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序章026

 翌朝、医師から改めて説明がある。


 凪は前日と同じ別室に通される。今度は椅子に座る。医師が向かいに座る。


 医師は静かな声で話す。医学的な言葉を使いながら、でも丁寧に、順番に。凪は聞きながらメモを取ろうとする。胸ポケットからペンを出して、病院の紙ナプキンの裏に書こうとして、手が止まる。メモを取る必要があることと、メモを取れないことが、同時にある。手が動かない。ペンを持っている指が、文字を書く動きをしない。


 説明が終わる。


「質問はありますか」と医師は言う。


 凪はしばらく考える。質問は頭に浮かぶ。なぜ。いつから。原因は。防げたのか。でも口にならない。口にしたところで、結果は変わらない。


「妻の体は」とだけ聞く。


「奥様は大丈夫です」と医師は言う。「体への影響は、時間をかけて回復します」


 時間をかけて回復する。体は。体は時間が解決する。でも体ではない部分は、時間が解決するのか。医師はそこまでは言わない。言えない。医師の専門は体。体ではない部分は、凪と奈々未が自分たちで引き受けなければならない。


「退院できますか」


「はい。今日退院していただけます」


 退院の手続きをする。書類に記入する。名前。住所。連絡先。サインをする。事務的な手続き。事務的だが、一つ一つの欄に書き込むたびに、ここに来た理由が頭をよぎる。


 奈々未の個室に行く。奈々未は着替えている。入院着を脱いで、自分の服を着ている。凪が持ってきた服。家から持ってきた、いつもの服。着替えた奈々未は、病院の中にいるのに、少しだけ「家の人間」に見える。


「帰れるよ」と凪は言う。


 奈々未は頷く。小さく。


 荷物をまとめる。入院のために用意していた鞄。奈々未がメモ帳にリストアップして、一つずつ揃えて、チェックマークを入れていった鞄。あの鞄をもう一度持つ。行きと同じ鞄。中身は行きとほとんど同じ。使わなかったものが多い。産褥ショーツ。母乳パッド。退院時の赤ちゃんの服。おくるみ。


 使わなかったものが、鞄の底に入っている。凪はそれを見ないようにする。奈々未も見ていない。鞄を閉じる。


 タクシーを呼ぶ。病院の玄関から乗る。十一月の終わりの冷たい空気が、一瞬だけ顔に当たる。すぐに車内の温かさに包まれる。


 帰り道は短い。十五分ほど。窓の外に街が流れていく。行きと同じ景色が、逆順に流れていく。同じ信号。同じ交差点。同じコンビニ。でも行きとは全部が違う。行きは奈々未のお腹に命があった。帰りはない。同じ道なのに。


 奈々未は窓の外を見ている。何を見ているかわからない。景色を見ているのか、何も見ていないのか。凪は奈々未の横顔を見ている。横顔は穏やか。穏やかに見える。でもその穏やかさが、以前の穏やかさと同じかどうか、凪にはわからない。


 マンションに着く。エレベーターに乗る。自分の階のボタンを押す。ドアが開く。廊下を歩く。部屋のドアの前に立つ。


 凪が鍵を開ける。ドアを開ける。


 家の匂いがする。


 昨日の朝まで、ここで暮らしていた匂い。洗剤の匂い。台所の匂い。窓を閉めていた部屋の、少し籠もった空気の匂い。一日半、人がいなかった部屋の匂い。


 奈々未が先に入る。靴を脱ぐ。廊下を歩く。リビングに入る。


 凪はその後ろを歩く。奈々未がリビングに入って、一度立ち止まるのを見る。一瞬だけ立ち止まって、部屋を見る。見回すというほど大げさではない。ただ、目が部屋の中をさっと通過する。


 何を見たのか。何を確認したのか。凪にはわからない。


 奈々未が台所に向かう。


「コーヒー、淹れるね」


 昨日の朝、病院で言っていた言葉。帰ったらコーヒーを淹れる。その約束を、奈々未は覚えていて、実行しようとしている。


 やかんに水を入れようとする。蛇口をひねる。水が出る。やかんを火にかけようとする。


 凪が台所に入る。


「俺がやる」


 奈々未の手から、やかんを受け取る。奈々未は少し抵抗する。手が離れない。


「いいよ、私が——」


「座ってて」と凪は言う。


 奈々未はしばらく凪を見る。何か言いたそうな顔。でも言わない。手を離す。椅子に座る。


 凪がやかんに火をかける。コーヒーの粉を出す。カップを出す。砂糖の瓶を出す。全部、奈々未がいつもやっている手順。凪は見て覚えている。粉の量。砂糖の量。一杯。


 湯を注ぐ。コーヒーの匂いが台所に広がる。一日半ぶりのコーヒーの匂い。この匂いがこの台所に戻ってきた。


 奈々未の前にカップを置く。砂糖入り。


 奈々未がカップを両手で包む。温かい。湯気が顔に当たる。少し目を細める。


 一口飲む。飲んで、カップを下ろす。


「ありがとう」と奈々未は言う。


「いつも作ってもらってるから」と凪は言う。


 凪も自分の分を淹れる。向かいに座る。二人で台所のテーブルでコーヒーを飲む。


 静か。時計の音がする。冷蔵庫のコンプレッサーが動く音がする。いつもの音。何も変わらない音。


 でもこの台所にあるべき音が、一つない。


 お腹の中の動き。ぐにゅ、と押し返してくるあの動き。あの動きの気配が、この部屋にあった。奈々未が台所に立っていると、ときどき「あ、動いた」と言った。凪が手を当てると、掌の下で動いた。


 その気配が、ない。


 凪はそれに気づいている。奈々未も気づいている。二人とも気づいていて、そのことについて何も言わない。


 家に戻って、凪が最初に気づいたのは、リビングの隅にある紙袋のこと。


 紙袋が二つ。一つはベビー服が入っている。奈々未が少しずつ買い揃えていたもの。肌着。カバーオール。ガーゼ。小さな靴下。もう一つの袋には、おむつとおしり拭きが入っている。


 その紙袋が、リビングの隅に置いてある。一昨日まで、それはそこにあるのが自然だった。生まれてくる子供のための準備。あと少しで使うもの。


 今は違う。

 使う予定のないものが、部屋の隅にある。


 凪はその紙袋をどうすべきか考える。片付けるべきなのか。押し入れにしまうべきなのか。それとも捨てるべきなのか。捨てるのは違う気がする。しまうのも、何かが違う気がする。かといってこのまま置いておくのも。


 奈々未に聞くべきか。聞いたら、奈々未が傷つくのではないか。あの紙袋を見るたびに、奈々未は何を思うのか。


 その夜、凪が寝る前にリビングを片付けていると、奈々未がソファから紙袋を見ているのに気づく。見ている。目が紙袋のところにある。


「片付けようか」と凪は聞く。


 奈々未は少し間を置く。


「そのままにしておいて」


 そのまま。片付けないでほしい。しまわないでほしい。捨てないでほしい。


「いつか使うかもしれないから」


 いつか。その言葉が、静かに部屋の中に落ちる。いつか使う。いつかまた、子供が生まれるかもしれない。そのとき使う。だから今は、そのままにしておいて。


 凪は「わかった」と言う。


 紙袋はリビングの隅に残る。翌日も。その翌日も。一週間後も。


 奈々未のお腹は、まだ大きいまま。すぐには戻らない。医師がそう言っていた。数週間かけて、少しずつ戻る。


 お腹が大きいのに、中にいない。形だけが残っている。奈々未はその形を持ったまま、家の中を歩いている。台所に立つとき、お腹がテーブルに当たりそうになる。椅子に座るとき、少し引いて座る。全部、妊娠中と同じ動作。体がまだ覚えている。体は妊娠中のまま。でも中にいない。


 その不一致を、奈々未の体がどう感じているのか。凪には想像するしかできない。想像しても届かない。同じ部屋にいても、届かないことがある。


 退院から三日目の朝のこと。


 凪がリビングにいると、寝室から物音がする。引き出しを開ける音。閉める音。また開ける音。何かを探している。


 凪が寝室に行くと、奈々未がタンスの前にしゃがんでいる。引き出しを開けて、中を探っている。手が少し慌てている。


「どうした」と凪は聞く。


 奈々未が振り返る。そのとき、凪は見る。


 奈々未のパジャマの胸元が、濡れている。


 灰色のパジャマの、胸の部分に、二つの染みがある。丸い染み。生地の色が変わっている。濡れている。


 母乳。


 子供がいないのに、出ている。体が、まだ準備をしている。お腹の中にいた命のために、乳房が乳を作り続けている。命がいなくなったことを、体はまだ知らない。知らないから、作る。作って、出す。行き先のない乳が、パジャマに染みている。


「タオル、探してて」と奈々未は言う。声は平坦。事務的。でもその平坦さの下に、何かが震えている。


 凪はタンスの上の段からタオルを取って、奈々未に渡す。奈々未はタオルを受け取って、胸に当てる。押さえる。パジャマの染みを隠すように。


「着替える?」と凪は聞く。


「うん」


 凪は寝室を出る。ドアを閉める。廊下に立つ。


 廊下に立ったまま、動けない。


 お腹がまだ大きい。それは知っていた。形が残っている。動作が妊娠中のまま。それも見ていた。でも母乳は知らなかった。体がそこまでしていることを、凪は知らなかった。


 体は子供を待っている。お腹は子供がいた形を残している。乳房は子供のために乳を作っている。体の全部が、まだ子供のためにある。子供がいないのに。子供はもういないのに。


 体だけが知らない。

 体だけが、まだ母親をやっている。


 凪は廊下の壁に背中をつける。目を閉じる。


 これは凪の体では起きないこと。凪の体は何も変わっていない。凪の体は妊娠していなかった。凪の体は子供のために何かを作っていない。凪の胸からは何も出ない。凪の腹は膨らんでいない。


 同じものを失ったはずなのに、体の経験が違う。奈々未の体は今も失い続けている。一度に全部を失ったのではなく、お腹が少しずつ戻り、母乳が少しずつ止まることで、何日もかけて少しずつ失い続けている。凪にはそれがない。凪の喪失は、心の中だけで完結している。奈々未の喪失は、体の中でまだ続いている。


 その差が、凪には怖い。奈々未が感じていることに、凪は永遠に届かないかもしれない。


 寝室のドアが開く。奈々未が出てくる。着替えている。別のパジャマ。胸元にタオルを当てている。


「大丈夫」と奈々未は言う。凪が聞く前に。


 大丈夫。凪はその言葉を受け取る。受け取るしかない。


 その後も、洗濯機の中に奈々未のパジャマやシャツが入っているとき、胸元に染みがあることがある。凪は黙ってそれを洗う。干す。畳む。奈々未に返す。何も言わない。奈々未も何も言わない。


 体が準備し続けているものの行き先がない。行き先のないものが、布に染みて、洗濯されて、乾いて、また染みる。その繰り返しが、何日か続く。やがて量は減っていくと、医師は言っていた。時間が経てば止まると。


 でもそれまでの間、奈々未の体は毎日、いない子供のために乳を出し続ける。


 ある朝、凪が起きると奈々未がベッドの上で自分のお腹に手を当てている。目を閉じている。眠っているのか、起きているのか。


 手が、お腹の上にある。昨日までと同じ位置。掌を当てて、動きを待っている。待っているように見える。


 動きは来ない。


 凪はそれを見て、ベッドの端に座ったまま動けない。声をかけるべきか。「起きてる?」と聞くべきか。奈々未が何をしているのか、わかっている。わかっているから声をかけられない。


 しばらくして、奈々未が目を開ける。凪を見る。


「おはよう」と奈々未は言う。声は普通。いつもの声。


「おはよう」と凪は言う。


 お腹に手を当てていたことには触れない。二人とも触れない。


 最初の一週間は、凪も仕事を休む。


 会社に連絡する。「家庭の事情で数日休みます」。久保には直接言わない。人事部に連絡する。人事部は「わかりました」と言う。それだけ。理由は聞かれない。


 二人で家にいる。


 奈々未は食事を食べる。眠る。本を読む。凪と話す。外から見れば、普通に見える。普通の日常が、家の中で続いているように見える。


 でも凪には、何かが違うとわかる。


 うまく言葉にできない。


 奈々未はそこにいる。いるのに、奈々未の輪郭が、少し薄くなっている。以前の奈々未は、くっきりしていた。声に力があった。歩き方に弾みがあった。コーヒーを淹れるとき、砂糖の瓶を少し高い位置から傾けた。小さな動作の一つ一つに、奈々未がいた。


 今も奈々未はいる。でも動作の一つ一つから、何かが抜けている。声は出ている。でも少し小さい。歩いている。でも少し遅い。コーヒーを淹れている——凪が「俺がやる」と言っても、奈々未は自分でやりたがる——でも砂糖の瓶を傾ける手が、少し低い位置にある。


 全部が「少し」。少しずつ違う。劇的に変わったわけではない。崩壊したわけではない。ただ、少しずつ、薄くなっている。


 笑うことはある。凪が何か言えば、奈々未は笑う。口角が上がる。でも上がり方が浅い。以前は口角が上がって、すぐ戻った。今は上がること自体が浅い。上がる前に一拍ある。笑おうとして、笑う。以前は笑いが先に来ていた。体が先に笑って、心がそれについていった。今は心が先に「笑おう」と決めて、体がそれに従っている。順番が逆。


 目の奥の光が、少し遠くなっている。


 以前の奈々未の目には、光があった。強い光ではない。静かな光。本を読んでいるときの集中した光。凪と話しているときの柔らかい光。コーヒーを飲んでいるときの、ぼんやりとした光。全部違う種類の光が、奈々未の目の奥にあった。


 今も光はある。消えてはいない。でも遠い。目の表面から、奥のほうに引っ込んでいる。手を伸ばしても届かない場所に、光が退いている。


 凪はそれを見ている。毎日見ている。奈々未の隣にいて、奈々未の顔を見て、目の奥の光の距離を測っている。昨日より遠いか。近いか。同じか。


 遠くなる日と、少しだけ近くなる日がある。近くなる日は、凪と長く話した日。遠くなる日は、奈々未が一人で黙っている時間が長い日。


 凪は話しかける。意識して。話題を作る。今日の天気のこと。テレビで見たニュース——ニュースは選ぶ。高原製薬や事件の話題は避ける。料理のこと。読んでいる本のこと。


 奈々未は答える。返事をする。会話が成立する。でもその会話の中で、奈々未が自分から話題を出すことが、以前より少ない。凪が振って、奈々未が返す。凪が振らなければ、沈黙が来る。沈黙が長いと、奈々未の目の光がまた少し遠くなる。


 ある日の午後、凪がリビングで本を読んでいると、奈々未がソファの端に座って、何もしていないことに気づく。テレビもつけていない。本も開いていない。スマートフォンも持っていない。ただ座っている。窓のほうを見ている。


「何か飲む?」と凪は聞く。


「ううん」と奈々未は言う。首を小さく振る。


「外、歩こうか」


「今日はいい」


 凪は本に目を戻す。でも文字が追えない。奈々未が視界の端にいる。何もしていない奈々未。ただ座っている奈々未。


 何をしてやれるのか。何をすれば、奈々未の目の光が手前に戻ってくるのか。凪にはわからない。わからないまま、隣にいる。隣にいることしかできない。


 病院の夜に、奈々未は「何も言わないでくれて、ありがとう」と言った。何も言わないことが正解だった。でもそれは病院の夜の話。退院してから一週間が経つ。一週間ずっと「何も言わない」では、それは沈黙になる。沈黙が長すぎると、奈々未が一人になる。一人にさせないためにここにいるのに、黙っていたら一人にさせることと同じになる。


 でも何を言えばいいのか。


 この一週間、凪はずっとそれを考えている。何を言えばいいのか。答えが出ない。出ないまま日が過ぎている。


 一週間後、奈々未がNPOに連絡する。


 電話をかける。台所のテーブルで。凪はリビングにいて、声が聞こえている。


「ご迷惑をおかけしています」「しばらくお休みをいただきたいのですが」「はい」「はい」「ありがとうございます」


 声は普通。電話の声。仕事の声。相手がいるときの、少しだけ姿勢のいい声。


 電話を切ると、奈々未がリビングに来る。


「みんな優しくて」と奈々未は言う。


 凪はその言葉を聞いて、久保のことを思う。同じ職場という場所でも、こんなに違う。奈々未の職場は「ゆっくり休んでください」と言ってくれる。凪の職場は「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」と言う。


「よかった」と凪は言う。


 その日の夜、凪は決める。明日から仕事に戻る。


 一週間休んだ。これ以上休むと、久保がどう出るかわからない。休む理由を聞かれるかもしれない。家庭の事情と言ったが、具体的に何かと聞かれたら答えなければならない。答えたくない。流産のことを久保に話したくない。あの男の前で、その言葉を口にしたくない。


 でも戻れば、また息を詰めなければならない。朝から夕方まで。防壁を張って。久保の目を意識して。書類を出して、差し戻されて、修正して。


 それでも戻る。給料が必要。生活が必要。奈々未との家が必要。


 奈々未に話す。「明日から仕事に戻る」


 奈々未は少し考えてから「うん」と言う。


「一人で大丈夫か」


 その質問が凪の口から出るとき、胸が少し痛む。一人で大丈夫か。一人にしていいのか。奈々未のこの状態で。目の奥の光が遠くなっているこの状態で。一人にしたら、もっと遠くなるのではないか。


「大丈夫」と奈々未は言う。


 大丈夫。凪はもうその言葉を信じない。信じないが、受け取る。受け取って、明日出社する。それしかできない。


「行ってきなさい」と奈々未は言う。「仕事をしている方があなたらしい」


 前にも同じことを言われた。両親が亡くなった後、職場に復帰するとき。あのときも奈々未は「行ってきなさい」と言った。同じ言葉。同じトーン。凪を送り出す声。


 でも今回は、送り出す側の奈々未のほうが、送り出される凪よりも心配な状態にいる。


 翌朝、凪はスーツを着る。ネクタイを締める。鞄を持つ。


 台所に行くと、コーヒーがある。砂糖入り。奈々未が作っている。いつもの位置に、いつものカップが置いてある。


 奈々未は台所に立っている。パジャマの上にカーディガン。凪が起きる前に起きて、コーヒーを作った。この一週間、凪が「俺がやる」と言い続けたのに、今朝は奈々未が作っている。


 凪を送り出すために。朝のルーティンを復元するために。コーヒーを作ることが、「行ってきなさい」の一部だから。


 凪はコーヒーを飲む。甘い。砂糖一つ。いつもの味。


「行ってきます」と凪は言う。


「行ってらっしゃい」と奈々未は言う。


 ドアを開ける。廊下に出る。ドアが閉まる。


 チェーンの音がしない。


 凪は立ち止まる。以前はインターホンが壊されたときから、チェーンの音を確認していた。カチャリという音を聞くまで動けなかった。でも今日は音がしない。奈々未がチェーンをかけていない。


 凪は少し迷う。戻ってチェーンをかけるよう言うべきか。でも今の奈々未に、それを言えるか。チェーンをかけろと言うことは、外に危険があることを思い出させること。


 数秒迷って、戻らずに歩き出す。


 エレベーターに乗る。降りる。外に出る。十二月の朝の空気。冷たい。


 駅に向かって歩く。いつもの道。いつもの信号。いつものコンビニ。全部いつも通り。


 でも一つだけ違うことがある。歩きながら、頭の中にあるのは職場のことではない。久保のことでもない。書類のことでもない。


 奈々未のこと。


 今、一人であの部屋にいる。コーヒーを淹れて、凪を送り出して、ドアが閉まった後の部屋に一人でいる。何をしているか。テレビをつけているか。本を読んでいるか。それとも何もせずに座っているか。


 お腹に手を当てていないか。動きを待っていないか。来ない動きを。


 電車に乗る。つり革を握る。窓の外を見る。


 昼になったら奈々未にメッセージを送ろうと思う。短いメッセージ。「昼食べた?」くらいの。内容のないメッセージ。内容がないことが大事。母との間でやっていたのと同じ。無事の確認。ここにいるよ、という確認。


 既読がつけば、安心できる。つかなかったら。


 つかなかったら。


 その先を、凪は考えないようにする。考えたくない。でも考えてしまう。母のときと同じ構造が、頭の中に浮かぶ。メッセージを送って、既読がつかない。電話しても出ない。実家に向かう。ドアを開ける。


 やめろ。


 凪は頭を振る。電車の中で。隣に立っている人が少し凪を見る。凪は窓の外に目を戻す。


 考えすぎている。奈々未は家にいる。家にいて、コーヒーを飲んでいる。大丈夫。大丈夫だと思わなければ、仕事にならない。


 会社に着く。席に座る。パソコンを開く。仕事を始める。


 昼になる。携帯を取り出す。メッセージを打つ。


「昼食べた?」


 送信する。


 十秒。三十秒。一分。


 既読がつく。


 返信が来る。


「食べたよ。卵焼き作った」


 凪は携帯の画面を見る。「食べたよ」。「卵焼き作った」。二つの文。短い文。


 卵焼き。奈々未の弁当に入っていた卵焼き。高校時代の。白い飯と、卵焼きと、ウインナー二本。奈々未が自分で作っていた弁当。


 奈々未が今日、一人で卵焼きを作って、一人で食べた。


 凪はそれだけで、少し安堵する。食べている。作っている。手を動かしている。


 大丈夫。今日は大丈夫。


 夕方、仕事を終えて帰る。ドアを開ける。


「おかえり」


 奈々未の声がする。台所から。


 その声を聞いて、凪の体から力が抜ける。いつもの解除コード。いつもの二文字。


 大丈夫。今日は大丈夫。


 リビングに入ると、テーブルに夕食が並んでいる。味噌汁。焼き魚。小鉢。品数が多い。奈々未が作った。一人で。凪がいない間に。


 紙袋はまだリビングの隅にある。ベビー服とおむつ。そのままにしておいて、と奈々未が言った紙袋。


 凪はその紙袋を見ない。見ないで、テーブルに座る。味噌汁を一口飲む。温かい。出汁の味。奈々未の味噌汁。


 味がする。


 今日は大丈夫。


 でも明日も大丈夫かは、わからない。明後日も。来週も。


 わからないまま、日が続いていく。

明日も20時に投稿します。

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