マッチポンプ
オックスオード大学の周辺には、学生や大学関係者が暮らすための落ち着いたレンガ造りの街並みが広がっている。
その一角にあるこぢんまりとした一軒家が、現在の僕の拠点だ。
「アーサー様、本日の講義で出た判例集の要約と、例の『東インド貿易商会』との顧問契約書のチェックが終わりました」
「ありがとう、エレノア。相変わらず仕事が早いな」
書斎のデスクで、僕は淹れたての紅茶と書類を受け取りながら息をついた。
オックスオードに入学して数ヶ月。
エレノアは「特待生」として僕と同じ法学部にトップの成績で入学したにもかかわらず、立派な学生寮を辞退し、僕の下宿に「メイド」として同居している。
外では才色兼備の奨学生、家では僕の身の回りの世話を焼く完璧なメイド。それが彼女の日常だった。
「……それにしても、商人ギルドからの顧問料も増えてきたな。これなら、実家と縁が切れててもなんとかなるよ」
僕が帳簿を見て苦笑すると、エレノアは誇らしげに微笑んだ。
僕たちのアッシュクロフト実家との関係は、あの書庫での事件以来、完全に冷え切っている。父親からの資金援助など一ペニーも期待できない。
だが、僕たちに金銭的な不安は一切なかった。
産業が急激に発展しているこの19世紀風の世界において、新興の商人たちは莫大な富を築きつつあった。しかし、彼らには「身分」がなく、古い特権を持つ貴族たちからの理不尽な搾取や、複雑な法律を用いた詐欺まがいの契約に常に脅かされていた。
そこに目をつけた僕は、前世の検察官としての法知識とディベート術を駆使し、商人たちを守る顧問弁護士としての活動を始めていたのだ。
貴族の横暴を、過去の判例と完璧な論理で合法的に跳ね除ける。
僕が彼らを法的に保護する対価として、商人ギルドからは報酬が支払われている。平民たちから後に『持たざる者の盾』と称賛される僕の活動は、同時に僕自身の強固な「独立資金」を生み出していた。
「アーサー様が彼らの財産と命を救って差し上げたのです。当然の対価ですわ」
エレノアはそう言いながら僕の肩越しに帳簿を覗き込む。
その際、彼女の柔らかな髪が僕の頬をくすぐり、甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。公の場では常に一歩引いている彼女だが、この家の中――僕と二人きりの空間では、無意識のうちに距離がゼロに近くなる。
「それに、今のアーサー様には資金力と、商人たちの強固なネットワークが必要不可欠ですからね」
エレノアの瞳に、すっと冷たい光が宿った。
その視線の先にあるのは、机の端に積まれた「王太子を通じた『王家』からの依頼書という名の厄介事」の山だ。
「おい、アーサー! いるか!」
噂をすればなんとやら。
下宿のドアが乱暴に叩かれ、この国の王太子であり、僕の頭痛の種であるエドワードがずかずかと上がり込んできた。背後には当然のように、男爵令嬢のリリーがまとわりついている。
「エドワード殿下。こんなむさ苦しい下宿に、どのようなご用件で?」
僕は内心のうんざりした気持ちを完璧に隠し、お人よしの笑顔を浮かべて出迎えた。
「フン。今日は法学部の課題の代筆などではない。実はな、この街の宝石商が、身の程知らずにも私に『代金の督促』などというふざけた書類を送りつけてきたのだ!」
エドワードは忌々しそうに、一枚の請求書を机に投げ捨てた。
聞けば、リリーにねだられるままに最高級のダイヤモンドのネックレスを購入したものの、王室からの仕送りを遊びで使い込んでしまい、支払いを突っぱねているらしい。
「私は未来の国王だぞ! たかが平民の商人が、私から金を取ろうなどと不敬にも程がある。おいアーサー、貴様の得意な法律とやらで、あの小賢しい商人を黙らせろ!」
前世で検察官だった僕からすれば、ただの「詐欺」と「恐喝」に等しいクズの極みのような発言だ。
だが、僕はニコリと微笑んで頷いた。
「かしこまりました、殿下。王室の威信を傷つけるような真似はさせません。私にお任せを」
「うむ! 頼んだぞ。行くぞリリー、今日はボート遊びだ」
エドワードたちは嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。
ドアが閉まった瞬間、僕の顔から「お人よしの微笑み」がスッと消え失せ、氷のように冷徹な法務執行人の顔が浮かび上がった。
「……救いようのないバカだな」
「ええ。ですが、これは絶好の機会ですわね、アーサー様」
エレノアが静かに僕の隣に立ち、冷たい笑みを浮かべた。
表向き、僕はエドワードの命令に従い、宝石商のもとへ赴いた。
「1752年の特別取引法における、王族に対する信用取引の猶予期間」というマニアックな判例(ブラックストーン法釈義の第3巻にこっそり載っている)を盾に取り、法的な理屈で宝石商の「即時支払いの要求」を一時的に無効化してみせた。
「あんたは平民の味方と聞いていたんだかな……残念だ」宝石商の声が店を出ていく僕の背中に刺さった。
チクリと心が痛むが、これによって、エドワードの目には「アーサーが商人を法で叩きのめした」と映る。
だが、僕の目的はそんな権力の犬になることではない。店を出て一ブロック歩き、角を曲がる。そこにエレノアは待機していた。
「エレノア、頼んだよ」
「はい、承知いたしました」
エレノアはこっそりと宝石商の裏口を訪れた。
『宝石商殿。王太子の横暴に泣き寝入りする必要はありません。我が主、アッシュクロフト家のアーサーが、あなたの抱える負債を全額肩代わりいたしましょう』
『え、先ほどご本人がいらしてこの債権は無効だと……』
「はい、申し訳ございません、アーサー様といえ、王太子の債権を消滅させよという命令には逆らえず、表上はそうさせていただきました。さて、お支払いさせていただくにあたって……当然ながらどなたが何を幾ら購入したのか、物品のリストと、支払いを滞納しているという「証拠の帳簿」を、すべてお出しいただきたいのです』
こうして僕たちは、商人ギルドから得た正当な報酬を使って宝石商を救済しつつ、水面下で「王太子の金銭トラブルと不正」の決定的な証拠を次々と買い取っていたのだ。
* * *
その日の夜。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる書斎で、エレノアは回収した帳簿を丁寧に分類し、鍵付きの金庫へとしまっていた。
「見事な手際だったよ、エレノア。これで王太子の不正の証拠は、また一つ確固たるものになった。安い買い物だったよ」
「もったいないお言葉です。アーサー様が日頃から商人たちのために尽力されているからこそ、彼らも喜んで証拠を差し出してくれたのです」
エレノアは慎ましく一礼すると、僕の背後に回り、そっと僕の肩に手を置いた。
「今日も一日、あの愚か者の相手でお疲れでしょう。少し、お揉みしますね」
「あ、ああ……ありがとう」
彼女の白くて細い指先が、僕の凝り固まった肩の筋肉を的確に解していく。
だが、そのマッサージは次第にエスカレートし、彼女の柔らかな身体が僕の背中に密着し始めた。首筋にかかる熱い吐息に、心臓が跳ねる。
「……アーサー様。あの者たちが自滅する日が、今から待ち遠しいですね」
耳元で囁く彼女の声には、復讐への冷たさと、僕への甘い執着が入り混じっていた。
「……そうだね。その時が来たら、いよいよこの面倒な生活ともお別れだ。二人で静かな地でのんびり暮らそう」
僕がそう答えると、エレノアは嬉しそうに吐息を漏らし、さらにギュッと僕の肩を抱きしめ、首筋にキスする。
「はい。地の果てまで、あなた様にお供いたしますわ」
目と目を合わせてキスをする。
そして、そのまま甘い夜は更けて行った。
表向きは、愚かな王太子の完璧な側近。
しかし裏では、愛するメイドと共に、稼いだ富を駆使して彼らを地獄へ突き落とすための爆弾をせっせと製造している。
オックスオードという学び舎で、僕たちのスローライフのための緻密な計画は着実に進んでいた。
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