落とし穴はより深く
最高学府オックスオード大学での僕たちの日常は、おおむね三つの顔を使い分けることで回っている。
一つは、「平凡でお人よしな貴族の学生」としての顔。
一つは、「バカ王太子の尻拭いをさせられている哀れな側近」としての顔。
そして最後が、裏で商人たちを救う「冷徹な弁護士」としての顔だ。
朝靄に包まれた歴史ある大講堂。法学部の講義室には、何百人もの優秀な学生たちがひしめき合っている。
「――では、17世紀における『土地占有権と王室特権の競合』について、この矛盾をどう解釈すべきか。誰か答えられる者はいるか?」
老教授の厳しい問いかけに、講堂内が水を打ったように静まり返る。
そんな中、スッと真っ直ぐに細い手が上がった。
「はい。1640年の『リチャード卿対王室領地事件』の判例に照らし合わせれば、王室特権であっても事前の適正な補償なしに個人の占有権を侵害することは、マグナ・カルタの精神に反し違法と見なされます。したがって……」
鈴を転がすような、凛とした美しい声が響き渡る。
完璧な法解釈と淀みない回答に、老教授は満足げに深く頷いた。
「見事だ、特待生のエレノア君。君の明晰な頭脳は、我が大学の誇りだよ」
「過分なお褒めの言葉、恐悦至極に存じます」
エレノアが優雅に一礼して席に座ると、周囲の男子学生たちから「おお……」「やはり氷の姫君は美しい……」と感嘆の溜息が漏れた。
彼女はオックスオードにおいて、才色兼備の特待生として完全に一目置かれる存在となっていた。
公の場での彼女は、誰に対しても礼儀正しく、しかし決して隙を見せない「高嶺の花」だ。
講義が終わると、当然のように何人もの貴族の令息たちが彼女を取り囲む。
「エ、エレノア嬢! もしよければ、この後の中庭でのティーパーティに……」
「お誘いいただき光栄ですが、申し訳ありません。私には、この後すぐに果たさねばならない重要な責務がございますので」
エレノアは冷たく美しい微笑みで彼らを一蹴すると、群がる男たちをすり抜け、迷うことなく僕の席の後ろへとやってきた。
「アーサー様。次の講義まで少し時間がございます。図書室で予習をなさいますか? それとも、中庭で少し休息をとられますか?」
先ほどの「氷の姫君」とは打って変わって、主人に付き従う完璧なメイドとしての顔。
周囲の学生たちが「なぜあんな絶世の美女が、アッシュクロフト家の三男坊なんかの世話を……」「アーサーの奴、王太子にこき使われてるくせに生意気な……」とヒソヒソと囁き合っている。
「ありがとう、エレノア。少し頭を休めたいから、中庭のベンチに行こうか」
僕は周囲の視線に気づかないふりをして、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて立ち上がった。
* * *
緑豊かな中庭のベンチで、エレノアが魔法のようにどこからか取り出した水筒から、温かい紅茶を注いでくれる。
「どうぞ、アーサー様。今朝淹れたダージリンです」
「いつもすまないね。……それにしても、相変わらず君は人気者だ」
「ご冗談を。有象無象の羽虫がいくら群がろうと、私の視界にはアーサー様しか映っておりませんわ」
エレノアは周囲に人がいないことを確認すると、ほんの少しだけ僕に距離を詰め、その美しい瞳に熱を宿して囁いた。公の場での「完璧な特待生」の仮面の下には、僕への底なしの愛情が常に渦巻いている。
そこへ、騒々しい足音が近づいてきた。
「おい、アーサー! ここにいたか!」
「あーん、殿下ぁ。歩き疲れて足が痛いですぅ」
我が国の王太子エドワードと、彼にまとわりつく男爵令嬢のリリーだ。
エドワードはドサッと、分厚い羊皮紙の束を僕の膝の上に投げ捨てた。
「昨夜、リリーを連れて観劇に行った際の領収書だ。大学の『文化視察費』として経費で落ちるように、お前の方で上手く書類を作っておけ。それと、明日の政治学のレポートも頼んだぞ」
「かしこまりました、殿下。私にお任せください」
僕は立ち上がり、穏やかな微笑みを崩さずに完璧な臣下として頭を下げた。
エドワードは「ふん、当然だ」と鼻を鳴らし、リリーとイチャイチャしながら去っていく。
彼らの背中が見えなくなった瞬間、僕とエレノアは同時に冷ややかな視線を落とした。
「……王室の予算だけでなく、ついに大学の経費まで個人的な遊興費に。これで、教育委員会と議会にも告発する口実ができましたね」
「ああ。バカが自分から薪をくべてくれるおかげで、彼を燃やす炎の準備は万端だ」
僕は押し付けられた領収書の束を、大切に証拠品として鞄の中にしまった。
帰り道、大学のメインストリートで、取り巻きを連れた宰相令嬢ヴィクトリアとすれ違った。
彼女はエドワードの婚約者として、学内でも女王のように振る舞っている。
僕とヴィクトリアは、すれ違いざまに立ち止まり、貴族としての通り一遍の挨拶を交わした。
言葉は交わさない。しかし、目が合ったほんの一瞬だけ、彼女の聡明な瞳が「順調ですか?」と問いかけ、僕が微かな瞬きで「完璧に」と答える。
誰にも気づかれない、共犯者同士の静かな暗号だった。
* * *
夕刻。
オックスオードの街の外れにある、僕たちの小さな下宿。
重厚なオーク材のドアを閉め、外の世界との境界線を引いた瞬間――。
「……アーサー様。本日も一日、本当にお疲れ様でございました」
エレノアの声色が、公の場での「冷たい姫君」でも「完璧な特待生」でもない、ひどく甘く、とろけるような響きに変わった。
彼女は僕の前にそっと膝をつき、僕の革靴の紐を解き始める。
「ありがとう、エレノア。君も講義に証拠集めにと、大変だっただろう」
僕が労いの言葉をかけると、彼女は上目遣いで僕を見つめ、そのまま僕の膝にすりりと頬をすり寄せた。
「いいえ。……ですが、外にいる間はアーサー様に触れることもできず、他の方々の目があるため、ずっと我慢しておりました。……胸が、ひどく苦しかったですわ」
慎み深く、けれど隠しきれないほどの熱量を持った言葉。
彼女の指先が、僕のズボンの裾をギュッと強く握りしめている。
外では誰にも見せない、彼女の重すぎる愛情が、二人きりの空間になった途端に決壊したのだ。
「……エレノア」
僕が彼女の肩に触れると、彼女は縋るように立ち上がり、僕の胸の中にすっぽりと収まった。
「ああ、アーサー様の匂い……。これでようやく、息ができます」
彼女は目を閉じ、僕の心音を確かめるように深く息を吸い込む。
表向きは、愚かな王太子の言いなりになる凡庸な学生と、それに付き従う美しい特待生。
しかしこの扉の内側では、国を揺るがす証拠を握る冷徹な悪魔と、彼にすべてを捧げる重愛のメイドが、互いの熱を確かめ合っている。
「さあ、旦那様。今夜もスターリング様から、商館のトラブル解決の依頼が届いておりますよ。……その前に、私が全身全霊で、貴方様のお疲れを癒やして差し上げますわ」
甘い彼女の微笑みと共に、僕たちのオックスオードでの二重生活は、静かに、そして確実にクライマックスへと近づいていた。




