取引
オックスオード大学の構内には、数百年以上の歴史を持つ大図書館がある。
天井まで届くマホガニーの本棚と、ステンドグラスから差し込む荘厳な光。ここは静寂と知が支配する、学生たちの聖域だ。
……もっとも、バカな権力者にとっては、ただの「密談の場」にすぎないようだが。
「アーサー! 例の件はどうなっている!」
書物に向かっていた僕の背中を、不躾な声が叩いた。
振り返るまでもない。我が国の王太子、エドワードだ。彼の背後には、今日も今日とて男爵令嬢のリリーがピッタリと張り付いている。
「エドワード殿下。お声が大きすぎます。ここは図書館ですよ」
僕は立ち上がり、いつもの穏やかなお人よしの微笑みを浮かべて頭を下げた。
「ふん。未来の国王である私がどこで話そうと勝手だ。それより、来月の『学生救済のための慈善夜会』の予算だ。リリーのドレス代と宝石代として、経費からさらに五千ポンド引き出せるようにしろ」
「ええっ、殿下ぁ。そんな大金、申し訳ないですぅ。でも、殿下の隣に立つなら、みすぼらしい格好はできませんし……」
リリーが上目遣いでエドワードの腕に胸を押し付ける。
五千ポンド。平民の職人が一生働いても稼げない額を、大学の公的資金から横領しろという堂々たる命令である。
周囲の学生たちが、軽蔑と哀れみの入り混じった目で僕たちを見ているのが分かった。
「殿下。慈善夜会の予算を個人的な装飾品に流用するのは、大学の規約に……」
「うるさい! 貴様は私の側近だろうが! お前の得意な法律の屁理屈で、合法に見せかければいいだけのことだ! 明日までに書類を整えておけ!」
エドワードはそれだけ喚き散らすと、リリーの腰を抱いて嵐のように去っていった。
「……本当に、清々しいほどの愚か者ですね」
僕の斜め後ろに控えていたエレノアが、氷のように冷たい声で呟いた。
彼女は大学では「奨学生」の身分だが、今は完璧なメイドとしての立ち振る舞いで、静かに一歩引いた位置から僕に付き従っている。
「まあね。でも、これでまた一つ『爆弾』が増えたよ」
僕は席に座り直し、羽ペンを手に取った。
「1692年の『大学自治法』第8条の解釈を捻じ曲げて、名目上は『王族の威信を保つための広報費』として処理しよう。表向きは完璧な書類だ。……エレノア、裏の仕事は頼めるかい?」
「はい。実際に資金が動いた口座の記録と、宝石商がリリー令嬢に品を渡した際の『受領書』の写しは、私がスターリング様のギルドの伝手を使って、すでに回収済みですわ」
エレノアは涼やかな顔で、恐ろしいほど有能な報告をした。
表向きは王太子の無理難題を完璧にこなす忠犬。しかしその裏で、僕たちは「横領の決定的な物的証拠」を着実にファイリングしているのだ。
「さすがだね、エレノア。助かるよ」
僕が労うと、彼女は「もったいないお言葉です」と慎ましく一礼した。
彼女は普段、完璧な「メイド」であり「相棒」としての節度を保っている。だが、その深海の底のような瞳の奥には、いつも静かで重い熱が燻っているのが僕には分かっていた。
「――相変わらず、見事な立ち回りですね。アーサー・アッシュクロフト卿」
凛とした、氷のように冷たく美しい声が書架の影から響いた。
現れたのは、現宰相の令嬢にして、エドワードの正式な婚約者であるヴィクトリアだった。
「ヴィクトリア様。奇遇ですね、法学の調べ物ですか?」
僕は穏やかな笑顔を作って応対したが、彼女はその聡明な瞳で、僕の仮面を真っ直ぐに射抜いた。
「白々しい態度は結構です。貴方がエドワード殿下の不始末を『合法的に』処理している書類……いくつか拝見しましたよ。見事な法解釈です。ですが、あまりに不自然」
ヴィクトリアは僕の目の前に歩み寄り、声を潜めた。
「貴方は優秀な法務家です。その気になれば、もっと完全に証拠を隠滅できるはず。……それなのに貴方の書類は、まるで『後から別の査察官が調べれば、意図的に横領の事実が浮かび上がるように』計算されて作られている。まるで、殿下の首を真綿で絞めるための、見えない縄を編んでいるように」
「……」
「アーサー卿。貴方、殿下を『売る』つもりですね?」
その言葉が出た瞬間。
僕の顔から、お人よしの微笑みがスッと消え去った。
代わりに浮かび上がったのは、前世で悪党たちを絶望の淵に追い詰めてきた、冷酷無比なディベーターの顔だ。
空気が一瞬にして凍りつき、ヴィクトリアがわずかに息を呑むのが分かった。
「……さすがは宰相閣下のご令嬢だ。ご慧眼です」
僕は低く、感情の乗らない声で応じた。
「だとしたら、どう動きますか? 婚約者として、僕を王室への反逆罪で告発しますか」
「まさか。あのような愚か者と共に沈む気は、私にも、我が宰相家にもありません」
ヴィクトリアは毅然と胸を張り、扇子で口元を隠した。
「私からの提案です。アーサー卿、私と『取引』をしませんか。私はエドワード殿下との婚約を白紙に戻したい。ですが、私から婚約破棄を申し出れば、宰相家と王家の間に無用な政治的摩擦が生じます。……一番良いのは、殿下ご自身に、誰の目から見ても明らかな『取り返しのつかない大罪』を犯していただき、自滅していただくこと」
なるほど。彼女もまた、泥船から合法的に降りるための「完璧な大義名分」を求めていたのだ。
「私が持っている王宮内部の情報と、殿下の個人的な資産の流れ。すべて貴方に提供しましょう。その代わり、貴方の手で殿下を完全に『法的に処刑』してください。私と宰相家には一切の火の粉が掛からない形で」
完全に利害が一致している。
僕は冷徹な笑みを深め、ヴィクトリアに手を差し出した。
「いいでしょう。殿下の首を落とすギロチンの刃は、僕が完璧に研ぎ澄ましてお約束します。……その代わり、僕の完全な無罪と独立を保証していただきますよ」
「独立? 貴方はアッシュクロフト伯爵家の子息でしょう?」
ヴィクトリアの問いに、僕は鼻で笑った。
「僕の父親は、エドワード殿下の特別会計の裏管理を担い、違法な土地接収などで長年甘い汁を吸っています。殿下が横領や不正で告発されれば、共犯として真っ先に首が飛ぶのは我が実家です。だからこそ、僕は彼らと運命を共にする気はない」
「……なるほど。実の親すら法で切り捨てる覚悟、ということですか。恐ろしい方」
「交渉成立ですね」
僕たちは、固く握手を交わした。
表舞台を飾る宰相令嬢と、裏で法を操る悪魔による、恐るべき『司法取引(秘密同盟)』が結ばれた瞬間だった。
* * *
その日の夜。
下宿の書斎で、僕はヴィクトリアから提供された王宮内部の裏帳簿と、自分たちが集めた証拠を照らし合わせていた。
「すごいな。これなら、エドワードとリリーを国家反逆罪スレスレまで追い込めるぞ。親父の不正の証拠も裏付けが取れた」
「お疲れ様でございます、アーサー様。夜食をお持ちしました」
静かな声と共に、エレノアが書斎に入ってきた。
彼女は銀糸の髪をきちんとまとめ、僕のデスクの端に温かいスープと紅茶を音もなく置く。
「ありがとう、エレノア。ヴィクトリア様のおかげで、パズルが一気に組み上がりそうだよ。彼女の頭の回転の速さは、法廷でも通用するレベルだ」
僕が書類から目を離さずにそう言った、その時だった。
カチャリ、と。
彼女がティーカップをソーサーに置く僅かな音が、いつもより少しだけ強く響いた。
「……エレノア?」
振り返ると、彼女は完璧なメイドの姿勢で立っていた。だが、前で組まれたその白く細い手は、エプロンをきつく握りしめており、深海の底のように静かだったはずの瞳が、微かに、けれど激しく揺らいでいるのが見えた。
「……アーサー様。私は、本当に心の狭い女のようです」
静かだが、熱を帯びた声だった。
普段は分厚い理性の底に隠しているはずの、彼女の「愛と独占欲」が、限界まで膨れ上がって今にも零れ落ちそうになっていた。
彼女は静かに僕の足元へ歩み寄ると、メイドとしての礼を尽くすように床に膝をつき、僕の手をそっと両手で包み込んだ。
「ヴィクトリア様とアーサー様が、まるで長年の相棒のように通じ合っていたこと。アーサー様が、私以外の女性を頼りにされ、その才覚を褒められたこと……。頭では、あれがただの取引だと理解しております。ですが……胸の奥が、ひどく焼けるように痛むのです」
熱を帯びた彼女の頬が、僕の手の甲にすり寄せられる。
決して声を荒げず、無理やりすがりついてくるわけでもない。あくまで慎み深さを保ちながらも、その瞳と仕草から溢れ出す感情は、火傷しそうなほど重く、濃密だった。
嫉妬。それが引き金となり、彼女のストッパーが外れかけているのだ。
僕は苦笑して、空いた方の手で彼女の銀糸の髪を優しく撫でた。
「安心して。僕が心から背中を預けられるのも、自分のすべてをさらけ出せるのも、世界中で君だけだ」
「……っ」
その言葉に、彼女の瞳からポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ずるいお方です。そんな風に言われてしまえば、私は……」
エレノアは僕の手をきつく握りしめると、その指先に、祈るように、すがるように、深く静かな口づけを落とした。
「ますます、あなた様から離れられなくなってしまいます……。どうか、私だけを見てください。私だけを、あなた様の手足として、お使いくださいませ……」
一度火がつけば、彼女の内に溜まっていた想いは、静かな激流となって僕の心を絡め取る。
檻を破るピースは揃い始めた。
緻密な罠が起動する裏側で、僕たちは今夜も、逃れられない愛情の底へと沈んでいくのだった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




