16 鴨川高校 雨乞い 7
夜も遅くなったため、本格的な片付けは明日の朝から行うことになった。
鴨高の生徒たちは、それぞれの胸にやりきった満足感を抱き、帰っていく。
ネットのほうは、最後の爆発的な盛り上がりで随分挽回したものの、まだ甲子社とは大きな差があった。
俺が、池に残っている生徒がいないか確かめていると、天見がやってきた。
「先生、もう一回、携帯貸してもらっていいですか」
「泉さんか」
「はい。友達にも借りて途中で何度かかけたんですけど、全然だめで」
天見は泉さんに電話をかけた。
長い呼び出し音のあと、
「もしもし、どなた?」という声が、こちらまで聞こえた。
「あ、泉さん。大丈夫?」
俺は、天見が泉さんと話しているのを見ていた。
どうやら、大丈夫らしい。
高熱でずっと動けなかったところへ、近所の人が来て、世話をしてくれていたという。
熱で朦朧として眠り続けていた泉さんは、天見の夢を見ていたらしい。
「お前が龍のような雲に乗ってる夢を見たよ。そしたら、この電話で目が覚めたんだ。不思議だったね。 あれだけしんどかったのも、随分楽になったよ。お前の声を聞いたからかね。ありがと、ソラ」
泉さんは、そんなことを言った。
家には近所の人がいてくれている。熱も少し下がり始めているから心配いらない。
それどころか泉さんは、応援に行けなかったことを詫びていた。
「またおいで」
泉さんが最後にそう言って電話が切れた。
天見は、ほっとした顔で携帯を返してくる。
「良かったな」俺は言ってから、彼女の顔を見た。
「……ところで天見、お前は大丈夫か?」
「はい。さっきはすみませんでした。先生までずぶ濡れにしちゃって」
「いや、そっちじゃなくて」俺は少し間を置いた。
「お前、今日は家のほうは大丈夫なのか?」
途端に、彼女の表情が変わった。
「お前、昨夜、どうしたんだ? 家で何かあったんじゃないのか」
天見はグッと何かを噛み締めるように俯いた。
俺は、彼女が話し出すの黙って待った。
やがて天見は、言葉を探しながら、ゆっくりと話し始めた。
「実は……私、昨日、家を飛び出して来ちゃったんです」
天見によると、母親が学校を辞めさせると、毎日のように言う。
それは夏休み、対抗戦の頃から始まった。ことあるごとにそう言われ、ついに昨日、これまでにない強さで迫られた。それでどうしようもなくなって家を飛び出した。
「考えたら、私、これまでこんなことなかったんです。この前、帰れなかったみたいに、動けなくなることはあっても、自分から逃げ出したこと……」
天見の声は小さかった。
俺は、家までついて行こうか、と言った。だが、彼女は首を振った。
どうするべきか、俺もしばらく考えた。
「家から離れることを、真剣に考えてみてもいいんじゃないか」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「それなら花山さんに相談して、緊急避難で施設に行くこともできる。場合によったら、泉さんを頼ってもいい。俺が説明してやる」
天見は黙って聞いていた。
「お前ももう高校生だ。一人の人として家を離れてみるっていうのは、いつだってできることなんだぞ」
そう言った俺も、それが正しい答えなのか分からなかった。
教師として。大人として。
それでも、彼女が昨夜どんな思いで家を出たのかを考えれば、何もしないわけにはいかなかった。
天見は、じっと池を見ていた。そして、静かに言った。
「先生、ありがとう」少し間を置いて。
「……でも、私、今日は帰ります」
驚く俺のほうを、天見はしっかり見た。
「私、やっぱりあの家にいたいんだと思います」
言葉を探すように、彼女は続けた。
「先生と話してて、やっぱり今はあの家にいることが、私の望みなんだって分かった気がする。何でだろ……今このまま離れても、自分の体と心は、きっとあの家から出ることはできないっていうか。そういうの、まだ想像もできないんです」
天見は一度、目を伏せた。
「怖いって言うのが正しいかもしれません」そして顔を上げる。
「先生、もう少し時間をください。先生が私のこと、一生懸命に考えてくれているのは分かるから、私もこれから真剣に考えてみます」
「そうか……」俺は池を見た。
「今は、そうなのかもしれないな。なんか、分かってないのに言い過ぎた。すまん。でも、いつでも何かあったら連絡してこいよ」
「はい。花山先生にも電話、教えてもらってるから、大丈夫です」天見が笑った。
「もう昨日みたいなことはしません。なんたって、私、雨乞い、やり遂げましたから」
そう言って顔を上げた天見の瞳は、澄んだ空色に見えた。




