真.パートナー爆誕
あれから八年。
僕とエレノアは、アッシュクロフト伯爵家の薄暗い書庫で、肩を並べて膨大な書物と格闘する日々を送っていた。
この世界には、現代日本のような便利な「六法全書」も、検索エンジンもない。
法律の解釈や過去の判例を調べるためには、棚一面にずらりと並んだ『ブラックストーン法釈義』や、辞書のように分厚い判例集を、手作業でひっくり返す必要があった。
「アーサー様。先ほどの土地権利に関する記述ですが、王歴134年の『ブラウン対スミス事件』の判例が適用できるかと存じます。判例集の第4巻、218ページをご覧ください」
「うわ、本当だ。……エレノア、君は本当にすごいな。僕よりずっと早く見つけるじゃないか」
「ふふ。アーサー様の思考の癖は、私が一番よく理解しておりますから」
エレノアは、淹れたての紅茶を僕のデスクに置きながら、楚々とした微笑みを浮かべた。
僕の教育係兼メイドとして過ごすうちに、彼女の瞳を覆っていた分厚い氷はすっかり溶けていた。王族としての高度な教育を受けていた彼女の頭脳は凄まじく、僕が前世の記憶から引き出した「現代的な法解釈」を、この世界の煩雑な判例法に見事に落とし込んでくれる、最高のパートナーになっていた。
僕たちがこれほど猛勉強をしているのには、理由がある。
この国の貴族が学ぶ最高峰の学府、「オックスオード大学法学部」へ進学するためだ。
バカな王太子が将来やらかす大不祥事の「連帯責任」から逃れるためには、僕自身が法学部の最高学府を首席クラスで卒業し、王家すら手出しできないほどの「法務資格」と「実績」を手に入れる必要があった。
オックスオードの入学試験は、もう目前に迫っている。
「……それにしても」
一息ついて紅茶を飲んだ僕は、目の前に立つ彼女を見上げて、思わず目を細めた。
「君は本当に、綺麗になったね」
数年前、ボロボロの奴隷服を着せられていた少女は、今や誰もが振り返るほどの美しい女性へと成長していた。
銀糸の髪は艶やかに輝き、白磁のような肌には血色が戻っている。メイド服に包まれてはいるが、その洗練された身のこなしと冴え冴えとした美貌は、隠しきれない高貴さを放っていた。
「……っ。アーサー様ったら、急に何を……」
エレノアはわずかに頬を染め、恥ずかしそうに目を伏せた。
和やかな時間。
だが、その平穏は、僕が試験の手続きのために数時間だけ屋敷を空けた隙に、最悪の形で破られた。
* * *
「やめっ……放して、ください……!」
僕が屋敷に戻り、書庫の扉を開けた瞬間。
目に飛び込んできたのは、部屋の隅に追い詰められ、床に押し倒されているエレノアの姿だった。
彼女のメイド服の肩口は無惨に破け、白い肌が露わになっている。
彼女の上に馬乗りになっているのは、脂ぎった顔を歪めた僕の父親――アッシュクロフト伯爵だった。
「口答えをするな、奴隷の分際で! 女らしく育つまで待ってやったのだ。お前は私の所有物だろうが!」
「っ……ぁ……!」
エレノアは恐怖に震えながらも、必死に抵抗を抑えていた。
ここで奴隷である彼女が主人に危害を加えれば、即座に死刑になる。彼女は自分の命を守るため、そして何より、僕の立場を悪くしないために、無抵抗で蹂躙されようとしていたのだ。
ドクン、と。
僕の中で、何かが冷たく弾ける音がした。
「――おやめください、お父様」
静かな、けれど氷のように冷たい声が書庫に響いた。
父親が驚いて振り返る。
「おお、アーサーか! ちょうどいい、お前ももうすぐオックスオードに行くのだろう? この女は私が引き取って……」
「僕のパートナーから、汚い手をどけろと言っているんだ」
一歩、前へ出る。
僕の顔からは、いつものお人よしの微笑みは完全に消え失せていた。
前世で、法廷の悪党どもを地獄の底へ叩き落としてきた「鬼の検察官」の顔。凄腕のディベーターの顔だ。
「な、なんだその目は……! たかが奴隷一人に、親に向かってその態度はなんだ!」
父親が顔を真っ赤にして怒鳴る。
僕は視線を落とし感情を一切交えない、淡々とした声で話し始めた。
「お父様。貴方が先月、東部領地の税収を誤魔化し、王太子殿下の特別会計に不正な献金を行った裏帳簿。すでに全て写しを取り、僕の友人の商会を通じて安全な場所に保管してあります」
「……は?」
「加えて、過去3年間にわたる違法な土地接収の証拠。および、ブラックストーン法釈義の第4巻・第3章に基づく『貴族法違反』の要件を満たす宣誓供述書も揃えました。今すぐ僕がこれを宰相閣下に提出すれば、アッシュクロフト家は明日の朝には取り潰され、貴方は絞首台行きです」
父親の顔から、さっと血の気が引いた。
「き、貴様……正気か!? そんなことをすれば、お前とて連帯責任で破滅するんだぞ!? 本気で親子の縁を切るつもりか!」
「ええ、構いませんよ」父の鼻先まで顔を近づける。
目を上げ父の目を睨みつける。そして床で震えるエレノアを見つめた。
「彼女を傷つけられるくらいなら、貴族の身分も、この腐った家も、全部未練なく捨ててやります。――さあ、選んでください。ここで大人しく彼女の『所有権』を僕に譲渡する誓約書にサインするか。それとも、僕と一緒にギロチンに向かうか」
「ヒッ……!」
僕の目の中に「一切のハッタリがない」ことを悟ったのだろう。誓約書にサインして、父親は後ずさりし、這うようにして書庫から逃げ出していった。
静まり返った部屋。
僕は大きく息を吐き出すと、カチリとスイッチを切り替えるように、いつものお人よしの自分に戻った。
「ごめん、エレノア。僕が屋敷を空けたばかりに、怖い思いをさせたね」
急いで上着を脱ぎ、肩を震わせる彼女の背中にふわりと掛けた。
いつもの笑顔で彼女の頭を優しく撫でる。
「……アーサー、様」
エレノアは、信じられないものを見るような目で僕を見上げていた。
彼女の心の中で、激しい感情の嵐が吹き荒れていた。
自分のような奴隷一人のために。
この人は、己の貴族としての将来も、実家も、すべてを投げ打つ覚悟で親に牙を剥いた。あの恐ろしいほど冷徹な理論を激情した顔で粉砕し、そして自分にだけは、春の陽だまりのように甘く優しい微笑みを向けてくれている。
「……なぜ……そこまで……」
「決まってるだろ。君は、僕の大切な相棒だからだよ。君がいなきゃ、田舎でのんびり過ごす憧れのスローライフなんて送れない」
僕が笑って手を差し出すと、エレノアの瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「あ、アーサー様……っ!」
彼女は僕の手を両手で強く握りしめ、そのまま僕の胸にすがりついて声を上げて泣き始めた。
(ああ……私からすべてを奪ったこの世界で。このお方だけが、私の光だ)
彼女の中で、僕への感情が「感謝」や「信頼」といった言葉の枠を完全に超え、『海より深く、鋼より重い愛』へと変貌を遂げた瞬間だった。
「もう大丈夫だから」
僕に抱きつきながら、エレノアは僕の背中に回した手に、ぎゅうっと強い力を込める。
その力が、世間の枠を完全に捨て去った「重すぎる愛」の始まりであることに、この時の僕が気づくはずもなかった。
「さあ、涙を拭いて。オックスオードの試験はもうすぐそこだ。こんな家、いつでも見捨てられるように、二人で絶対に合格しよう」
「……はい! どこまでも、あなた様にお供いたします……!」
涙に濡れた顔で、エレノアはこれまでにないほど美しく、そして熱を帯びた微笑みを浮かべた。
僕の腕の中にすっぽりと収まり、絶対に離さないと言わんばかりに身を寄せる彼女と共に、僕たちはいよいよ、貴族社会の表舞台である「オックスオード大学法学部」へと臨むのだった。




