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第二十二章 天使の|鎮魂歌《レクイエム》

 果てしなくいつまでも続くかと思われた癒しの歌声は唐突に止んだ。糸の切れた凧のように、浮かび上がっていたパールの身体は光の収束に伴ってふらふらと落下をしてゆく。

 それをぼんやり見ているような一平ではない。場所的にはそれほど動く必要はなく、一平は難なくパールの身体を抱き止めることができた。

 が、パールに意識はない。

 施術をして人事不省に陥ることは茶飯のことだったので、はじめ一平はそれほど慌てなかった。だが、今回はいやに顔色が悪い。やつれきっている。

 当然と言えば当然だが、不意に一平の背に悪寒が走った。

 パールの顔の上を何かが走ったのだ。急に空が曇ってきて日が翳ったように。


 その瞬間脳裏に浮かんだのが病院のベッドで横になっていた翼の姿と血塗れで戦うニーナの姿だったので一平はぞっとした。

「パール!!」

 思わず一平は大声で呼び掛けた。安静にしてよく休ませてやらなければいけないのに、と思いながら。

 何かに突き動かされるように、一平はパールの身体を揺さぶり、頬をぺちぺちと叩き、呼び掛け続けた。

(オレは何をしてるんだ?)

(だって変じゃないか。この顔色、このやつれよう。まるで…)

 力を使い果たして死んだという歌姫ナイチンゲールの話を思い出し、一平は半狂乱になった。


(まさか…)

 思えばこの一日で、パールはどれだけの力を使ったろう。

 二度三度、いや、五度だ。五回に亘る跳躍を繰り返し、その間にぶよぶよを散じさせ、噴火に苦しむ人々の治療に飛び回り、守人の連れ合いとして一平と共に青の剣を使って山々の怒りを鎮め、果ては力を増幅させてトリトニアの人々の心を遍く癒すことに、全霊をかけた。

 ムラーラにいた頃は、少し無理をしただけで寝込んだり倒れたりしていたあのパールが…。


 一体どれほどのエネルギーを必要としたのだろう。消費したのだろう。

 目に見えぬそれは本人以外には計り知れない。長く行動を共にしてきた一平には、パールが疲れていたり弱っていたり休息を必要としていたり、といったことが自然に感じ取れるのだったが、今回一平はそれを全く感じなかった。

 未曾有の大惨事を目の前にしていたことを差し引いても不思議だ。パール自身が興奮していて気が弱っていると意識できなかったとしか考えられない。

 

 心を痛めてはいても身体はピンピン、眼にも美しいくらいの生気があった。

 一気に弱らせてしまったのだろうか。あの神聖なる癒しの歌で、力を使い果たしてしまったのだろうか。

(いやだ。まさか…。まさかそんなことが…)

  ひとりいやいやをし、一平はパールの胸に耳をつける。

 弱々しいが、鼓動が聞こえる。

 取り敢えずほっとして身を起こした一平は、それでもぐずぐずしてはいられない、とばかりに立ち上がった。

 青の剣を収め、まずはザザの元へと、再びパールを抱え上げた。



「……ちゃん…」

 胸元から声がした。

「何だ?」

 パールが声を出せたことに少し安堵して、一平は努めて平静に応えた。

「…さま…見たい…」

「え!?」

 声がか弱すぎてよく聞き取れない。耳を近づけるとパールはもう一度口を開いた。

「いい…の…」

(何がいいんだ?)

「行かなくて…いいの…。それより…海上(うえ)に…連れてって…」

「海上?」

「…パール…お日様…見たい…」

「ああ。…好きだもんな、おまえ。太陽が。でも今はだめだ。こんなに弱ってちゃ、毒にあたりに行くようなもんだ」

「もういい…の…」

「何を言ってる?」

「パールもう……から…」

(何?)

「婆さま…っても…間に合…から…」

 途切れ途切れだが。パールが不吉なことを口にしたのはわかった。

「馬鹿を言うんじゃない。おまえ、さっきまで国のみんなになんて言ってた?」

「うん…。ごめんね。でも…め…。パールわかるの…」

「自分の治療だけはできないくせに何がわかるんだ!!」

 怒鳴ってしまった。認めたくなくて。

「見…の…。死…相…。パールの足…もうだめ…」

(足?)

 死が足元から上がってくるとでも言うのか?


 そう言えば、パールは死相を見る度に苦しんでいた。ニーナの顔に現れた黒い影を感じ取って、大粒の涙を流していた。自分の力が及ばないことを知って、無駄な施術をするよりも残りの時間を心安らかに過ごす方を選んだ。

「ばかっ!!諦めるな。すぐ連れてってやる。ザザ婆さまの…」

「おひさま…」

 パールはとろとろと一平の言葉を遮った。

(くっ…)

 一平はぐっと唇を噛み締めた。

 心なしか、パールの体が一層軽くなってきているような気がする。

(うそだ…)

(うそだ。うそだうそだ…)

 パールの言うこと、感じることに間違いはない。先刻そう確信していたのを忘れてしまったように、一平はこの一点だけは信じることができなかった。



 パールが死に瀕している。

 他でもない。パール本人がそう言っている。

 おそらくそれは正しいのだろう。

 パールが自分自身に施術をすることができたとしても、意味がないことを知っているが故に、パールは望んだのだ。海上に行って太陽を拝むことを。


 パールはお日様が好きだった。

 掟により、子どもがひとりで海上に行くことは許されていなかったので、飛ばされて初めてパールは太陽と直に接した。

 明るく、眩しく、そして、温かい陽の光。

 一平との出会いと共にあったその感触は、パールにとって一平のイメージそのものだった。

 温かくパールを包み込み、時に厳しく照りつけ、強くて清々しい。生きてゆくのに不可欠な存在。ただ一つ、長時間にわたる接触ができないことを除いては。


 この世との別れに際し、パールはその太陽に会うことを望んだ。

 最近ではとんと海の上に足を向けることがなくなっていたから。

 アスランが大きくなったら一緒に行きたいねと、常々話すのを耳にしていたから、一平はパールの要求を呑んだ。

 残された時間が僅かなのなら、パールの好きなことをさせてやりたいと思ったからだ。



「ああ…」

 海上に顔を出すと、パールは小さなため息を吐いた。

「おんなじだね。…あの時と…」

 ―あの時―

 それが一平と出会った時のことだと、彼は瞬時に悟った。海の上を漂っている人魚を見つけてしげしげと眺めていたら、いきなり目を開けて飛びついてきた。

 驚きとともに甘やかな感情が湧き起こったことを忘れたことはない。それ以来、幾度となく抱きつかれ、抱き締めてやり、それが当たり前だった。だが…。

 今のパールにはその力さえも残されていないようだった。

 

 パールと共に青く澄んだ空を見上げ、ふと目に入った岩場に、一平はパールを連れて行った。火山の噴火でできたものだろう。煮えたぎる熱い溶岩が海の水で冷やされて固まっていた。こんなに早く、触れられるほどに温度が落ち着くなど、地上では考えられない。

 一平はパールを抱き上げ、岩場に横たえた。


 ―ふうっ…―

 大きなため息を、パールは吐いた。

「苦しいのか?どこが苦しいんだ、パール。オレはどうすればいい?」

 政治科ではなく医科で学べばよかった。この時だけは一平はそう思った。

 病人や怪我人を前にした時処すべき方法を、自分は何ひとつ心得ていない。こんなにも身体の弱い娘を伴侶にと望んでいながら、他人任せで…。癒してもらうばかりで、肝腎の時に役に立たない武術など何の意味がある?


 なぜ、青の剣の守人など目指してしまったのだろう。

 こんなことになるのなら…パールを危険に巻き込むことになるのなら…去ってしまえばよかったのだ。トリトニアを。パールの元を。

 いや。それでもトリトニアは狙われただろう。パールの持つ力はそれほどまでに他国にとっても垂涎の的だった。一平が遠くでパールを見守っていたいと思っても、おそらくは遅くも早くもパールは狙われ、その元へ駆けつけることになったであろう。

 それはそれで後悔したのであろうが、今の一平にはそこまでの考えは及びもつかない。


 パールが死ぬ。自分の元から永遠に去ってしまう。どう頑張っても手の届かない所へ行ってしまう。そのことで彼の心の中は嵐のように吹き荒れていた。

 この期に及んで自分には何もできない。

 パールを望む所へ連れてきたものの、彼女を助ける何の手立ても思いつかない。 

 しかもあろうことか、知らずにとは言え、一平はパールがこうなる手助けをしてしまったのだ。自分がああして彼女の力を増幅させなければ、パールはあれほどまでの力を使うことはなく、従って命を弱らせることもなかった。

(オレは…オレは…)

 どうすればいいのだろう。

 このまま手を拱いて、死神がパールを連れてゆくのを指を咥えて見ているのか!?



「パール…迷子になってよかった…」

 一平の瞳が動きを止めた。

 ―迷子になったから一平ちゃんに会えた―

 パールの潤んだ瞳がそう言っている。

 迷子にならなかったら会うことはなかった。

 一平も、見知らぬ故郷を求めて旅立つことはなかった。ここにこうしていることも、互いをこれ以上ないほどに大切に思うことも。

(あなたを愛し、愛された…)

 ずっと願っていた一平の子どもを産むことができた。

「ごめんね…もっと…たくさん、たくさん…赤ちゃん産んであげたかったのに…」

 ―何を言う!?―


 それこそは一平の望みでもあったはずだった。たくさんの子どもたちに囲まれて、パールと共にいつまでも仲睦まじく暮らしてゆきたいと思っていた。実際にパールにそう告げた。

 しかしそれはパールがいてこそ叶えられる。パールがいなければいつになっても夢でしかなかった。


「オレは…おまえがいてくれればそれでいい…」

 絞り出すような一平の言葉がパールの心に染み渡っていった。

「だから何も言うな。…早く元気になるんだ」

 パールは目を閉じ、か弱く首を振る。

「アスラン坊やをお願いね。…きっと、一平ちゃんはいいパパになるよ。…パールにしてくれたみたいに、いっぱい教えてあげて…」

 当然だ。父親たる自分の責務だった。だがひとりでは、あまりに哀しすぎる。

「オレには教えられないことだってある。パール、それはおまえの義務でもあるんだぞ」

 そうしたいのは山々だった。でも、もうできないことがパールにはわかっていた。自分は他の方法でわが子を見てゆこう。


「パール…見てるよ…。お星になって…。だって、パール、大好きだもん、一平ちゃんのこと…」

 ―ならんでいい!!―

 ―星になぞなるな。逝くな。オレから離れていかないでくれ!―

 一平の心は血反吐を吐いていた。死に逝こうとしている妻をどうすることもできないもどかしさに、荒れ狂っていた。

―いやだ!いやだいやだいやだ!!

 おまえがいなければ生きていても意味はない!!―

 脈が早くなる。心臓がバクバクいう。どうすればいいのかわからない。


 一平はパールの頭を抱え込む。そうしていなければ魂が逃げていってしまうとでも思っているかのように。

 常ならぬ夫の拍動の乱れをパールはぼんやりと聞いた。でも、これではいけないと思った。こんなに早くなったり遅くなったり途切れたりするのがいい状態のはずはない。一平の鼓動の音はいつだってパールにとっての安心材料だった。

―いつもの一平ちゃんに戻してあげたい―

 

 そう思うとパールは歌を歌っていた。

 流石にいつものような声量も声の艶もなかったが、赤ん坊をあやすような優しい、慈愛に溢れる歌声だった。

 その歌に癒されて一平の鼓動が穏やかになっていく。そのことを知るとパールはほっとしたかのように歌いやめた。

「パール!?」

 もう二度と返事が返ってくることがないのはわかっていた。底知れぬ青い瞳が開くことも、花びらのような唇から吐息の漏れることももうない。

 パールの癒しの力は確実に一平の上に留まっていた。僅かに震えはしたが、取り乱すこともなく一平はパールに口づけた。

 

 額に今一度カミーラの徴が浮かび上がる。

 拍動の乱れは収まったが、涙腺は緩んだままだった。

 一滴、また一滴と、徴の上に溜まりができ、徴の判別ができなくなる。

 今生の別れに際し、彼の妻は天使の微笑みを浮かべ続けていた。



 パールの死後空席となった青の剣の守人の連れ合いの座は埋められることはなかった。

 ただひとりで青の剣を守り続けた一平はトリトニアの平和のために精力的に働いた。

 齢四十に達するまでそれは続いた。四十歳は海人の平均寿命である。

 守人の座を引き退いた後も政務の補佐役兼ご意見番として一平は現役を維持。後進の育成にもよく尽くした。

 あまりにも若くして逝った妻の分も彼は長く生きた。身体の中に流れる地上人の血がそうさせたのかもしれない。

 トリトン族としては稀に見る長寿を以て長老として老後を過ごした一平は六十の声を聞いてのち大往生を遂げる。

 一人息子のアスランやキンタ王の遺児らが壮年で治世を預かる世でのことであった。



「一平ちゃん…」

 懐かしい声がして彼は静かに目を開けた。

 思った通り、愛しい人の姿がそこにあった。

 この世のものだという現実感はないが、彼女が確かに存在しているという確証が彼にはあった。

「やっと…迎えに来てくれたのか…。随分、遅かったじゃないか…」

 少々恨めしげに言うと、愛しい人は優しく微笑んだ。

「…待ちくたびれちゃった?」

「いや、そんな暇はなかったからな…」

「うん、そうだね。いままでお務めご苦労様」

 パールは自分が死んだ後の一平の人生を全て知っているようだった。


 パールは訊いた。

「パールがいなくて、寂しかった?」

 当たり前だろう、と言おうとして一平はやめた。

「そうでもなかったさ。おまえの気配をいつも感じていたからな」

「やっぱり…ばれてた?」

 パールは軽く舌を出した。その愛らしさは四十年前と少しも変わらない。

「おまえがしたとしか思えないことばかりが起こるんだ。当然だろう」

「言ったでしょ。パール。お星様になってずっと見てるって」

「ああ。感謝してる。おかげでもう思い残すことはない」

「…一緒に…行く?」


「こんな爺さんでも、いいか?」

 自分だけが限りなく歳をとっているような気がして気が引けて、一平は心配そうに尋ねた。

「すてきな、ロマンスグレーだよ。パールは好きだよ」

 パールの応えに安心して、一平は懇願した。

「連れてってくれ。おまえのいるところへ。オレには、行き方がわからないから…」

「うん」


 パールはこくりと頷いてから、思いついたように言った。

「ね、おいでって言ってくれない?」

「それじゃ逆だろう?」

「それでも。ずっとずっと、聴きたかったの。一平ちゃんの口から」

 一平にその自覚はないが、パールにとってその言葉は至言の一言だった。その言葉に導かれて、パールは生きたのだ。


 なんだかわからないが拒否することでもない。パールが望むのならどんなことだってしてやるという心意気は、未だに一平の身の裡に燃え盛っている。

 彼は言った。限りなく優しく、愛情を込めて。

「おいで、パール」 

 お日様のように顔を輝かせて、パールは一平の胸の中に飛び込んだ。

 抱き合う二人の姿が白く輝き、そしてぼやけてゆく。

 二人の魂はオパール色の光を撒き散らしながら天上高く上っていった。



 ―無垢なる瞳持てし珊瑚姫

  その魂以て我らに勇者遣わしめ

  海人の守りとならしめり

  勇者に至福へと誘われし時

  徴生まれ出で

  秘宝によりて人々を遍く癒さんとす―


(トリトニアの伝説 第八部 天使の鎮魂歌(レクイエム) 完)



 

これにて「トリトニアの伝説」本編は完結です。

長く拙い作品を読んで下さった皆様に感謝します。

本当にありがとうございました。


頑張って毎日更新を心掛けて参りましたが、実はこのお話は20年以上前から少しずつ書き溜めていたものです。

長い中断期間を経て、退職を機に再び外伝の執筆に取り掛かったのが一年前でした。

終活を考える上で、心残りがないようにと、一人でも二人でも読んでいただければと、投稿を始めました。


一平とパールの物語は終わりを迎えましたが、パールの死後も一平は生きていかなければなりません。

パールと過ごした時間の何倍もの時間を。


思いを馳せれば物語が浮かんでくるので、もうしばらく書き続けようと思います。

また訪れていただけますように。

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