偽りのスローライフ
執務室の窓から差し込む朝日が、エベレスト級と化した書類の山を照らしていた。
「……あはは。ほら、決済書類の束の上で、小さな妖精さんたちが輪になって踊っているよ。可愛いなぁ……」
僕が虚ろな目で宙を指差して笑った瞬間。
隣でインクを補充していたエレノアが、バキンッ! と万年筆を素手でへし折った。す
「限界です。アーサー様、直ちに強制休養に入ります」
「えっ? いや、でもまだ関税の特例措置の書類が……」
「妖精が見える宰相など、国家の危機です! すでに南部の山間で新たに『温泉』が湧き出たという報告を受けております。視察という名目で、今すぐ湯治に向かいますわよ!」
エレノアは僕を俵担ぎすると、王都の執務室から馬車へと文字通り放り込んだ。
こうして、過労で幻覚を見始めた僕の、強制的な温泉旅行が幕を開けたのだった。
数日後。アスタリア南部の山間部に位置する、湯煙立ち込める温泉地。
「はぁ〜……極楽だ……」
貸し切りの露天風呂。肩までお湯に浸かりながら、僕は深く息を吐いた。
硫黄の香りと、大自然の静寂。書類もペンもない、これこそ僕が前世から求め続けていた完璧なスローライフの姿だ。
「さあアーサー様、お背中をお流ししますわ……って、なぜ貴女がここにいるのですかッ!?」
脱衣所の方から、エレノアの夜叉のような怒声が響いた。
「フン、私は商業ギルドの『新規支部設立』の調査よ! ついでにアーサーの背中を流すっていう重要な任務もあるんだから!」
「泥棒猫……! アーサー様との水入らずの混浴を邪魔する気ですか!」
「誰が混浴よ! この変態過保護メイド! アーサー、私が今そっちへ行って背中を流してあげるからね!」
聞き覚えのある声に、僕は温泉の中で頭を抱えた。
なぜか、元暗部の受付嬢リリーが、バスタオル一枚の姿で女湯の方(男湯と竹垣一枚で仕切られている)に陣取っていたのだ。
竹垣の向こうで、バチバチと凄まじい火花が散り始めている。
「お願いだから、温泉の中で殺し合いをするのはやめてくれ……」
僕が力なく呟いた、その時だった。
『――ヒャッハー! アスタリアの女王と宰相が、護衛もつけずに温泉旅行だとよ!』
『首を獲って、この国を乗っ取るぜェ!!』
突如として、露天風呂の周囲の森から、物騒な怒声と共に数十人の武装した野盗(旧王国の残党軍)が雪崩れ込んできたのだ。
「……えっ? 嘘でしょ、こんな時まで……」
僕が絶望して温泉から立ち上がろうとした瞬間。
『――動かないでくださいませ、アーサー様』
女湯の方から、地獄の底から響くようなエレノアの極低温の声が聞こえた。
『あなた様は、そこでゆっくりと、十数えるまでお湯に浸かっていてください。……リリー。一時休戦です。我が主人のスローライフを邪魔する【ゴミ】を、片付けますわよ』
『フン、言われなくても! 私のアーサーとの癒やしタイムを邪魔した罪、高くつくわよ!』
竹垣の向こうから、凄まじい殺気が膨れ上がった。
『な、なんだこの女たち!? バスタオル一枚で……ギャァァァッ!?』
森の方から、骨が砕ける鈍い音と、野盗たちの悲痛な叫び声が次々と響き渡る。
僕からは竹垣と湯煙に遮られて何も見えない。ただ、「ドスッ」「バキッ」「ヒィィッ」という凄惨なサウンドだけが、温泉のBGMとして静かに(?)流れていた。
「……い〜ち、に〜い、さ〜ん……」
僕は言われた通り、目を閉じてゆっくりと数を数えた。僕が首を突っ込めば、かえって彼女たちの足手まといになるし、何より今は一ミリも動きたくないほど疲れていたからだ。
「……きゅ〜う、じゅう」
数を数え終わる頃には、森はすっかり元の静寂を取り戻していた。
「ふぅ、いいお湯だった」
僕は立ち上がり、手ぬぐいで体を拭いて脱衣所へと向かった。
そこには、浴衣姿に着替えたエレノアとリリーの二人が、なぜか肩で息をしながら並んで立っていた。
「あれ? 二人とも、なんだか顔が赤いけど……のぼせたの?」
僕が首を傾げると、二人はビクッと肩を揺らした。
「え、ええ! 少し、激しい『運動』をして汗をかきましたので……!」
「そ、そうよ! サウナみたいなものよ、サウナ!」
エレノアの浴衣の袖口に、少しだけ赤い返り血がついているような気がしたが、見なかったことにしておく。彼女たちが僕を休ませるために、裏でどれだけの「お掃除」をしてくれたのかは、想像に難くない。
「ありがとう。おかげで、久しぶりにゆっくりできたよ」
僕が心からの笑顔を向けると、二人は一瞬ポカンとした後、見事に顔を真っ赤にして視線を逸らした。
「……も、もぉ! アーサーがそんな無防備な顔するから、敵が寄ってくるのよ!」
「さあアーサー様、湯冷めしてはいけません。お部屋に戻って、私が朝まで一睡もせずにマッサージをして差し上げますわ!」
「ちょっと! マッサージなら私がやるわよ!」
結局、部屋に戻ってからも二人の「私がお世話をする」という仁義なき甘やかし合戦は夜通し続き、僕は疲労回復どころか、別の意味で一睡もできない夜を過ごす羽目になった。
愛が重すぎるヒロインたちに囲まれた、血塗られた未遂となった温泉スローライフ。
僕の安息の日々は、まだまだ遠い未来の話になりそうだった。
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