第4話:雨宿りと、一ミリの境界線
放課後の生徒会室。山積みの予算案を整理し終えた頃には、窓の外はすっかり厚い雲に覆われていた。
予報にはなかった夕立が、容赦なく校舎の窓を叩いている。バチバチと激しく音を立てる雨粒を眺め、僕は自らの不運を呪った。
「……最悪ですね。傘なんて、ロッカーに置いてきましたよ」
僕は窓際に立ち、灰色に霞む中庭を恨めしげに見つめた。
背後では、一ノ瀬先輩がゆっくりと立ち上がり、机の上の資料を整えている。彼女の動作はどこまでも優雅で、雨音に支配されたこの部屋の中でも、彼女の周りだけが別の時間が流れているようだった。
「あら、そうなの? 私は常に予備を置いているけれど」
彼女は備え付けのロッカーから、上品な長傘を取り出した。深い紺色の、持ち手が木製になった上質な傘だ。
彼女の頭上を見上げる。
『-98』
数値に変化はない。けれど、昨日の今日で、この「-98」という数字が、まるで逃げ場のない檻のように僕を囲んでいる気がしてならなかった。
「貸しましょうか? それとも、駅まで一緒に入る?」
「……結構ですよ。先輩みたいな目立つ人と相合い傘なんてしたら、明日から僕の席が教室に無くなります。ここで止むのを待ちますから、先輩は先に帰ってください」
僕はあえて、突き放すような冷たい声を意識した。
学園の聖女と称される彼女に対し、そんな汚らわしい提案をするなと言わんばかりの拒絶。これこそが、平穏を望む僕が取るべき正解の態度だ。
「そんなに周りの目が気になるの? 案外、臆病なのね」
「臆病じゃなくて、合理的って言ってください。……だいたい、先輩と一緒にいたら、僕の立場が悪くなるのが目に見えてるんですよ。今はこうして、少しでも距離を置くのが互いのためです」
本当は、雨の音に紛れて自分の鼓動が漏れるのが怖かった。
しかし、一ノ瀬先輩は僕の言葉を聞き流すように、一歩、また一歩と距離を詰めてきた。窓際に立つ僕のすぐ隣。微かに香る石鹸の匂いが、雨の湿気と混じり合って鼻腔をくすぐる。
「ふふ、距離を置く、ね。……でも、雨が降っているのは外だけで、この部屋の中はこんなに静かなのに」
彼女が僕の隣に並び、窓の外を見つめる。
ガラス越しに反射する彼女の瞳と目が合った。
「ねえ。どうしてそんなに私を遠ざけようとするの? あなたは、私にどうなってほしいの?」
「……決まってますよ。僕みたいな不遜な後輩、視界に入れるのも汚らわしいと思って、とっとと生徒会から追放してほしいんです。それが僕にとっても、学園の秩序にとっても最善ですから」
「追放……。そうして、私から離れて、誰にも干渉されない場所へ行きたいの?」
彼女の声が、雨音に混じって低く響く。
「……ええ、そうです」
「残念ね。あなたがそうやって拒絶すればするほど、私はあなたのことが気になってしまう。……自分を犠牲にしてまで、私を『完璧な生徒会長』という椅子から自由にしてあげようとしているのでしょう?」
『-97』
まただ。「1」。
砂時計の砂が最後の一粒まで落ちるのを待つような、静かな、けれど確実な崩壊。
僕はもはや、反論する言葉さえ見失っていた。
「先輩……。それは、ただの買いかぶりです」
「そうかもしれないわね。でも、私がそう信じている以上、あなたの負けよ。……さあ、駅まで行くわよ。このままだと、風邪を引いてしまうわ」
彼女は僕の腕を掴み、半ば強引に生徒会室から連れ出した。
昇降口で開かれた一本の傘。
狭い布の屋根の下、肩が触れ合うほどの距離で、僕たちは降りしきる雨の中へと踏み出した。
足元で跳ねる泥水、湿ったアスファルトの匂い、そして隣にいる彼女の体温。
すべてが鮮明すぎて、僕の目にある『-97』という数字だけが、ひどく現実味を欠いているように見えた。
「……先輩、傘、僕の方に寄りすぎです。先輩の左肩が濡れてますよ」
「いいのよ。私は、あなたが風邪を引かなければ、それで」
言葉の端々に、僕が求めていた「嫌悪」の欠片はどこにもなかった。
降り続く雨は、僕の退路をすべて遮断するように、いつまでも止む気配を見せなかった。




