第3話:放課後の静寂と、名前を呼ぶ距離
「-99」。
あの日、生徒会室でわずかに動いたその数字は、僕にとって不吉な予兆以外の何物でもなかった。一度動き出した振り子は、そう簡単には止まらない。僕はその「1」の重みに怯えながら、翌日の放課後もまた、あの重厚な扉の前に立っていた。
「……失礼します」
ノックは一度。それも、相手の返事を待たずにドアを開ける。
それが、僕が自分に課した「無作法」のルールだ。3年生、それも生徒会長という学園の頂点に立つ人間に対し、対等、あるいはそれ以上に尊大な態度を取る。そうすることで、彼女のプライドを逆撫でし、再び「-100」の安定圏へ戻る。それが僕の目論見だった。
しかし、部屋の中の空気は、昨日までとはどこか違っていた。
一ノ瀬先輩は窓辺に立ち、西日に透けるカーテンをぼんやりと眺めていた。僕が入ってきたことに気づいているはずなのに、彼女はすぐには振り向かない。
「……一ノ瀬先輩。頼まれていた予算書の精査、続きをやりますよ。そこに置いておいてください」
僕はあえて彼女の背中に向かって、ぶっきらぼうに言い放った。
学年差、そして生徒会長という肩書き。それらすべてを無視した僕の言葉は、静かな部屋に小石を投げ込んだような波紋を広げる。
「……ねえ。どうしてあなたは、私を『先輩』と呼ぶの?」
不意に、彼女が振り返った。
逆光に照らされた彼女の表情は読み取れない。けれど、頭上の数字ははっきりと見えた。
『-99』
動いていない。よし、まだ踏みとどまっている。
僕は安堵の溜息を隠しながら、自分の席へと向かった。
「学年が上なんですから、当たり前でしょう。……それとも何ですか、呼び捨てにでもしてほしいんですか? 傲慢ですね」
「……そうではないわ。ただ、あなたのその『敬語』が、まるで厚い鉄板のように聞こえたから。私に近づかせないための、防御壁のような」
一ノ瀬先輩は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女が僕のデスクの端に手を置く。その細い指先が、昨日僕が「却下」と赤ペンで書き殴った書類の束をなぞる。
「みんな、私には優しく接してくれる。敬い、崇め、少しでも気に入られようと綺麗な言葉だけを並べるわ。……でも、あなたは違う。その冷徹な敬語で、私を一人の『役職』として切り捨てようとしている」
「……何のことだか。僕はただ、効率的に仕事を終わらせたいだけですよ」
僕は視線を書類に落とし、彼女の瞳を見ないように努めた。
心臓の鼓動が、昨日よりも少しだけ速い。それが「恐怖」から来るものなのか、あるいは別の何かから来るものなのか、自分でも判別がつかなかった。
「一ノ瀬先輩。そんなに僕のことが気になるなら、いっそクビにしてください。僕みたいな生意気な後輩、傍に置いてもストレスが溜まるだけでしょう?」
「ストレス? いいえ、逆よ。……あなたが私を突き放そうとするたびに、私は自分の心が不思議と軽くなっていくのを感じるわ。……完璧でいなければならない、という呪縛から、あなたが私を引き剥がしてくれているみたいで」
彼女の手が、僕のペンを持つ手に触れそうになる。
僕は反射的に、椅子を引いて距離を取った。
「……近いです。それに、勝手な解釈はやめてください。僕は先輩を助けてるつもりなんて、これっぽっちもありませんから」
「ええ、わかっているわ。……でも、私の心はそう受け取っていない。……不思議ね、数字というものは」
一ノ瀬先輩が、ふっと艶やかな微笑を浮かべた。
その瞬間。
『-98』
また、1、減った。
「……っ!」
僕はペンを握りしめ、言葉を失った。
嫌われようとして放った不遜な態度が、彼女の「完璧すぎるがゆえの孤独」というフィルターを通ることで、純粋な「救い」へと変換されていく。
この致命的なシステムエラーを、僕はどう修正すればいいのか。
「……今日はもう帰ります。これ以上、先輩の妄想に付き合うのは時間の無駄ですから」
「あら、逃げるの? ……いいわ。でも、明日の放課後も、私はここで待っているから」
背中で聞こえる彼女の声は、どこか楽しげで、それでいて逃げ場を塞ぐような確信に満ちていた。
「-98」。
絶対零度から溶け出した二滴の雫。
それがやがて、僕の日常を飲み込む激流に変わることを、今の僕はまだ、信じたくはなかった。




