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序章024

書き直しました。20260329

 十一月の半ばから十一月の終わりにかけて、凪の日常は二つに分かれている。


 職場と、家。


 職場では、凪は息を詰めている。久保の目を意識しながら書類を作り、給湯室に誰かいれば会話が止まることを知りながらお茶を入れ、岡田以外とはほとんど話さずに仕事をする。朝から夕方まで、体のどこかに力が入っている。肩が上がっている。顎を噛み締めている。まばたきの回数が減っている気がする。一ミリの防壁を、十時間維持し続ける。


 家に帰ると、奈々未がいる。

 それだけで、息ができる。


 ドアを開ける。靴を脱ぐ。廊下を歩く。リビングに入る。その一連の動作の中で、体の力が段階的に抜けていく。ドアを開けた時点で二割。靴を脱いだ時点で四割。廊下を歩いている間に六割。リビングに入って奈々未の姿を見た時点で、八割。


 残りの二割は、奈々未の「おかえり」を聞いたときに抜ける。


「おかえり」


 その言葉が、凪にとっては解除コードになっている。防壁の解除コード。奈々未の声で、奈々未のトーンで、その言葉が発せられると、凪の中の防壁が全部下がる。一ミリがゼロになる。ゼロになった瞬間に、息が深くなる。肺の奥まで空気が入る。職場では浅い呼吸しかしていなかったことに、帰ってきてから気づく。


 毎日そうだった。毎日、同じ。朝出て、息を詰めて、夕方帰ってきて、息を吐く。


 職場にいる十時間と、家にいる十四時間。同じ一日の中に、二つの世界がある。片方では凪は「高原製薬の社長の息子」で、片方では凪は「凪くん」。片方では値踏みされ、片方では手を握ってもらえる。


 その落差が大きいほど、家に帰ったときの安堵が深い。安堵が深いほど、翌朝家を出るのが辛い。辛いが、出る。出なければ給料が止まる。給料が止まれば、この家が維持できない。奈々未との生活が維持できない。だから出る。出て、息を詰めて、帰ってくる。


 その繰り返しを、凪はこなしている。


 奈々未との間にある習慣が、この頃の凪を支えている。


 朝、凪が起きると砂糖入りのコーヒーがある。奈々未はカフェインを控えているから、自分の分は作らない。凪の分だけ作る。砂糖を一つ入れて。


 以前「自分で作る」と凪が言ったことがある。奈々未は「作りたいから作ってる」と答えた。それ以来、凪は何も言わない。毎朝、砂糖入りのコーヒーを飲む。奈々未が入れた砂糖の甘さ。その甘さが、朝の凪に最初の温度を与える。


 お腹が大きくなっている。十一月の下旬。予定日まであと数日。奈々未は動きが遅くなっている。台所に立つ時間が少し長くなっている。以前は十分で終わる作業が、十五分かかる。お腹が邪魔をして、かがむ動作が難しい。低い棚から鍋を取り出すのに、少し時間がかかる。


 それでも毎朝コーヒーを作る。凪のために。


 凪はその姿を見ているとき、何かを言いたくなることがある。「無理しなくていい」とか「座ってて」とか。でも言わない。言ったら奈々未は「作りたいから作ってる」と繰り返すだろう。奈々未にとって、凪のコーヒーを作ることは家事ではない。別の何か。凪がここに帰ってくることを確認する行為。朝コーヒーを作る。凪が飲む。飲んで「行ってきます」と言う。奈々未が「行ってらっしゃい」と言う。その一連の流れが、一日の始まりを形作っている。


 夜、眠る前に少し話す。長い話ではない。今日どうだったとか、明日何があるとか。


「明日は健診がある」と奈々未が言う。


「一人で大丈夫か」と凪が聞く。


「大丈夫。タクシーで行く」


「俺が休みを取ろうか」


「いいよ。仕事のほうが大事でしょ」


 仕事のほうが大事。そう言われると、凪は少し胸が痛む。奈々未が凪の仕事を優先している。凪の代わりに、一人で産院へ行く。お腹が大きいのに。一人で。


「次は一緒に行く」と凪は言う。


「うん」と奈々未は言う。


 こういう短い会話が、一日の終わりの形になっている。長い話はしない。深い話もしない。ただ明日のことを確認して、お互いがここにいることを確認して、眠る。


 奈々未が眠ると、凪は少しの間起きていることがある。眠れないわけではない。久保の言葉が頭を巡ることもあるが、奈々未の手を握っていれば、やがて遠くなる。


 眠る前の数分間、凪は暗い部屋の中で、奈々未の寝顔を見ていることがある。見ているというほど大げさではない。暗がりの中で、隣にある温かい気配を感じている。呼吸の音。布団が動く音。たまに寝返りを打つ音。お腹が大きいから、寝返りがぎこちない。


 その全部が、凪にとっては確認作業。ここにいる。まだいる。明日の朝もここにいる。


 確認しないと不安になるのは、いつからだろう。以前は確認する必要がなかった。奈々未がここにいることは当たり前だった。当たり前のことを確認する必要はなかった。


 当たり前ではなくなったから、確認する。


 父と母がいなくなったから。いなくなることがあると知ったから。当たり前だと思っていたものが消えることがあると、身体で覚えたから。


 ある夜、凪が帰ってくると、奈々未の様子がいつもと少し違う。


 台所にいない。ソファにいる。テレビはついていない。本も開いていない。ただ座っている。凪が入ってくると「おかえり」と言う。いつもの声。でも体の向きが違う。いつもは台所から声だけが来る。今日はリビングで、凪の方を向いて座っている。待っていた。


「ただいま」と凪は言う。


 靴を脱ぐ。ソファに行く。奈々未の隣に座ろうとする。


「ご飯の前に、少し話さない?」と奈々未が言う。


 凪は座る。奈々未を見る。奈々未の顔は穏やかだが、目の奥に何かがある。決意、と呼ぶほど大げさではないが、何かを決めてから凪を待っていた顔。


「どうした」


「最近のこと、聞いていい?」


 凪は少し止まる。奈々未が自分から聞いてくることは珍しい。「聞いてほしいときに話してくれると思ってるから」と言っていた奈々未が、今夜は自分から聞こうとしている。


「何を」


「仕事のこと。新しい上司のこと」


 凪は黙る。


 話していない。久保のことは、ほとんど話していない。書類が差し戻されることは話した。それだけ。「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」は話していない。あの言葉を、この部屋の空気の中に放ちたくなかった。


「帰ってくるたびに、顔が変わってる」と奈々未は言う。


「変わってる?」


「うん。朝出ていくときと、帰ってきたときで、顔が違う。最近、その差が大きくなってる」


 凪は少し驚く。自分では気づいていなかった。朝と夜で顔が違うこと。顔が違うということは、何かが顔に出ているということ。隠しているつもりで、隠せていない。


「帰ってきたとき、目の奥が暗いの」と奈々未は続ける。「前はそうじゃなかった。職場が辛かったときも、帰ってくれば少しだけ明るくなってた。最近は、明るくなるまでに時間がかかってる」


 奈々未はそこまで見ている。見ていて、今まで聞かなかった。聞かないことを選んでいた。でも今夜は聞くことを選んだ。


「なんで今日聞くんだ」と凪は言う。


「あなたが自分から話すのを待ってた」と奈々未は言う。「でも待ってるだけじゃ、あなたは話さないから」


 その言葉が、静かに凪の胸に入ってくる。待ってるだけじゃ話さない。その通り。凪は話さない。話さないことで奈々未を守っているつもりだった。でも奈々未から見れば、話さない凪のほうが心配になる。話さないまま顔が変わっていく凪のほうが、話された内容より怖い。


「……話していいか」と凪は言う。


「うん」


 凪は話す。久保のこと。書類が何度も戻されること。他の部員は一度か二度で通ること。凪だけが繰り返されること。


 そして、あの言葉。


「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」と凪は言う。声に出して言う。初めて、この部屋の中であの言葉を口にする。空気の中に放つ。


 言った瞬間、凪の声が少し震えている。怒りなのか。疲れなのか。安堵なのか。溜めていたものを出した反動なのか。全部かもしれない。


 奈々未は黙って聞いている。最後まで聞く。いつも通り。


 聞き終えてから、少し間を置く。いつもより長い間。


「それはひどい」と奈々未は言う。


 いつもと同じ三文字。でも今夜の「それはひどい」は、いつもより声が低い。いつもは静かに、平坦に言う。今夜は少しだけ低い。怒っている。奈々未が怒っている。凪のために怒っている。


「周りの人は」と奈々未が聞く。


「聞こえてた。全員に」


「誰も何も言わなかった?」


「言えないだろう。上司だから」


 奈々未は少し黙る。左手の薬指を、右手の親指でなぞっている。いつもより速い。考えているだけではない。怒りを処理している。


「岡田さんは」


「岡田はいた。何か言いたそうだったが、あの場では言えなかった」


 奈々未は頷く。


「辞めたら」と奈々未が言う。


 凪は少し驚く。奈々未の口から「辞めたら」が出てくるとは思っていなかった。奈々未は堅実な人間。仕事を辞めることのリスクを知っている。特に今、子供が生まれる直前に。


「子供が生まれるのに」と凪は言う。


「子供が生まれるから言ってるの」と奈々未は言う。「あなたが壊れたら、この子を育てられない」


 凪は黙る。


 奈々未がマンションの嫌がらせのときに「引っ越そう」と言ったのと、同じ構造の言葉。あなたが壊れたら、と。あのときも「ここにいたら、あなたが壊れる」と言った。今回は「あなたが壊れたら、この子を育てられない」。


 凪自身のことではなく、凪が壊れた場合の影響を言っている。凪を心配しているのに、凪のためにではなく、子供のために言っている。奈々未はそういう言い方をする。自分の心配を、他のものに乗せて伝える。


「もう少し様子を見る」と凪は言う。


「いつまで」


 あのときと同じ問い。引っ越しの話のときも、奈々未は「いつまで」と聞いた。凪は「わからない」と答えた。


「わからない。でももう少しだけ」


 奈々未はしばらく凪を見る。


「わかった」と言う。でもその目は、あのときと同じように納得していない。凪にはそれがわかる。わかった上で、もう少し待ってくれと言っている。奈々未の我慢に甘えている。二度目の。


「でも約束して」と奈々未が言う。


「何を」


「壊れそうになったら、言って」


 凪は少し考える。壊れそうになったら。壊れそうになっていることに、自分で気づけるかどうか。気づけるかわからない。でも。


「わかった」と凪は言う。


 嘘になるかもしれない。壊れるときは気づかないかもしれない。でも約束する。約束することで、奈々未が少しだけ安心する。


 奈々未はコーヒーを淹れに立つ。凪の分。砂糖を一つ入れる。持ってくる。凪の前に置く。


「砂糖、足りてる?」と奈々未が聞く。


 凪は少し笑う。久しぶりに。声が出るか出ないかの、小さな笑い。


「足りてない」と凪は言う。


「だよね」と奈々未は言う。少し笑う。口角が上がって、すぐ戻る。あの笑い方。


 砂糖が足りない。今は何もかもが足りない。でも二人の間に、その合言葉がまだある。まだ機能している。砂糖が足りないと言えば、少しだけ力が抜ける。解決策ではない。ただの合言葉。それでいい。


 出産予定日が近づいている。


 十一月の下旬。あと数日。


 入院の準備は奈々未が几帳面に済ませている。メモ帳に必要なものをリストアップして、一つずつ揃えている。パジャマ。タオル。洗面用具。産褥ショーツ。母乳パッド。退院時の服。赤ちゃんの肌着。おくるみ。全部、リストに書いて、チェックマークを入れていく。


 凪は奈々未が作ったリストを見て「完璧だな」と言う。


「あなたが抜けてるから私がしっかりしないといけない」と奈々未は言う。


 凪は笑う。久しぶりに、声を出して笑う。職場では笑えない。岡田と昼食を食べているときにたまに笑うが、声を出しては笑わない。声を出して笑えるのは、この部屋の中だけ。


 奈々未も笑う。口角が上がって、すぐ戻る。あの笑い方。でも今日は少しだけ長い。ほんの少しだけ、口角が上がっている時間が長い。


 笑い方で、奈々未の状態がわかる。凪はそれを知っている。この数年で覚えた。口角が上がってすぐ戻るのが普通。少し長く上がっているのは、本当に嬉しいとき。声が出るのは、もっと嬉しいとき。


 今日は少し長い。入院の準備が整ったことが嬉しいのか。子供が生まれることが近づいていることが嬉しいのか。凪が笑ったことが嬉しいのか。たぶん全部。


 ある夜、二人でソファに座っているとき、奈々未が「怖い?」と聞く。


 子どものことだと、凪にはわかる。出産のこと。生まれてくること。この世界に、新しい命が来ること。


「怖い」と凪は答える。「でも楽しみの方が大きい」


「私も」と奈々未は言う。「でも、今ちゃんと迎えてあげられるかなって」


「どういう意味」


 奈々未はしばらく黙る。左手の薬指を、右手の親指でゆっくりなぞっている。ゆっくり。考えごとの仕草。今日は速くない。怒りではなく、不安のなぞり方。


「いろんなことがあったから」と奈々未は言う。「この子が生まれてくる場所として、ここは大丈夫かなって、思うことがある」


 ここ。この部屋。この生活。この状況。報道陣がいた。遺族が来た。電話が来た。生ゴミが入った。インターホンが壊された。ドアに「死ね」と書かれた。「産むな」という紙が届いた。両親が死んだ。職場で孤立している。上司に「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」と言われた。


 その全部が、この部屋の外にある。この部屋の中には入ってきていない。入ってきていないはずだった。でも奈々未は知っている。全部ではないが、多くを知っている。知っている上で「ここは大丈夫かな」と言っている。


 凪は奈々未の手を取る。左手。なぞる動きが止まる。


「大丈夫だ」と凪は言う。


「根拠は」


「ない」と凪は言う。「でも大丈夫だ」


 根拠のない「大丈夫」。この家族の中で、何度交わされてきた言葉か。母が言った。父が言った。凪が言った。奈々未が言った。全員が、根拠なく「大丈夫」と言い続けている。呪文のように。効くかどうかわからないが、唱えないよりまし。


 でも今夜の「大丈夫」は、少しだけ違う気がする。根拠はない。ないが、ここにいる。凪がいる。奈々未がいる。お腹の中に子供がいる。三人がここにいる。三人がいることが、根拠になる。根拠としては弱い。でも他にない。


 奈々未はしばらく凪の手を握っている。それから「うん」と言う。


 その「うん」は、初めての「おかえり」と同じ声。凪にはそれがわかる。奈々未がここに根を張ろうとしている音。この場所に、この人間のそばに、留まろうとする音。


 どんなに外が壊れていても、ここだけは壊れていない。職場が変わっても、お金が消えても、両親がいなくなっても、奈々未との間にあるこの時間だけは、変わっていない。朝のコーヒー。夜の短い会話。手を握って眠ること。砂糖が足りないという合言葉。全部、最初の頃から変わっていない。


 それだけが、凪の現実。

 それだけで、生きていける。


 そう思っている。

 そう思っている凪を、奈々未は隣で見ている。


 奈々未も同じことを思っている。凪がいることが、奈々未の現実。凪がいれば、大丈夫。根拠はない。でも凪がいれば。


 二人が互いの存在を根拠にしている。互いにしかない根拠を、互いに握り合っている。


 それが強さなのか、脆さなのか。


 凪にはまだわからない。

明日も20時に投稿します。

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