第十六章 拷問
少し前からパールは落ち着かなかった。今も負傷兵の手当てをしていたが、いつになく治療に身が入らない。時折悪寒がして集中力が途切れるのだ。
だが具合が悪いわけではない。健康状態は良好だった。アスランと離れているために乳が張って痛いことはあるが、乳房の中に溜まって悪さを引き起こさないように、時間を決めてきちんと絞り出しているので問題ない。
(何だろう。この感じ…)
言ってみれば地の底の振動が微かに漏れ伝わってくるような感じなのだ。そして感じるのはそれだけではない。不安だ。根拠のない不安。
(なぜ?…)
今パールがいるのは戦地だが、一平さえそばにいればパールには怖いものなど何もない。それなのに…。
パールは一平にそのことを伝えた。
少し前ならば一平に余計な心配をかけることになると考え、黙っていることもあったが、却ってそれは後になって困った事態になることもあるのだと言い諭されてからは、どんな些細な変化でも逐一報告するようにしていた。
「それは…胸騒ぎがする、という意味なのか?」
一平の問いにもパールは答えられない。自分でもよくわからないのだ。
青の剣を通してウート老に相談してみると、予知の一種であろう、ということだった。自然界の何らかの変化をパールの魂が感じ取っているのではないかというのだ。
(予知…自然界の変化…か…)
ナシアスを含め、三人で思いあぐねていると、急を知らせる法螺貝が鳴り、ナシアスのエルシーが輝きを帯び始めた。
通信はナシアスの部下からのものだった。
「大隊長!大変です。竜巻…いいえ、渦が…大渦が北西の方角からこちらへ向かっています」
「何⁉︎」
渦というものは地形や潮流によって発生するものだ。膨張や収縮を繰り返すことはあっても、その場から大きく移動することはない。それなのに、大渦が物見処に向かって進んでくるという。
北西にはガラリアがあった。となれば、この渦が自然発生的なものでないことは明らかだ。ガラリアの魔術によるものに違いない。ガラティスは自然の力を利用してパールを手に入れようとしているのだろう。
「規模は?」
即座に聞き返すナシアスに部下が自信なさげに応対した。
「まだ少し距離があるので誤差がありますが、物見処が吹き飛ぶほどの大きさではないかと思われます」
「よし。見張りの兵や外で作業中の者を中入れろ。なるべく閉鎖された部屋で身体を固定しろ。尚且つ大渦の観測を、危険が及ばない状態で続けるんだ」
ナシアスが的確な指示を飛ばすのを耳に入れながら、一平は窓から北西の方角を見遣った。なるほど、遥か彼方に怪しいものが見える。
(このことか…)
パールの悪寒はやはり予知だった。
(ガラティスめ…)
「来い。パール」
一平は有無を言わさずパールの手を引いた。
一番奥まった所にある用足し用の小部屋へパールを押し込むと、その体を壁の突起や凹みを利用して剣帯で括り付けた。
尚且つ手摺りを掴ませ、決して離すなと念を押して帳を閉じた。トリトニア風の帳などカーテンのようなものだが、単なる気休めでも目隠しにさえなればそれでよかった。
一平自身はその前に陣取る。
身体を固定はしなかった。何があってもパールを守れるように、パールから離れないように。常にパールの傍らにいて対応することを選んだのだ。
物見処内が騒然となっているのがここにいても感じられる。自然界では想定しうる現象だが終始直面するような事態でもない。修錬所で講義も受けているはずだし一貫の訓練の中にも含まれている。だから決してパニックに陥っているわけではないのだが、初めて経験する者が大多数なのだろう。不安と興奮が波動となって響いてくる。
「…一平ちゃん…」
か細いパールの声がした。
「なんだ?」
応えを返しながら一平は思った。中でもパールが一番怯えているはずだと。
「大丈夫だ。オレがついている。大渦だろうが竜巻だろうが絶対におまえを捕らえさせたりしない」
「一平ちゃん、覚えてる?」
「ん?」
勇気づけたつもりが、声に不安を感じず、一平は思わず顔を上げる。
「大渦って、あれでしょ?大きな亀さんのいたところにあった…」
なんと懐かしいことか。そう、一平とパールは既に大渦に遭遇したことがある。いや。遭遇したのではない。わざわざ自分から飛び込んで行ったのだ。トリトニアのことを知っているかもしれないという大亀を訪ねるために。六つの渦の間を潜り抜けるという大冒険の始まりだった。
「ドンか。そんなこともあったな…」
「あの時も一平ちゃん怪我しちゃったんだよね。いっぱい血が出て、パールとっても悲しかった」
「でもおまえが治してくれた」
あの頃からパールには癒しの力があったのだ。今のように自在には操れはしなかったが。
そう。一平はパールの患者第一号だ。それ以来、パールは着々と力をつけ、今ではこのトリトニアはおろか、全ポセイドニアで推しも推されもせぬ医術のプロ、癒しの姫として名を馳せ、人々に貢献している。
それに比べて、自分はあの時のままだ。パールのことしか見ていない。パールのことしか考えていない。国を守る守人の地位にありながら、自分の妻のことが第一で…。
そんな感傷を一気に吹き飛ばすべく、不気味な物音は急激に勢力を増してきた。一平を取り巻く海水が建物の外の方向に流れてゆく。
一平は帳を開け、パールの身体を引き寄せて抱き締めた。
「これからも治してあげるよ」
腕の中から可愛い声がして、一平は一瞬ナポレオンの境地になった。
『余の辞書に不可能の文字はない』
有名なナポレオンの名言だ。
パールがいれば自分は何だってやってのけられると。
「…よろしく頼む」
流れはどんどん強くなってくる。窓から見える景色も最前とは全く違うものになってきた。
「これが…大渦?」
太平洋で見たものとはまるで違っていた。一番の違いは色だ。トリーニ物見処へ向かってくる渦は黒かった。それも真っ黒だ。暗黒の色。まるで宇宙が渦を巻いて迫ってくるように思えた。
「一平!」
ナシアスが戻ってきていた。尋常でない大渦の姿に、流石に二人が心配になったらしい。
「変じゃないか?こいつ…。まさか…」
一平も同じように思っていた。
「まだ被害はないか?」
「ああ。固定されてないものは吹っ飛んでるが、日頃の訓練の賜物だな。みんな一応落ち着いたもんだ。それより気になるのは…。笑うなよ。何だかこの渦は生きてるみたいな気がするのはオレだけか?」
「多分正解さ。この指向性。渦は真っ直ぐにこの部屋を狙ってる。勿論狙いはパールだ」
「魔術か!」
「絶対にパールを渡すな。死守する!」
「承知!」
これだけの会話も声を張り上げなければ聞こえないほどになっていた。ぴゅうびゅうごうごう唸り声を上げて大渦は一平たちの周りの細々としたものを吸い上げ引きちぎり丸裸に剥いて行った。
パールを壁に固定していた剣帯もとうに用をなさなくなっており、手摺りに掴まっているのはいつの間にかパールではなくナシアスに変わっていた。
そのナシアスがパールの腕を掴み、身体は一平が掴んで部屋の凹みに押し付けている。
渦の勢いはますます強くなり、一箇所を抉るようにぐりぐりと三人に踊りかかってくる。
「うおっ!!」
遂に一平の身体が掬い上げられた。パールと一平の身体が浮く。
「一平!」
ナシアスが叫ぶ。
咄嗟に手摺りに左腕を入れ直してパールを掴み直し、右腕で一平の手を捉える。ぐいと力を込めた。
(無理だ!ナシアス、いくらおまえでもオレとパールの二人を支えるなんて)
一平は瞬時に心を決めた。
「放せ。ナシアス。パールを頼む!」
ナシアスとパールの目が大きく瞠かれる。
「一平!」
「一平ちゃん!」
二人が同時に叫んだ。
一平はパールを支えていた右手を左手に添え、自分の左手を掴むナシアスの手の指を引き剥がしにかかった。
「阿呆!」
詰っても一平は聞く耳を持たない。
「パールを頼む」
もう一度同じことを言って一平は最後の一本を外した。
「!」
「いやああ、あああ…」
パールの絶叫と共に一平の姿は黒い渦に飲み込まれて行った。
一平を飲み込んだ黒い渦は彼を再びガラリアへと運んだ。
意識を取り戻した一平の目にはにっくきガラティスの脂ぎった顔が映っていた。勝ち誇った笑みを浮かべ、ガラティスは言った。
「おぬしだけか。…ちと残念だがそれもよかろう。鬱憤晴らしにはなろうからな」
拷問にかけるつもりなのか嬲り殺しにするつもりなのか。いずれにしろあまり有り難くない状況になったようだ。だがパールをここに伴ったり、一平の命が既になかったりするよりはずっとましである。
一平の両手両足首にはぴったりとした嵌め輪が着けられていた。
冷えた溶岩で囲まれた小部屋には簡素な寝台があるだけだ。いや、よくよく見ればそれだけではない。溶岩の壁には金属製の嵌め輪が括り付けられている。人の背の高さほどの所に二箇所、足元に二箇所だ。
「ご大層な部屋だな。ここで何人の人間を死に至らしめた?」
見ればわかる。この嵌め輪は手枷足枷だ。虜囚に手酷い仕打ちを加えるため、壁に貼り付けて身動きならなくさせるためのものだ。多少錆びてはいるがまだ朽ちるほどではない。頑丈そうだ。
ということは長らく使われていなかったわけではない。ガラリアの城内で、そのようなことが頻繁に行われていたということになる。
その上ガラティスはガラリア兵にに大きな岩の塊を二つ持って来させていた。岩には楔が打ち込まれ、金具のついた鎖が取り付けられている。金具の先を足首の嵌め輪に繋ぎ、更にそれを壁の嵌め輪に繋ぐ。万が一壁から外れても大岩が重石になり逃げることは叶わない。
手枷も長い鎖で壁の嵌め環と繋がれた。
それらを繋ぐ作業を他人事のように眺めながら一平は言った。
「一体オレから何を聞き出すつもりなんだ?」
ガラティスの狙いはパールの持つ力のはずだった。額の徴もとうに練り土という形で提供している。もう一平から訊き出せるものなど何もないはず。
「フン」
口の端に歪んだ笑みを浮かべ、ガラティスは兵に向かって何かを招き入れるような仕種をした。部屋の岩戸が押し開けられ、五人の女性が入室してきた。
一平は思わず眉を顰めた。
女たちは選りすぐりの美女といった風情だ。ひょっとしてガラティスの妾たちか?と一平は思った。
「さあ。どの女でもよいぞ。わしの気に入りだがおぬしに貸してやろう。抱いてみせろ」
「?」
突拍子もなさすぎて一瞬何を言われたのか分からなかった。
ガラティスは大したものだろう、とでも言いたげに得意顔で頷いている。コレクションを自慢する愛玩家か、手持ちの駒はこんなにあるのだぞと見せびらかす素人棋士であるかのように。
「頭がおかしいのか?」
そうとしか思えずそのまま口に出してしまった一平だった。
わかっていたことではあったが、やはりこいつは変態だったのだ。それにしても一国の主ともあろう者が何という体たらくか。それを容認しているガラリアという国に心の底から失望した。
ガラティスだけではない。呼び寄せられた妾たちにしても、国王の言を聞いて顔色ひとつ変えず眉一筋動かさないのはどうしたことだろう。
「どれも皆いい女だろう。トリトニアの姫もなかなか可愛らしいが成熟したとは言い難い。おぬしも本当は満足してなどおらんのだろう?折角このわしがその気になっているのだ。ここらで少しいい思いをしておいてもバチは当たらないのではないかね」
「やはり狂人だな」
一平は言い捨てた。
「おぬしの方こそどうかしておるぞ。人の好みはそれぞれだがそのガタイでロリータ趣味は似合わぬぞよ」
「パールは立派に大人の女性だ。分別も慎みも人並み以上に持ち合わせている」
頭の変な人間に何を言っても無駄かと思われたが、パールを誹謗されて黙っているわけにはいかなかった。
「それでものう…」
ガラティスは勿論主張を変える気はない。しかしそんなことより何が目的かだ。気狂いの戯言で済ませられる状況ではない。何しろ拷問部屋に閉じ込められているのだから。
「一体何が知りたい?」
単刀直入に一平は訊いた。これでは活路を見出せないからだ。
「ほう。協力する気になったかね」
「協力?」
脳裏に蘇る。数ヶ月前のとんでもない出来事が。
あの時ガラティスは一平にパールを抱かせてカミーラの徴を覗き見ようとしたのだ。その徴にトリトニアの秘宝の在処が記されていると信じて。
他人の性行為を覗こうという破廉恥な行動を臆面もなくやってのけられる神経を一平は蔑んだ。
「貴様に協力するいわれはない」
「そのようなことを言ってよいのかな。この部屋がどういう性質のものかもう察しはついているだろうに」
いやらしい笑いが再びガラティスの表情を歪ませた。
「したいのならするがいい。だがはじめに言っておくが、トリトニアにあんたが思っているような秘宝などどこにもないぞ。少なくともオレは知らぬ」
「知らぬ奴から聞き出すことほど無駄なことはないさ。わしの知りたいのはおぬしがどうやってあの姫にエクスタシーを与えたかということさ」
「……」
そういうことは人それぞれだ。こっちの人間に当てはまったからと言ってそっちの人間に効果があるとは限らない。勿論相手にもよる。そう言うとガラティスは言った。
「なに、あくまで参考だ。ガラリアにはああいう娘は少ないのでな。今後のために教えてほしいのだ」
(今後のためぇ!?)
一平の柳眉が立った。
またパールを捕まえて同じことを試みようというのか。
断じて許せるものではなかった。
「断る」
一平は激しく言い切った。
「何?」
ガラティスは予想外だとばかりに顔を顰めた。
こんなことを諾う方がどうかしているが、ガラティスにとっては意外だったらしい。
「有り難みのない男だな。こんな好機を。…そうか、見物人がいるから恥ずかしいのだな。…それなら席を外してやろう。女たちから聞き出せばよいことだ」
(ばかか!)
思ったが今度は口には出さなかった。あまりにもアホらしくて。
「辞退したいと言っている」
言葉の丁寧さとは裏腹に一平の眼光は鋭い。流石に意思は固いと感じ取ったガラティスは方策を変えてきた。
「ではうんと言いたくなるまでこちらの趣向に付き合ってもらおうか」
ガラティスの言う趣向とはなんと眠らせぬことだった。一平が並外れた精神力と武力、体力を持っていることから考えたのだろう。
それから三日の間、一平は食事を与えられず、括り付けられたまま過ごすことになった。
勿論何もすることはできない。
人は水さえ摂取することができれば一週間や十日生きていることができるが、睡眠をとることが出来ないと死ぬ。幻を見たり妄想に入ったりして気が狂う。そういう拷問をガラティスは実行した。
眠らせぬために見張りにつけたのは件の女たちだ。交代でそばにいるだけではない。一平が睡魔に襲われかけると刺激を与えて目を覚まさせる。刺激にしても通り一辺倒のものではなかった。鞭や刃物などで傷をつけるのが一般的だろうが、眠らせなければよいのだからわざわざ見苦しい見せ物にすることはないというのがガラリア…というかガラティスの主義だった。男性が女性を辱めるのと逆のことを女たちに命じたのである。
これには流石の一平も閉口した。見方を変えればハーレム状態だが、生憎と彼の性質はそういうことに鼻の下を伸ばして受け入れられるものではなかった。
以前にもネフェルティアのクローンの女たちに同様の目に遭わされていたが、意志の力で頑として受け付けなかった。一平は修錬所の青科で精神を鍛えていたし、『心頭滅すれば火もまた涼し』といった言葉に集約されるような厳しい修行にも励んできた。しかも、当時と違って恋女房を得た今では性生活にも十分満足している。何をされようとも彫像のように動かず、精神を統一して外部から加えられる刺激に反応しないよう己を律することができる。
だがどういうわけか目を閉じることができなかった。
ガラリアお得意の魔術によるものだということは想像がついたが、いくら精神力で攻撃を跳ね除けても目を閉じなければ眠ることはできない。身体へのストレスは少しずつではあるが蓄積されていった。




