第6話:密室の審問、あるいは赤ペンの断罪
放課後の生徒会室。そこは、この学園における静謐の極致だった。
磨き上げられた長机、歴代会長の肖像画が並ぶ高い壁、そして常に漂う微かな紅茶の葉と古い紙の匂い。放課後の喧騒から完全に切り離されたこの空間で、僕は窓際の予備机――今日から「僕専用」に仕立てられたという、分不相応に立派なデスクに座らされていた。
「……一ノ瀬先輩。これ、何の嫌がらせですか」
僕は目の前に積み上げられた、学園祭に向けた各部活動からの「予算申請書」の束を指差した。
一ノ瀬先輩は、部屋の奥にある重厚なデスクで、優雅にティーカップを傾けている。彼女の頭上には、変わらず『-96』という数字が、まるで僕を嘲笑うように浮かんでいる。
「嫌がらせだなんて心外だわ。それは『特別補佐』としての最初の任務よ。各部活が好き勝手に書いた数字の裏を読み取って、妥当性を判断する。……あなたのその、冷徹な視点こそが、この無駄な数字の羅列を整理するのに最適だと思ったの」
「冷徹、とは失礼ですね。僕はただ、物事を客観的に見ているだけです」
「そう、それよ。その『客観的』という名の無慈悲さが、今の生徒会には足りないの」
彼女は微笑むが、その瞳の奥には、生徒会長としての絶対的な責任感が宿っている。
僕はわざとらしく大きな溜息を吐き、一番上にあったサッカー部の申請書を手に取った。
「……サッカー部。遠征費の補助と、新しいボール代。それから『勝利を願うための特注横断幕』。合計で二十万円? 却下ですね。横断幕なんて、部員が古布でも繋ぎ合わせて自作すればいいじゃないですか。勝利を願うのに金を使う暇があったら、練習しろって話です」
僕は赤ペンを取り出し、豪快にバツ印を書き込んだ。
さあ、これだ。部活動に青春を捧げる生徒たちの情熱を、僕は今、この手で無残に踏みにじった。
生徒たちの味方であるべき生徒会長にとって、僕のこの「情け容赦ない独断」は、不快以外の何物でもないはずだ。自分の理想を汚す不遜な後輩。今度こそ、その完璧な微笑みが怒りに歪むのを期待して、僕は彼女を睨みつけた。
しかし、一ノ瀬先輩はティーカップを置くと、ゆっくりと立ち上がり、僕のデスクまで歩いてきた。
「……なるほど。横断幕を自作させることで、部員の結束を高め、安易な出費を戒める。さらには資金の重みを知ることで、一戦一戦への覚悟を促す。……あなたは、あえて厳しい道を示すことで、彼らの精神性を鍛えようとしているのね」
「……いや、ただ単に無駄だと言っただけですが。何をどう解釈したらそうなるんですか」
「素晴らしいわ。あなたを補佐に選んで正解だった。私一人では、どうしても生徒たちの『期待』という重圧に負けて、つい甘い裁定を下してしまいがちだったから。……あなたが私の代わりに『悪役』を引き受けてくれることで、生徒会の財政は守られる」
『-95』
胃の辺りが重くなるような感覚。また『1』。
砂時計の砂が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂の中で、その『1』という数字の減少が、僕の喉を締め上げる。
「……先輩。あんまり僕を持ち上げないでくださいよ。僕はただ、自分の作業効率のために無駄を削っているだけです。先輩みたいに『学園のために』なんて、これっぽっちも思ってません」
「ええ、わかっているわ。あなたは自分の手を汚してまで、私の負担を減らそうとしてくれている。周囲から『冷酷な補佐』だと後ろ指を指される役割を、自分から買って出てくれているのでしょう?」
一ノ瀬先輩が、僕の横顔を覗き込む。
至近距離。夕日に照らされた彼女の長い睫毛が、細かな光を反射して揺れている。微かに香る香水の匂いと、彼女の吐息。
「……先輩。近すぎます。……仕事の邪魔ですよ」
「ふふっ。照れているの? それとも、私の『マイナス』の数字が動くのが、そんなに怖いの?」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
彼女は僕が見ている「数字」のことは知らないはずだ。なのに、時折彼女は、僕の心の奥底を見透かしたような、あるいは本質を突いたような言葉を投げかけてくる。
「……怖くなんて、ありませんよ。ただ、あんまり好意を持たれると、僕の『平穏な隠居生活』が台無しになるのが困るだけです」
「『隠居生活』? 面白いことを言うわね。……でも残念。あなたがそうやって抗えば抗うほど、私はあなたの本質に触れたくなってしまうのよ」
彼女の指が、僕の赤ペンにそっと触れた。
その指先は冷たく、けれど僕の肌に触れた部分は熱を帯びているような錯覚に陥る。
十単位で激変するのではなく、一歩一歩、逃げ場を塞ぐように確実に数字が削られていく。この「静かな接近」の方が、今の僕にはずっと恐ろしかった。
生徒会室の古びた時計が、カチ、カチと時を刻む。
窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いているが、この部屋の中では二人の呼吸音さえも大きく聞こえる。
「……今日はここまでにしましょうか。残りはまた明日」
「……ええ。お疲れ様でした、一ノ瀬先輩」
彼女は満足げに鞄を手に取ると、ドアのところで一度だけ振り返った。
「また明日も、私を失望させてちょうだいね? ……期待しているわ」
ドアが閉まる音。
残されたのは、山積みの書類と、僕の中に残った説明のつかない焦燥感。
『-95』。
嫌われるための断罪が、彼女にとっては「慈悲」として受け取られてしまう。
僕は、自分の赤ペンが何を描いているのか分からなくなり、暗くなり始めた教室の天井を見上げた。




