EP04 ぷー太郎、異世界にて萌す
俺がノエルさんの家で世話になり始めてから、三日の時が経った。特別、これという仕事もせずにだらりだらだらと特権階級のコバンザメとしての生活を満喫して、これがヒモと言うものか、と感動すらも覚えたが、ヒモも楽の一辺倒ではなかったりする。例えば、使用人の方々からの冷ややかな視線に耐えなければならない。例えば、ノエルさんの母親であるロランさんに日中捕まってはならない。
会議の翌日、昼間にロランさんに少し体を動かさないか、と誘われ、スポーツの類いかと思って阿呆面晒して着いて行ったら夕暮れまでぶっ通しで模擬戦に付き合わされた。しかも滅茶苦茶強くて、一度も勝てなかったのだから、心も折れる。骨が折れていないのが不思議で仕方なかったが、これはおそらく牛乳を毎朝飲んでいたお陰だろう。
「だからと、こう毎日居座られても困るのだけれどね」
ベッドの端に腰掛けてこの世界の絵本を見る俺に、迷惑そうにレフが言う。
レフ・トールギストも、俺と同じくしてこの屋敷の世話になっている。相違点としては俺がなぜか屋敷本陣で部屋を割り当てられて悠々自適の分不相応生活をしているのに対して、レフはお抱えの鍛冶職人が使っていた古工房に隔離されている点だ。まあ、俺が見るだけでも怪しげな研究ばかりをしているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。関係性としては、お抱えの錬金術師の立場になるそうだ。研究費用を貰う代わりに、研究結果はセントリアの名が受ける。
それでいいのか、と問いもしたが、今の時代を錬金術師が生きるにはこういう方法しかないのだと語った。古工房の隔離も、曰くノエルさんの優しさだそうだ。触れていいのかわからずに、理由は訊けていない。
「いいだろ、別に。邪魔するでもないんだから」
「邪魔をしてくれるなら、追い出す口実にもなるんだけどね」
「お生憎様、本当に邪魔だって思われているならば、俺とて来ない。屋敷の近くだとロランさんに見つかる可能性があるんだ、許せ」
「まあ、余りにも無残な姿だったからね……あれは。でも、傷は全く残っていないよね。あの変化の影響なのかな」
レフは、自身の研究の傍らで俺の身体についても調べている。
ダンジョン内でノエルさんに開いてもらった魔術循環器だが、どうやらまたその蓋を閉じてしまったそうだ。本来、一度励起させた魔力循環器系には空気中に含まれる魔力がごく僅かに流れ続けるため、閉じるという事態は発生しないそうだ。起こるとしたら、魔力が一切存在しない超特殊条件下で全身に巡る魔術循環器から魔力が無くなるまで生活する、というおよそこの世界では不可能な方法のみであるらしい。
「健康被害が出ていないのが不思議で仕方ない」と言っていたので、この世界の人々はこの魔力循環器とやらでも某かの免疫を作っているらしい。この手の学術的な話をさせると長くて、聞く気もなく聞き逃してしまったので真相の程は不明である。
「今日、お嬢と街に行くんだって?」
「うん。社会科見学ついでのデートをば」
「さよですか。一応訊いておくけど、お前は、どうしたいの?」
「どう……どう、かぁ。考えてもいないかな、恋はいつでも流るるままに流れるものでしょう? ねぇ?」
「お嬢は、馬鹿じゃないよ。あの人の非情な策は筒抜けになっていると見るべきだね」
研究の手を止めてまで、俺を視線で射抜き語る。
そんなレフの言葉を右から左には聞き流せず、本を傍に放り、上体を倒して腕で両眼を覆う。
「だとして、だろ。俺はこれ以上ボコボコにされたくないし、俺としては否定もし切れないやり方だから」
「否定も……ねぇ。一番納得いってないって思ってるの、自分なんじゃないの?」
「じゃあ、もっと上手い方法があるっていうのかよ」
「幾らでもね。これは、責任を強要するやり方だと思うな」
「言ってくれる……」
俺は今、現実を生きているのか、あるいは幻想に身を任せるべきなのか。目を開き続けるのは、常にして苦痛を伴う。魔鶏、大猪、ドラゴン……手に、脚に、脳裏で瞳が覗いてくる。あれらの命に勝った俺がこれからどうするのかを、問い掛けてくる。
報いる訳ではない。殺そうとしてきたのだから、殺されもする。それは自然のロジックだ、俺なんかよりも彼ら彼女らの方が余程理解しているはずだ。
「だから、これは俺の弱さだ」
身を起こす勢いを利用して、ベッドから立ち上がる。このような古工房に籠っていては、息が詰まる。これからデートだというに、以前のレフのようにモジャに成り下がってはたまらない。
「これ、持ってけ」
そう言って投げ渡されたのは、初めて出会った時に貰った物に良く似た筒にボタンが付いた器具。だが、今回は色の付いたボタンが三つ付いており、豪華仕様だ。
ささくれ立った木製の戸に手を掛け、短く挨拶をしてから押し開けると、背後でレフが「街に行くのならついでにフェーズロンサーのスコットモデルを買ってきてくれ。ディフニキャンサーじゃフォーマルポイントが安定しなかったとか何とか言えば、お嬢が金を出してくれるハズだから」と俺にお使いを頼んできたが、どのような何を頼まれているのかわからずに小首を傾げるしかない。そんな俺を見て、無能めが、と吐き捨てて散れと手を払うレフ。
そんな人でなしは放っておいて、意気揚々、軽い足取りで待ち合わせを約束した屋敷の門へと向かう。女の子と遊びに行くのは、まあ楽しさで言えばそこまででは無いのだけれど精神的に浮き足立てる。シンプルに楽しさだけを求めるのであれば、やはり男連中と遊びに行った方が楽しく感じるが、あれに関して言ってしまうと脳味噌の能力がハナからガクッと下がった状態でスタートするので、一概に比較も出来ない。
門の端には、既にノエルさんが待っていた。
つば広の帽子に白のワンピース。たったそれだけの極めて情報量の少ない仕上がりでありながらも完成された、引き算の美学と言うのだろうか、ミロのヴィーナスと同じく少ない情報での完全をここに作り出していた。芸術は爆発というが、それは間違った愚かな考えであるのだと俺は今、ここで知った。芸術とは、ただそこに在る、それだけを指すのだ。
「大丈夫ですか?」
見惚れて、立ち尽くしている俺の顔を覗き込んで、問うてくれるノエルさん。
俺はその声で遠く銀河へ旅に出ていた意識が引き戻されて、へえ、と突飛な声をあげてしまう。
「大丈夫ですぜ、お嬢。ただあまりに可憐なものですから、天上から降り立ったヴァルキュリアと見紛うてしまっただけですので」
「お上手で。ライトさんも似合っていますよ」
「そりゃ、服装なんてわからないので屋敷の皆さんの力を借りましたから」
「先日のファッションショーは、そのためだったんですね」
口元に手を当ててクスクスと笑うノエルさん。俺も、何だか照れ臭くって首に手を当てて笑い返す。
自分で決めた方がいいのではないか、とは俺も思ったのだが、やはりこの手のセンスを要求されるものは元よりセンスを持つ人が担うべきであり、俺のように非センス保持者が担うべきではない。人事は常にして適材適所、では俺はどこにあるというのか、それはノエルさんの隣である。これは人事部からの移動通知のもたらした逃れ得ぬ運命であり、逃れる必要もありはしない。
「さ、サクサク行きましょう。時間は有限、人生も有限。無駄遣いしている暇もありましょうが、俺は今日という日を一秒と無駄にはしたくはないのです!」
「では、いきましょうか」
お手を拝借、と手を差し伸べると、ノエルさんは、ではエスコートよろしくお願いします、とその手を取った。自分よりも一回りも小さく、繊細な手のひらではあるが、どこか力を感じるのは彼女の苦労を知った気になっている気の迷いからだろうか。
街までは馬車で移動して、そこから街を歩いて見て回る。俺としては見るもの全てが目新しくて、どこを切り取っても観光気分になれてしまったのだが、「焼き鳥、野菜に果物、ファッション、古物になんでもござれじゃないですか〜!」なんて、あれは何かこれは何かと、子供じみた俺にノエルさんは困り顔で微笑んでいた。そんなノエルさんの表情に、俺は一気に火が灯り、むっつりと黙ってしまう。心の罪悪は、砂時計のように刻一刻と山なりに降り積もるばかりだ。
「今日は、やけに大人しいですね」
露店に立ち並ぶアクセサリーの数々を眺めて、ノエルさんにはどれが似合うだろうかと選定している俺の背中に、彼女は、明確に疑念の視線を向けながらも問い正す。背中に気持ちの悪い汗をかく。振り返れない。
「秘密主義は損益ばかりだと思いますよ」
「………………」
「では、ノエル・セントリアとして命令します。全て話しなさい」
「……話せません」
俺の答えを聞いて、ノエルさんは頭を動かさないままに視線だけで周囲を見回し、状況を確認する。釣られて俺も首をもたげて辺りを見回せば、素人丸出しの俺で幾人かの警備騎士が目に付く。ノエルさんには、もうバレてしまっているのではないだろうか。とは言え、一度でも約束をしたならば、おいそれと破るを良しとはしない筈だ。約定を破るのは、恥ずべき行いだ。それに、何をされるかわかったものではない。
ぞくり、とうなじの辺りがピリピリとして再度周囲を見渡せば、感じたものとは別の感覚だが、直上の天空に弧を描いて飛翔する鳥の姿があった。だが、しかし異様な存在感を示すその鳥は、どうにも空間から浮いたように感ぜられる。感覚としては魔鶏に近いが、でもどことなく違うような……ところてんとコーヒーゼリーみたいな違い。
「見えますか?」
手でひさしを作り上空を見る俺に、ノエルさんが問う。
「ああ、鳥の話ですか? 見えますよ」
「あれが先日話題に上がったアーラ、私の召喚獣の一匹です」
「あれが……先輩な訳だ」
「主に魔力探知と目視での危機察知を担っています。打たれ弱いのであまり戦いに参加はさせられませんが、あれが無くてはダンジョンで生き残れませんでした」
「というと、戦闘出来る召喚獣もいるんですか」
「ええ、貴方ですよ。ライトさん」
……秘密、それもそうか。先の感覚、多分ここらで一番高い聖堂塔の上からだ。アーラが展開されているから離れて観察しているのだろうけれど、俺が口を滑らせないように首輪ばかりは引くという訳だ。これじゃあ、ノエルさんのペットなのか誰のペットなのかわからないな。覚悟を凌駕するのは暴力、そんな真理在って堪るか、という思いは、悲しきかな、今の俺自身が証明していた。
嫌だ嫌だと嘯いて、露店のお姉さんに手刀を立てて陰険な空気に巻き込んでしまったことを謝罪し、ノエルさんの手を取り進む。彼女が握り返す手の力は先程に比べて弱く、俺の手を、いつでも振りほどく準備がされている。
「嬉しい限りですね。俺の自由意思によるものではないという一点を除けば、ですが」
「ふふ、そんなことを言ってしまって良いのですか?」
「いえ、たった今、この脳骸が『ボコす』の三音を受信したので、恐らく駄目かと」
念波というものの存在を初めて実感すると共に真なる恐怖を胸に刻まれた俺は、恐ろし気な記憶が脳内でリムーブしたことで全身を冷ややかな汗で湿潤させ、手のひらにもしっとりとした感覚が回り出したと悟り手を振りほどこうとしたが、先程とは打って変わって力強く握られた手は俺の離脱を許さなかった。
「あの……」と口に出した瞬間、俺の耳はどこかで誰かの泣き声を聴きつけた。子供の声だ、恐れを孕んだ。こっちに来てからこの方、俺の身体はありとあらゆる面で鋭敏に豪快になっている。だからこそ聴き取れる声で、意識を集中させれば明確に位置まで特定出来る。
「すみません、ちょっと!」
多少強引に手を引いてノエルさんの手を振り払い、俺は声の元へ急ぐ。背中にノエルさんの静止の声を受けながらも、走る。
行く必要がないのは、俺に関係ない人が被害を被っている以上明らかではあるが、でも、わかっているが、気付いてしまった以上は捨てられない。今日、ベッドに戻って、枕に顔を埋めた時にふと思いたくなんてない——あの子は、どうなったのだろうか。なんて、そんなつまらないことで心揺らされるのは許せない。自己愛の倫理が俺らしい。
泣き声は止んだ……けれど、それが事態の収束を意味しないのを感覚で理解する。明確な論理はない。
路地に入り、幾度かの右左折を経て抜けた先で歩く女性。彼女は横を歩く少女と手を繋ぎ、しかし共に歩くのではなくゆっくりとした動きの少女を引き摺っている。服装的な違和感、雰囲気的な違和感はまるで無いけれど、彼女を取り巻く気配には違和感がある。この感覚は、ついさっき感じたノエルさんの召喚獣にも似たもの。そして、手を引かれる少女には、雑多な感覚に包まれているノエルさんに含まれる感覚だ。
恐らく、魔術の行使者と被術者の関係に生まれる独特の感覚。俺はこの感覚を、そう読んだ。
「ストライクキック!」
いくら引いたとて、子供を連れての移動は遅々とする。なので俺は、敢えて速度をつけずに追いついて、背中に飛び蹴りをかました。
手を引く女性は俺に背中を蹴られて前に倒れ、手を離さなかったがために少女も釣られて倒れてしまう。だが、声を上げずに泣きもしないものだから、やはり、この少女は何か変だ。
「チィ……! 何すんだ!」
起き上がった女性は振り返り、俺に対して悪態をつく。少女を守るような仕草はなく、親子関係は無いと見える。あるいは複雑な家庭なのかもしれないが、過程にそのようなものを挟むべきか……家庭だけに。笑えんな、これは。
「アンタ、誘拐犯でしょ?」
「何ィ? ……ハッ、だとしたら何だよ」
「何って、悪いだろ。これで十四人目ってか?」
「十四人……? いや、私はこれが誘拐初挑戦なんスけど」
「あ……あー、そう、なんですね。確かに、誘拐しようとしてたの女の子ですもんね。すみません、人違いでした」
はっはっはっ、と二人声を上げて笑う。
誘拐犯が懐に手を入れた刹那、警戒から俺は一瞬身を引いてしまう。何が出されるのか、視線で追い、これが間違いであると気付くのは数秒を置いた後であった。
「オラッ! 催眠ッ!」
取り出された杖の先端が発光し、ハッと意識を取り戻した時には誘拐犯は少女の手を引いて五十メートルは先にいた。舗装されていない路地道を蹴り、一息で十メートルを駆ける。
追いつくや否や、俺は後ろから誘拐犯の脚を踏み付け、前のめりに倒れる瞬間に少女のみを抱きかかえ、今度は少女に怪我をさせるヘマはしない。痛みに呻く誘拐犯は放り、やはり意識のないらしい少女の眼前で手を二、三度打ち鳴らすが瞬きの一つも行わない。
「ライトさん!」
走り出した俺を追って来た騎士団の男が、俺の名を呼ぶ。チラリと、俺を取り巻く混沌とした現状を見るや、俺を見る目が何かキラキラとした瞳に変わる。嫌な瞳だ、期待の眼差しは重くて嫌いだ。
「ヤツが誘拐犯なのですね! お疲れ様です!」
「いえ、あれは何のことはない野生のロリコンです。どうやら、連続誘拐に相乗りしただけの模倣犯みたいで。後を任せて良いですか?」
「任せてください! 不肖、ミコドリ! 全力で取り組ませていただきます!」
「すみません。任せます」
後をミコドリさんというらしい騎士団員に任せ、来るよりも早い走りで道を戻る。一人残してしまったノエルさんの元に、一秒でも早く走る。
胸騒ぎ、という言葉があるが、今、俺の心に焦燥感が満ち満ちている。これがノエルさんへの帰巣本能の然らしむるところならば、ノエルさんの現状は危機にある筈だ。整合性のある現実として、空を旋回していたアーラの姿が見えないことも挙げられる。
えぇい、まどるっこしい。入り組んだ路地を走るよりも、と壁や知らぬ人の家の窓枠に足を掛けて屋根上に出る。最速の直進でノエルさんのいるらしい大通りへ走り、有二無二言わずに身を中空へと翻す。ノエルさんを一人にしたのは、明確に俺のミスで俺の罪だ。ならば、今、俺は何を捨ててでも彼女を護らなくては、嘘になる。別に正直者であるだけならば誰だっていられるが、そうある努力は怠りたくはない。嘘吐きなんて、なりたくない。
誰であれ、女性の前でカッコ悪い自分で居たくない。そう思うのは、当たり前だろう。そう、当たり前だ。
大通りの中空から見下ろして、状況を俯瞰してみる。慌ただしい通りだが、騎士団が避難誘導をしているため比較的スムーズに人々の避難は行われている。露店が一部薙ぎ倒されて火が燃え移っているようすだが、辺りに燃え広がっている様子はない。ノエルさんは……居た、騎士団の壁の奥に。対照の位置——騎士団を挟んだ向かい側にいるのは、何だろうかあれは、ぬらりとした黒い塊。濡れたように艶を帯びた濃淡のある灰の毛並みの下で、筋肉がゆっくりとうねっている。一歩踏み出すたび、地面が低く震え、重たい爪が石を噛む音がした。小さな瞳は光を反射せず、ただこちらを測るように静かに動いている。額から伸びる二本の角は、片や半ばから折れて、片や空を刺すように伸びている。
紛れもなく人ではありながらも、とても人間的な特徴からはかけ離れた存在。だが、理解は出来る。アレは、言うなればダンジョンにて変身した俺と同じで、しかして全身に巡っている姿なのだ。
どこかで、子供の泣き声がした——。
「——やめてくれ」
落下の勢いをそのままに、片足を突き出して側面から化け物の背を蹴る。バランスを崩してよろめく化け物を尻目に、着地するや早く、俺はノエルさんの元に駆け寄った。
「すみません。遅れました」
「構いません。私とて、自分の身を守るくらいは出来ます」ノエルさんの足元には一匹の大型犬サイズのオオカミがおり、肌感覚でこのオオカミも召喚獣の類いなのだと悟る。「貴方こそ、問題はありませんか?」
「大丈夫ですっ。それと、魔力……開けてもらって良いですか?」
ノエルさんの前に立ち、背中を晒す。
正直、落下しての蹴りで脚が痛い……というか、筋肉というものは集まるとアレ程に固くなるものなのか。巨大なゴムボールでも蹴ったみたいな、反動がどこにも逃げずに自分に全て返ってきたと錯覚する感覚をした。足首の関節部を痛めた。けれど、まだ立っているだけの力は残っている。問題はない。大丈夫、大丈夫。
「ちょっとくすぐったいですよ」と言い、背中に手を当てるノエルさん。彼女の手を起点に、全身の感覚がより鋭敏に感じ取れるようになっていく。全身を視界として捉えるのならば、この感覚は、目覚まし前に朝日を受けてキッパリ目を醒ました朝一番って感じだ。脚が、あの時と同じく黒色に染まる。……最高だ、蕩けるような甘い夢か。
蹴りを入れた肩を片手で押さえながらも体勢を立て直し、再び動き出した化け物。ガラス玉程純粋にも映らない瞳でノエルさんを見つめる化け物に妬いて、俺は一足に跳躍して、壁としてノエルさんを取り巻く騎士団の背後から一発の弾丸として飛び出ると、その頭部に蹴りを入れる。あの時、ドラゴンにやったのと同じく蹴りのインパクトに合わせて魔力を流し込む。
背後に押し込まれ、大きく体勢を崩す化け物。背後では、今の内にと騎士団員達がノエルさんを逃す動きがわかる。
「……まだ、決め台詞決まってないんだけど?」
あの凛々しい犬に、負けてはいられない。
ノエルさんとて、かっこいいトコ見たい筈だ。
「取り敢えず……最初に言っておく、俺はかーなーり、強い!」
夏の大三角を象徴する訳ではないが、敢えて使わせて貰おう。愛のために戦うのならば、これこそが最も相応しい台詞だろうさ。
こうして真正面から相対してみれば、高さは二メートル弱くらいだろうか。印象よりも大きくはないように感じられる。だが、姿形はこう見てみれば人間に近い形に感じられ、不相応な長さ故に折り曲げられた脚はさながら祈り子と言ったところだろうか。同じく長い手を地面に着いての四足歩行を含めて見ると、懺悔の五体投地にも近しい。
「……うん。紛れもない失敗というものは、いつ如何なる場合であれ応えるものだな」
ドラゴンと同じでは、いけなかった。
相手はアレらよりももっとずっと遥かに魔力循環器系が強靭、あるいは許容量が多い、もしくは循環効率が高い、はたまた扱いに長けているらしい。どれだろうか、ともすれば全部か? 機械制御触り立ての新人が機械の故障原因を理解出来ないように、魔力触りたての俺には何が原因であるのか下手に推測出来ない。
蹴りに際して魔力を大量に流し込んだ。それでもケロリとしている。いや、それどころか、打突や防戦を挟みながら騎士団やノエルさんが刻んだ傷を確実に回復に回している。失態だ。
『テスト、テスト。聞こえていますか?』
手足を振るい、弛緩させながらもどう出るべきか、あるいは受けるべきかと思案していると、口を滑らせた時のふと脳裏に浮かんだ聖三文字とは異なり、音として頭に響く声がある。それは紛れもなくノエルさんの声であり、某かの魔術によるものと見た。
だが、これはどのように答えれば良いのだろうか。聴こえてはいるのだけれど、それをいかようにに伝えれば良いのか……魔術を使われているな、というのは感覚でわかるが、それがどのようなものでどういう魔力の扱いをすればこのような結果を引き起こせるのかは、わからない。こればっかりは勉強が必要だが、こちらの言語を習得する気のない俺にとっては九九も出来ない癖に二次関数に挑むようなものだ。
「聞こえてまーす」
取り敢えず、口に出してみた。
紛れもない独り言なので、少し恥ずかしい。
『それでは、手短かに状況を伝えます。あれが魔族です。街への被害も軽微に留まっています。魔族は膨大な魔力を持ち、高い魔力耐性を持ち、あの姿から察するに物理的な防御も高いかと。もう間も無く避難誘導に回っていた騎士団員が合流します。……耐えてください』息が上がっている様子から、未だ息は整えられていないと見える。『それと……すみません。聞きました、母様の作戦だと』
魔族——これが魔族か。思っていたよりも、恐ろしい。
これを倒すのに精鋭の騎士三人に魔術師三人が最低限は納得だが、ノエルさんの壁になっていた彼らの疲弊を見るに交戦ではなく防戦を指しての最低限なのだろう。魔力を流しての一撃必殺は狙えない、別の方法を考えなくてはならない。というか、そんな相手にもうすぐ援軍が来るから耐えてくださいは、ちと人遣い荒いのではなかろうか。余裕で死ねますけど、俺。
互いに、出方を窺っている。下手に先手を取ろうと動かずに、また隙を見せぬように緊張の糸が張り詰めた状態が続くものだから息が詰まる。一呼吸一呼吸で集中力を要し、ただ見つめ合っているだけであるにも関わらず額から一筋の汗が溢れた。
詰まった筋肉が強力な物理的な攻撃に対する防御力を生み、全身を巡る膨大な魔力で魔術に対する耐性を獲得する。生物としての格の違いを感じさせる情報だが、魔族への対応に関する情報と照らし合わせるに、物理攻撃と魔力攻撃の併用によって両方の耐性を超える攻撃を行う……あるいは、魔力による耐性を削り切った上で魔力による攻撃を行うことこそが勝利への道筋なのではなかろうかどうやれというのだ。
俺の脚は、おそらく魔力攻撃の色を含む。ともすれば、物理と魔力による同時攻撃という訳だ。ならば、魔力を純粋に『流し込むの』ではなく『攻撃的な形へ転用して扱う』必要があるわけだがどうやれというのだ。
だが、落下による蹴りなどを見るに、物理的な側面も完全耐性という訳ではない。ただ膨大な筋肉密度と剛毛でカバーしているだけで、あるいは皮膚の強さとしては動物とそう変わらないのではないだろうか?
魔族を視界に捉えつつ、辺りを見回す。これだけの露店があるのだから、何か使えるものがある筈だ。
そして、発見す。
必要物をピックアップし、絞り、三つに落とし込む。経路は完成した、が、物を拾い集める以上は隙が生じるし、こちらが先に動かなければならなくなる。賭けになる。怖い、大分怖い。
いやさ、だがより恐ろしいのはこうして睨み合いを続けて俺の精神が擦り減りに擦り減り、張り詰めた糸が耐え切れずにぷつんと途切れた瞬間だ。見逃す筈はないし、見逃される訳がない。その時、俺は対応出来るだなんて到底思えない。
鼻から息を吸い込んで、口から一気に吐き出す。
覚悟を決めて地を蹴り、姿勢を低く魔族の脇を走り抜けた。
まず一つ、洋服を拾い上げる。魔族の腕が横一文字に振り抜かれるが、その腕と平行の関係になる形で上体を逸らし、脚は跨ぎ跳ぶ。なるべく姿勢を低くしたお陰で宙空で身動きの取れない場面を狙われずに済み、また速度も殺さずに済んだ。
次に二つ、カットステーキの店から油を手に取る。少々大きめの壺に入っている油で、俺の機動力はがぐんと下がるが、魔族は魔族で巨体が仇となりこちらに振り向くに時間を要している。
そして三つ、露店を焼く炎。油の壺に洋服を一度漬けて、壺の蓋を閉める。この時点で油壺は不要になったので、足を止め振り返り際の魔族に投擲——流れるような動きで油に漬けた服の袖を握り火に晒して着火するや否や、燃え上がる服を握りしめて魔族に直進し、油濡れになった身体に燃える服を叩きつけた。
油を伝い燃え広がる火に包まれる刹那、魔族の股下を足を伸ばして身をわざと倒してのスライディングで潜り抜け、そのまま距離を取る。魔力を含まない純粋な炎に焼かれた魔族は痛みに踠いて暴れ回り、周囲の建物や道に身体を擦り付けながらも移動して行く。その身は焼けているのか、あるいは別の要因か見る見る内に小さく人間大のサイズまで縮小していくと共に鎮火し、完全に収まるよりも早く、路地に身を捩じ込める程度に収縮すると強引に路地へ身を捩じ込み逃亡を図った。
正直、睨み合いに賭けとこの時点で精神は摩耗し切り、大掃除終わりの激落くん並みになっていたためにまとまりのある思考が取れていなかった俺にとってその逃亡は予想外であり、またここで逃す訳にはいかないという思考だけは取り戻せたものだから魔族の消えた路地へと直ぐ様駆け出した。
大通りを曲がり、路地に身を置いた時には既に魔族の姿は見えなくなっていたものの、焼け焦げた匂いは奥へと続いていたために、その匂いを追って俺は路地裏へと走って行く。まだ、巻き返せる。
ロランさんの策はこうだ。まず、ノエルさんを餌に彼女を誘拐した犯人Aを釣る。犯人Aは、ノエルさんが生きていると知れば何かアクションを起こさねばならないのは明白で、街に騎士団を紛れさせながらも確かな連れ合いを俺一人に行わせることで仕掛け易い状況を作る。次に隙を見て襲い掛かってきた犯人Aを捕縛。だが、これを失敗した場合は逃走する犯人Aを追跡する。だがアジトを見つけたとして俺一人では決して突入せず、合図を送るように、と言い含められている。元より一人で突撃などするものか、とも思ったが、仕様書を脳内で読み返してそうだったなと思う今の俺を見るに、やりかねなかった。
この作戦、ノエルさんを餌にするなど許容出来る行いではないと参加を反対して殴られたのだ。イエスと答えるまで、永遠。そこまで俺が重要なポストについている訳で無し、なぜあそこまで俺の参加にこだわったのかという思いは今尚胸に渦巻いている。だが、きっと、この作戦を知って邪魔をされるのを恐れたのではないだろうか。
無能な第三者よりも無能を味方に付けて恐怖の首輪で管理する方が余程扱い易い、ということか。真理ではあるのだろうか。
「………………」
匂いが、建物の中に収束する。
知らないが、知っている教会だ。アメン教会だ。
ポケットから取り出した筒を空に掲げて、赤いボタンを押す。ぼっしゅ、と音を鳴らして筒の先端から発射された発煙筒を彷彿とさせる赤い光と煙は空高く射出され、この場所に犯人がいると、遠く観察しているであろう司令塔のロランさんや周辺の作戦に参加している騎士団員へと伝えた。
すぐに、騎士団は集った。俺に毛布や労いの言葉を掛けて休むように促すと、その場に集まった中で最も位が高いらしい男の元、統率の取れた動きでまとめられていく。
「御協力、感謝します! 尊敬します!」
俺に毛布を手渡しながらも、そう暑苦しく語ったのは「ああ、ミコドリさん」
「はい、ミコドリです! 少女は近くの屯所へ、誘拐犯めは捕縛して受け渡して参りました! 安心して、お休みください!」
「そうさせて貰います」
彼も、男の統率の元に集い、戦わんとしている。
疲れたが、まだ気を抜く訳にはいかない……そう思いながらも、俺はアメン教会の入り口の見える木陰で、樹木に背を任せて座り込む。重い体は、きっとこのまま立ち上がるを許さないだろう。
うつらうつらと舟を漕ぎ始めれば、ギィ、と扉の開く音がした。




