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第十八章 跳躍

「う…」

 うつらうつらしかけたところにまた女の唇がやってきて一平は重たい瞼を上げた。

 これが何度目なのか、もう一平にはわからない。睡魔は絶え間なく訪れては遠のいてゆく。鍛錬の賜物で一日や二日寝なくても一平にはどうということもないが、それを見越したガラティスは一平に対して睡眠促進剤の一種を投与していた。薬のせいで一平の身体は眠ろう眠ろうと働きかける。ここに来て何日が過ぎたのか、今は昼なのか夜なのかすらわからない。体内時計は完全に狂ってしまっている。


「本当に頑丈な人ネエ。その上頑固だわ」

(おんな)の一人が諦めムードで呟くともう一人の妾が言った。

「そんなにあの噂の奥様がいいのかしら。かなりのネンネちゃんだと聞いているけれど」

「自信失うわあ、私…」

「そうよね。私たちに魅力がないわけじゃないわよ」

「ここまで靡かない男もそういるものじゃないわ。むしろ立派よね」

 ガラティスの言うところの選りすぐりの美女たちが次々に嘆く。ガラティスのお眼鏡に叶うというのはこのガラリアではかなり名誉なことなのだ。その矜持を打ち砕かれたのだから自信喪失するのは当然だ。今のような会話もこの三日間で何度も繰り返されたことでもあった。


(あなたたちには無理よ。薬を使ったってだめだったんだから)

 不意に聞き覚えのない声が響いてきて妾たちはおしゃべりをやめた。声の主を求めて見回すと、部屋の入り口近くに見たことのない女性が立っている。

 長い珊瑚色の髪に青いマントを羽織っている。だがマントの下から覗くレモン色のドレスは派手に裂けているようだ。そして、その姿全体は薄く透けていた。

「…ニーナ…!?」

 朦朧とした頭ではあったが一平には理解できた。それはニーナが息を引き取った時のいでたちであったから。

「ニーナ?本当に、ニーナか?…」

 悠然とした仕草でニーナは一平の方に歩み寄ってきた。

 一平に群がっていた妾たちは一目見てお化けか幽霊の類と認識したらしく、飛び離れては悲鳴を上げ、大慌てで我勝ちに退室して行った。


 肩を竦めてそれを見送り、幽霊のニーナは言った。

(ずいぶんと情けないお姿ですのね。一応ご同情申し上げますわ)

「…相変わらず、辛辣だな…」弱々しく溜め息を吐く一平だった。「だが、ありがとう。おかげで解放された」

(喜ぶのはまだ早くてよ。私はお化けですからね。現世のものに触れることはできないの。残念ながら、その枷を外して差し上げることが不可能なのよ)

「いや、十分だ。これで眠れる…」


 一平は心底ほっとした様子だった。むしろニーナの方が疑問を呈した。

(驚かないのね。死人の私が現れても)

「海へ出て以来驚かされることばかりさ。もういちいち不思議がっていられないと腹を括った」

 その肝の太さも変わらないと思ったのか、一層豪胆さを増したと思ったのか、ニーナは諦めたようで安心したような曖昧な表情を浮かべた。

「事情は…わかっているんだろう?…よく来てくれた。本当に感謝する。何度、おまえが居てくれたら、と思ったかわからない。まさか本当に手を貸してくれようとは思わなかったよ」

(別にあなたのためではありませんから。わかっていると思うけど)

 すげないその語り口がたまらなく懐かしい。一平は思わず微笑んでいた。


「こんな状態で申し訳ないが、オレは今ものすごく眠いんだ。少し失礼してもいいかな…」

(勿論そのつもりよ。安心して、一平さま。しばらくの間ぐっすりお眠りなさいな。来るべき時のために力を蓄えて。ここは私が守って差し上げます。パールがやって来るまでの間…)

 ニーナの言葉を子守歌がわりに聞きながら、一平はすとんと睡魔の国に落ちていった。

 ニーナはそれを見届け、一平の足元に蹲ると、頬杖をついてのんびりと見張りを始めた。



「ナシアスさま」

 パールは副官の元を訪れていた。

「お話があります」

「姫…」

 振り返ったナシアスにパールは速やかに本題に入った。

「私は…これからあの方を助けに参ります」

「え…」

 見ればパールは普段の姿ではない。服装は変わらぬが、その腰に太いベルトがある。そしてそこに収まっているものはあまりに彼女にそぐわないものだった。

 ―青の剣―中剣である。守人の守護する剣だとしても、刃物の苦手なパールは滅多に手にすることはない。


「それは…」

 それは困る。絶対に困る。パールがそう言い出すことは考えられないことではなかったが、許可はできぬ。一平に何と申し開きをすればよいのか。

「ご心配なく。すぐに帰ってきますわ。一平ちゃんを連れて。この間のように」

 パールの言う『この間』がいつのことなのか、尋ねずともナシアスにはよくわかっていた。

「パールにはできるの。それがわかったのです」

「姫は…ご自分の意思で、行きたい所へ行けると仰るか。しかも、他者を連れて」

「ええ」

「……」


 頷くパールの目には強い光がある。これは自分の責務だと、自分にしかできないことだという自負と自信が感じられる。

 少しの間、ナシアスは無言で考えた。パールも黙ってナシアスの返事を待つ。

 多くの言葉をやりとりしたわけではないがナシアスにはよくわかった。並々ならぬパールの決意が。

 結果、ナシアスは静かに口を開く。

「わかりました。では私もお供します。一緒に連れて行っていただけますか」

「まあ…」

 ひとりで行くつもりだったパールはこの申し出に目を瞠いた。

「大丈夫かしら」

 ちょっぴり自信のなさが窺える。

「おや、先程は自信満々のご様子でしたが!?」

「いえ、ね。一人しか連れて跳んだことがないから…」

 帰りはどうしても三人になる。それは初めてのことだ。

「でも多分大丈夫。なるべくたくさん、私に触れていてくださいな」

「少々お待ちください。ピアソラに連絡を入れませんと」


 手早く話を済ませてきたナシアスは再びパールに面と向かった。

「こう…ですかな?」

 恐る恐る、そっと抱き寄せた。パールの方には特に抵抗のある様子はない。だがナシアスは言った。

「これでは…無事に帰れてもどのみち私は一平に殺されてしまうな」

「まあ…」

 パールに手を出したら承知しないぞと真っ赤になって釘を刺した一平の姿が懐かしく思い起こされた。パールはそのことは知らないが、ナシアスの言いたいことはさすがにもうわかる。

「わかりました。ではこうします」

 言うとパールはナシアスの背後に回り、その背に飛びついた。

「これはこれは…これも奴の専売特許ですが」

 平常時ならナシアスの軽口に右往左往させられるのが一平の常だったが、パールも実のところは同様であった。だが小さい子を嗜めるような口調で彼女は言った。

「もう黙って。参ります」

 そして目を閉じ、一心に願った。



 激しい衝撃を感じて一平は目を覚ました。

 何かが自分にぶつかってきたのだ。

「う〜〜」

 ぶつかってきたものが呻き声をあげている。

「姫…どうにかなりませんのか、これは…」

 前頭部を押さえながらナシアスはこぼした。

「ご…ごめんなさい。私…思い描いた所へしか跳べなくて…。お姿を思い浮かべて跳ぶのでどうしてもぶつかってしまうのです」

 そう謝るパールの方はおでこが痛いらしく、無意識に摩っている。

「すぐに痛み止めを…」

 施術を始めようと起き上がって、本来の状況に立ち戻った。


「…一平ちゃん!…」

 壁に括り付けられた愛しい人が優しい眼差しでこちらを眺めていた。

(そうそう。それどころじゃないだろう?お姫さん)

 そう思って、再び「あイタ」と顔を顰めた。一平を含む周囲の状況を一瞥して一層眉を顰めた。

 一平は申し訳程度にしか衣服を身につけていなかった。そこかしこに女性のドレスや下着らしきものが何着も散らばっている。

(一平を助ける前にこいつをなんとかしなきゃ)

 幸いパールには一平しか見えていない。すでに首っ玉に抱きつき縋って涙している。ナシアスは手早く衣類を掻き集め、寝台の下に押し込んだ。一平の服は別の所にあったので、まずはマントを着せ掛けてやろうと拾い上げた。

 一平ちゃん、ごめんなさい、と泣きながら繰り返すパールに一平は優しく語り掛けていた。


「泣かなくていい。おまえのせいじゃないから。オレがしたくてこうなったんだ。オレ自身のわがままだ」

 それを聞いてパールは顔を上げた。

「やっぱりそうなの?」

「やっぱり?」

「翼ちゃんがそう言ったの。今一平ちゃんが言ったのと同じことを」

「翼が?…翼に会ったのか?」

「うん。パールがあんまり泣いてるから助けに来てくれたの」

 一平は驚いたが溜飲を下した。彼の元にはニーナが来た。そういうこともあろう。

「そうか。…また、オレはおまえに助けられたわけだ。ありがとう」

 礼を言うとパールははにかみを返した。


「実をを言うと…待っていた。おまえが来るのを…」

「パールが来るって、思ってた?」

「教えてくれた人がいたんだ。パールが来るって」

 うろ覚えだが、そんなふうに言われた気がしたのだ。ニーナに。

 だが一平はニーナのことは言わないでおこうと思った。パールとてニーナに会いたいはずだ。僻むことになってはかわいそうだ。

 パールは一平に種明かしをしようと勇み込んだ。

「パールね。もうできるの。行きたい所へ行けるの。帰りましょう、一平ちゃん。ナシアスさまと一緒に」

 頃合いと見てナシアスは一平のマントを掲げて近寄った。肩に掛け、不自由ながら留め金を嵌めながら言った。

「すまんな、おまえの意向に背くことになって。だが無理だぜ。このお姫さんを止めるのは」


 以前にもこんなことがあった。ムラーラでだ。頼りになる人にパールを預けたのに、結局戦地に一緒に来てしまった。

「同感だ。きっとオレでも止められない」

「なら頼むなよ」

 口を抂げたナシアスに一平は笑顔で返した。

「一平ちゃん、早く帰ろう」

 急に不安になったのかパールがせっついたが、一平はうんと言わなかった。

「オレはまだ帰れない」



「なんで⁉︎」

 思わずパールは声を荒げた。

「行きたい所へ跳べるのならパール、オレをガラティスの所へ連れて行ってくれないか」

「なんだって?」

 とんでもないことを言い出した一平にナシアスは食ってかかった。

「あの野郎のそばに姫さんを連れて行くのか!?」

「今はそれしか方法がない。すまない、パール。少しだけ、我慢してくれ。おまえはすぐ移動していいから」

 

 一平を送り届けて後、安全な所へ避難しろ、という意味だったが、魔術を駆使するガラリアの手の届かないところがあるかどうかは疑わしかった。

「パールは大丈夫。一平ちゃんと一緒ならどこだって行くよ」.

 むしろパールは微笑んで言う。そう言ってくれて嬉しいとばかりに。

 わからないのはナシアスの方だ。あんなに一平はパールをガラティスに会わせるのを嫌がっていたはずなのに。

「いやだが、しかしだな、…」


「ナシアス」

 一平が真剣な声で言う。

「もうガラティスをこのままにしておくことはできない。戦でけりをつけようと思っていたが、あいつは最前線には出てこない。奴を亡きものにしなければこの先オレとパールの安住の地はない。ここがガラリアの城内なのならば今がチャンスだ。あいつを叩くのは今しかないと思う」

「しかし、あまりに危険だ。四面楚歌になるのがわかっていて敵の陣中に飛び込むなど」

「オレはとうににその状態になっていたさ。何度もな。だが必ずどこかに活路はある。今逃げ帰ってもまた同じことが起こるはずだ。パールを手に入れるまでガラティスは執拗に狙い続けるだろう。オレはそれを阻止したい。今すぐにでも奴の息の根を止める」


 二年前、そうしていればよかったと今更ながら悔やまれる。

「一平ちゃん…ガラティスさまを殺すつもりなの?」

 一平が他者の命を奪うつもりであることを知り、パールは愕然とした。できるなら、そんな恐ろしいことをしてほしくはないのだ。

「だめだよ。そんなことしちゃ、だめ…」

「パール。オレの手はすでに血で染まっている。おまえもよく知っているはずだ」

 日本からの旅の間も、トリトニアに籍を置いてからも、身を守るため、任務のため、数々の妖物や敵兵を屠ってきた。そのための武力だ。そのために彼は大剣使いになった。


「もう後へは戻れないところにきている。オレはガラリアでしばらく過ごしてみてよくわかった。この国の危うさが。ガラリアはまともな国家として機能していない。国王をはじめとして周りの重臣たちも、妾たちでさえも、狂っている」

 言い過ぎではないだろう。信仰の対象のガラ神からして暗黒の心を持っている。延いては下々の人民もその影響を受けているはず。魔術の横行がそれを助長した。大神ポセイドンもさぞお怒りだろう。

「成敗しなければならない。ガラリアは一度壊れた方がいい」

「一平…」

 ナシアスはもう何も言えなかった。彼はオスカーから厳命を受けていた。これから後、一平の判断に従うようにと。



 オスカーは一平の人を見る目を信頼している。そしてよほどのことがなければむやみやたらと他者を糾弾したりはしない。一平が悪しきものと判断したならそれは絶対善ではない。世間一般の目から見てどう見えようと、物事の本質を見抜く才を彼は持ち合わせている。だから従えと。王である自分の言葉よりも自身の剣を捧げた相手の意見を尊重しろと。そしてそれはナシアスも同感だった。

「パール…心配するな。オレが斬ろうというのはガラティスひとりだ。奴が玉座にいることから全てが始まっているのだから、ガラティスさえ消えれば何とかなろう。オレとて殺生は最小限に抑えたい」


 パールは辛そうに手を胸元で合わせていた。だが、一平の言うことにもう反対はしない。

「手を…貸してくれるか?」

 静かに問う一平にパールはこくりと頷いた。

「その前に、もうひとつ頼みがある」

 何かしら?とパールは子犬のように首を傾げた。

「この枷を外してもらいたい。服を着たいんだ」

 このままではいくら何でも格好がつかない。

 一平が括り付けられている嵌め輪は鉄でできている。近くに鍵があるようにも、そもそも鍵穴があるようにも見えなかった。膂力のある者なら馬鹿力で何とかなるかもしれなかったが、パールにはとんでもない話だ。途方もなくお門違いである。

「パールが…やるの?」

「おまえにしかできないから頼んでいる」

「パールにしか?…」

「この間ガラティスに戒められていたオレを救ってくれたのは誰だったかな?」

「!」

 一度近距離を跳躍すればいいのだと気がついたパールはどこへ跳ぼうか思案すると、とてもすまなさそうな顔をしてナシアスを見た。


嫌な予感がした。

「お姫さん…まさか…」

「ごめんなさい、ナシアスさま。ほんのちょっとだけ我慢して。柔らかいところに掴まって覚悟していて」

 構える間もなくパールは一平にしがみついてナシアスの姿を思い浮かべていた。

 次の瞬間、再びナシアスは呻き声を上げる羽目になっていた。

「ぐえ〜〜〜〜」

 一平とパールの下敷きになって伸びているナシアスを、パールが慌てて介抱する。

「ごめんなさい、本当に。許してね、ナシアスさま。命の恩人にこんなこと…本当に、申し訳ないと思っています。すぐによくなりますから…」

 陳謝しつつ施術をするパールを尻目に、一平は笑いを堪えながら手早く身支度を進めた。

 一体オレはいつからこんな三枚目になってしまったんだと、ナシアスの悩みは結構深かった。



 

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