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序章023

書き直しました。20260329

 後任が来たのは、月曜日の朝のこと。


 凪がフロアに入ると、見知らぬ男が部長の席に立っている。正確には、元・部長の席。田中部長が先週まで座っていた席。段ボールに私物を詰めて持ち出した、あの席。


 四十代後半。名前を久保といった。他部署からの異動。凪とは面識がない。


 久保は部内の朝礼で自己紹介をする。短い挨拶。声が大きい。田中部長が低くて静かな声だったのに対して、久保の声はよく通る。部屋の隅まで届く。会議室でなく、フロアの朝礼でこれだけ声が通る人間は珍しい。声量がある。声量があることと中身があることは別だが、少なくとも声は大きい。


 顔は角張っている。顎が張っていて、眉が太い。髪を短く刈り込んでいる。体格は中肉中背だが、立ち方に重心がある。足を肩幅に開いて、腕を体の横に自然に下げている。田中部長の猫背とは対照的な姿勢。


 朝礼が終わると、一人ひとりと簡単な面談をする。席順に回っていく。凪の番は五番目。


 久保が凪の席の前に立つ。凪は立ち上がる。


「高原です。入社二年目です。よろしくお願いします」


 久保は凪の顔を見る。それから名札を見る。「高原」の文字を確認する。


 その目が、変わる。


 田中部長のときとは違う変化。部長は一歩引いた。距離を置いた。久保は引いていない。引くのではなく、何かが加わっている。加わったものの正体を、凪はすぐには言語化できない。


 数秒後、わかる。


 値踏みの目。


 品定めをしている。高原製薬の社長の息子。その息子がどういう人間か。使えるのか使えないのか。面倒な存在なのか、そうでもないのか。どう扱えばいいのか。どう扱えば自分に利があるのか。


 久保はそれを測っている。秤の上に凪を乗せて、重さを確かめている。


「よろしく」と久保は言う。短い。笑顔はない。でも敵意もない。まだ何も決まっていない。久保はまだ凪のことを決めていない。決めるための情報を集めている段階。


 面談は三十秒で終わる。久保は次の席に移る。凪は座り直す。


 隣の席の同僚が、横目で凪を見ている。凪はそれに気づく。同僚は目を逸らす。何を見ていたのか。凪と久保の面談を見ていたのか。久保が凪の名前を聞いたときの反応を観察していたのか。


 わからない。わからないまま、凪は仕事を始める。


 朝、フロアに入ったとき、最初に岡田の席を確認する。いつもの癖。岡田はいる。席に座っている。パソコンを開いている。凪が見ているのに気づいて、軽く頷く。


 その頷きで、少しだけ肩の力が抜ける。岡田がいる。まだいる。


 久保の値踏みの目と、岡田の頷き。二つが凪の中で並んでいる。片方は冷たく、片方は温かい。片方は未知で、片方は既知。来週からの日々が、どちらの温度になるか。


 六分の一の確率。

 凪はもう、その賭けの結果を予感し始めている。


 最初の書類を差し戻されたのは、着任の翌日のこと。


 凪は担当案件の進捗報告書を作成して、久保の机に置く。以前なら田中部長の机に置いていた書類。同じフォーマット。同じ書き方。部長はいつも一度で通してくれた。一年間で通らなかったのは二回だけ。


 夕方、久保に呼ばれる。


「これ、作り直せ」


 書類が机の端に置かれている。赤ペンで修正点が書き込まれている。凪は手に取って確認する。


 指摘自体は間違っていない。表現が曖昧な箇所。「進捗率は概ね順調」に赤線が引いてあり、「数字で示せ」と書いてある。「関係者との調整を行った」に赤線。「誰と、いつ、何を」と書いてある。


 正当な指摘。曖昧な表現を具体的にしろ、という要求。間違っていない。田中部長はこの程度の曖昧さを許容してくれていたが、久保は許容しない。上司が変われば基準が変わる。それは普通のこと。


「修正して再提出します」と凪は言う。

「早くしろ」と久保は言う。声に苛立ちが乗っている。着任二日目で苛立つものかと凪は思うが、何も言わない。


 席に戻って修正する。一時間ほどで仕上げる。数字を入れ、具体的な名前と日付を入れ、根拠を明記する。再度久保の机に置く。


 数時間後、また呼ばれる。


「これも直せ」


 また赤ペン。前回とは別の箇所。前回指摘されたところは直してある。でも別のところに赤が入っている。「この数字の根拠は」「前期比を入れろ」「表の形式を統一しろ」。


 指摘の内容は、また間違っていない。


「修正します」と凪は言って、席に戻る。


 それが続く。


 一度で通る書類がない。必ず何かを指摘される。指摘の内容は毎回正当。だから凪は文句を言えない。正当な指摘に対して「なぜ俺だけ」とは言えない。言えば「お前の書き方が甘いからだ」と返される。甘いのかもしれない。田中部長が甘く見てくれていただけかもしれない。


 でも凪は周りを見ている。


 他の部員が久保に書類を出している。隣の先輩は一度で通っている。斜め向かいの同僚は二度目で通っている。凪だけが、三度四度と繰り返す。


 偶然かもしれない。凪の書類が本当に甘いのかもしれない。他の部員の書類のほうが出来がいいのかもしれない。凪はそう思おうとする。そう思って、次はもっと丁寧に書く。数字を全部入れる。根拠を全部明記する。前期比を入れる。表の形式を揃える。一ミリの隙もないように。


 それでも戻ってくる。


 一日の中で、書類の修正に費やす時間が膨れていく。本来の仕事に使える時間が削られる。修正して、出して、戻されて、また修正する。その繰り返しの中で、凪の体力が、少しずつ、確実に削られている。


 着任から一週間ほど経った昼食の席で、岡田が言う。声を落として。


「久保さん、お前にだけ厳しくないか」


「気のせいじゃないか」と凪は言う。


「気のせいじゃないと思うけど」


「正当な指摘だ。俺の書き方が甘いんだろう」


 岡田は何か言いかけて、やめる。箸を止めて凪を見る。凪は味噌汁を飲む。目を合わせない。


 岡田に同意してほしくない。同意されたら「やっぱりそうなのか」と認めることになる。認めたら、対処しなければならない。対処する方法がない。久保の指摘は正当なのだから。


 正当なものに対して、できることは何もない。


 決定的だったのは、その数日後のこと。


 凪は取引先との打ち合わせ資料を作成する。これまでの指摘を全部踏まえて作った。数字は具体的に入れた。根拠を明記した。前期比を入れた。表の形式を揃えた。前日に完成させて、退社前に久保の机に置いた。


 翌朝、久保に呼ばれる。


 凪は久保の机の前に立つ。資料が机の端にある。凪のほうを向いている。赤ペンは入っていない。一箇所も。


 久保が資料に手を置く。そして、その手が動く。


 資料が、凪のほうへ滑ってくる。


 投げた、というほどではない。でも丁寧に手渡したのでもない。机の天板の上を、紙の束が滑って、凪の方へ押し出されてくる。机の端からはみ出しかける。凪は反射的に手で受ける。


「作り直せ」と久保は言う。


「修正点を教えていただけますか」と凪は言う。


 資料を確認する。赤ペンは入っていない。どこが問題なのか、わからない。どの箇所を直せばいいのか、わからない。これまでは少なくとも赤ペンがあった。赤ペンがあれば、具体的に直せる。今回は何もない。何も書いていない。


「全部だ。使えない」


 全部。

 全部が使えない。


「具体的にどの箇所でしょうか」と凪は聞く。


 聞くべきかどうか、一瞬迷った。迷ったが聞いた。具体的な指摘がなければ修正できない。修正できなければ仕事が止まる。仕事が止まれば取引先に迷惑がかかる。


 久保は凪を見る。少し間がある。


「お前さ」と久保は言う。声が低くなる。さっきまでの声とは違う声。部下に指示を出す声ではなく、別の声。


「自分の立場、わかってるか」


 凪は黙る。


「今お前を雇い続けてるのが、どれだけ会社にとってリスクかわかってるか」


 声が、フロアに通っている。久保は声が大きい。意図して大きくしているのか、地声なのか、わからない。でも通っている。この会話が、周りに聞こえている。


「それをわかった上で、文句言えるのか」


 凪の視界の端で、近くにいた数人が動く。画面から目を上げている。キーボードを打つ手が止まっている。聞こえている。全員に聞こえている。


「雇ってやってるだけありがたいと思えよ」


 その一言が、フロアの空気を変える。


 静かになる。キーボードの音が消える。電話の声が消える。空調の音だけが残る。ブーンという低い音。その音の上に、久保の最後の一言がまだ漂っている。


 凪はしばらく久保を見る。


 怒りがある。腹の底から上がってくる熱がある。顔が熱い。耳の後ろが熱い。手が、資料を握っている。紙がくしゃりと音を立てる。握りすぎている。


 でもそれより先に、疲れがある。怒りの手前に、疲れがある。反論するだけの気力が、そのとき凪にはなかった。


 反論したらどうなるか。「それはパワハラです」と言ったらどうなるか。言えば、久保は「事実を言っただけだ」と返すだろう。高原製薬の不祥事が連日報道されている中で、その社長の息子を雇い続けることへの社内外の圧力。それは事実。事実を言っただけだ、と。


 久保の言葉は完全な嘘ではない。嘘ではないから、旗が立たない。旗が立たないことを、久保は知っている。知っていて言っている。反論できないことを選んで言っている。そして周りに聞こえる声で言っている。


「修正します」と凪は言う。


 それだけ。

 それだけ言って、席に戻る。


 久保は何も言わない。凪の背中に、何の言葉も投げてこない。もう終わったことだと思っているのかもしれない。一発殴って、終わり。


 凪は自分の席に座る。資料を机に置く。くしゃりと皺がついている。手の力で。直さなければいけない。でも今は、紙の皺を直すだけの気力がない。


 隣の席の同僚が、画面を見ている。画面を見ているふりをしている。キーボードを打っていない。手が止まっている。聞こえていた。全部。


 岡田が、少し離れた席から凪を見ている。凪はそれに気づく。岡田の目が、何かを言いたがっている。でも今は言えない。フロアの中で。久保がいる場所で。


 凪は岡田に小さく首を振る。今はいい、という意味。岡田は少し唇を噛んで、画面に向き直る。


 その夜、帰り道。凪は電車に乗らずに歩く。


 二駅分。十一月の夜。コートの襟を立てる。風がある。冷たい風。木枯らしとまではいかないが、秋の終わりの風。街路樹の葉がほとんど落ちている。裸の枝が、街灯の光の中で影を作っている。


 歩きながら、頭の中であの言葉が繰り返されている。


 『雇ってやってるだけありがたいと思えよ』


 一歩ごとに、繰り返される。靴が歩道を叩くリズムに合わせて、繰り返される。


 雇ってやってるだけ。ありがたいと思え。


 言っていることは間違いではない。高原製薬の不祥事が連日報道されている中で、その社長の息子を雇い続けることへの社内外の圧力が、実際にあることは凪も知っている。田中部長が異動になったのも、無関係ではないかもしれない。凪がいることで、取引先が警戒する。研修先が難色を示す。社内の空気が変わる。それは事実。


 間違いではない。でも、あの言い方は違う。


 周りに聞こえるように言った。凪が反論できない言葉を選んだ。事実を武器にした。事実という正当性の外皮を被せた攻撃。中身は嗜虐。外側は正論。


 それは正当な指導ではない。


 でも凪には、それを誰かに言うことができない。言ったところで、どうにもならない。久保の言葉が完全な嘘ではない以上、凪に立てる旗がない。「パワハラだ」と訴えたところで、「事実を伝えただけだ」と返される。事実を伝えることがパワハラになるかどうかは、グレーゾーン。グレーの中で戦う体力が、今の凪にはない。


 歩く。もう一駅分。足が痛い。革靴で長く歩いている。踵が少し擦れている。でも歩き続ける。電車に乗ると、座って、考えが止まらなくなる。歩いていれば、体の痛みが考えの一部を引き受けてくれる。踵の痛みに意識を向けている間だけ、久保の声が少し遠くなる。


 二駅分を歩き終える。自分のマンションが見える。エントランスの灯りが点いている。あの灯りの向こうに、奈々未がいる。


 エレベーターに乗る。自分の階のボタンを押す。鏡に映る自分の顔を見る。疲れている顔。目の下の影が深い。口元が下がっている。これが、あの言葉を言われた後の自分の顔。


 ドアを開ける。


 台所から、鍋の音がしている。奈々未が何かを煮ている。凪が帰ってくる時間に合わせて、夕食を温め直している。


「おかえり」と奈々未の声がする。台所から。姿は見えない。声だけが来る。


「ただいま」と凪は言う。声がかすれている。自分でもわかる。かすれた声。奈々未にもわかるだろう。でも奈々未は何も聞かない。「どうしたの」とは聞かない。


 凪はソファに座る。コートを脱ぐ。ネクタイを外す。靴下を脱ぐ。踵が赤くなっている。少し皮がめくれている。明日は絆創膏を貼らないといけない。


 奈々未が夕食を運んでくる。テーブルに並べる。味噌汁。鶏の照り焼き。キャベツの千切り。白いご飯。


 凪は箸を取る。食べ始める。味がする。鶏の甘辛い味。キャベツの歯ごたえ。味噌汁の温かさ。全部わかる。味覚は消えていない。あの頃——最初に遺族が来た日——のように味がしなくなるかと思ったが、今日は味がする。


 味がすることに少し安堵する。まだ壊れていない。味がわかる程度には、まだ壊れていない。


 食べ終わる。奈々未が食器を片付けようとする。凪が「俺がやる」と言って立ち上がる。流し台で食器を洗う。水の音。スポンジが皿を擦る音。日常の音。


 洗いながら、久保の声が戻ってくる。


 『雇ってやってるだけありがたいと思えよ』


 水の音の下で、あの声が再生される。洗い物をしている間だけ、少し小さくなっていた。でも手を止めると戻ってくる。


 食器を拭いて、棚に戻す。台所の灯りを消す。リビングに戻る。


 奈々未がソファにいる。凪の隣の場所を空けている。凪が座る場所。いつもの場所。


 凪は座る。体の力を抜こうとする。抜けない。いつもはここに座ると力が抜ける。防壁がゼロになる。でも今夜は抜けない。久保の声がまだ中にいる。中にいて、体を硬くしている。


 奈々未が凪の手に触れる。凪の手が、少し跳ねる。驚いたのではない。硬くなっている体が、触れられたことに過剰に反応している。


「ごめん」と凪は言う。


「大丈夫」と奈々未は言う。手を引かない。凪の手の上に、そっと手を置いたまま。


 凪はしばらく黙っている。話すべきか。話さないべきか。奈々未にこれ以上重いものを渡したくない。奈々未はもうすぐ予定日。お腹が大きい。出産が近い。それだけで十分すぎるほど、奈々未は今重いものを抱えている。


 その上に、久保の言葉を乗せたくない。


 凪は話さない。話さないことを選ぶ。


 奈々未は聞かない。聞かないことを選ぶ。


 二人で黙ってソファに座っている。テレビはついていない。窓の外は暗い。エアコンの温風だけが、部屋の中を循環している。


 奈々未が凪の手を握る。少しだけ力を入れて。凪の手が硬いことを、奈々未は感じている。いつもと違うことを感じている。感じていて、聞かない。聞かない代わりに、握っている。


 凪の手が、少しずつ緩んでいく。五分。十分。奈々未の手の温かさが、凪の手に伝わっていく。手から腕へ。腕から肩へ。肩から胸へ。ゆっくりと。


 久保の声が、まだ頭の中にある。消えていない。消えないまま、少しだけ遠くなる。奈々未の手の温かさが、あの声と凪の間に、薄い壁を作ってくれている。


 胸ポケットに、二枚の便箋が入っている。母の手紙と、父の手紙。あの日から、凪はこの二枚を胸ポケットに入れたまま過ごしている。毎朝スーツに着替えるとき、前の日のスーツから今日のスーツに移す。


 『奈々未さんと生きて。』

 『お前一人で抱えるな。』


 母の言葉と、父の言葉。


 一人で抱えるな、と父は書いた。一人で全てを背負って壊れた父が。


 凪は今、一人で抱えている。久保の言葉を。誰にも渡していない。奈々未にも渡していない。一人で持っている。父が書いたことと、反対のことをしている。


 でも渡せない。今は渡せない。奈々未に渡すには重すぎる。


 お腹の中で、子供が動く。奈々未のお腹が、凪の体の横で少し動く。ソファに並んで座っている。肩が触れている。お腹の動きが、肩を通して凪に伝わる。


 生きている。そこに。


 凪は目を閉じる。久保の声がまだある。でも子供の動きもある。母の手紙もある。父の手紙もある。奈々未の手の温かさもある。


 全部が凪の中にある。汚いものも、温かいものも、全部が。


 その夜、凪は奈々未の手を握ったまま、ソファで眠ってしまう。


 ベッドに移らなかった。移る前に、意識が落ちた。疲れていた。体だけではなく、全部が。何かを考える力も、立ち上がる力も、残っていなかった。


 奈々未は凪を起こさなかった。

 ブランケットを一枚持ってきて、凪の上にかけた。それから自分も隣に座ったまま、少しだけ眠った。お腹が大きくて横にはなれなかったから。


 朝になって目が覚めたとき、凪の手にはまだ奈々未の手があった。冷たくなっていなかった。一晩中、温かいまま。

明日も20時に投稿します。

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