序章025
異変に気づいたのは、凪のほう。
土曜日、朝。凪が目を覚ますと、奈々未がいつもより早く起きている。隣のベッドが空。布団がめくれている。奈々未が出た跡。
台所にいるのかと思って起き上がる。台所を見る。いない。コーヒーの匂いがしない。いつもならこの時間、凪が起きる前に砂糖入りのコーヒーが用意されている。カップがテーブルの上に置かれている。湯気が立っている。それが凪の朝の最初の景色。
今日はない。カップも出ていない。やかんも沸いていない。コーヒーの粉の袋も、砂糖の瓶も、昨夜のまま棚にしまわれている。
リビングにもいない。
台所の奥、ダイニングテーブルの前に座っている。椅子に。手をテーブルの上に置いている。両手を。開いた手のひらを、テーブルの天板に伏せている。何かを押さえているような姿勢。あるいは、何かに耐えている姿勢。
「どうした」と凪は言う。
「なんでもない」と奈々未は言う。
でも顔色が、いつもより白い。血の気が引いている。唇の色が薄い。蛍光灯の光の下で、肌が蝋のように見える。いつもの奈々未の肌色ではない。
「顔色が悪いよ」
「大丈夫」
大丈夫。凪はその言葉を、もう額面通りには受け取れない。「大丈夫」は大丈夫でないときに出る言葉だと、この一年で覚えた。母が「大丈夫よ」と言いながら玄関のドアを一人で擦っていた。奈々未が「大丈夫」と言いながら一日中カーテンの閉まった部屋にいた。大丈夫と言う人間は、大丈夫ではない。
凪はしばらく奈々未を見る。奈々未は視線を逸らす。テーブルの上に目を落としている。左手の薬指を、右手の親指でなぞっていない。いつもの癖が出ていない。手がテーブルの上で止まっている。動かない。
癖が出ていないことが、凪には逆に不安を増す。あの癖は考えごとのときに出る。不安なときに出る。出ているときは、少なくとも考えている。考える余裕がある。出ていないときは、考える余裕すらないか、考えることを止めているか。
「痛いか」と凪は聞く。
奈々未は少し間を置く。テーブルの上の手が、わずかに動く。指先が白くなっている。力が入っている。テーブルを押さえている。
「少し」
「どこが」
「お腹」
凪の中で、何かが切り替わる。考える前に体が動く。
産院の番号を携帯で呼び出す。発信ボタンを押す。コール音。一回。二回。出る。受付の声。
「妻が正産期で、お腹の痛みを訴えています。朝から顔色が悪い」
症状を説明する。声が落ち着いている。落ち着いているのは、パニックの反対側にいるから。パニックを通り越して、冷静な場所に着地している。この一年で身についた反射。緊急時に感情を切り離して、手順だけを実行する能力。嫌がらせの電話を受けていたとき、遺族が来たとき、母の家のドアの前に立ったとき。何度もやった。感情を横に置いて、やるべきことをやる。
「すぐに来てください」と受付が言う。
タクシーを呼ぶ。奈々未のバッグを持つ。入院の準備は奈々未が几帳面に済ませてあった。メモ帳にリストアップして、全部揃えて、鞄に入れてあった。その鞄を持つ。奈々未のコートを持つ。自分のコートは忘れる。
奈々未の手を取って、玄関に向かう。奈々未は歩ける。でも歩き方がいつもと違う。ゆっくりで、一歩ずつ床を確かめている。お腹を庇っている。左手がお腹の下を支えている。右手が凪の腕を握っている。いつもより強く。
エレベーターの中で、奈々未が「ごめんね」と言う。
「何が」と凪は言う。
「心配かけて」
「謝らなくていい」
タクシーが来る。乗り込む。後部座席。凪が産院の名前を告げる。運転手が頷いて、車を出す。
車が動き出す。窓の外に、十一月の朝の街が流れていく。土曜日の朝。通りは空いている。
凪は奈々未の手を握っている。冷たい。十一月の朝の冷たさだけではない。もっと深い冷たさ。体の芯から冷えている。指先だけでなく、掌全体が冷たい。
奈々未は前を向いている。窓の外を見ているのか、何も見ていないのか。顔が横を向いていて、凪からは表情が見えない。
少し経って、奈々未がまた「ごめんね」と言う。
「何が」と凪はまた言う。
「いろいろ」
いろいろ。凪にはその中身が見える。見えてしまう。心配をかけていること。土曜日の朝を壊していること。タクシーを呼ばせたこと。もっと前のこと。この一年間のこと。
でも奈々未が謝ることは一つもない。一つもないのに、奈々未は謝っている。
産院が見えてくる。白い建物。駐車場にタクシーが入る。凪が先に降りて、奈々未の側のドアを開ける。手を差し出す。奈々未がその手を取って、ゆっくりと車を降りる。
産院に着く。
受付で名前を告げると、すぐに処置室に通される。看護師が来て、奈々未を連れていく。凪は「一緒に」と言いかけて、看護師に「待合室でお待ちください」と言われる。
奈々未が凪を振り返る。目が合う。奈々未の目が何かを言っている。言葉にはなっていない。でも目が言っている。大丈夫、と。大丈夫だから、と。
大丈夫ではないのに、大丈夫だと目で言っている。凪のために。凪を心配させないために。自分が処置室に入っていくのに、凪のほうを心配している。
奈々未の背中が、処置室のドアの向こうに消える。ドアが閉まる。
待合室。
小さな部屋。椅子が六つ並んでいる。窓がある。カーテンが開いていて、外の光が入っている。十一月の朝の白い光。
凪は椅子に座る。座った瞬間、立ち上がりたくなる。でも立ち上がって、どこへ行くわけでもない。処置室には入れない。廊下を歩いても仕方がない。また座る。
手を組む。膝の上で。指が冷たい。コートを忘れてきた。シャツにカーディガンだけで来ている。待合室は暖房が効いているが、凪の手は冷たいまま。
壁に、赤ちゃんの写真が貼ってある。
産院の壁らしい、明るい写真。生まれたばかりの赤ちゃんの写真が、何枚も並んでいる。名前と生年月日が書いてある。重さが書いてある。三千百グラム。二千八百グラム。三千四百グラム。数字が並んでいる。全部の数字が、一つの命の重さを表している。
凪はその写真を見る。見ながら、今朝の奈々未を思い返す。テーブルの前に座っていた奈々未。手をテーブルに伏せていた奈々未。「少し」と言った奈々未。「ごめんね」と二度言った奈々未。
何かをすべきだったのか。もっと早く気づくべきだったのか。昨夜、奈々未の様子はいつもと変わらなかった。一緒にソファに座って、少し話して、眠った。普通の夜だった。普通の夜の翌朝に、コーヒーがない。
二時間ほどして、看護師が来る。
「旦那様ですか」
「はい」
「今、先生が診ています。もう少しお待ちください」
「状態は」と凪は聞く。
「先生からご説明があります」
それだけ。看護師は戻っていく。凪はまた椅子に座る。
さっきまで隣に座っていた若い女性とその連れが、呼ばれて中に入っていった。待合室に一人になる。静か。赤ちゃんの写真が壁にある。凪はその写真から目を逸らす。窓の外を見る。空が見えている。雲がゆっくり動いている。
さらに一時間ほどして、医師が来る。
四十代の女性。穏やかな顔をしている。でも表情に緊張がある。
「少し、お話しできますか」
別室に通される。凪は椅子に座るよう促されるが、立ったまま聞く。
医師が話す。凪は聞く。言葉の意味はわかる。一語一語は理解できる。でも全体として、一つの像を結ばない。断片的に入ってきて、断片的に処理される。
医師が話し終えた後、凪はしばらく何も言えない。
何と言えばいい。何を聞けばいい。質問があるか、と医師が聞いている。質問。質問は山ほどある。なぜ。いつから。防げたのか。何が原因で。でもどれも口にならない。口にしたところで、結果は変わらない。
「奈々未の体は」とだけ聞く。
「奥様は大丈夫です」と医師は言う。「体への影響は、時間をかけて回復します」
体は大丈夫。体は回復する。体は。
「会えますか」と凪は言う。
「少しなら」
奈々未は小さな個室のベッドにいる。
目を開けている。窓の方を向いている。カーテンが半分開いていて、外の光が入っている。白い光。午後の光。朝に家を出てから数時間が経っている。
凪がドアを開けて入る。足音を立てないように。でもドアの蝶番がかすかに鳴る。奈々未が振り向く。
凪を見る。
目が赤い。泣いていた。凪が待合室にいた数時間の間、この部屋で一人で泣いていた。泣き終わった後の顔をしている。目の周りが腫れている。鼻の頭が赤い。でも今は泣いていない。泣き止んでいる。凪が来るのを知っていたから、泣き止んで、顔を整えて、待っていた。
穏やかに見せようとしている。凪のために。凪が入ってきたときに、泣いている顔を見せたくなかったから。凪をこれ以上心配させたくなかったから。自分が一番辛いのに、凪の心配をしている。
凪はベッドの横の椅子に座る。パイプ椅子。座面が硬い。ギシリと音がする。
奈々未の手を取る。さっきより少し温かくなっている。タクシーの中では凍えるように冷たかった。今は少しだけ温度が戻っている。でも普段の温かさではない。妊娠してから上がっていた体温が、少し下がっている気がする。
二人しばらく、何も言わない。
部屋の中に消毒液の匂いがする。病院の匂い。奈々未の部屋の匂いとは違う。台所の出汁の匂いとも、コーヒーの匂いとも違う。ここは家ではない。
窓の外に木が一本見えている。葉が少し残っている。黄色い葉。十一月の終わり。
凪は何を言えばいいかわからない。
励ますべきなのか。慰めるべきなのか。「大丈夫だ」と言うべきなのか。でもその言葉はもう擦り切れている。何度も使った。何度も使って、何度も嘘になった。今ここで「大丈夫だ」と言ったら、それは何に対しての大丈夫なのか。奈々未の体は大丈夫だと医師が言った。でも奈々未の体のことを言いたいのではない。
何を言えばいい。
「辛いよな」と言えばいいのか。辛いに決まっている。わかりきったことを言うのは、空虚だ。「一緒にいるから」と言えばいいのか。一緒にいる。いるが、一緒にいることで何が変わるのか。凪がここにいても、失われたものは戻らない。
凪は言葉を探している。探しながら、見つからない。言葉が全部、足りない。どの言葉を選んでも、この状況に対して足りない。言葉というものの限界が、今この瞬間、凪の前に壁のように立っている。
奈々未が先に口を開く。
「産んであげられなくて」
声は静か。感情的ではない。ただ、その言葉だけが部屋の中に置かれる。そっと。割れ物を置くように。
凪は何も言えない。
「ごめんね」と奈々未は続ける。
三度目。今日の三度目。一度目はエレベーターの中。二度目はタクシーの中。三度目がここ。
「謝らなくていい」と凪は言おうとする。いつもと同じ言葉を。
でも止まる。
この場面で同じ言葉を繰り返すことが、凪にはできない。「謝らなくていい」。何度言った。何度その言葉で奈々未の謝罪を受け止めた。報道陣のとき。電話のとき。封筒のとき。毎回「謝らなくていい」で受け止めた。でも今回は違う。今回の「ごめんね」は、それまでの「ごめんね」とは別のもの。もっと深い場所から出てきている。
代わりに、奈々未の手を握る。少し強く。奈々未の指が凪の指の間に入る。
凪は奈々未の顔を見ている。奈々未は窓の方を見ている。凪のほうを見ていない。見られたくないのかもしれない。泣いた跡を見られたくないのか。それとも、凪の顔を見たら、また泣いてしまうから見ないのか。
わからない。凪には奈々未の中で何が起きているかが、見えない。
いつもは見えた。奈々未の感情は、凪にはだいたい見えていた。嬉しいとき。怖いとき。怒っているとき。悲しいとき。全部、見えていた。奈々未の目を見れば、声を聞けば、手の温度を感じれば、わかった。
今日は見えない。見えないのは、奈々未が隠しているからではない。奈々未の中にあるものが、凪の理解の範囲を超えているから。凪はこの種類の喪失を知らない。父と母を失った。それは知っている。でも自分の体の中にいた命を失うことは、凪には体験できない。奈々未の体の中で起きたことは、凪の体の中では起きていない。
同じ部屋にいる。同じ椅子に座っている。同じ手を握っている。でも奈々未が感じていることに、凪は届かない。届かないことが、凪には一番辛い。
奈々未はしばらく窓の外を見ている。黄色い葉の木を見ている。
「名前、考えてたんだ」と奈々未が言う。
「うん」と凪は頷く。
「迷った人が帰ってこられる場所になれるようにって」
「うん」
二人で考えた名前。夜、テーブルに並んで座って、いくつも書いて、消して、また書いた。男の子だったら。女の子だったら。どっちでもいいように。迷った人が帰ってこられる場所のような人に。
奈々未はしばらく黙る。窓の外の黄色い葉が、風に少し揺れている。
「名前を呼んであげられなかった」
その言葉が、凪には一番重い。
「産んであげられなくて」より重い。名前を呼ぶことは、そこにいることを確かめること。存在を認めること。名前を呼べば、呼ばれた側は「ここにいるよ」と答える。答えてもらうために呼ぶ。
名前はあった。用意していた。呼ぶ準備はできていた。でも呼べなかった。一度も。
奈々未の目から、涙が一筋落ちる。さっきまで泣き止んでいた。凪が入ってきたから泣き止んでいた。でもこらえきれなくなっている。涙が頬を伝って、顎の先から落ちる。布団の上に落ちる。小さな染み。
凪は奈々未の手を握ったまま、何も言えない。言える言葉がない。「大丈夫だ」は嘘になる。「また次がある」は残酷になる。「辛いよな」は空虚になる。どの言葉も足りない。足りないどころか、間違っている。この場面に正しい言葉はない。
だから凪は何も言わない。何も言わずに、手を握っている。それが正しいかどうかわからない。正しくないかもしれない。何か言うべきなのかもしれない。でも言葉が出ない。出ないのは、凪が冷たいからではない。出ないのは、凪が持っている言葉の中に、この場面に耐えられるものがないから。
奈々未は泣いている。声を出さずに。肩が小さく震えている。顔は窓のほうを向いたまま。凪に見せないように。でも手は凪の手を握っている。離していない。
凪の中に、奇妙な感覚がある。
戸惑い。それが一番近い言葉。戸惑っている。何をすればいいかわからない。
この一年で、凪は多くのことに耐えてきた。報道陣に囲まれることに耐えた。遺族の怒りを受け取った。匿名の電話に出続けた。生ゴミを処理した。ドアの落書きを消した。両親の死を受け止めた。久保の言葉を飲み込んだ。全部、凪が耐えた。凪が受け取った。凪が処理した。
でも今は違う。今は凪が耐える場面ではない。奈々未が耐えている場面。奈々未の体の中で起きたことに、奈々未が耐えている。凪はその横にいる。横にいるだけ。耐えることを代わってやれない。処理を代わってやれない。手を握ることしかできない。
手を握ることが、何かの助けになっているのか。なっているのかどうか、凪にはわからない。わからないまま握っている。
奈々未の肩の震えが、少しずつ収まっていく。涙が止まる。呼吸が少しずつ整っていく。深い呼吸になる。泣き疲れたのか。落ち着いたのか。
しばらくして奈々未が顔を凪のほうに向ける。目が赤い。腫れている。でもその中に、さっきとは少し違うものがある。泣いた後の、少しだけ軽くなった目。全部は出ていない。でも少しだけ出た。
「凪くん」と奈々未が言う。
「うん」
「何も言わないでくれて、ありがとう」
凪は少し驚く。何も言わないことを、奈々未は感謝している。何も言えなかったことを、凪は後ろめたく思っていた。言葉が出なかったことを、自分の無力だと思っていた。でも奈々未にとっては、何も言わないでくれたことが、正解だった。
「今は何も言わないでほしかった」と奈々未は続ける。「何か言われたら、それに答えなきゃいけなくなるから。答える力がないの、今」
答える力がない。言葉を受け取って、処理して、返す力がない。だから何も言わないでほしかった。ただそこにいて、手を握っていてほしかった。
凪が何も言えなかったことは、結果として正しかった。言葉が出なかったことが、この場面では正解だった。
正解だったとしても、凪の中の戸惑いは消えない。正解を偶然引いただけで、凪がわかっていたわけではない。わからないまま、たまたま正しいほうに倒れた。
でも奈々未が「ありがとう」と言っている。だから今は、これでいい。
窓の外の木の葉が、一枚落ちる。風に巻かれて、ゆっくり落ちていく。
夕方、奈々未が「帰りたい」と言う。
医師に確認する。体の状態を見て、翌日退院できると言われる。今日はもう一晩、経過を観察したいと。
「明日には帰れるよ」と凪は言う。
奈々未は頷く。小さく。でもその小さな頷きの中に、少しだけ安堵が見える。帰りたい。家に帰りたい。この消毒液の匂いがする部屋ではなく、コーヒーの匂いがする台所に。
その夜、凪は病院に泊まる。
簡易ベッドを借りて、奈々未の個室に入れてもらう。奈々未のベッドの横に、低いベッドを置く。距離は一メートルもない。手を伸ばせば届く。
消灯後、部屋が暗くなる。廊下の灯りがドアの下の隙間から薄く入ってくる。白い光の線。
奈々未は目を閉じている。眠っているように見える。呼吸が規則的。凪は天井を見ている。病院の天井。白い。均一に白い。染みもない。自宅の天井とは違う。
凪は暗がりの中で、奈々未のことを考えている。
奈々未の体の中にいた命が、消えた。昨日まではそこにあった。お腹の中で動いていた。凪の手の下で押し返してきた。「元気だね」と奈々未が言って、「元気だな」と凪が答えた。あの動き。あの温かさ。あの、確かにそこにいるという感触。
それが消えた。
奈々未のお腹はまだ大きい。すぐには戻らない。形だけが残っている。形は残っているのに、中にいた命はいない。その不一致が、奈々未の体の中で今どう感じられているのか。凪には想像することしかできない。想像しても届かない。
奈々未は今日、三回「ごめんね」と言った。三回とも、凪は受け止めきれなかった。一度目は「謝らなくていい」と返した。二度目は何も言えなかった。三度目も何も言えなかった。
奈々未は「産んであげられなくて」と言った。「名前を呼んであげられなかった」と言った。
二つの言葉が、凪の頭の中で並んでいる。
産んであげられなくて。それは奈々未の体に向けられた言葉。自分の体が産めなかったことへの謝罪。でも奈々未の体が悪いわけではない。医師はそう言った。原因は特定できないことが多いと。誰のせいでもないと。
誰のせいでもない。でも奈々未は自分を責めている。自分の体を責めている。体が応えてくれなかったことを、自分の落ち度だと思っている。
凪はそれを否定したい。「お前のせいじゃない」と言いたい。でも言ったところで、奈々未の中にある感覚は変わらない。体の中に命がいて、その命が消えた。その事実は、体を通じて奈々未に刻まれている。言葉で上書きできるものではない。
名前を呼んであげられなかった。それは奈々未の心に向けられた言葉。名前を用意して、呼ぶ日を待って、待っていたのに呼べなかった。
奈々未は施設で育った。名前を呼んでもらうことの意味を、誰よりも知っている人間。施設にいた頃、奈々未の名前を呼んでくれる家族はいなかった。「奈々未」と呼んでくれる父も母もいなかった。だから奈々未は、自分の子供の名前を呼ぶことに、特別な意味を見ていたはず。自分がもらえなかったものを、自分の子供にあげたかったはず。
そのことを、凪はわかっている。わかっているのに、何もできない。わかることと、何かできることは、別。
しばらくして、奈々未の声がする。
「凪くん」
「起きてるよ」と凪は言う。
眠っていなかった。目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
少し間がある。暗い部屋の中で、二人の呼吸が聞こえている。
「一緒にいてくれてありがとう」と奈々未は言う。
凪は何も言えない。ありがとうと言われることに対して、何を返せばいいかわからない。ここにいることは当たり前のこと。ここにいないという選択肢は、凪の中にない。
「何もしてないよ」と凪は言う。何も気の利いたことを言っていない。何も慰める言葉を見つけられていない。何もできていない。
「いてくれるから」と奈々未は言う。
いてくれるから。
凪が何か特別なことをしたわけではない。何か正しい言葉を言ったわけでもない。ただここにいる。病院の個室の中で、簡易ベッドの上で、奈々未の横にいる。それだけ。
でも奈々未にとっては、それが全部。
施設で育った奈々未。一人だった奈々未。病気になっても怪我をしても、一人でベッドにいた奈々未。誰かがそばにいてくれるという経験が少ない。少ないから、凪がここにいることの意味が、凪が思っているより大きい。
「ずっとそこにいてくれるって、わかってた」と奈々未は続ける。「だから怖くなかった」
「怖くなかったのか」と凪は言う。
「うそ。怖かった」と奈々未は言う。声が少し震える。暗がりの中で。「怖かった。すごく怖かった」
すごく怖かった。その言葉に、さっき押さえていたものが少しだけ滲んでいる。昼間は「怖かった」と過去形で言えていた。今は「すごく怖かった」と言いながら、声が震えている。過去形なのに、まだ現在の感情が乗っている。
「処置室に入ったとき」と奈々未は続ける。声が小さい。暗い部屋だから、小さい声でも聞こえる。「お腹に手を当てられて。先生の顔を見たときに、わかった」
凪は黙って聞いている。
「先生の顔がね、一瞬変わったの。ほんの一瞬。でもわかった。わかりたくなかったけど、わかった」
奈々未はそこで少し黙る。呼吸を整えている。
「それからずっと、頭の中が真っ白で」
凪は手を伸ばす。簡易ベッドから、奈々未のベッドへ。暗がりの中で。指先が奈々未の手に触れる。奈々未の手が、凪の手を握る。
「泣きたかったのに、泣けなくて」と奈々未は言う。「看護師さんがいたから。知らない人の前で泣きたくなくて。凪くんがいたら泣けたのに、凪くんは外にいて」
待合室にいた。凪は待合室にいた。奈々未が一番辛かったとき、凪は壁の赤ちゃんの写真を見ながら椅子に座っていた。奈々未は一人で処置室にいた。
凪の中で、胸が締まる。待合室にいたことが悔やまれる。一緒にいるべきだった。看護師に「待合室で」と言われて、従った。従うべきではなかったのか。でも従うしかなかった。病院のルール。患者の安全。理由はある。理由はあるが、奈々未は一人で泣けなかった。
「ごめん」と凪は言う。
「謝らないで」と奈々未は言う。「あなたのせいじゃない」
あなたのせいじゃない。いつも奈々未が凪に言う言葉。今度は凪が奈々未に謝って、奈々未が凪に返している。逆転している。
「でも一人じゃなかったから」と奈々未は言う。
一人じゃなかった。
「待合室にいてくれたでしょ。壁の向こう側に、凪くんがいるって知ってた。知ってたから、大丈夫だった」
壁の向こう側にいた。処置室の壁の向こう側の、待合室にいた。同じ建物の中にいた。それだけ。でも奈々未にとっては、それだけで違う。
凪は何も言えない。何も言えないことが、今夜は続いている。でも奈々未が「何も言わないでくれて、ありがとう」と言った。だからいい。いいのか。いいのだろう。
「俺も」と凪はようやく言う。「一人じゃなかった」
奈々未は何も言わない。
暗い部屋の中で、二人の呼吸が聞こえている。凪の呼吸と奈々未の呼吸が、少しずつリズムが合っていく。合わせようとしているのではない。自然にそうなる。
しばらく、手を握ったまま黙っている。
凪は考えている。
呼んであげられなかった、と奈々未は言った。名前があった。二人で考えた名前があった。呼ばれることなく、その名前はどこかへ消えた。
でも凪は、その名前を忘れないと思う。
どこかでまた、使えるかもしれない。そう思うことが正しいかどうかわからない。今このタイミングで思うことが、不謹慎かどうかわからない。でも凪には、それしか思えない。
その「いつか」に、凪は少しだけ賭けている。
しばらくして、奈々未の呼吸が変わる。少し深くなる。眠りに入っている。
凪は手を握ったまま、目を閉じる。
奈々未の手が温かい。その温かさだけが、自宅と同じ温度。
ゆっくりと、意識が遠くなっていく。
夜が明けていく。
窓の外が少しずつ明るくなる。ドアの下の白い線が、窓から入る光に溶けていく。
目を覚ましたとき、まだ手が繋がっている。奈々未が先に起きている。でも手は離していない。
凪が目を開けると、奈々未が凪を見ている。
泣いてはいない。目は腫れている。夜の間に泣いたのだろう。凪が眠ってから。凪に聞こえないように、声を出さずに泣いたのだろう。枕が少し湿っている。暗がりの中で一人で泣いた跡。
凪はそれに気づく。気づいて、何も言わない。
「おはよう」と奈々未が言う。
「おはよう」と凪が言う。
朝の挨拶。毎朝交わしている挨拶。病院の個室でも、同じ挨拶。
「今日帰れるかな」と奈々未が言う。
「帰れるよ」と凪は言う。
「帰ったら」と奈々未が少し間を置く。「コーヒー、淹れるね」
コーヒー。砂糖を一つ入れた、奈々未のコーヒー。それを淹れると言っている。帰ったら。家に帰って。あの台所で。あのカップで。
日常に戻ろうとしている。奈々未は、日常に戻ろうとしている。
昨日の朝、コーヒーがなかった。あの不在が、異変の最初のサインだった。コーヒーを淹れると奈々未は言っている。もう一度、あの日常を始めようとしている。コーヒーを淹れるところから。
戻れるかどうかわからない。でも戻ろうとしている。
凪は奈々未の手を握ったまま「ありがとう」と言う。
奈々未は少し笑う。口角が上がって。でも今日は、上がった口角が一瞬止まる。笑おうとして、笑いきれなくて、途中で止まる。止まってから、戻る。
以前の笑い方は、口角が上がって、すぐ戻る。今日は、上がって、止まって、戻る。途中に一拍が入っている。笑いの中に、笑えないものが混じっている。
凪はその一瞬の停止を見る。見て、何も言わない。
この笑い方が元に戻るのか。戻るとしたら、いつか。わからない。わからないが、凪は待つ。待つことしかできない。でも待つことならできる。
朝の光が少しだけ強くなる。窓の外の木の葉が、朝風に揺れている。昨日より一枚少ない。昨日落ちた一枚の分だけ、少ない。
でも木はまだ立っている。葉が減っても、枝が残っている。枝があれば、春にまた芽が出る。
凪はそんなことを考えている。考えていることが、今の凪にできる精一杯のこと。
明日も20時に投稿します。




