過労死ラインに逆戻り
コリンの冤罪を晴らし、王都警察の腐敗を白日に晒したあの法廷劇から数日
僕の生活は、良くも悪くも激変していた。
「アーサー先生! どうか、うちの商会の不当な契約書も見てくださらねえか!」
「先生、うちの娘が貴族の馬車に轢かれたのに、泣き寝入りしろと言われて……!」
郊外にあるはずの僕の静かな洋館には、毎日のようにスラムの住人や平民の商人たちが長蛇の列を作っていた。
『罪なき者を救い、悪を地獄へ落とす』。あの鮮烈な逆転劇は瞬く間に王都中に広まり、僕は庶民たちから『持たざる者の盾』として、狂信的なまでの人気と信頼を獲得してしまったのだ。
「……エレノア、今日の相談者はあと何人?」
「お庭に並んでいらっしゃる方で、ざっと五十名ほどかと。皆様には温かいスープを振る舞っております」
「五十……。うん、僕が前世で過労死しそうになった時の記録に並びそうだね」
分厚い書類の山に埋もれながら、僕は死んだ魚のような目で紅茶を啜った。
さらに、頭を抱えたくなる問題がもう一つあった。
脱獄したリリー男爵令嬢が差し金となっているのか、隣国からの暗殺者が、ひっきりなしに僕の命を狙ってやってくるのだ。
夜な夜な庭の茂みでガサガサと不審な物音がしたり、屋根の上を黒い影が這い回ったり。
なぜか彼らは皆、僕の部屋に侵入する直前で「足を滑らせて二階から転落する」「突然、野良犬に噛まれたような悲鳴を上げて気絶する」といった奇妙な自滅を繰り返しているため、幸い僕に実害は出ていない。
(……とはいえ、毎晩のように庭で不審者が泡を吹いて倒れている状況は、心臓に悪すぎる)
もちろん、僕の背後でニコニコと微笑みながら「今朝も庭のゴミ掃除は完璧に済ませておきましたわ」と報告してくる愛しのメイドが、暗殺者たちの四肢を片っ端からへし折ってギルドの回収業者に引き渡していることなど、僕が知る由もない。
僕はたまらず、王都の中心にある商業ギルド本部へ足を運び、ギルド長ウィンストンにこの惨状を相談することにした。
「……というわけで、依頼はパンク寸前ですし、夜は不審者が庭をうろついて眠れません。僕の思い描いていたスローライフが、見事に崩壊しているんですが」
「がはははっ! そりゃあそうだろう。警察の面子を丸潰れにして平民の命を救ったんだ。お前さんは今や、王都の庶民にとって神様みたいなもんだからな!」
初老のギルド長ウィンストンは、豪快に葉巻の煙を吐き出しながら笑い飛ばした。
「だが、男爵令嬢からの刺客が絶えねえってのは厄介だな。相手は隣国の暗部だ。今は運良く自滅してくれているようだが、いつまでも奇跡は続かねえぞ」
「ええ。法律で表の悪党は叩けても、裏の暴力には限界があります」
僕が肩を落としてため息をつくと、ウィンストンは真剣な顔つきになった。
「アーサー。しばらく、その『スローライフ』とやらはお休みにしておけ。また王都に拠点を移すんだ」
「……王都へ? でも、あの郊外の家はせっかく手に入れたばかりですよ?」
「今の家は、ギルドが責任を持って格安で保全・管理しておいてやる。それより今は、お前さんの命と、依頼を捌く利便性が最優先だ」
ウィンストンはドン、と机を叩いた。
「防犯上も完璧で、依頼人たちもアクセスしやすい。そんな最高の物件を、俺が責任を持って紹介してやる。……世話になる気はあるか?」
スローライフの休止宣告。
僕は深い深いため息をつきながらも、この状況では背に腹は代えられないと頷いた。
「……分かりました。お世話になります」
「よし、交渉成立だ! ついてきな!」
そして数十分後。
ギルド長に案内され、僕とエレノアは「新しい家」の前に立っていた。
「……ギルド長。ここ、どう見ても『商業ギルド本部ビルの最上階』ですよね」
そう。案内されたのは、新たな貸別荘でも高級アパートでもなく、王都で最も強固な警備が敷かれているギルド本部――その最上階にある、広大なVIP用居住スペースだった。
「当たり前だ! ここなら一階には常時数十人の屈強なギルドの護衛がいるし、王都の中心だから依頼人も来やすい。完璧な物件だろう?」
「完璧すぎますよ! これじゃあ、毎日ギルドに住み込みで働く社畜じゃないですか!」
「がははっ! うちの専属弁護士様だからな、家賃は特別に安くしといてやるぜ!」
豪快に笑いながら去っていくギルド長の背中を見送って、僕は乾いた苦笑いを浮かべるしかなかった。
スローライフどころか、職場のど真ん中に住まわされる羽目になるとは。
「はぁ……前世の二の舞だ。すまないエレノア、また君に窮屈な思いを……」
僕が振り返って謝ろうとした、その時。
「素晴らしいですわ、アーサー様!」
エレノアは両手を頬に当て、いつになく瞳をキラキラと輝かせていた。
「この強固な石造りの壁、たった一つしかない出入り口、そして窓からの侵入経路の少なさ……。これなら、私が少し『お掃除』の目を光らせるだけで、あなた様を完璧にお守りできます!」
「え? そ、そう? 防犯性が高くて安心したってことかな」
「はい! それに、ここなら通勤の必要がありませんから、朝から晩まで、そして夜の間もずっと……あなた様の傍に寄り添っていられますわね」
エレノアはうっとりとした表情で僕の背後に回り、いつものように首元に腕を回してギュッと抱きしめてきた。
「アーサー様の身も心も、そして生活のすべてを、この私が管理させていただきます。……ふふっ、逃がしませんからね?」
耳元で囁かれる、極上の甘さと、背筋が凍るような重たい執着。
外部の暗殺者からは絶対に守られる鉄壁の要塞で、僕は愛するメイドの「重すぎる愛の檻」に自ら入ってしまったのだと、遅ればせながら気づいたのだった。
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