第5話:不作法の代償と、一粒の甘い毒
相合い傘という、学園生活における最大級の失態を犯した翌日。
案の定、登校中の視線は刺すように痛かった。「生徒会長を雨の中歩かせた不届きな後輩」か、あるいは「聖女の隣を独占した不届き者」か。どちらにせよ、僕の望む平穏からは程遠い場所へと、状況は転がり始めていた。
「……おはようございます、一ノ瀬先輩」
昼休み。僕は中庭のベンチに座る彼女の前に立ち、あえて周囲に聞こえるような声で話しかけた。
彼女は膝の上に、絵に描いたような優雅な二段重ねの弁当箱を広げている。色とりどりの野菜、丁寧に巻かれた卵焼き。その完璧な調和を、僕は自らの「不作法」で汚してやるつもりだった。
「あら、奇遇ね。あなたもここでお昼かしら?」
「いえ、用事があるのは先輩の方です。……これ、昨日のクリーニング代です」
僕は、千円札を剥き出しのまま、彼女の弁当箱のすぐ隣に置いた。
目上の者、それも生徒会長に対し、現金を剥き出しで渡す。この上ない無礼であり、金で恩義を切り捨てようとする浅ましい行為。これこそが、彼女が最も嫌うべき「下品な振る舞い」のはずだ。
彼女の頭上を見上げる。
『-97』
一秒。二秒。静寂が中庭を支配する。
風が吹き抜け、彼女の長い黒髪がさらりと揺れた。さあ、今こそ軽蔑の視線を向けてくれ。僕を最低な奴だと罵って、その千円札を投げ返してくれ。
「……クリーニング代。私を、そんなに汚れた存在だと思ったのかしら?」
「は? 何言ってるんですか。昨日、僕のせいで肩が濡れたでしょう。……貸しを作りたくないだけですよ。先輩みたいな人と縁が深まるなんて、僕にとってはリスクでしかありませんから」
僕はあえて鼻をすすり、不機嫌そうに視線を逸らした。
一ノ瀬先輩は、置かれた千円札をそっと指先でなぞると、ふっと自嘲気味に、それでいて艶やかに微笑んだ。
「そう……。あなたは、私の『汚れ』さえも、こうして対等な立場として清算しようとしてくれるのね。……普通なら、私が濡れたことを一生の不覚として謝罪し続けるか、あるいはそれを利用して私に取り入ろうとするはずなのに」
「……だから、勝手な解釈をしないでくださいって。ただの効率の話です」
「いいえ。これはあなたの『不器用な誠実さ』よ。……ねえ、このお金は受け取れないわ。代わりに――これを一口、食べなさい」
彼女は、自分の箸で摘んだ卵焼きを、僕の口元へと差し出した。
「……なっ! 何を……! ここ、中庭ですよ!? 誰が見てるか――」
「拒否するなら、生徒会長への侮辱罪として、さらに重い『貸し』を作るけれど? どちらがいいかしら」
彼女の瞳は笑っていない。それは、獲物を追い詰めた猛獣のような、静かな迫力に満ちていた。
僕は、周囲の視線に耐えかね、観念してその卵焼きを口に含んだ。
出汁の効いた、驚くほど優しい甘さが広がる。
その瞬間、視界の端で数字が爆ぜるように動いた。
『-96』
……また、1。
「美味しい?」
「……最悪な味ですよ。砂糖を入れすぎなんじゃないですか」
「ふふ、そう。……明日も、楽しみにしてるわね。……次は、もう少し甘くしておきましょうか」
彼女は満足げに千円札を僕の手の中に押し戻すと、再び優雅に食事を再開した。
僕の手のひらに残った、千円札の冷たさと、彼女の指先が触れた微かな熱。
「-96」。
嫌われるための無礼が、彼女という巨大な熱量に触れるたび、甘い毒となって僕を侵食していく。
僕は逃げるように中庭を後にしたが、喉の奥に残ったあの卵焼きの甘さだけが、いつまでも消えずに僕を苦しめていた。




