愛の結実
商業ギルドでの大逆転劇を終え、僕たちはアッシュクロフト家の薄暗い僕の自室へと帰還した。
窓の外では、静かな夜の闇を照らすように、青白い月光が差し込んでいる。
デスクの上には、ギルドマスター・スターリングと交わしたばかりの『専属顧問弁護士契約書』が置かれていた。そこに記された報酬額は、僕たちが今後、実家の援助や王太子の権力に一切頼らずとも生きていけるだけの「完全な独立」を意味していた。
「……勝った。これでようやく、僕たちの未来の足場が固まったよ」
ネクタイを緩め、深く息を吐き出す。
前世の過労死寸前の記憶と、今世での生き残りを賭けた極度の緊張の糸が、ようやく少しだけ解けた気がした。
「本当にお疲れ様でございました、アーサー様。法廷でのあなた様……身震いするほど、最高に格好よかったです」
ふわりと甘い花の香りがして、背後からエレノアが僕の首に柔らかな腕を回してきた。
その手には、勝利の祝杯として持ち帰った上質な赤ワインのグラスが握られている。
「ありがとう、エレノア。君が見つけてくれた判例がなきゃ、勝てなかった」
「いいえ。あの悪徳子爵を完膚なきまでに叩き潰したあの冷徹な刃は、アーサー様だけのものです」
エレノアはワイングラスをデスクに置くと、そのまま僕の背中に深く身を預けてきた。
いつもの完璧なメイドとしての距離感ではない。背中に押し当てられる体温は熱を帯び、耳元にかかる吐息には、隠しきれない強い熱情と執着が混じっている。彼女の白くて細い指先が、僕の肩から胸元へと、撫でるように滑り落ちてきた。
「エ、エレノア。……少し、近すぎる」
僕は必死に理性を総動員し、彼女の手を優しく止めようとした。
僕は彼女を、一人の女性として深く愛し始めている。だからこそ、彼女の尊厳を何よりも守りたい。あのクズな父親のように、権力や主人の立場を利用して彼女を慰み者にするような真似だけは、絶対に嫌だった。
だが、僕の手を握り返したエレノアの力は、驚くほど強かった。
「……なぜ、いつもそうやって一線を引かれるのですか」
「一線を引いてるんじゃない。君は僕の、一番大切な相棒で、対等なパートナーだから……」
「『相棒』。……ああ、その言葉は私にとって救いであり、同時にこれほどもどかしく、呪わしい言葉はありません」
エレノアは僕の背後から離れ、正面へと回った。
月光に照らされた彼女の顔を見て、僕は息を呑んだ。
深海の底のように静かだった瞳は、今にも溢れ出しそうなほどの涙と、ひどく熱く、重たい愛情で濡れていたのだ。
「アーサー様。貴方があの夜、お父様から私を守ってくださったこと。そして今日、理不尽に虐げられる者のために権力を叩き潰したこと……。貴方のその優しさと強さに、私は完全に心を奪われました。私はもう、貴方の『相棒』だけのままではいられないのです」
彼女は震える手で、自らのメイド服の背中のフックに手をかけた。
シュルリ、と衣擦れの音がして、純白のエプロンと黒いドレスが、床へと滑り落ちる。
あらわになった白磁のような肌。女性として完璧に成長したその美しさに、僕の思考がショートしそうになる。
「エレノア、やめなさい! 僕は君を、そんな風に扱うつもりは……っ!」
「どうか、私を奪ってください」
僕の言葉を遮り、彼女は僕の胸にすがりつくように飛び込んできた。
素肌から伝わる熱い体温。そして、彼女の涙が僕のシャツを濡らしていく。
「あなたのお父上に襲われそうになったあの日、私は絶望していました。でも今は違います。……これは暴力でも、服従でもない。私自身の、狂おしいほどの願いなのです。私の誇りも、心も、体も、すべて貴方に捧げたい。……私を、貴方の女にしてください」
懇願するような、絞り出すような声。
その痛いほどの愛の重さに触れて、僕の中で何かが音を立てて崩れ去った。
……いや、崩れたのではない。自分の中に必死に押し留めていた「彼女をめちゃくちゃに愛したい」という男としての強烈な独占欲が、完全に決壊したのだ。
「……後悔、しないかい」
僕の声は、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びていた。
いつものお人よしの顔が剥がれ落ちる。
「僕は、君が思っているほど善人じゃない。一度手に入れたら、二度と手放さない。君が元王女だろうと関係ない。地獄の底まで僕の隣に縛り付ける……それでも、いいのか」
法廷で見せるような冷徹さと、どす黒い独占欲が混じった僕の眼差し。
それを受けたエレノアは、これまでで一番美しく、そして蕩けるような笑みを浮かべた。
「ええ。私が望むのはまさに貴方がおっしゃった事、私のたった一人のご主人様」
その瞬間、僕は彼女を力強く抱き寄せ、その唇を塞いだ。
ワインの甘い香りと共に、互いの体温が溶け合い、僕の理性が完全に焼き切れていく。
勝利の美酒に酔いしれたこの夜、氷の姫君の分厚い殻は完全に溶け去り、僕たちは決して切れることのない、共犯者として一つになったのだった。
翌朝。
雲一つない爽やかな朝陽が、ベッドのシーツを白く照らしていた。
「……ん」
目を覚ました僕が身じろぎをすると、腕の中から「んぅ……」という甘い声が聞こえた。
視線を落とすと、僕の腕を抱き枕のようにして抱え込み、幸せそうに寝息を立てるエレノアの姿があった。
白磁の肌には、昨夜僕がつけた赤い痕がいくつも残っている。
(…ついにこうなっちゃったか……)
前世を含めても、ここまで誰かを深く愛し、感情を剥き出しにしたのは初めてだった。
そっと彼女の銀糸の髪を撫でると、長いまつ毛が震え、エレノアがゆっくりと目を開けた。
「……おはようございます、アーサー様」
「おはよう、エレノア。……大丈夫かい?」
僕が気遣うと、彼女はふにゃりと、まるで主人の愛情を求める猫のように甘く微笑んだ。
普段の「完璧なメイド」の面影はどこにもない。
「ええ。アーサー様の温もりが満ちていて……とても、幸せです」
そう言って、彼女は僕の胸元にすりすりと頬を擦り寄せてくる。
素肌が密着し、彼女の柔らかな膨らみが押し当てられる。
「エ、エレノア……あの、少し刺激が強いというか……」
「ふふっ。もう、遠慮などいたしませんよ。私はアーサー様のものですし、アーサー様も、私のものですから」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、チュッと僕の顎に軽いキスを落とした。
その瞳には、かつての張り詰めた悲壮感や警戒心はなく、ただ甘い愛情だけが満ちている。どうやら、完全にリミッターが外れてしまったようだ。
「さあ、私の愛しい旦那様、オックスオードが始まりますね。……私が完璧に、すべてをサポートさせていただきますわ」
シーツを胸元で押さえながら、とろけるような笑顔を溢す。
「ああ、そうだね」
最愛にして最強のパートナーを得た僕は、この数日後、オックスオード大学へと進学し、愚かな王太子と悪徳貴族たちから離れるための反逆劇をスタートさせるのだった。
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