持たざる者の盾
オックスオード大学での裏工作が着々と進む中、僕のもとに商業ギルドのトップ、ウォルター・スターリング氏からの急ぎの使者がやってきた。
王都の隅にある小さな機織り工房。
油の匂いと糸埃が舞う薄暗いその場所で、僕とエレノアはスターリング氏、そして一人の年老いた職人と向き合っていた。
「アーサー先生……どうか、お助けくだせえ。この機械は、わしら職人の血と汗の結晶なんです……」
ハリスと名乗る初老の職人は、油に塗れた節くれだった手で顔を覆い、すすり泣いていた。
彼の背後には、彼が十年の歳月をかけて開発したという「新型の蒸気力織機」が鎮座している。これがあれば、平民の職人たちでも貴族の大規模工場に負けない生産力を得られるはずだった。
「ひどい話だ」
スターリング氏が葉巻を燻らせながら、低い声で吐き捨てるように言った。
「ハリスの工房の地主であるケイツビー男爵が、新型織機の完成を聞きつけるなり、突然、地代を過去に遡って十倍に引き上げたのだ。当然払えるわけがない。男爵は『地代滞納の正当な担保』として、この工房と新型織機、つまり特許ごとすべてを合法的に奪い取ろうとしている」
ケイツビー男爵。エドワード王太子派閥に属する、強欲で有名な悪徳貴族だ。
平民が血の滲むような思いで生み出した価値を、法の抜け穴と権力を使って根こそぎかすめ取る。前世で何度も見てきた、吐き気を催すような搾取の構図だった。
「……なるほど。状況は理解しました」
僕は手元の契約書と、男爵からの『差し押さえ通告書』に目を通し、静かに目を閉じた。
前世の記憶が疼く。力なき者が泣き寝入りし、ふんぞり返る悪党がのうのうと生きる世界など、僕は絶対に認めない。
「アーサー様」
横に控えていたエレノアが、スッと一枚の書類を僕の前に差し出した。
それは、彼女が事前にギルドの資料室から探し出しておいてくれた、王国の特許法に関する古い書物だった。
「ケイツビー男爵は『土地賃貸借法』を盾にしていますが、ハリス様の織機はすでにギルドを通じて『仮特許』の申請を通しております」
「ああ、完璧だ。……エレノア、君は本当に最高の相棒だよ」
「もったいないお言葉です」と慎ましく一礼する彼女の瞳の奥には、弱者のために戦おうとする僕への、隠しきれない熱烈な敬意が揺らいでいた。
* * *
翌日。
ハリスの工房に、ケイツビー男爵が数人の屈強な私兵を連れて乗り込んできた。
「さあ、時間切れだ! 地代が払えないなら、契約通りこのガラクタは私が没収する! 貴様ら平民は、一生私のために機を織り続ける奴隷だ!」
男爵が下品な笑い声を上げ、私兵たちが新型織機に手を掛けようとした、その時だ。
「――そこまでにしていただきましょうか、男爵」
工房の入り口から、僕とエレノアが静かに足を踏み入れた。
「ああん? なんだ貴様は。子どものお使いなら帰るんだな」
男爵が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「私はアーサー・アッシュクロフト。ハリス氏の法務代理人です。男爵、一つ確認させてください。貴方は今、この差し押さえが『法に基づいた正当な権利』だと仰いましたね? 間違いないですね?」
僕はいつもの「穏やかな微笑み」を浮かべ、念を押すように問いかけた。
「当たり前だ! 私は地主だぞ! 滞納者から財産を没収するのは法で認められた貴族の正当な権利だ!」
「……正当な権利?」
その瞬間。
僕の顔から微笑みがスッと消え去り、極寒の吹雪のような冷酷無比なディベーターの顔が浮かび上がった。
「ふざけるなッ!!」
鼓膜を劈くような僕の怒声に、男爵が肩を跳ねさせる。
僕は無言で大股に歩み寄り、男爵の目の前にある木箱の上に、エレノアから受け取った書類を凄まじい音で叩きつけた。
「バンッ!!」
「よく見なさい! ハリス氏の織機はすでにギルドの『仮特許』が認可されている! 『1750年・産業振興法』によれば、国家の産業発展に寄与する特許申請中の品を、私的な債務回収のために接収することは、国家の財産を私物化する『反逆行為』とみなされる! 貴族の権利どころか、ただの国賊行為だ!!」
「なっ……! ば、馬鹿な! そんな法律……!」
「まだあるぞ!」
僕はさらに一歩踏み込み、後ずさる男爵の顔に自分の顔をギリギリまで近づけ、その目を射抜くように睨みつけた。
「過去に遡っての不自然な地代の十倍への引き上げ! これは『優越的地位の濫用による恐喝罪』だ! もしこの機械に指一本でも触れれば、貴方を国家反逆と恐喝の罪で即座に起訴する! 貴方のその首が、物理的に胴体から離れることになるが、それでもやるというならやってみろ!!」
「あ、あわわ……っ」
男爵は滝のような冷や汗を流し、顔面を蒼白にしてガチガチと歯を鳴らしている。
「私は、王太子殿下の派閥だぞ……! 殿下に言えば、お前など……!」
「ほう。では、エドワード殿下が『平民から特許を不当に奪い取る国賊のパトロンである』と、大々的に世間に公表しても構わないと言うんだな!?」
「ひぃっ!!」
王太子の名前すら通用しないと悟り、退路を完全に断たれた男爵は、ついに膝から崩れ落ちた。
「法を盾にして弱者をいたぶり、私腹を肥やす……。貴方のような人間のクズを、私は絶対に許さない」
僕はネクタイを少しだけ緩め、冷ややかに、しかし燃えるような怒りを込めて言い放った。
「……さあ、今すぐこの不当な契約の破棄にサインしなさい。そして、血の滲むような思いでこの機械を作り上げた職人たちに――」
僕は、床にへたり込む男爵を見下ろして、静かに、しかし絶対の命令として告げた。
「這いつくばって、土下座して謝れ」
「あ……ああ……っ、申し訳、ありませんでしたぁぁっ!!」
恐怖に完全に心を折られた男爵は、屈強な私兵たちが見ている前で、油まみれの床に額を擦り付け、惨めに許しを乞うたのだった。
* * *
「アーサー先生……っ! ありがとうございます、本当に、ありがとうございます……!」
男爵が逃げ帰った後、ハリスを始めとする職人たちが、大粒の涙を流して何度も頭を下げた。
「顔を上げてください。皆さんの努力の結晶が、法によって正しく守られただけですよ」
僕は冷徹な仮面を外し、いつもの穏やかな笑顔に戻ってハリスの手を握った。
その光景を、背後で見守っていたスターリング氏が満足げに頷いた。
「見事だ、アーサー卿。やはり私の目に狂いはなかった。貴方は単なる弁護士ではない。権力の理不尽から弱き者たちを守る、決して砕けぬ盾だ」
スターリング氏の言葉に、職人たちも口々に賛同の声を上げる。
薄暗い工房の中に、僕を称える歓声が響き渡る。
この一つの事件を明確な決定打として、僕は王都の商人や平民たちから、深い敬意と信頼を込めてこう呼ばれるようになった。
理不尽を打ち砕く、『持たざる者の盾』、と。
* * *
その日の夕刻。
下宿へ戻る馬車の中で、僕はどっと押し寄せてきた疲労に小さく息を吐いた。
「お疲れ様でございました、アーサー様」
向かいの席に座っていたエレノアが、静かに隣へと移り、僕の乱れたネクタイを直してくれた。
彼女の白く細い指先が、僕の首元に触れる。公の場を離れ、二人きりの密室となった馬車の中で、彼女の体温がほんの少しだけ高く感じられた。
「ありがとう、エレノア。君の完璧な資料のおかげで、今日も彼らを守ることができたよ」
「いいえ。あの悪党を圧倒した凄まじい気迫も、弱き者に向ける温かなお心も……すべて、アーサー様ご自身のものです」
エレノアは慎ましく微笑むと、僕の胸元にそっと額を押し当てた。
激しくすがりついてくるわけではない。ただ、自分のすべてを預けるような、静かな信頼と愛情の表現だった。
「私は、誇りに思います。権力に阿るのではなく、持たざる者の盾として戦うあなた様の手足となれることが……何よりも、嬉しいのです」
彼女の呟きは、馬車の揺れる音に消え入りそうなくらい小さく、けれど僕の心臓を確実に締め付けるほど熱かった。
「……僕の方こそ、君が隣にいてくれないと困るよ」
僕がそっと彼女の銀糸の髪を撫でると、エレノアは「はい」と小さく応え、さらに深く僕の胸にすり寄った。
持たざる者の盾としての名声と、それを支える氷の姫君の愛情。
僕たちはオックスオードでの決戦に向け、さらなる力を蓄えていくのだった。




