第1章 第1節 理不尽な残業と限界の向こう側、そして安酒と共に現れた謎の毛玉との邂逅
第1章 社畜、全てを諦めて覚醒する
第1節 理不尽な残業と限界の向こう側、そして安酒と共に現れた謎の毛玉との邂逅
相田悟の視界は、泥水のように濁っていた。
蛍光灯の明滅が、痛む頭を容赦なく叩く。時計の針は深夜二時を回っていた。
「相田ァ、まだ終わんねえのかよ。これだからゆとりは使えねえんだ」
背後から飛んできたのは、酒臭い息と共に吐き出された上司の嘲りだった。課長代理の山崎だ。彼はダンジョン関連の資材管理という、聞こえだけはいいが実態はただの肉体労働に近い部署の責任者だった。
「……申し訳ありません。データとの照合に時間がかかって」
「言い訳すんな! 明日までにポーションの発注ミス修正しとかねえと、俺が部長に怒られんだろうが!」
山崎はそう喚くと、自分の机に戻り、隠し持っていた缶ビールをプシュリと開けた。
修正作業の原因を作ったのは山崎だ。彼が発注数を一桁間違えた尻拭いを、相田がやらされている。
怒りすら湧かなかった。ただ、身体が重い。鉛のように重い。
(ああ、もういいかな……)
ふと、そんな思考が過った。
窓の外を見る。ビルの明かりが少ない。このまま飛び降りたら、明日の出社はしなくて済むだろうか。そんな暗い空想が脳裏をかすめる。
朝五時。始発で帰宅した相田は、その足でコンビニに寄り、一番安いストロング系の缶チューハイと、賞味期限切れ間近のチータラを買った。
ワンルームの狭いアパート。布団を敷く気力もなく、万年床に倒れ込む。
プシュッ。
虚しい音が響く。喉に流し込む液体は、アルコールの味しかしなかった。
「……疲れたな」
独り言が漏れる。それは諦めの言葉だった。死にたい、消えたい、もう何もしたくない。
その瞬間だった。
視界の端で、何かが動いた。
最初はホコリかと思った。だが、それは相田の目の前でフワフワと浮遊し、徐々に大きくなっていく。
直径二十センチほどの、灰色の毛玉。目も口もない。ただの毛むくじゃらの塊だ。
「……なんだこれ」
幻覚か。過労が見せる最後の夢か。
相田が手を伸ばすと、毛玉はスッと手に乗った。温かい。そして、不気味なほどに相田の心臓の鼓動とリンクして脈打っている。
『――摂取を確認』
声ではない。脳に直接、重低音が響いた。
「へ?」
『対象の精神汚染濃度、基準値を突破。負の感情エネルギー、極めて芳醇。これより契約および同化を開始する』
「は? え、ちょっと」
毛玉が、相田の胸に沈み込んでいく。物理的に、だ。肋骨をすり抜け、心臓へと溶けていく感覚。
恐怖で叫ぼうとしたが、声が出ない。
『逃げるな。終わらせるな。ここを楽園に変えろ』
ドクンッ!!
心臓がい、苦しい、悲しい、憎い。それらの感情が、掃除機で吸われるように消えていく。代わりに満ちていくのは、絶対的な「凪」。
静かだ。世界はこんなにも静かだったのか。
相田の身体が、内側から淡く発光し始めた。




