5 六月の暑すぎる仰天 4
「おい、もういいかソラ。そろそろ高岸の婆さんが飯をくれる時間なんだ。俺、行くぜ」
トビといわれた三毛猫は、画用紙の中から、俺を見上げた。
「なあ、あんたのことよく知らないけど、おいらが見えるってことはさ、これは縁だぜ。だから……ソラのこと、よろしく頼むぜ」
そういうと身を翻し、画用紙の外へ向かって跳んだ。猫は消えていた。
俺は思わず、今猫がいた画用紙を触って確かめる。真っ白になった画用紙にはなんの痕跡も残っていなかった。
「お前の話だと、あの猫、現実にいるんだよな」
「ええっと、今頃、家の近所の屋根の上にでもいるんじゃないかな。トビは近所の野良なんで」
ふーん、と唸ったきり俺は次の言葉が出てこなかった。確かにこれは現実だ。だが、あまりに突拍子のない話で、すでに俺の理解の域を遥かに超えていた。
こうなると、ただあったことをそのまま受け止めるしかない。
Let it be.
俺の脳内では、そんな古典ロックのフレーズが繰り返されていた。
そんな中でも、トビって奴が最後に言った言葉が、フックとなって俺の胸に引っかかっていた。
「天見。お前、なんか困ってることあるのか?」
俺は言葉にしてみたが、天見はぶんぶんと頭を横に振った。
「何にもないです。トビのいうことは気にしないでください。あの子はいつも気まぐれなんで、言うこともしっちゃかめっちゃかだし。それより、先生、このこと絶対に誰にも言わないって約束してもらえますか」
「もちろん。お前がそれを望まない限り決して他言はしない。まあ、誰かに言ったとしても信じてもらえるとは思えないけどな。自分でも、こうやって、ほっぺをつねりたいくらいだ」
俺は、そういうと、自分の頬を、ぎゅっとひねって見せた。
「いて! な、やっぱり痛い」
天見の表情が、少しほどけて笑顔になった。
そこへ突然、ドタドタと廊下を走る音がして、ガラリと戸が開いた。
勢いよくやってきたのは伊山だった。
「ああ、やっぱりここにいたんだ。あれ、葉山先生も。ソラ、練習、人が足りないんだよ。来れるんだったら練習に来てよ」
「うん、今、行こうと思ってたとこ」
「あ、先生も担当なんだから、たまには平日も覗きに来てくださいよ。よし行こう、ソラ」
天見は、今の話が全部なかったかのようにして、伊山と賑やかに行ってしまった。
見送る俺は、まさに狐に騙された気分だった。
廊下の向こうで、天見の笑い声が弾けた。
さっきまでの少女とは、別人のようだった。
……いや。
たぶん、こっちが本当の天見なのだ。
俺にはまだまだ見えていないものがたくさんある。それが、よくわかった。
担任として何を見てたんだろって気分になり、俺は、しばらくそこを動けなかった。




