ー第2節 辞表を胸に秘めた穏やかな朝と、突如としてオフィスビルを襲ったダンジョンブレイクの悪夢
第2節 辞表を胸に秘めた穏やかな朝と、突如としてオフィスビルを襲ったダンジョンブレイクの悪夢
翌朝。
相田はいつも通りに出社した。
だが、その雰囲気は昨日までとは一変していた。
猫背だった背筋はピンと伸び、常に充血していた目は、まるで春の湖面のように穏やかで、どこか遠くを見つめるような半眼になっていた。
肌艶が良い。そして何より、微かに発光している。
「おはようございます」
オフィスの扉を開け、相田は静かに挨拶をした。
同僚たちがギョッとして振り返る。あの死にかけの相田が、なぜか後光が差しているように見えるのだ。
「お、おい相田、お前なんか……顔色が」
「ええ、とても気分が良いのです。全てはどうでもいいことだと気づきましたから」
相田は微笑んだ。その笑顔は、あまりに慈愛に満ちていて、逆に不気味だった。
彼が懐に忍ばせているのは、辞表だ。今日こそ、これを叩きつけてやる。怒りではない。ただの事務的な処理として、この因果から抜けるのだ。
山崎の席に向かう。
「山崎課長代理」
「あぁ? なんだ朝っぱらから……って、お前眩しいな! なんだその顔は!」
「今日でお暇を頂こうと思いまして」
「はあ? 何言ってんだ、今忙しい時期に……」
その時だった。
ズズズズズ……ッ。
地鳴りが響いた。ビルの窓ガラスがビリビリと振動する。
「地震か!?」
「いや、違う、これ……!」
オフィスの空気が一瞬で凍りついた。空間が歪む。壁の向こうから、本来そこにあるはずのない湿った土の匂いと、獣の悪臭が漂ってきた。
警報音が鳴り響く。
『緊急警報! 緊急警報! 当ビル三階にて空間湾曲現象を確認! ダンジョンブレイクです! 直ちに避難を――』
放送は途中でノイズに変わり、断末魔のような音と共に途切れた。
ここは三階だ。
オフィスの入り口、自動ドアがあった場所が、どす黒い穴に変貌していた。
「嘘だろ……なんでこんな街中で……」
誰かが呟いた直後、その穴から巨大な影が飛び出した。
身長二メートルを超える、豚の頭を持つ亜人。オークだ。しかも一体ではない。三体、四体と、次々にオフィスになだれ込んでくる。
「ヒィィッ!!」
「逃げろ!!」
オフィスはパニックに陥った。書類が舞い散り、デスクが倒される。
山崎は真っ先に机の下に潜り込み、震えていた。
「俺は知らねえ! 俺はまだ死にたくねえ!」
オークの一体が、逃げ遅れた女性社員に狙いを定めた。巨大な棍棒を振り上げる。
誰もが目を背けた。
だが、相田だけは動じなかった。
彼の脳内では、例の毛玉――相田は心の中で「おつまみ」と呼ぶことにした――が、安らかな声を響かせていた。
『恐れるな。形あるものはいつか壊れる。それが今か、後かというだけのこと』
(ああ、そうだな。おつまみさんの言う通りだ)
相田は納得した。この状況ですら、彼にとっては通り過ぎる風のようなものだった。
しかし、目の前で同僚が潰されるのは、少々寝覚めが悪い。
相田はスッと前に出た。




