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序章027

 十二月に入って、奈々未が「お寺に行きたい」と言う。


 唐突ではない。でも予想していたわけでもない。朝食の後、テーブルでコーヒーを飲んでいるとき、奈々未がぽつりと言った。


「近くにお寺、あるよね」


「ああ。駅の反対側に」と凪は答える。


 何度か前を通ったことがある。住宅街の中にある小さな寺。山門があって、境内に銀杏の木が一本立っている。普段は人がいない。正月だけ少し賑わう、そういう規模の寺。名前は覚えていない。通りすがりに見るだけの場所。凪にとっても奈々未にとっても、生活圏の中にあるのに存在感のない場所だった。


「行きたい」と奈々未は言う。


 凪は聞かない。何をしに行くのかとは聞かない。聞かなくてもわかる。わかるから、何も言わずに「行こう」と答える。


 土曜日の午前中。二人で歩いて行く。十五分ほどの距離。十二月の空気が冷たい。コートの襟を立てる。吐く息が白い。マフラーの中に顎を埋める。


 奈々未は凪の隣を歩いている。歩く速度がゆっくりになっている。お腹は少しずつ小さくなっているが、まだ完全には戻っていない。歩き方に庇うような動作が残っている。体が覚えている。もう庇う必要のないものを、まだ庇っている。


 住宅街を抜ける。商店街の端を通る。八百屋の前にみかんが積んである。冬の果物。オレンジ色が目に入る。奈々未が少しだけ足を止める。みかんを見ている。何を思っているかは、わからない。数秒で歩き出す。


 寺に着く。山門をくぐる。石畳が敷かれている。苔が生えている。冬でも苔は緑色。石畳の隙間に、朝露が残っている。


 境内は静か。誰もいない。銀杏の木は葉を全部落としている。裸の枝が冬の空に向かって伸びている。枝の先端が細く分かれて、空に溶け込んでいる。地面に黄色い葉が散っている。掃き清められた部分と、隅に吹き溜まっている部分がある。吹き溜まりの葉が、風に少し揺れている。


 本堂の前に立つ。賽銭箱がある。古い木の箱。蓋の木目が年月で灰色になっている。凪は財布から小銭を出して、二人分入れる。硬貨が箱の中に落ちる音。カラン、カラン。静かな境内に響く。響いて、消える。


 奈々未が手を合わせる。


 目を閉じている。両手を胸の前で合わせている。指が少し震えている。寒さなのか、別の理由なのか。背筋はまっすぐ。足を揃えて立っている。コートの襟から、マフラーの端が少し出ている。


 凪は奈々未の横に立って、同じように手を合わせる。目を閉じる。


 何を祈ればいいかわからない。


 祈る、という行為を、凪はこれまで真剣にしたことがない。初詣に行っても、形だけ手を合わせていた。受験のとき。就職のとき。合格しますように。うまくいきますように。そういう願い事はした。でもそれは祈りというより、取引。神様に願い事をして、叶ったらお礼をする。叶わなかったら、神様のせいにする。そういう関係。


 今日はそれとは違う。


 何を祈る。子供のことか。あの子のために祈るのか。何を。安らかに、と祈るのか。安らかに、と祈るためには、あの子がどこかにいることを信じなければならない。凪にはそれがわからない。どこかにいるのか。いないのか。生まれてくる前に消えた命は、どこへ行くのか。


 父と母のことを祈るべきか。父と母は今、どこにいるのか。いるのか。いないのか。それもわからない。


 凪にはわからない。宗教的な信仰はない。死後の世界を信じているわけでもない。でも今、手を合わせている。合わせているのは、奈々未がそうしているから。奈々未の隣で同じことをすることが、今の凪にできること。できることの中で、一番近いこと。


 目を閉じたまま、考える。祈りの言葉を探す。「安らかに」は嘘になる気がする。信じていないことを祈るのは嘘。でも何も祈らないのも、何か違う。ここに来た意味がなくなる。


 結局、言葉にならないものが胸の中にある。言葉にならないまま、手を合わせている。言葉にならないことを、祈りと呼んでいいかどうかわからないが、凪にできるのはそれだけ。


 手を下ろす。


 奈々未はまだ手を合わせている。凪より長い。目を閉じて、唇が微かに動いている。何かを呟いている。声にはならない。唇だけが動いている。


 何を言っているのか。


 名前かもしれない。呼べなかった名前を、今、手を合わせながら呼んでいるのかもしれない。病院で「名前を呼んであげられなかった」と言った奈々未が、今ここで呼んでいるのかもしれない。


 凪はそれを見ている。見ていて、胸の奥が締まる。奈々未が唇を動かしている。声を出さずに。寒い空気の中で。誰もいない境内で。


 ここでなら呼べるのかもしれない。家では呼べない。家で名前を呼んだら、返事が来ないことが確定する。でもここでなら、手を合わせて、目を閉じて、どこかに向かって呼ぶことができる。返事が来なくても、「届いたかもしれない」と思える場所。寺はそういう場所なのかもしれない。


 凪にはわからない。でも奈々未にはわかるのかもしれない。


 奈々未が手を下ろす。目を開ける。凪を見る。


「ありがとう」と奈々未は言う。「来てくれて」


「また来よう」と凪は言う。


 奈々未は少し頷く。


 帰り道、二人は並んで歩く。来たときと同じ道。同じ信号。同じ住宅街。八百屋の前を通る。みかんがまだ積んである。奈々未が今度は足を止めない。


「寒いね」と奈々未が言う。


「ああ」と凪は言う。


「手、冷たい」


 凪は奈々未の手を取る。冷たい。コートのポケットに入れてやる。二人分の手がポケットの中にある。狭い。でも温かい。


 それから毎週のように来るようになる。土曜日の午前中。二人で歩いて十五分。銀杏の木の前で手を合わせる。


 凪は毎回、祈りの言葉を探す。毎回、見つからない。でも三回目くらいから、見つからなくてもいいと思うようになる。見つからないまま手を合わせることが、凪の祈りなのかもしれない。何を祈ればいいかわからないまま、ここに立つこと。それ自体が。


 奈々未は毎回、唇を動かしている。声にならない声で。毎回、凪より少し長く手を合わせている。


 四回目のとき、奈々未が帰り道で「来てよかった」と言う。


 沖縄の海岸で聞いた言葉。あのときと同じ言葉。でも場所が違う。あのときは海だった。今は住宅街の歩道。でも「来てよかった」は同じ。奈々未がそう言うとき、そこには何かが確認されている。来たことに意味があった、という確認。


 凪が仕事から帰ると、奈々未が泣いていることがある。


 毎日ではない。週に二回か三回。頻度に規則性はない。月曜に泣いて、火曜は泣かず、水曜に泣いて、木曜と金曜は泣かず、土曜に泣く。そういうランダムなリズム。何が引き金になっているのか、凪にはわからない。テレビの中の赤ちゃんの映像か。スーパーで見かけたベビーカーか。洗濯物の中の、まだ染みのあるシャツか。何がきっかけで涙が出るのか、たぶん奈々未自身にもわからないのだろう。


 泣いている、というのは正確ではないかもしれない。凪が帰ったとき、奈々未はだいたい台所にいて、「おかえり」と言う。解除コードは今も機能している。声のトーンもいつもと同じ。夕食が並んでいる。味噌汁の湯気が上がっている。


 でも泣いていた痕跡がある。


 目が少し赤い。鼻の頭が少し赤い。ティッシュがゴミ箱に何枚か入っている。いつもは一枚か二枚しか入っていないゴミ箱に、五枚か六枚の丸めたティッシュが入っている。洗面所のタオルが少し湿っている。顔を洗った跡。凪が帰ってくる前に、顔を洗って、目の赤みを消そうとした跡。


 奈々未は隠そうとしている。凪に見せまいとしている。泣いたことを知られたくない。知られたら凪が心配する。心配させたくない。だから帰ってくる時間の前に泣き終わって、顔を洗って、夕食を作って、「おかえり」と言う。


 その順番がある。泣く。止める。顔を洗う。夕食を温める。テーブルに並べる。「おかえり」と言う。全部、順番通りに。


 凪はそれに気づいている。気づいていることを、奈々未は知らない。知らないほうがいいのか。知ったほうがいいのか。凪にはわからない。


 ゴミ箱のティッシュの数を数えてしまう自分がいる。今日は三枚。昨日は六枚。一昨日はゼロ。ゼロの日は泣いていない日。六枚の日は長く泣いた日。三枚の日は途中で止めた日。


 数えるべきではない。数えても何も変わらない。でも数えてしまう。凪にできる数少ないことの一つが、観察すること。奈々未の状態を観察して、変化を読み取ること。それしかできないから、それをしている。


 気づいている、と言うべきか。「泣いてたか」と聞くべきか。聞いたら奈々未は何と答えるか。「泣いてない」と嘘をつくか。「少し」と認めるか。どちらにしても、その後の会話が凪には見えない。


 凪は聞かないことを選ぶ。奈々未が隠そうとしていることを、暴かない。奈々未が泣いた後に「おかえり」と言えるまでに整えた顔を、崩さない。


 ある夜、凪が帰ると、奈々未がまだ泣き終わっていないことがある。


 いつもより早く帰ったから。残業がなくて、三十分早い電車に乗った。三十分の差。奈々未はその三十分を計算に入れていなかった。


 ドアを開ける。台所に灯りがついている。夕食が並んでいる。でも奈々未が台所にいない。


 リビング。ソファの上。奈々未がソファに座って、両手で顔を覆っている。肩が震えている。声は出していない。声を殺して泣いている。ティッシュが膝の上にある。何枚か使って、丸めて、膝の上に置いてある。


 テーブルの上に、ベビー用品のカタログが開いてある。


 いつの間に持っていたのか。妊娠中に届いたものかもしれない。奈々未の鞄の中にずっと入っていたのかもしれない。カタログのページが開いている。ベビーベッドのページ。白い木製のベビーベッド。柵があって、小さなマットレスが敷いてある。その写真の上に、涙の跡がある。紙がわずかに波打っている。


 凪がリビングの入り口に立つ。足音がする。奈々未が気づく。顔を上げる。


 目が合う。


 奈々未の目が赤い。鼻の頭が赤い。涙の跡が頬にある。まだ乾いていない。


 一瞬、奈々未の顔に驚きが走る。見られた、という顔。母がドアの前で雑巾を持っていたときの顔に似ている。見せたくなかったものを見せてしまった顔。


 すぐに奈々未は顔を拭く。手の甲で。涙を拭って、鼻を拭って、ティッシュで目元を押さえる。カタログを閉じる。閉じて、ソファの横に伏せて置く。「おかえり」と言おうとする。


 声が出ない。「お」が出て、「かえり」が続かない。喉が詰まっている。


 凪は何も言わずに、ソファに行く。奈々未の隣に座る。カタログには触れない。手を取る。


 しばらく何も言わない。二人で座っている。奈々未の肩がまだ少し震えている。涙が止まりかけて、また少し出て、止まる。


 凪は奈々未の手を握りながら、カタログのことを考えている。ベビーベッドのページ。白い柵。小さなマットレス。奈々未はそれを見て泣いていた。買うはずだったもの。並べるはずだったもの。子供を寝かせるはずだったもの。


 紙袋はリビングの隅にある。ベビー服とおむつ。カタログはソファの横にある。全部、ここにある。使われないまま。


 五分か十分か。奈々未の呼吸が落ち着いてくる。震えが止まる。


「ごめん」と奈々未が言う。声がかすれている。


「謝らなくていい」と凪は言う。


「帰ってくる前に、止めるつもりだった」


「止めなくていい」


 奈々未は少し黙る。凪の手を握っている。握る力が少し強い。


「泣いてるの、知ってた?」と奈々未は聞く。


「知ってた」


「いつから」


「最初から」


 奈々未はしばらく何も言わない。それから少しだけ口の端が動く。泣いた直後の、笑いとは呼べない、口元の動き。


「やっぱり」と奈々未は言う。「隠すの下手だよね、私」


「上手くやってると思ってたのか」


「うん。バレてないと思ってた」


 凪は少しだけ口の端を上げる。笑っているわけではない。でも力が少し抜ける。奈々未が「バレてないと思ってた」と言えるくらいには、少しだけ。少しだけ。


「泣きたいときは泣いていい」と凪は言う。「帰ってくる前に止めなくていい」


 奈々未は頷く。小さく。


「でも」と奈々未は言う。「おかえりは言いたいから」


 おかえりは言いたい。泣いていても、泣き止んでいなくても、おかえりは言いたい。それが奈々未にとって一日を終わらせるための言葉。凪が帰ってきたことを確認する言葉。泣いている自分と、凪を迎える自分を、おかえりの一言で切り替える。


 凪はそれを理解する。


「泣きながらでも言ってくれていい」と凪は言う。


 奈々未は少し止まる。それから「うん」と小さく言う。


 でも翌日から、奈々未はまた帰ってくる前に泣き止もうとする。顔を洗って、「おかえり」を準備する。凪はそれに気づいて、何も言わない。


 泣きながら「おかえり」を言うことは、奈々未にはできないのだろう。泣いている顔で凪を迎えることが、奈々未にとっては「おかえり」の意味を壊すことになる。泣いている顔は日常ではない。「おかえり」は日常の言葉。日常の言葉は日常の顔で言わなければならない。そうしないと、日常が保てない。


 奈々未にとって「おかえり」は、日常がまだここにあることの証明。泣いた後でも「おかえり」が言えれば、一日はまだ日常の枠の中にある。枠が壊れたら、何もかもが崩れてしまう。


 凪はそれを理解する。理解して、見守る。


 十二月が進む。冬が深まっていく。


 奈々未の体は少しずつ戻っている。


 お腹が小さくなっている。毎日少しずつ。一週間前より少し。二週間前よりだいぶ。凪が隣で眠っていて、朝起きて、奈々未の横を見ると、体の線が変わっていることに気づく。いつの間にか変わっている。昨日との差はわからない。でも一週間前と比べると、わかる。


 台所に立つとき、お腹がテーブルに当たらなくなっている。椅子に座るとき、引かずに座れるようになっている。妊娠中の動作が、一つずつ消えていく。体が元に戻ろうとしている。


 母乳も減っている。パジャマの染みが小さくなっている。なくなる日もある。洗濯物の中に染みのあるシャツが混じらなくなる日が、少しずつ増えていく。凪は洗濯をしながら、今日はあるか、ないか、を確認する。確認しているのか、数えているのか、自分でもわからない。ティッシュの数と同じ。


 体は回復している。医師が言った通り。時間をかけて、体は戻る。


 でも体が戻ることは、最後の痕跡が消えていくこと。


 凪はそれに気づいている。お腹が小さくなるたびに、あの子がいた証拠が一つ減る。母乳が減るたびに、あの子のために体が準備していた証拠が一つ消える。体が回復することと、痕跡が消えることは、同じこと。表から見れば回復。裏から見れば消失。同じ現象を反対側から見ている。


 奈々未もそれに気づいているのだろう。


 ある朝、奈々未が洗面所の鏡の前に立っている。パジャマの上を少し持ち上げて、自分のお腹を見ている。横から見ている。


 凪は廊下からそれを見る。奈々未は気づいていない。


 奈々未はお腹を見ている。小さくなったお腹を。先月はここまであった。先々月はもっとあった。今は、ほとんど戻っている。少しだけ柔らかさが残っている程度。元の体に近い。元の体に戻りつつある。


 奈々未の手がお腹に触れる。掌で撫でる。ゆっくり。上から下へ。確かめるように。ここにいたんだ、と確かめるように。あるいは、さよならを言うように。


 凪はその姿を見て、廊下に下がる。見ていることを気づかれないように。


 体が戻ることは回復。回復は良いこと。でも奈々未にとっては、回復と喪失が同時に進んでいる。体が戻るたびに、あの子がいた場所が消えていく。いた証拠が消えていく。


 お腹が完全に戻ったとき、奈々未の体のどこにも、あの子がいた痕跡がなくなる。外から見たら、妊娠していたことすらわからなくなる。


 それは、二度目の喪失なのかもしれない。最初の喪失は、命を失ったこと。二度目の喪失は、命がいた痕跡を失うこと。


 凪の中にも、同じことが起きている。凪の喪失は体にはない。でも日常の中にある。


 お腹の動きがなくなった。掌の下で押し返してくるあの感触が消えた。夜、ソファで奈々未の隣に座って、お腹に手を当てることがなくなった。当てても何も動かないから。当てなくなった。当てなくなったことに、凪はいつ慣れたのか。慣れたのではなく、手が自然に行かなくなった。


 奈々未のお腹に手を当てる、という行為が消えた。それも痕跡の消失。行為の記憶が、日常から一つずつ抜け落ちていく。一ヶ月前は毎日やっていたことを、今はやらない。やらなくなったことにすら気づかない。気づいたとき、凪は少し怖くなる。忘れていくことが怖い。


 でも忘れなければ、前に進めない。忘れなければ、毎日あの動きがないことを確認し続けることになる。確認し続けたら、凪も奈々未も壊れる。忘れることは防御反応。脳が勝手にやること。


 忘れたくないのに、忘れていく。

 忘れなければならないのに、忘れたくない。


 その矛盾の中で、日が過ぎていく。


 十二月の半ば。寒さが厳しくなる。暖房の温度を上げる。窓の結露が増える。朝、窓ガラスに水滴がついている。凪がタオルで拭く。拭いた跡が、ガラスの上に残る。乾いて、また結露して、また拭く。


 凪の仕事は続いている。久保の下で。書類は相変わらず差し戻される。でも凪はもう慣れている。慣れたというよりは、感覚が鈍くなっている。嫌がらせに慣れるのではなく、傷つくことに疲れて感覚が鈍くなる。以前にも経験した感覚。生ゴミのとき。電話のとき。同じ鈍さ。


 岡田は変わらない。昼食を一緒に食べる。たまに凪の顔色を見て「大丈夫か」と聞く。凪は「大丈夫だ」と答える。


 大丈夫。いつもの呪文。


 家に帰ると奈々未がいる。「おかえり」と言ってくれる。夕食がある。コーヒーがある。砂糖入り。全部ある。


 全部あるのに、一つ足りない。一つ足りないまま、日が過ぎていく。


 奈々未の輪郭は、まだ薄い。以前のようにくっきりしていない。声は出ている。でも少し小さい。歩いている。でも少し遅い。笑うことはある。凪が何か言えば、口角が上がる。でも上がり方が浅い。笑おうとして、笑う。以前は笑いが先に来ていた。体が先に笑って、心がそれについていった。今は心が先に「笑おう」と決めて、体がそれに従っている。順番が逆になったまま、戻っていない。


 目の奥の光は、まだ遠い。退院直後よりは近くなっている。でも以前の位置には戻っていない。凪は毎日、その光の距離を見ている。今日は昨日より近いか。遠いか。同じか。


 少しずつ近くなっている気がする。少しずつ。でも確信はない。近くなっているように見えて、次の日にまた遠くなることもある。二歩進んで一歩下がる。そういうリズム。


 凪はそれを見守っている。見守ることしかできない。


 十二月の終わり近く、ある夜のこと。


 夕食の後、凪がソファで本を読んでいると、奈々未が「外に出たい」と言う。


 外。退院してから、奈々未はほとんど外に出ていない。寺に行くときだけ。それ以外は家の中にいる。買い物は凪がしている。散歩もしない。窓の外を見ていることはある。でも外には出ない。


「散歩か」と凪は聞く。


「ううん。ちょっとだけ」


 二人でコートを着て、玄関を出る。マンションの共用廊下。外に出るわけではない。廊下の突き当たりに窓がある。窓の前に立つ。


 十二月の夜空。澄んでいる。冬の空気は水分が少ない。だから遠くまで見える。星が見える。東京の空でも、冬の夜は星が見える。少しだけ。明るい星がいくつか。オリオン座の三つ星。その下に剣を持っている星。名前は忘れた。


 冷たい空気。廊下は外とほぼ同じ温度。暖房がない空間。コートを着ていても寒い。奈々未がマフラーを巻いている。凪が出る前に巻いてやった。


 二人で窓の外を見ている。暗い空。遠い星。街の灯りが下のほうにある。


 しばらく黙って立っている。吐く息が白い。二人の息が、同じ方向に流れていく。窓ガラスに当たって、少し曇る。


「星って、こんなに見えたっけ」と奈々未が言う。


「冬は空気が澄んでるから」と凪は言う。


「そっか」


 奈々未は窓ガラスに右手を当てる。指先がガラスに触れる。冷たいだろう。でも手を引かない。指先をガラスの上に置いたまま、外を見ている。


 凪はその横顔を見ている。窓の外の街灯の光が、奈々未の顔の半分を照らしている。もう半分は影。光と影の境目に、奈々未の輪郭がある。


 薄くなっていた輪郭が、今夜は少しだけはっきりしている気がする。光のせいかもしれない。気のせいかもしれない。でもそう見える。


「少し、外に出たいな」と奈々未は言う。


 さっきも同じことを言った。でも今度は、少し違う意味。さっきは「廊下に出たい」。今は「外の世界に出たい」。もっと広い意味。


「NPOに、戻ろうかなって」


 凪は少し驚く。NPO。奈々未が休んでいる仕事。施設の子供たちとの仕事。


「体は大丈夫か」


「うん。もう大丈夫。体は」


 体は。その限定が、凪には聞こえる。体は大丈夫。体は。心はまだだけど。でも体が大丈夫なら、仕事には出られる。体で動いて、体で仕事をして、心は後からついてくるかもしれない。凪が仕事に戻ったのと同じ論理。


「いつから」


「年明けから、かな。先生にも相談してみる」


「焦らなくていい」と凪は言う。


「焦ってない」と奈々未は言う。「ただ、ずっと家にいると、考えすぎるから」


 考えすぎる。一人でいると考えすぎる。凪が仕事に行っている間、奈々未は一人で家にいて、考えている。考えないようにしている。でも考えてしまう。ベビー用品の紙袋を見る。カタログを見る。お腹を触る。全部が考えることに繋がる。


 仕事に出れば、手が動く。体が動く。他の人間がいる。考える時間が減る。


「わかった」と凪は言う。


「ありがとう」


「子供たちに会いたい」と奈々未は言う。少し声が変わる。柔らかくなる。今日の中で、一番柔らかい声。


 子供たち。施設にいる子供たち。自分と同じように、一人で育ってきた子供たち。奈々未はあの子供たちのために仕事をしていた。あの子供たちのそばにいることが、奈々未にとっての仕事の意味だった。


「子供たちに会ったら、少しだけ元気になれるかもしれない」


 凪はその言葉を聞いて、少し胸が痛む。


 凪がそばにいても、奈々未を元気にできていない。凪の存在だけでは足りない。奈々未が元気になるために、別のものが必要。それは当然のことで、凪一人で全部を支えられるわけがない。わかっている。わかっているが、少し痛む。


 その痛みは凪のエゴだと思う。奈々未が元気になることが一番大事で、手段は何でもいい。凪のそばで元気になるのでも、施設の子供たちと会って元気になるのでも。


「行っておいで」と凪は言う。


 奈々未は凪を見る。窓の前で、二人で向き合う。


 奈々未の目に、少しだけ光が戻っている。


 退院してから、少しずつ遠くなっていた光。手を伸ばしても届かない場所に退いていた光。それが今夜、ほんの少しだけ近くなっている。NPOのこと、施設の子供たちのことを話しているときの目。その目に、光が少し近い。


 まだ以前の位置には戻っていない。でも、少しだけ手前に来ている。


 凪はそれを見て、少しだけ安堵する。安堵しながら、考える。奈々未の目に光が戻るきっかけが、凪ではなく施設の子供たちだったこと。それは凪にとって嬉しいことなのか、寂しいことなのか。


 たぶん両方。嬉しくて、少し寂しい。でも嬉しさのほうが大きい。奈々未が少しでも前を向いてくれるなら、何でもいい。


 窓の外の星が、変わらずそこにある。遠い光。でもここまで届いている。


 奈々未がガラスから手を離す。「戻ろう」と言う。


「うん」と凪は言う。


 二人で廊下を歩いて、部屋に戻る。ドアを開ける。家の中の暖かい空気が、顔に当たる。暖房の温かさ。台所にコーヒーの匂いが残っている。


 奈々未が先に入る。靴を脱ぐ。凪が後から入る。ドアを閉める。


 鍵をかける。チェーンをかける。カチャリ。


 チェーンの音。

 久しぶりに聞く音。


 退院してからしばらく、奈々未はチェーンをかけていなかった。凪が出かけるとき、ドアが閉まった後にチェーンの音がしなかった。凪はそれに気づいていた。毎朝気づいていた。気づいて、何も言わなかった。


 今日はかけた。


 凪はその音を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。


 チェーンをかけるということは、ここを守ろうとしているということ。この場所を、この部屋を、外の世界から区切ろうとしているということ。区切ることに意味を感じているということ。中にあるものを、守る価値があると思っているということ。


 前を向こうとしている。少しずつ。ゆっくりと。


 まだ全部は大丈夫ではない。紙袋はリビングの隅にある。寺には毎週行く。泣いている夜がある。カタログをまだ持っている。体は戻りつつあるが、心はまだ追いついていない。全部、まだある。


 でもチェーンの音がした。


 凪はコートを脱いで、ソファに座る。奈々未が台所に行く。やかんに火をかける音がする。


「お茶、淹れるね」と奈々未の声がする。


「ああ」と凪は答える。


 やかんが沸く音。急須に湯を注ぐ音。湯気の音。全部、日常の音。


 全部がまだ壊れていない。壊れかけて、でもまだ立っている。


 凪はソファに深く座って、天井を見る。自宅の天井。染みがある。いつからあるかわからない小さな染み。でもこの天井の下で、凪は生きている。奈々未も生きている。二人とも、まだここにいる。


 奈々未がお茶を持ってくる。凪の前に置く。向かいに座る。自分の分のお茶を持って。


 二人でお茶を飲む。テレビはつけていない。窓の外は暗い。暖房の音だけが部屋の中にある。


 奈々未が少し笑う。口角が上がる。笑おうとして、笑う。まだ順番は逆のまま。でも上がる幅が、先週より少しだけ大きい気がする。気のせいかもしれない。


「来年は」と奈々未が言う。


「来年は?」


「もう少し、ましな年になるといいね」


 もう少しましな年。今年がどれほどひどい年だったかを、「もう少しまし」という控えめな言葉で表している。控えめすぎる。今年は最悪の年だった。全てが壊れた年だった。でも奈々未は「もう少しまし」と言う。その控えめさが奈々未らしい。


「なるよ」と凪は言う。


 根拠はない。ないが、言う。根拠のない「大丈夫」と同じ。呪文。唱えないよりまし。


 奈々未は少し頷く。


「なるといいね」


 凪はお茶を飲む。温かい。苦い。砂糖は入っていない。コーヒーには入れるが、お茶には入れない。


 来年。一月。二月。三月。その先。


 何が待っているかわからない。でもここに、お茶の温かさがある。奈々未がいる。チェーンの音がした。寺に行く土曜日がある。岡田がいる。全部がまだある。


 足りないものはある。一つ足りない。一つ足りないまま、来年を迎える。


 でも足りないものを数えるより、あるものを数えたほうがいい。あるものの数が、足りないものの数を上回っている限り、まだ大丈夫。


 大丈夫。


 今夜は、チェーンの音がした。


 それだけで、少しだけ。

明日も20時に投稿します。

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