 凪は便箋を折りたたむ。丁寧に。母が折ったのと同じ折り目に沿って。封筒に戻す。父の手紙と一緒に、胸ポケットに入れる。


 二枚の便箋が胸ポケットの中にある。母の手紙と父の手紙。二人の最後の言葉。


 凪はテーブルに伏せる。


 額をテーブルの上に置く。冷たい木の表面。手を横に投げ出す。全身の力が抜ける。抜けるのではなく、使い果たす。何かを支えていた力が、全部消える。


 目を閉じる。涙がまだ出ている。テーブルの上に溜まっていく。


 暗い。目を閉じると暗い。何も見えない。何も聞こえない。時計の音だけが聞こえる。カチ、カチ、カチ。一秒ごとに。一秒ごとに、奈々未のいない時間が積み重なっていく。


 一秒。

 二秒。

 三秒。


 全部の秒が、もう奈々未のいない秒。これからの全部の秒が。全部の分が。全部の時間が。全部の朝が。全部の夜が。


「おかえり」のない全部の帰宅が。

 コーヒーのない全部の朝が。

 手を握らない全部の夜が。


 凪はテーブルに伏せたまま、動かない。


 夜が長い。


 一人で過ごす、最初の夜。


 暖房の温風が部屋を温めている。温かい部屋。でも凪の中は冷えている。奈々未の手の冷たさが、まだ掌に残っている。温まらなかった冷たさ。


 もう温まらない。


 もう「おかえり」は聞こえない。もう砂糖入りのコーヒーは出てこない。もう口角が上がってすぐ戻る笑い方は見られない。もう袖をつまんで歩く指先は感じられない。もう「行ってらっしゃい」は聞こえない。


 全部、終わった。


 凪はテーブルの上で、目を閉じたまま、朝を待つ。


 朝が来たら、何をすればいいかわからない。コーヒーを淹れるのか。一人分。砂糖を入れるのか。入れたら、奈々未が淹れたコーヒーの味を思い出すのか。入れなければ、苦いまま飲むのか。


 何もわからない。何も決められない。何も。


 朝が来るまで、ここにいる。テーブルの上に。涙の乾いた木目の上に。


 一人で。

明日も20時に投稿します。

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