スローライフは何処
王都の喧騒から馬車で一時間ほど離れた、緑豊かな郊外。
ツタの絡まるレンガ造りの瀟洒な洋館が、僕たちの新しい拠点だった。
「アーサー様。ダージリンを淹れましたわ。焼き立てのスコーンもございます」
「ありがとう、エレノア。……ああ、静かで最高の朝だね」
書斎の窓から差し込む柔らかな陽光を浴びながら、僕はティーカップを受け取った。
王太子を廃嫡に追い込み、腐った実家とも完全に縁を切ってから数週間。僕たちは商業ギルドの顧問弁護士として得た資金でこの邸宅を買い取り、念願の「スローライフ」をスタートさせていた。
「ええ。あなた様とこうして穏やかな時間を過ごせるなんて、夢のようですわ」
エレノアは僕の背後に回ると、いつものようにごく自然な動作で僕の首元に腕を回し、後ろからそっと抱きしめてきた。
公の場ではないため、彼女の距離感は今日も見事にバグっている。背中から伝わってくる柔らかな感触と、ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。
「……エレノア、さすがにくっつきすぎじゃないかな」
「主人の心身を温め、お守りするのもメイドの立派な職務でございます」
涼しい顔をしてそう押し切られてしまうため、最近はもう諦めてこの過剰なスキンシップを受け入れている。
脱獄したリリー男爵令嬢が残した「血文字の復讐宣言」は不気味だが、今のところ目立った動きはない。
僕はエレノアに抱きしめられたまま、のんびりと分厚い判例集のページをめくっていた。
(ああ、平和だ。前世の過労死寸前の社畜生活を思えば、まさに天国……)
僕が目を細めて紅茶を啜った、まさにその時だった。
『――死ね、持たざる者の盾』
音もなく、屋根の上から開け放たれた窓の桟へと、黒装束の影が舞い降りた。
その手には、妖しく光る毒塗りの短剣。隣国の『暗部』が放ったプロの暗殺者だ。刺客は僕の無防備な背中めがけて、一切の殺気を消したまま音もなく跳躍した。
その、直前。
「……おや。少し風が出てまいりましたね。アーサー様の大切な書類が飛んでしまっては大変ですわ」
エレノアがスッと僕から腕を離し、窓際へと歩み寄った。
エレノアは元王女としての英才教育の一環で、近接格闘と護身術を叩き込まれていた。
さらに彼女は、僕が法廷で悪徳貴族たちを容赦なく論破し続ける姿を見て、『この人は絶対に、いつか裏の暴力で口を封じられそうになる』と確信。僕を守るために、密かに武術の腕を極限まで磨き上げ続けていたのだ。
だが、彼女には一つの強い「乙女心」があった。
(……愛するアーサー様の前で、血生臭い暴力など振るいたくありません。野蛮で、はしたない女だと思われたらどうしましょう)
だから彼女は、刺客が宙を舞い、切っ先が部屋に届こうとしたその絶妙なタイミングで――
「よっ、と」
極めて優雅なメイドの所作で、分厚く重たいオーク材の窓枠を、思い切りフルスイングで閉ざした。
『――ッ!?!?』
ガァァァァンッッ!!!
空中にいた暗殺者は避けることもできず、顔面から分厚い窓枠に激突。鼻柱を完全にへし折られ、白目を剥いて二階の窓から階下の深い茂みへと真っ逆さまに落下していった。
「うわっ!?」
あまりの大きな音に、僕は判例集から顔を上げて驚いた。
「な、なんだ今のものすごい音は!? 何かが窓にぶつかったのか!?」
「ええ。どうやら、野良猫がジャンプに失敗して、窓ガラスに激突してしまったようですわね」
エレノアは何事もなかったかのように鍵をカチャリと掛け、涼しい顔でカーテンを引いた。
「ね、猫!? いや、いくらなんでも人間がぶつかったくらいの重たい音がしたけど……」
「この辺りの野良猫は、とても栄養状態がよろしいようですから。……さあ、冷めないうちにスコーンをお召し上がりくださいな」
「そ、そう……? ならいいけど」
窓の外で暗殺者が泡を吹いて気絶していることなど露知らず、僕はすっかり彼女の言葉を信じ込んで紅茶を一口飲んだ。
(平和でいいなぁ)と、呑気なことを考えながら。
その時だった。
――ドォォォン!!
突然、1階の玄関のドアが乱暴に蹴り開けられる大きな音が響いた。
「な、なんだ!?」
階段をドカドカと足音を立てて上ってきた見知らぬ男が、書斎に怒鳴り込んできた。
派手なフリルシャツを着た、いかにも成金といった風体の小太りな貴族だった。後ろには数人のならず者を従えている。
「おい貴様がアッシュクロフトの三男坊か! ここからすぐに出て行け!」
「……えっと、どちら様でしょうか?」
「私はこの土地の正当な地権者、ウォルポール男爵だ! 貴様がギルドから買ったこの土地と屋敷は、もともと私の持ち物だったのだ。登記の手続きに不備があった。ゆえに、この屋敷の所有権はまだ私にある!」
男爵は勝ち誇ったように、一枚の古い権利書をヒラヒラと見せつけた。
どうやら、王都から離れたこの土地の『昔の地主』が、最近になってこの屋敷の価値が上がったのを見て、法律の難癖をつけて家を奪い取りに来たらしい。
(……やれやれ。野良猫の次は、野良の小悪党か)
僕は小さくため息をついた。
エレノアが不穏な気配を察し、ならず者たちを片付けようと一歩前に出たのを手で制する。
「エレノア、大丈夫だよ」
「……はい、旦那様」
僕は男爵に向き直り、顔からの微笑みをスッと消し去った。
冷徹な『法務執行人』のスイッチが入る。
「ウォルポール男爵。貴方がお持ちのその権利書ですが、王歴140年の『土地登記法・第12条』の改正以前のものですね」
「な、なんだと?」
「改正法によれば、5年以上実効支配を行わず、かつ固定資産税を滞納している土地の権利書は、ギルドを介した第三者への売却をもって自動的に無効となります。貴方、ここ数年、この土地の税金を払っていませんよね?」
「うっ……! そ、それは……」
男爵が言葉に詰まる。
「さらに」
僕は本棚から『ブラックストーン法釈義』の第3巻を抜き出し、パラパラとめくって見せた。
「不法侵入および、暴力による脅迫で正当な所有者を追い出そうとした場合、貴族であっても重過料、もしくは爵位剥奪の対象となります。……今すぐ帰るなら、お遊びが過ぎたということで見逃してあげますが。それとも、僕と一緒に王都の裁判所まで行きますか?」
僕の瞳の奥にある絶対的な自信と冷徹さに射すくめられ、男爵の顔から血の気が引いた。
僕が先日の王太子廃嫡事件で大立ち回りを演じた『持たざる者の盾』であることに、ようやく気づいたらしい。
「ひぃっ……! お、覚えていろよ!」
男爵はならず者たちを連れて、転がるように階段を逃げ下りていった。
静けさを取り戻した書斎。
「見事な論破でございました、アーサー様」
エレノアが再び僕の背後に回り、先程よりも少しだけ強い力で僕を抱きしめながら、うっとりとした目で囁いてくる。
「……はあ。スローライフへの道は、思っていたより遠いみたいだ」
僕は柔らかい彼女の腕の中で、ため息をついた。
僕のスローライフ、まだ始まったばかりだ。
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