EP07 ぷー太郎、異世界にて戯れる
「ダブル・ダウンだ」――スペードのA。クラブのJ。
それは原義での、役としてのブラックジャックであった。
*
「——という訳で賭博敗北少女モニカ・ヒルちゃんが合コンを開いてくれたんだ」
「素晴らしい友情だ」
「半ば強制だったじゃないですか、ウチのお金を人質に取って」
カジノで賭博敗北少女モニカちゃんと引ったくられたりパクられたりした後日の話である。俺達は彼女がベットした六十五万を確かに稼ぎ戻し、それを対価に彼女に友人を紹介するようにと迫ったのだった。
まあ、俺とレフ、モニカちゃんとその友人の計四人ぽっちのものなので、ただの戦勝会という側面も大きいが、しかしモニカちゃんも内面を抜きにして表面だけを見れば可愛らしい女子の部類だ。付き合うとかを考えると、まあ少し言葉を濁したくなると言うか厳しい部分が見え隠れするが、ワンナイトならば共にしたいくらいの好感度はある。
彼女を支えずとも、学院の友人を誘ってくれたそうだ……こちらでいう学院が何なのか、正直、いまだによくわかっていないが院というのならば大学のようなところだろう。JD、つまり俺と立場としては同じ訳だ。警戒はされない、と見ていいだろう。
浮ついた心でモニカちゃんおすすめな居酒屋の前で三人、屯して待っていれば「ごめーん! 遅れてもうたぁ!」と何とも可愛らしい声が響いてきた。
「ぜんぜーん! 急にゴメンね!」とモニカちゃんが迎えているので、彼女が誘った学院の友人とか言う子だろう。そう思い、人間の印象の実に七割近くを占めるという第一印象を極限まで高めるべく爽快感のある笑みを携えてそのご友人の方へと振り向いた俺の喉からは——
「orz」
自分でも聞いたことのない音が出た。
何と……何と評すればいいのだろうか。頭部から伸びた二本一対の長い耳はピンと立ち、その内側以外の体表には白く短い毛並みが柔らかく広がっている。目を引く耳から視線を降ろしていくと、そこにはルビーなんかよりも余程赤い瞳が爛々と揺れた。
丈の短いトップスの上にスポーティーなジャンパーを着込み、脚の形が出るジーパンと運動的な印象を受ける服装。
「どうもでーす! リェン、颯爽登場したで〜! ……もしかして、お待たせしてもうた感じかいなぁ」
モニカちゃんの友人リェンちゃんは、兎の獣人であった。それも、かなりの獣性の。
街中を歩いている最中も獣人はいくらでも見ていたので、その存在は認識していたが……よもや、よもやそう来るかぁ。抵抗は、正直ある。だが、しかし相手がレディであることに変わりはないのだから、この内心は包み隠して何のことはない女性として扱うべきだ……というのはわかっている。わかっているのだが。
「バッグス・バニー……」
頭を過ぎる嫌味な兎の名前を口にしながらも、俺は先行く皆の後を追って居酒屋に入った。壁に並ぶ樽、響く笑い声、乾杯の掛け声。雰囲気の良い、異世界って感じの酒場だ。
店の一角、空いていた席を陣取って、メニューに書かれた文字はわからないので「おまかせで〜」と伝える。日本酒系列は苦手だが、ここにそんな酒はないのだから何が来ようと、だ。
注文から軽く話し出す前に持ってこられたビールは小さな樽のような器に入っている。純白の泡が表面張力で揺れており、自然、ごくりと唾液を飲み込んでしまう。
「取り敢えず」各個人の手元に回されたジョッキを握り、モニカちゃんの一声を待つ。「出会いと勝利に——⁉︎」
「「「「カンパーイッ‼︎」」」」
ジョッキを掲げて、ぶつけ合う。なみなみと注がれた酒が衝撃で溢れたことなど些事、一息に半分程度喉に流し込んで「ッハ〜」と深く息を吐き出す。
生ビールとは味の異なる、どこかスパイシー且つフルーティーなビール。こちらの酒はこういうものかと思い、再びジョッキを傾ける。
「では、改めまして自己紹介を。ウチはモニカ・ヒルです……です」
「僕はレフ・トールギスト。そしてこっちはライト」
「いや何で俺の名乗りまでするんだよ。個性を返せよ」
「何が個性だよバカ。元から個性的でも無しに」
「だからこそ積み重ねにゃならんのだろうがダァホ」
やいのやいのと言い合う俺達に、酒を口にして逆に冷静になってきたのか、勝利の高揚から一転、真っ青な顔に落ち着いたモニカちゃんはまるで役に立たず、落としてくれる人を求めて視線を泳がせる俺達の間に割り込み、どうどう、と馬でも宥めるように口にする兎人の彼女。俺は気まずさから手刀を立てて謝罪と感謝を伝え、手をそのまま上に向けることで続きを促す。
「わたしはリェン言います。おおきにな。モニカちゃんとは学園の寮の同室でなぁ……お二人さんは、どういうご関係な感じで?」
「戦友です」
「せ、戦友?」
困惑する彼女に、俺達は掻い摘んで今回の顛末を話した。カジノへ行き、引ったくりに遭い、身の上話を聴き、心優しい俺達が協力を持ちかけ、損失額を取り返す。話が進むに連れて頭の位置と耳がどんどん沈んでいくのが面白くてノリノリで話してしまったが、話を終えた時の卓にめり込まんばかりになっていた姿に、若干悪いなと思いもした。
「えと……怒ってる? 怒ってるよね? ごめ、ごめんなさい……リェンちゃ——ごめんなさいごめんなさいもうしません許してください本当に反省してますだから打たないでください」
「誰がぶつものかいな、人聞きの悪い」
勝利の酔いが覚めたモニカちゃんは、アメリカのケーキを彷彿とさせる青い顔でオドオドとこの世のありとあらゆるを恐怖するような態度に戻っている。そんなモニカちゃんをそっと抱いて頭を撫でているリェンちゃんは、どこかお姉さんみたいで、凄まじい包容力に惹かれてしまう。モニカちゃん、代わってくれないだろうか。
「二人は、同期なの?」
「おう。同じく二回生でな」
「へぇ……ごめん、学院についてまるで知らないから二回生がどの位置なのかわからかいや」
「四学年ある真ん中やわ。四回生になると、もーほとんど魔術研究とその論文執筆に費やすことになるさかい、勉強のレベルとしては中級相当ってところやねん」
「はぁー、そうなんだ。どんなことやるの?」
「専攻によって変わりますが、わたしは魔術の解剖を学んでんねん」
「魔術の解剖かぁ……まるで想像がつかないな」
「やんなぁ~」
店員が持ってきた串焼きを手に取り、一切れ咥えて串から引き抜く。脂でテラテラな肉は口内を一撃で油分によるコーティングを施し、しかして同時にその旨みをも口内という口内に広げた。味蕾という味蕾が塩で味付けされただけの素朴な肉の旨みに歓喜し、やたらと凝られたセントリア家の料理よりこちらの方が美味しく感じてしまう自らの舌、その下劣さに自己嫌悪を覚える暇など有りはしなかった。
脳内は肉、脂、肉汁のトリオがジャズロックを奏で、チームプレイとソロパートの入れ替わり立ち替わりにより……スパーキング!
「……ライトさんは、わかりやすい人やね」
「何? 唐突なディス?」
「ああいえ、串焼きを食べた瞬間に顔が緩んだから……つい」
「そんなかなぁ」
「そんなだぞ」
俺が口にした疑問に、間を置かず答えるレフは片手に串焼きを、空いた手にジョッキを持って喋ることもせずにがっついていた。この男は花より団子なのか、合コンを理解していないのか、あるいは二人とも奴のタイプではなかったのだろうか。
モニカさんを結構好きと言っていたが、当のモニカさんは産まれたての子鹿以下の存在に成り下がってしまっているし。まあ、下手なことを口にしないのならばそのまま串焼きを貪り、あわよくば喉に詰まって明日まで気絶していてほしい。
「リェンちゃんはあれかい? 出身は木国の方なのかい」
俺にちょっかいをかけたことで食の手が止まったのか、代わり、レフが質問を投げる。
「はい。木国の豊朔領やね」
「術学かぁ……いいね。でも、術学の体系が違うし、こっちでやるのは大変なんじゃない?」
「まあ、始めは大変やったけど……慣れましたね。いつまでもそんなコト言うてられませんに」
「前向きだね。実に良いことだ。過去を振り返るは経験の演算故に容易いが、それで何が好転するでもない。心を前に、身体は引かれて動くべきだ――なぁ、ライト」
「嫌味か」
俺のわからない話をする二人を置いて、今後は俺が串焼きを酒で流し込んでいたところへ唐突に流れ込んだ流れ弾に、どうにか口内の肉を嚥下した後に答える。言わんとすることはわかれども、それで上手くやれる程に生き上手ではないのだから。
「お二人は、何をされとる方なん?」
「僕はセントリア家に技術者として召し抱えられてるよ」
「俺は……何て言うのかなァ。セントリア家で飼われているというか、まあ、首輪付きって感じだ」
俺達の回答に、しかし反応したのはモニカちゃんであった。「ヘァッ」とウルトラマンやスターミーのような奇声をいつものように上げたと思えば、口角が上がり、最早ヤケクソ気味に笑いだしたのだ。
モニカちゃんの二十四面相に若干引く俺と、堪え切れないと爆笑するレフ。リェンちゃんが「どしたん?」と声をかければ、その感情を落ち着かせた。感情ジェットコースター人間、マシーンじゃこうはいかない。
「いえいえ……は、はは。そうですか、セントリアさんの…………関係者の方々で……」
「あー……そっか。憧れてたもんな、セントリアさんに」
ここでおや? と思い、レフに耳打ちでノエルさんは学院とやらに通っているのかと問えば、平気な顔で肯定を返された。何とはなしに、自分よりも年下だけれど仕事のできるバリキャリな印象が強かったものだから頭から抜けていた。十七歳、年齢から考えれば高校二年生。そりゃ、学生な訳だ。
もしかしたらそんな話も会話の中であったのかもしれないが、学院なるを知らないので上手く記憶できていない。受けていた印象とも異なるので、尚更に。
「学院でのノエルさんって、どうなんです?」
「えー……そやんなぁ。わたしも別に親しい訳やないので詳しくは話せへんのやけど、何て言うか、皇帝! って感じですかね? 女学生の憧れの的……みたいな? カッコエエ女性、みたいな? そんな具合やね」
「あー、お嬢は外でもあんま変わらないんですね。なんか、実は女子引っ掛けまくってるとかなら面白かったのに」
「そうあって欲しかったのかよ。ライト、お前は」
「うーん……嫌だ! 勝手な話だけど、お嬢にはカッコ可愛くあってほしい」
「勝手やなぁ。でも、そういう男子は嫌いやないで」
ジョッキを傾け一息に酒を飲み干したリェンさんの、どことなく熱を帯びた視線に、紅潮した頬。流し目を向けられた俺は、目を逸らしつつも酒を呷り、再び視線を交錯させて微笑む。
「そんなことを言っていると、惚れますよ」
「惚れていいんやで」
これは勝てんと視線をそっと横にずらして、ターゲットをモニカさんに変える。リェンさんは不味い、勝てない。
「モニカちゃんは、どうしてノエルさんに魅せられちゃったワケ? 折角だ、恋バナしようや恋バナ」
「恋バナか? これ」
疑問符を浮かべるレフは無視して、どうにか恐怖を煽らぬようにと笑みを絶やさずに語り掛ける。
「我が家は、昔、セントリア家に救われたんことがあるんです。マクシミリアン動乱って、知ってますか?」
知っている前提だが、この世界のことなんて何も知らないと目を逸らす俺の横で「あ〜、うん」と、果たしてどちらなのか曖昧な返事をするレフ。俺もその感じで返せばよかったと、後悔。
「なので、元々セントリア家に対しては敬意を持っていたんです……でも、セントリアさんが同じ学院にいると知って、一目見ようって……」語る口は熱を帯びて、それでいて態度は凍てるように。「氷の彫像かと、思いました。……同じ土俵じゃないって…………そこにいるだけで」
竜頭蛇尾な声で、一体それでどこに惹かれたのか俺にはとてもわからないエピソードを話したモニカちゃんは、ふっと息を吐いた後、ぐいっとジョッキを傾け一滴と残すことなく空とした。ファーストインプレッション。俺も印象的な出会いであったが、確かに言語に落とし込めと言われればムツカシイ。
「誰もが太陽に憧れるってこったね」
「太陽……か」
月には星々がいるけれど、太陽は孤独だ――と語ったのは、一体誰であったか。
ノエルさんも、そうなのだろうか。
「まあ、アレだ。俺が言うのも変だけど、仲良くしてあげてよ、ノエルさんと。一人は、さみしいから」
「お、恐れ多いです……無茶言わないで、ください」
「……まあ、いいさ。選択の権利は、常にして当人にあるべきだ。だけど、きっと、お嬢はキミを無碍にする人ではないと思うけどな」
「わかっていても……怖いものは、怖いんです」
「やーい、ビビり」
折角良い話風にまとまりかけたのに、レフの冷やかしについつい俺が吹き出してしまう。そのせいでモニカさんが臍を曲げてしまったらしく、ムスッとした表情になってしまった。
真面目な状況であればある程に鉛筆が転がる程度の些末な出来事であれ面白くなるのだから、仕方ないだろうに。あるいは、これは単純な俺とレフの性格、その底意地の悪さも関係があるのかもしれないけれど……流石に二十歳前後までこの性格でやってきたので、今更変われるものではない。
「——リェンちゃん」折角の合コン、卓を囲む沈黙など求められてはいないのだから、俺は話題を求めてリェンちゃんへと声を掛ける。「リェンちゃんはどうしてコッチに来たの? あまり知識がないから当たり前のことを訊いちゃってたらゴメンね」
「いえいえ。なんでなん、でっか……おっきな理由としては、就職を先回しにするためやな」
「先回しに……?」
いわゆる、大学でのモラトリアム期間を求めてという話なのだろうか。俺も、特に考えなどなく適当に入れそうな大学に入ったクチなのでわかり味が深い。仲良くなれそうだ。
「元々、木国の方の術理塾に通っとったんですがね。三年の途中で徴兵が入っちゃいまして〜」
何だか雲行きが怪しくなってきた。数秒前に浮かんだ思いの撤回準備をしておこう。
「帰ってきてや、残りの一年を通って卒業したはええんやけど、覚えてまっか? 例の流行病で就職がどないもややこくって、留学ってテイで落ち着くのを待とうかな〜なんて」
撤回〜。
滅茶苦茶しっかりと考えていらっしゃった。ちゃらんぽらんに生きている俺と比べることそれそのものが烏滸がましいレベルだ。
「そんなことがねぇ。……え、徴兵とかあるんだ木国って」
「ありまっせ〜。いっぺん行ったらそれきりやから、ウチはもう無関係やけどね」
「へぇ。じゃあ、卒業したら帰って就職って感じか」
「せやせや」
「なるほどなー……そういう感じなんだ」
向こうもこちらも、そう大きくは変わらないと見える。産まれて、育って、勉強して、働いて、老いて死ぬ——人の命である限りはどこであろうと同一の流れをこそ命と言うのだろう。
何だかなぁ、と嘯いてジョッキを呷る。喉を鳴らして酒を流し、一息で呑み切って卓を置くや否やどこからともなく姿を現したウェイターが酒がなみなみ注がれたジョッキと空のジョッキを持ち替えて消えていく。わんこ酒。
「……上等だよ」
そこから、またぞろ俺のわからない話を始めたレフとリェンちゃんを無視して、次々に運び込まれてくる酒を呷り続ける。何杯呑んだのかは知らないし、中途から隣の席の知らないおっさんとかも巻き込んで呑んでいた気がするし、なぜか服が無くなったりもしていた。
そうして、今、俺は、リェンちゃんに連れられて帰路を歩いている。なぜ俺に肩を貸してくれているのがレフではなくリェンちゃんなのか、店の会計はどうなったのか、ここからどうやって帰るのか、そういえば俺の通っていた大学の出席数はどうなっているのか。酒浸しの頭で考える。
「リェンちゃんは……」しかし酒に浸された頭は考えをまとめるには適さず、雲散霧消していく気泡のような考えをどうにか掻き集めて言葉を紡ぐ。「徴兵のとき、戦った……?」
今、俺がどこに向かっているのか。彼女がどこに向かっているのか。何もわからないけれど、彼女に合わせて俺も足を進めていく。真っ直ぐ歩けている自信は、ない。
「……戦いましたよ。魔物と、ですが」
「………………そっか。俺も、魔物と、戦った」
「強いんやね。凄い、カッコええなぁ」
「……でも、命を奪うのは、殺すまでしなくてもって……強くなんか」
話すべきではない言葉が、アルコールの揮発性を持って零れる。
困るだろうに、緩んだ頭は油を吹きこぼしていながらも運転を止めることをしない。
「せやけど、そないして思て、考えれるのは十分強さやで。みんな、気にせぇへん。そないなこと。だって、考えたら嫌な気持ちになってまうやろ? あんたは強い子やで、ライトさん」
ほな行こか、と強引に連れ込まれたのは、宿であった。俺がこれ以上歩けないと悟られたのだろうか。だとしたら、こうしてここまで付き合ってもらった上で俺の側がギブしたのだから申し訳がない。いや、申し訳ないで言うのであればここまで付き合ってもらった時点でだいぶ申し訳ないのだが、罪悪の上塗り、もう一生頭が上がらなくなってしまった。
受付も何もかもを全てリェンちゃんに任せて、俺はガンガンと痛む頭のままに何とか座り込まないようにだけ注意して起立し続ける。膝を折りたいのは山々だが、宿まで来たのだからあと少しの辛抱だ。今膝を折れば、もう立ち上がるのも困難であろうことは目に見えている。ここまで付き合わせて、尚且つそんなことまでさせるのは申し訳ないとかのレベルではない。罪だ。
ギシギシと軋む木材の音が鳴り響く宿の廊下を通り、部屋に入る。何だか妙に広い室内には、中央にどっぷりと巨大なベッドが鎮座しており、そこから視線を滑らせて左に流せば透明な何かガラスっぽいがそうではない質感の謎素材によって囲まれたシャワールームがある。シャワーといってもこちらの物はホースにノズルというものではなく、温泉とかに行った時に入り口辺りにある掛け湯的なアレだが。
「………………ッ」
割と真面目に限界が近く、一歩一歩確かめるようにして足を進めていき、どうにかベッドに辿り着く。最後はまさかまさかの背中と膝裏に腕を回されてお姫様抱っこでベッドに寝かされてしまい、これが徴兵経験者と非力なもやし学生の格差か! とドキドキしてしまう。そのドキドキは頭のズキズキと合流して、それはもう楽器を習いたての人間だけを集めた音楽会のような不協和音を撒き散らしてくれたもので、俺の不調は、この時、決定的に絶不調となる。
「先、シャワー浴びてきますね」
そう言ってシャワールームに消えていくリェンちゃんを目で追うこともできずに、回る視界となぜかやたらと暑い全身に得も言えぬ恐怖心を感じた。食道が熱を持って、酒が通ったのであろうラインを鮮明に知らせてくる。見えない臓器を、今ならば正確に言い示せるであろう。
インフル拗らせた時でもここまで……いや、どうだろう。トントンかもしれない。けれど、どうしても今この時俺を苦しめているこれの方を贔屓してしまう。
シャワールームから響く水音すらも、今は台風の晩が如く。耳から取り入れられた音は頭蓋骨の中で反響し、ただでも不調な体調を悪化させている。
「——————ッ」
数十秒おきに腹の中で蠢く何かは、徐々にその感覚を狭め、口を開けていなければ耐え切れぬ嗚咽は遂には最大に達して、喉奥から込み上げた熱を吐き出した。この吐瀉物の香りが、俺の気分下落が加速する。
二度、三度と吐き戻す。
目を開けているだけでも気分が悪いので瞼を閉じて、鼻で息をしては匂いにやられるので口を開いて呼吸をする。もう戻るものも無いものの、腹は何かを押し出そうともがく。嗚咽をしたとて、開いた口から唾液が垂れるだけに終わる。
「大丈夫なん⁉︎」
戸の開く音がしたかと思えば、そんな高い声が聞こえてきた。心配と共に背中を摩られて、とはいえ既に出るものは出切っているので何か変わるでもない。
吐くものを吐き終えれば、その分だけの痛みがガンガンと主張を始める。精神のマイナス面が必ず百になるように調整されているが如く、抜いた分だけの苦痛が他によって代替されて、逃れ得ぬ因果のように、前世からの因縁のように、俺の健全な精神を蝕んでいく。プリーストの語った、シスターを呑み込んだ狂気というものも、あるいはこのようなものだったのだろうか。いや、勿論、こんな酒気による酩酊とは比べものにならない程により過酷なのだろうが、しかして、今は俺は我が身が可愛い。
「ごめん……」
何とか、その三音だけを喉から出すが、自分自身では正しくこの音を発せているのかイマイチ自信に欠く。掠れて伝わっていないかもしれないし、潰れて聞き取れていないかもしれない。あるいは、発声すらも、最早できていなかったのかもしれない。
ここまでの酔いは初めてのような気もするが、何か、思い出さないようにと封じ込めている部分もまた同系統のものだったようにも思えてならない。具体的には、新入生歓迎コンパ辺りで……いや、よそう。思い出さないようにと努めているのであれば、それは思い出すべきではない思い出なのだ。買い物の際のメモではないのだから、思い出さないようにしよう。
「かめへん、かめへんよ。落ち着きぃ、ゆっくりと呼吸したってぇやぁ」
そんな俺に、リェンちゃんはそれでも付き合ってくれる。落ち着くようにと、安らぐようにと。
「……リェンちゃん。魔族と、戦ったことはある?」
「おまへん」
「そっか……リェンちゃんは、どうか、どうか話し合う希望を忘れないでね。言葉は、花束なんだ……害意にもなる、ナイフとも形容されるものだけれども…………それでも……それでも俺は、信じたい。我儘なのは、わかってる…….お願いするべきじゃあ、ないってのも…………でもさ、争うなんて、悲しいじゃないか……」
「せやんな。幸せでありますように、なんて、誰でも願うことやから」
背中を摩る手が止まり、俺も波が治ってきたことでどうにか体勢を立て直し、彼女の方へと顔を向ける。刹那、急接近したリェンちゃんの顔に俺は咄嗟に反応できず、流れるように奪われた唇はやはり人間のものとは感覚が異なっていた。
「あげちゃいましたし、貰っちゃいましてん」
微笑む表情は、淫靡で。
惚けた俺の手を掬い上げる形で持ち上げると、何やら先細りした筒の先端を俺に押し当てた。
「最近流行りの栄養剤でしたってな、わたし達のようなテリアンスロープでも外部から魔力を摂取できんねん。勿論、魔石から得られるシミワルカにも有用でしたってな……あんばいよう、魔力で中和できたらいいんやけど」
押し当てられた先端が皮を貫いて、筋肉に達する。俺は昔やられたインフルエンザの予防注射を思い出して、あの、前に入って行った奴らが室内で大声を上げて泣き叫ぶ部屋に入るために待つ苦行、まさしく死刑執行待機列を思い出して、感情が揺さぶられて泣いた。
そんな俺の姿に動揺して、リェンさんは慌てふためきながらも筒——というかデザインを微妙に異とする注射器を手放して、俺を慰め始める。俺は、そんな自分自身の姿があまりに惨めで、涙が止まらなかった。
*
目が醒めた俺は、隣に眠るリェンちゃんを一瞥した後、そっと宿屋を後にした。
道行く人に話しかけ、遠景から見える姿を辿り歩を進めて目指した先は、王都にも根ざす大樹・聖堂塔。その根元にて、何を互いに示し合わさずとも巡り合った俺達は、視線を交差させ、聖堂塔内へと入る。
受付を済ませ、待機し、そして昇降機で上層へと向かう。
先に口を開いたのは、レフであった。
「すっきりした顔してんじゃないの、顔でも洗ってきたの?」
「そっちこそ、随分とお疲れと見える」空間には、昇降機の上げられる重い機械音が充満している。「でも、うん……回答欄は未だに空白だけれど、それでも、今どうするべきかくらいは決めた」
「……納得、できたの?」
「どうだろ……でも、多分、未練に足を引かれるよりは余程良い結論だと、俺自身は思ってるさ」
立つ。立って、前に進む――俺がいる意味と、そこから導き出される目的を求めて。
俺が俺自身に科したものならば、無能とてこの一つぐらいは完遂して見せる。
「重いね」
「それでも、進むよ。『僕の旅の行き先は、僕だけが決める』……ってね」
「修学旅行じゃないんだから、そんなものでしょ」
「――か。馬鹿なことに、時間喰っちゃったな」
透明な膜に包まれて、再び飛翔する。
エアラインというこの移動手段、実に異世界らしい豪快且つ剣呑な乗り物であるが、個人的な好みで言えば嫌いだ。より異世界らしい馬車や竜車を使っていたいと心底から思う。何を食べていればこのような阿呆な移動手段を思い付き、各地に配置するのか。居酒屋の食事のような味の濃い食べ物ばかり食べているからだろう。詫び寂び、和の嫋やかな様など存在しない濃い味の食事も異世界、というか外国感があって最初は耐えられたが、流石にそろそろ苦痛になってきた。我が儘を言える立場にはないが、出汁を好んで啜る和人にはちと濃い味が過ぎる。
そんなことを思いながらもさながら社会のように大きな力に流さるるままに流されていれば、地面に突き刺さる形でセントリア領へと着陸した。レフに引き抜いてもらいどうにか脱出し、二人並んでぷらぷらと街から屋敷へと続く道を歩く。何か手土産でも持って帰るべきかとも思ったが、まあ、東京バナナ的なこれという王都土産も見当たらなかったので致し方ないだろう。
「お疲れ様です」
門番の彼に軽く頭を下げつつも門の隣の出入り口を用いて屋敷を取り囲む壁の内に入る。そんな俺達を見る門番の目が、どこか憐憫の色に潤んでいるようにも見えたが、あの不吉な空気は一体何事だと言うのだろうか。
研究室に帰るというレフとは途中で別れて、一人屋敷の扉を開ける。不安を抱えながらも押し開けた扉の向こう、二階へと続く階段の踊り場に脚を伸ばし、二段目に腰を掛けていた男は俺を見るや低く深みのある声色で語り掛けてきた。
「朝帰りとは……感心しないな。だが、わかるよ。ティーンとはそういうものだ」
不明存在の現出に、俺は咄嗟に身構える。
シスターとて、化けない状態ではただの人間であった。ならば、眼前のこの男とて可能性はある。
男から注意を逸らさぬままに視線を動かして周囲を観察する。普段、この時間であればいるはずの使用人の皆の姿が見えない。しかし手入れの行き届いた屋敷内の様子は争いの雰囲気を持たず、それとは真逆の静謐な空気を生み出していた。
「……成る程。テリアではあるらしい」手すりを掴み、身を引き上げた男はしかしその瞳に常に俺を映し続けている。「俺はアドリアン・セントリア、この家の旦那様って立場にいる」
「あ……神田来人です。お世話になっています」
構えを解き、深々と頭を下げる姿を見下ろすアドリアン・セントリアの眼は、さながら天空を旋回して回る猛禽のそれであった。




