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第二十一章 普遍の愛

(ああ、だめ…。だめよみんな…)

(そんなに泣かないで。嘆かないで。苦しまないでちょうだい…)

(もう噴火は収まったわ。地震もこれ以上大きなのは来ないわ。だから大丈夫。生き残ることができたのですもの)

(生きていさえすれば立ち直れるわ。全てを失っても、人は新たに歩き始めることができるのよ。だから頑張って。元気を出して。打ちひしがれていては何も始まらない。私が手伝うから。一平ちゃんがしてくれたみたいに、ずっと見守っているから…)

 

 パールは思い出していた。あの、懐かしい流浪の日々を。

 何ひとつ持たずに見知らぬ世界へ飛ばされて、たまたま出会った彼がそれまでの全てを擲って、自分と共に未知の世界へ飛び出したことを。心細さでいっぱいの自分を黙って抱き締め、不安を取り除いてくれたことを。そばにいるだけで彼女に勇気と活力を与えてくれたことを。

 

 穏やかではあるが、時に厳しい一面を以て一途に愛し、守ってくれた。彼女の気持ちをあるがままに受け止めて、その成長を手助けしてくれた。彼がいなければ、パールは異世界へ飛ばされた時点で無力化されていただろう。

 パールをここまで導いてくれたのは彼の愛。溢れんばかりに胸の中で燃え上がる情熱は、その厚い胸板に遮られたかのようにじんわりとしか表出してはこないが、常に陽の光のようにパールに向かって降り注がれてきた。その愛を糧にして、パールはここまで来た。



(一平ちゃん…)

 パールは背後を振り仰いだ。

 彼女の大好きな端正な顔が悲惨な状況に心を痛めて引き歪められていた。相変わらずパールの身体を支えてはいたが、流石に今、その心はパールの上にはない。トリトニアの人々を外敵から守るべく力を尽くし、何とか事態を快方へと向けることができたものの、犠牲になった人々を悼みつつ街の惨状を見るのは忍びない。

 

 同じ思いでいるであろう夫の顔に手を伸ばし、パールは己の顔を近づけた。

 キスをせがまれるのはいつものことだが、こんな時に何を?と、流石の一平も不審感を露わにする。

 戸惑う一平に口を開かせる間すら与えず、パールは唇を合わせてきた。

 いつになく情熱的に。一平の全てを吸い取ろうとしているかのようにいつまでも放そうとしない。

(パール…)

 決して応えるに吝かではないが、一体どうしたんだ、との思いは拭えない。唐突なパールの行動にも、大抵はすぐその理由を見つけられる一平ではあったが、今度ばかりは訳がわからない。かといって不謹慎だぞともぎ放すことなど彼にできるわけもなく、覚えず身の裡が熱くなってゆくのを止めることもできない。


 ―一平ちゃん―

 パールの声が聞こえた気がした。

 ―力を貸して。パールに力を―

(力?)

 ―みんなを力づけたいの。立ち上がってほしいの―

 心優しいパールがそう思うのは道理だ。何も不思議な成り行きではない。

(施術をしたいのか?みんなに?)

―そう―

(だがオレには何もできない。癒しの力はおまえにしかない)

 ―だから―

(だから?)

 ―一平ちゃんが力を貸して。パールが力を出せるようにこうしていて。パールが大切だって言って。パールをすごくすごく好きだって―

「オレがそうすればおまえは今以上の力が出せるのか?」

 思わず身を離し、一平は声を使って問いかけていた。

 パールの考えが直接頭に流れ込んできた不思議よりも、パールがそう考えることに驚いていた。

 いちいち不思議がっていてはパールの連れ合いは務まらないと、心得ているはずなのに。



 ―至福へと導かれし時、秘宝生まれ出で、人々を遍く癒さんとす―

 ザザの言葉が蘇る。

 ―姫の力は確実に大きくなっておる。おぬしとの繋がりが深くなるのに比例してな―

(そうなのか?)

 一平は自問する。

 ザザに指摘された時には半信半疑だった。

 だがガラティスも一平を使ってカミーラの徴を浮かび上がらせようとした。思い出したくもないが、ガラティスでは力及ばなかったからだ。

 ―癒しの力はパールが一平の愛を実感した時に増大する―

 仮定だったものが真実となって一平の目の前に翼を広げていた。


 パールがそうだと言うからにはそうなのだろう。おかしな理屈だが、この理屈が間違っていたためしはない。

 一平の問いに頷く瞳は渇望の光を湛えていた。

 一平は決して饒舌な方ではない。好きだの愛してるのと、そうそう口にはしない。だが必要な時には言う。今がその時だ。彼は意を決した。

「‥オレのパール…」

 跪き、妻を見上げた。

 左の手をとって口付ける。まず手の甲に。それから掌に。

 忠誠の証のキスと、懇願のキス。


 それだけでも、もうパールの胸は張り裂けそうに高鳴る。

 もう一方の手を自ら差し出し、もう一度とねだる。

 一平がそこに唇をつけた時、彼らの周囲が光り出した。

 オパール色の光だ。靄のように、霞のように、二人の姿は淡い光に包まれる。

 ―神聖な何かがそこで行なわれている―

 人々に、そう思わしめるような変化だった。


 実際には人々はそれどころではない。家族を失った悲しみに、家を焼かれ、流された衝撃に、この先行きの不安と絶望に胸を塞がれて、皆下を向いている。

 周囲の変化に気付かぬほど、ただパールだけを見つめ、パールだけを思って、一平は口を開いた。

「パール…オレの宝。…オレの愛…オレの命…。オレの心を全ておまえに捧げよう。いくらでも貪り尽くすがいい。オレはおまえの一部になって、いつまでもおまえを感じよう」


 青い瞳から涙が溢れる。こんな至高の言葉を平然と聞くにはパールは感受性が強すぎる。ほとんど慟哭にまで近い嗚咽がパールの口から発せられる。だが、泣いているパールも一平は好きだった。むしろ泣いている時の方が心を揺さぶられる。庇ってやりたい。守ってやりたい。泣き止ませて愛らしい笑顔を取り戻したいと思う。


 彼はそのままパールを引き寄せた。(かいな)の中に包み込み、浮力で流れる身体を掬い込む。

「愛している。おまえだけだ。おまえの幸せが、一番の望みだ」

 パールは何も反論しない。一平の方から出る言葉を一つ一つ噛み締めるのが精一杯だ。一平の腕の中で、パールは幸せに涙する。涙の粒が固形化し、光る氷の粒のようになって二人の周りをキラキラと飛び交った。


 熱い抱擁。熱い口づけ。パールの額に浮かび上がる。赤い刻印が。カミーラの徴が。

 それと同時に青の剣が再び光り始めた。

 その輝きは一筋の光に収斂され、弧を描いて二人の元へ戻ってきた。光の粒を纏い、光の靄を飲み込んで肥大化する。そしてパールひとりを絡め取り、一平の腕の中から奪って行った。



「!!」

 光の目的がわかっていながら一平は何の抵抗もできなかった。

 目の前でパールは背筋を伸ばし、身を反らせるようにして心待ち両手を広げて立っている。閉じられた両の目に涙はない。やがてゆっくりと両手を胸元に合わせて指を組んだ。跪いてそうする姿は祈りの姿だ。


 パールの脳裏に一平の声が蘇る。

 ―おいで―

(あの時もそう言ってくれた。一平ちゃんに初めて会ったあの時…。どうしていいかわからないパールを…見ず知らずのパールを、一平ちゃんはそう言って面倒見てくれたんたっけ)


 ―行こう。トリトニアに。ボクといっしょに―

(ごめんね。一平ちゃん。パールのためにニッポンのおうちを離れさせてしまって)


 ―ありがとう、パール。…おまえの歌はなんだか懐かしいな―

(パールはこれしかできないから。一平ちゃんはパールのためにいろんなことをしてくれたのに)


 ―神獣の元へなどやらない。パールはボクの宝だ―

(うん。…うん。パールはどこへも行かないよ。一平ちゃんのそばにずうっといるから)


―王女…なのか!?―

(黙っててごめんなさい。でもね。そんなのはどうでもいいことなの。パールは…パールは、王女でも王女でなくても、一平ちゃんが一番好き)


 ―一緒に守ってくれるか?ボクのこと…好きか?―

(何だってするよ。一平ちゃんといっしょにいられるなら。だから言わないで。お別れだなんてもう二度と…)


 ―早くおまえと一緒になりたいよ―

(パールも。パールも早く一平ちゃんのお嫁さんになりたかった。そして赤ちゃんをいっぱい産むの)


 ―オレはどこにいてもおまえのことを思っているから―

(本当に?…本当に?一平ちゃん!?パールのことだけが好き?パールが一平ちゃんを好きなのと同じくらい?)


 ―オレは陛下に約束した。何があってもおまえを守ると。幸せにすると―

(パールは幸せだよ。一平ちゃんが愛してくれる。それ以上の幸せなんてないよ。パパに約束するまでもないのに)


 ―オレの子を生め。今からおまえをオレの妻にする―

(一平ちゃんの赤ちゃんを生みたい。…ずっとずっと、そうしたかった。パール…パールやっと…一平ちゃんのお嫁さんになれたんだね)



 折りに触れ、一平が口にしてきた数々の言葉。数々の呼び掛けがパールの周りを駆け巡る。少しずつ、というよりは会いしなから一気に近づいて、二人は互いの絆を深めてきた。

 縋りつくパールを戸惑いながらも受け止めた時から、一平は甘やかな思いを知った。自然の力に引き離されそうになって、何よりもパールを失いたくないのだと気づかされた。それが友愛でも保護者意識から来るものでもなく恋愛感情なのだと自覚してからも、変わらぬ広い心でパールの全てを包み、守り続けてくれた。


 一方的に気持ちをぶつけるパールを、時に嗜め、時に突っ撥ねる一平ではあっても、パールは常に感じることができた。一平のパールに対する揺るがぬ愛を。

 口に出さなくとも、全身が語っていた。その眼差しが愛しいと繰り返してパールに降り注がれた。一平が温かく見守ってくれたから、パールは乗り越えられた。勇気を出して施術をし、安心して眠ることができた。


 それだけでも十分なのに、今一平は言ってくれている。パールが大事だと。パールだけを愛していると。自分の全てを捧げても悔いないと…。

 その言葉がパールの血を沸騰させる。音を立てて全身を駆け巡り、不可能など何もないと確信させる。大丈夫、人々は生きていける。一平ちゃんからもらった愛があれば。


 パールの思念が飛ぶ。

 ―大丈夫―

 ―みんな、もう大丈夫―

 ―愛をあげるわ。一平ちゃんにもらったの。たくさんたくさんもらったから、みんなに分けてもいっぱい余るの。パールはこれで苦しみから立ち直ったのよ。だからみんなにもあげる。立ち上がって。もう一度足を踏み出して。そうよ。元気を出して。あなたたちは生きているのよ―

 歌が、広がる。

 天使の歌。

 傷ついた魂を慰める、慈愛の歌。

 荒んだ魂を宥める鎮魂の歌が。


(姫さま?)

 俯いていた女性が顔を上げる。これはかの有名な癒しの姫君の歌だと気づく。


「ピピア女神さま!?」

 自棄になって寝転んでいた男は、青い瞳、珊瑚色の髪の女性が自分を覗き込んで優しく微笑むのを見た。そしてその額に赤い光が輝くのを見た途端、恐怖や絶望の気持ちが遠のくのを感じた。


「これは…」

 被害の少なかった王宮の周囲でも、それは見えたし聞き取れた。

「姫さまだ」

「パールティアさまが癒しの歌を、歌っていらっしゃる」.

 人々は海上を見上げ、指を差し合っては、しーっと唇の前に指を立て、聞き耳を立てる。水面いっぱいに巨大な王女の姿が立体映像のように映し出されている。


 誰もが安らかな気持ちになる。

 悪いこと、不幸なことは一時的に忘れて、しばしの休息と明日への活力を溜め込む。軽傷の者は怪我が快癒してゆくのを目の当たりにし、重症者も顔色がよくなったり、悶え苦しまなくなってゆく。死者を蘇らす力こそなかったが、トリトニアの生きとし生けるものは等し並みにその力を注ぎ込まれた。

 青の剣の守人の片割れ、癒しの姫と呼ばれるパールティア王女の力によって。

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